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 8月21日改訂

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 new1257話new1258話new1259話を掲載

2、「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内
  8月26日夜大阪森の宮で開催

○第7回 8月26日(金)18時30分〜20時
「こわくてゆかいな漢字」
【カタリスト】張莉さん(大阪教育大学特任准教授)

 

 

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中国語ホームページ 史乃路

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◎「古田史学」研究サイト@なんば.opu案内
大阪府立大学I-siteなんばまちライブラリーの交通アクセスはここから
開館時間: 月〜土 9:00〜21:00
       日・祝 9:00〜17:00

登録 受付時間:13:00〜20:45(火曜日〜土曜日、事務局員在)
まちライブラリー@大阪府立大学をご利用いただくには会員登録が必要です。
会員登録時に、ICカード実費として3,000円必要です。

住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル3階まちライブラリー内
 アクセスは、南海電鉄難波駅 なんばパークス方面出口より南約800m 徒歩12分
 地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より南約1,000m 徒歩15分
 地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)1号出口より東約450m 徒歩7分です。

「古田史学」研究サイトの蔵書目録です。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1258話 2016/08/19

『二中歴』尊経閣文庫の「古写本」と「新写本」

 現存「九州年号群史料」として最も古く、九州年号の原型をよく留めているのが有名な『二中歴』(鎌倉時代成立)です。ただ残念ながら前田家の尊経閣文庫蔵「古写本」(室町時代の写本と見られています)のみが残っており、その他の写本はその「古写本」を再写したものですから、「天下の稀覯本」と称されています。尊経閣文庫には「古写本」と、その「古写本」を興福寺の実暁が弘治3年(1557)に書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した、いわゆる「新写本(実暁本)」が蔵されています。
 最近、わたしが注目した国会図書館デジタルコレクションの『二中歴』(「国会図書館本」という)は明治10年(1877)に小杉榲邨氏が「影写」したものですが、その底本は尊経閣文庫の「古写本」でした。ただし、「古写本」には一部に欠失があり、その失われた箇所は「新写本(実暁本)」から「影写」されています。
 問題の九州年号が記された「年代歴」は「古写本」に残っており、小杉氏も「古写本」から「影写」されています。たとえば「古写本」に欠失している「侍中歴」の一部分は「新写本」から「影写」されているのですが、その部分は字体やレイアウト(段組)が「新写本」のものに変化しています。これは「影写」(底本の上に薄い紙を置き、底本の字をなぞってそっくりに模写する)ですから当然です。
 この小杉氏の「影写」による「古写本」から「新写本」への字体の変化は、国会図書館本の「侍中歴」部分にも現れており、ネットで閲覧可能です。それは「国会図書館デジタルコレクション」の『二中歴』第1冊のコマ番号72です。その右ページが「古写本」からの「影写」で、左のページは「新写本(実暁本)」からの「影写」です。全く字体もレイアウトも異なっていることがわかるでしょう。左ページ冒頭に、朱筆で「新写本」から写したことを小杉氏は注記しています。
 この国会図書館本の「侍中歴」部分が書き分けられていることは、八木書房『二中歴』からも判明します。というのも、八木書房の『二中歴』も底本は尊経閣文庫の「古写本」で、同じく欠失部分を「新写本」から収録しています。従って、「古写本」と「新写本」の両方の字体を八木書房版により確認することができます。先の国会図書館本の「侍中歴」の当該ページに対応するページも収録されていますので、比較しますと、小杉氏はそれぞれを「影写」しており、そのため字体もレイアウトもあえて統一せず、異なったまま国会図書館本を作成したことがわかります。
 上記の当該ページの写真をわたしのFacebookに掲載していますので、ご覧ください。小杉氏の丁寧な「影写」により、「古写本」と「新写本」の字体の違いなどがよく見て取れます。「新写本」の方が清端な字体とされています。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1259話 2016/08/20

『続日本紀』の中の多元史観(もう一つのONライン)

 本日の「古田史学の会」関西例会では、学問の方法論に関する茂山さんの発表など重要な報告が続きました。中でも、西村さんと正木さんからの『続日本紀』に見える「もう一つのONライン」とでもいうべき痕跡についての報告は興味深いものでした。古代官道の南海道が四国内の阿波国府から土佐国府のルートが変更されており、その変更が九州王朝から大和朝廷への王朝交代によるものという、西村さんの発見は画期的でした。
 南海道旧道は阿波国府・讃岐国府・伊予国府・土佐国府(333km)でした。新道は阿波国府・土佐国府(148km)へと短縮されたのですが(『続日本紀』養老2年5月条〔718年〕)、この変更は中心王朝から出発して土佐国府への最短ルートとしたもので、その中心王朝が九州から大和へ変更になったためとされたのです。素晴らしい発見です。なお、古代南海道のルートが変更されているという指摘は今井久さん(古田史学の会・会員、西条市)からなされており、今回の西村さんの発見の契機になったとのことです。
 わたしからは「評」系図の史料批判として系図を史料根拠に使用する難しさについて報告し、「異本阿蘇氏系図」などを根拠に評制の開始時期を7世紀初頭以前にまで引き上げることはできないとしました。また、以前から問題となっていた『二中歴』「年代歴」の虫喰部分を「不記年号」とする明治10年書写の国会図書館デジタルコレクションの『二中歴』小杉写本を紹介しました。
 この他にも、茂山さんからの最新の論理学による「実証」と「論証」の解説など、普段はなかなか聞くことができない貴重な報告がありました。
 8月例会の発表は次の通りでした。

〔8月度関西例会の内容〕
 1). 土左への交通路(南海道)の変更(高松市・西村秀己)
 2). 巨大古墳は大和朝廷の政治的統一を表すものなのか(八尾市・服部静尚)
 3).定策禁中(その3)(京都市・岡下英男)
 4).記紀の真実3 神武東征は無った(大阪市・西井健一郎)
 5).岩波日本書紀の注に一つの疑問(相模原市・冨川ケイ子)
 6).前期難波宮造営の年代について(川西市・正木裕)
 7).古田先生の肉筆草稿新発見報告(奈良市・水野孝夫)
 8).「学問の方法」を整理して今後の「古田史学」を考える 〜パースの論理学をめぐって〜
 ※添付資料:『議論パターン』について(吹田市・茂山憲史)
 9).『二中歴』の「不記年号」問題の新史料(京都市・古賀達也)
 10).「評」系図の史料批判(京都市・古賀達也)
 11)『続日本紀』もう一つのONライン(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 7/23『邪馬壹国の歴史学』出版記念東京講演会の報告・9/03 狭山池博物館 西川寿勝さん講演の案内・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の案内・その他

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1254話 2016/08/14

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(15)

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)は、「古田史学の会」関西例会で発表されてきた研究を論文としてまとめられたものですが、当初わたしはこの論文の持つ重要性を正しく認識できていませんでした。ところが論文が掲載された『盗まれた「聖徳太子」伝承』が発行されると、何人かの読者の方から冨川稿を高く評価する声が聞こえてきたのです。そこで、わたしも改めて再読三読したところ、当初理解できていなかった同論文の持つ重要性を認識することができました。
 冨川稿の画期は、『日本書紀』崇峻紀に見える捕鳥部萬(よろず)が河内など八国を支配していた近畿地方の有力者であったことを発見されたことにあります。詳細は同論文を読んでいただきたいのですが、大和の近畿天皇家と拮抗する、あるいはそれ以上の権力者が近畿地方に割拠しており、その勢力を6世紀末に九州王朝は攻め滅ぼしていたのです。その戦争を冨川さんは「河内戦争」と名付けられました。そこで活躍したのは『日本書紀』によれば近畿天皇家と蘇我氏ですが、九州王朝の主力軍がどのような勢力だったのかは今後の研究課題です。
 こうして6世紀末の河内や難波での戦争に勝利した九州王朝が、後にその地に天王寺や前期難波宮を造営したと考えられ、冨川さんの「河内戦争」という論文は、前期難波宮九州王朝副都説を成立させうる歴史的背景を明らかにしたものといえるのです。しかし、冨川論文の画期はそこにとどまりません。河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、この地域を支配していた捕鳥部萬の祖先の墓ではないかとする服部静尚さんが提起されている新たな仮説へと論理的に繋がっていくのです。
 このように冨川論文は「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《三の矢》(巨大な前期難波宮)の歴史的背景を明らかにしただけではなく、《一の矢》(近畿の巨大古墳)をも解決できる可能性を示したのです。《二の矢》(近畿の古代寺院群)の問題についても、正木裕さんにより、難波から斑鳩に存在した古代寺院を九州王朝によるものとする仮説が検討されています。直ちに賛成できる段階ではないと、わたしとしては考えていますが、「九州王朝説に刺さった三本の矢」問題の解決が前期難波宮九州王朝副都説の展開と冨川さんの「河内戦争」という論文により、ようやく解決の糸口が見えてきたのです。
 最後にもう一度述べますが、それでもわたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される方は、「九州王朝説に刺さった三本の矢」の解決方法を明示してください。それが九州王朝説に立つ論者の学問的責任というものです。(了)

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1255話 2016/08/15

前期難波宮出土木柱は羅城跡か

 最近、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が精力的に取り組まれている「難波京の羅城」調査ですが、『日本書紀』天武8年条(679)に見える「難波の羅城」造営記事は考古学的には未発見であったことから、記事の信憑性が疑われてきました。ところが「難波京羅城」が存在していた可能性が高まりつつあるようなのです。
 服部さんは「難波京羅城」の存在を、これまで地名や文献からその痕跡を関西例会で報告されてきたのですが、過日のミーティングでは、大阪府文化財センターの江浦洋さんから聞かれた前期難波宮出土木柱の出土状況について、次のような興味深い考古学的事実について、正木裕さんから説明がありました。

1.同木柱は年輪セルロース酸素同位体比年代測定により、7世紀前半のものであり、前期難波宮の北側の東西柵列から出土したものである。
2.直径は約30cmと太く、単なる柵ではなく、土塀の柱と考えられる。
3.柵列は高低差のある地表に沿って並んでいる。言わば万里の長城のよう。

 以上のような考古学出土事実から、この東西柵列こそ羅城の跡ではないかと正木さんは考えられるとのことなのです。しかも、柵列の外側(北側)は谷となっており、前期難波宮を防衛する羅城にふさわしい位置にあります。なお、服部さんは宮域を区画する柵の可能性もあるとされています。
 服部さんが調査された「羅城」地名といい、今回の考古学的痕跡といい、難波京に羅城があったとする有力な証拠が着々と発見されています。なお、正木説によれば、天武8年条(679)の羅城造営記事は34年遡り、実際は645年のこととなり、まさに前期難波宮完成(652年)の前となります。服部さんの研究の進展が期待されます。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1256話 2016/08/16

難波朝廷の官僚7000人

 難波宮址からは次々と考古学的発見が続いています。正木裕さんの説明によると、前期難波宮の宮域北西の谷から7世紀代の漆容器が3000点以上出土しているとのこと。しかも驚いたことに、平安京では宮域の北西地区に大蔵省があり、その管轄である「漆室」が隣接していました。前期難波宮においても宮域北西地区に「大蔵」と推定される遺構が出土しており、その北側の谷に大量の漆容器が廃棄されていたのです。この出土事実によれば、前期難波宮と平安京において律令官制に基づいた宮域内の同じ位置に同じ役所(大蔵省・漆室)が存在していたこととなります。
 こうした説明を聞き、わたしは驚愕しました。もし前期難波宮の時代の「九州王朝律令」と大和朝廷の『養老律令』(その基となった『大宝律令』)が類似していたとすれば、前期難波宮の宮域で勤務する律令官僚は7000人(服部静尚さんの調査による)ほどとなるからです。これほどの官僚群が勤務し、その家族も含めて居住できる宮殿・官衙と都市は、7世紀において大和朝廷の藤原宮(藤原京)と前期難波宮(難波京)しかなく、飛鳥清御原宮や大宰府政庁では規模が小さく、大官僚群とその家族を収容できません。
 論理と考古学事実から、こうした理解へと進まざるを得なくなるのですが、そうすると前期難波宮は九州王朝の副都ではなく首都と考えなければなりません。この問題は重要ですので、引き続き慎重に検討したいと思います。なお、前期難波宮出土の木柱や漆容器について、8月20日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さんから詳細な報告がなされる予定です。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1257話 2016/08/17

続・「系図」の史料批判の難しさ

 「洛中洛外日記」635話「『系図』の史料批判の難しさ」で、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見に対して、わたしは次のように反論しました。

 「わたしは7世紀中頃より以前の『評』が記された『系図』の存在は知っていたのですが、とても『評制』開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、少なくともそれら『系図』を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。『系図』はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。」

 そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいとして、次の例を示しました。

 「『日本書紀』には700年以前から『郡』表記がありますが、それを根拠に『郡制』が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、初代の神武天皇からずっと『天皇』と表記されているからという理由で、『天皇』号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。」

 そして、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なので、それら「系図」がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠であると指摘しました。
 この指摘から3年が過ぎましたので、改めて「系図」の史料批判の難しさと、「評」系図の史料批判について、8月20日の「古田史学の会」関西例会にて報告することにしました。「洛中洛外日記」でも、その要点を紹介していきたいと思います。
 私事ではありますが、わたしの実家には畳二畳ほどの大きな「星野氏系図」があります。古賀家の先祖は星野氏で、「天小屋根命」に始まり、初代星野氏からわたしの曾祖父(古賀半助昌氏)までが記されています。その「星野氏系図」の途中から枝分かれした他家の部分を省いた「古賀家系図」を亡くなったわたしの父が三部作り、わたしたち兄弟三人に残してくれました。
 その「古賀家系図」を作成するにあたり、父は江戸時代の浮羽郡西溝尻村庄屋だった先祖の没年を古賀家墓地の墓石から読みとり、傍注として系図に付記しました。ところが、その注記に誤りがあることにわたしは気づきました。その原因は不明ですが、系図作成に於いて、こうした誤記誤伝が発生することを身を以て知ったものでした。
 古代に比べれば史料も豊富な江戸時代のことを平成になって誤り伝えるということが、系図のような「書き継ぎ文書」では発生してしまうのです。ましてや古代の部分に誤記誤伝が発生するのは避けられません。更に言えば、誤記誤伝ではなく大義名分による意図的な改訂、善意による改訂(原本の内容が誤っていると思い、その時代の認識で「訂正」する)さえも起こり得るのです。
 このような誤記誤伝、善意による原文改訂などを、わたしはこれまで何度も見てきました。ですから、「史料批判」抜きで、評価が定まっていない史料を自説の根拠にすることなどは恐くてとてもできないのです。(つづく)

 

古賀達也の洛中洛外日記
第1258話 2016/08/19

『二中歴』尊経閣文庫の「古写本」と「新写本」

 現存「九州年号群史料」として最も古く、九州年号の原型をよく留めているのが有名な『二中歴』(鎌倉時代成立)です。ただ残念ながら前田家の尊経閣文庫蔵「古写本」(室町時代の写本と見られています)のみが残っており、その他の写本はその「古写本」を再写したものですから、「天下の稀覯本」と称されています。尊経閣文庫には「古写本」と、その「古写本」を興福寺の実暁が弘治3年(1557)に書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した、いわゆる「新写本(実暁本)」が蔵されています。
 最近、わたしが注目した国会図書館デジタルコレクションの『二中歴』(「国会図書館本」という)は明治10年(1877)に小杉榲邨氏が「影写」したものですが、その底本は尊経閣文庫の「古写本」でした。ただし、「古写本」には一部に欠失があり、その失われた箇所は「新写本(実暁本)」から「影写」されています。
 問題の九州年号が記された「年代歴」は「古写本」に残っており、小杉氏も「古写本」から「影写」されています。たとえば「古写本」に欠失している「侍中歴」の一部分は「新写本」から「影写」されているのですが、その部分は字体やレイアウト(段組)が「新写本」のものに変化しています。これは「影写」(底本の上に薄い紙を置き、底本の字をなぞってそっくりに模写する)ですから当然です。
 この小杉氏の「影写」による「古写本」から「新写本」への字体の変化は、国会図書館本の「侍中歴」部分にも現れており、ネットで閲覧可能です。それは「国会図書館デジタルコレクション」の『二中歴』第1冊のコマ番号72です。その右ページが「古写本」からの「影写」で、左のページは「新写本(実暁本)」からの「影写」です。全く字体もレイアウトも異なっていることがわかるでしょう。左ページ冒頭に、朱筆で「新写本」から写したことを小杉氏は注記しています。
 この国会図書館本の「侍中歴」部分が書き分けられていることは、八木書房『二中歴』からも判明します。というのも、八木書房の『二中歴』も底本は尊経閣文庫の「古写本」で、同じく欠失部分を「新写本」から収録しています。従って、「古写本」と「新写本」の両方の字体を八木書房版により確認することができます。先の国会図書館本の「侍中歴」の当該ページに対応するページも収録されていますので、比較しますと、小杉氏はそれぞれを「影写」しており、そのため字体もレイアウトもあえて統一せず、異なったまま国会図書館本を作成したことがわかります。
 上記の当該ページの写真をわたしのFacebookに掲載していますので、ご覧ください。小杉氏の丁寧な「影写」により、「古写本」と「新写本」の字体の違いなどがよく見て取れます。「新写本」の方が清端な字体とされています。

 
 
 
史料として古田史学会報 113号まで公開しています。
 

講演会

 

 

 


 
 

集会案内

一度覗いてみて下さい。誰でも参加できます。(要、参加費)

古田史学の会・関西2016年 9月例会

期日

2016年 9月17日(土)
午前10時より午後5時まで

場所

大阪府立大学I-siteなんば2階S1会議室

住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル2階
大阪府立大学I-siteなんばの交通アクセスはここから

  • 地下鉄御堂筋線・四つ橋線「大国町駅(1番出口)」下車、東へ約450m、徒歩約7分
  • 地下鉄堺筋線「恵美須町駅(1-B出口)」下車、西へ約450m、徒歩約7分
報告

会員発表例は例会報告参照

参加費 500円


例会は、毎月第三土曜日行います。



第139回 古田史学の会・四国 勉強会

期日

2016年 9月 3日(土)
    午後1時30分〜4時40分

場所

愛媛県立男女共同参画推進センター
2階 第1会議室

愛媛県松山市山越町450
(伊予鉄本町6丁目電停より徒歩3分)
Tel: 089−926−1633(場所の確認のみにして下さい)

演題
と講師

演題1、『三国志』「魏志倭人伝」を読む
     講師〜白石恭子(当会幹事)

演題2、「郷土『越智国』の遺跡・文献・伝承に見る古代史像」
     講師〜今井久(当会幹事)

 

連絡先 携帯090−8976−8399(事務局長・合田)

参加費 会員500円・非会員の方は1000円
始めてご参加の方は500円とさせて頂きます。

 



古田史学の会・東海 例会

案内は古田史学の会東海のホームページでご覧ください。

8月例会と総会は21日(日)午後1時30分〜5時、
名古屋市市政資料館2階第5集会室で行います。

 

 

 

 

 
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