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「古田史学」研究サイトの蔵書目録です。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1780話 2018/11/04

滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦(2)

 滋賀県栗東市の蜂屋遺跡からの法隆寺式瓦大量出土について、古田史学・九州王朝説としてどのように考えられるのかについて、わたしの推論を紹介します。
 報道によれば今回の出土事実の要点は次の通りです。

 1). 創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」2点(7世紀後半)が確認された。
 2). 現・法隆寺(西院伽藍。和銅年間に移築)式軒瓦が50点以上確認された。
 3). 創建法隆寺(若草伽藍)の創建時(六世紀末〜七世紀初頭)の創建瓦(素弁瓦)は出土していないようである。

 報道からは以上のことがわかります。発掘調査報告書が刊行されたら精査したいと思いますが、これらの状況から九州王朝説では次のように考えることが可能です。

 4). 創建法隆寺(若草伽藍)を近畿天皇家による建立とすれば、蜂屋遺跡で同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」(7世紀後半)を製造した近江の勢力は近畿天皇家と関係を持っていたと考えられる。
 5). 近年、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は創建法隆寺(若草伽藍)も九州王朝系寺院ではないかとする仮説を表明されている。この正木仮説が正しければ、蜂屋遺跡の近江の勢力は九州王朝と関係を持っていたこととなる。
 6). 現・法隆寺(西院伽藍)は九州王朝系寺院を近畿天皇家が和銅年間頃に移築したと古田学派では捉えられており、その法隆寺式瓦が大量に出土した蜂屋遺跡の勢力は八世紀初頭段階で近畿天皇家との関係を持っていたと考えられる。
 7). この4).,5).,6). の推論を考慮すれば、蜂屋遺跡の近江の勢力は斑鳩の地を支配した勢力と少なくとも七世紀初頭から八世紀初頭まで関係を継続していたと考えられる。
 8). 近江の湖東地域はいわゆる「聖徳太子」伝承が色濃く残っている地域であることから、蜂屋遺跡の勢力も701年以前は九州王朝と関係を有していたのではないかという視点で、斑鳩の寺院との関係を検討すべきである。

 おおよそ以上のような論理展開(推論)が考えられます。もちろんこれ以外の展開もあると思いますので、引き続き用心深く蜂屋遺跡の位置づけについて考察を続けたいと思います。
 なお、近江の湖東地方における九州王朝の影響については「洛中洛外日記」809話「湖国の『聖徳太子』伝説」で触れたことがありますので、ご参照ください。

【以下転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第809話 2014/10/25
湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から27年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第19号、1987年1月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。」としました。
 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京2年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(661)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。
 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。
 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。
 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の推古2年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 この告貴元年(594)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思われますから、もしかすると6世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。
 告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1781話 2018/11/04

亀井南冥の金印借用説の出所

 川岡保さん(福岡市西区)から教えていただいた、亀井南冥が八雲神社から金印を借用したとする説の出所は博多湾に浮かぶ能古島の能古博物館から発行されている『能古博物館だより』でした。川岡さんからいただいた資料は『能古博物館だより』29号(平成8年7月)と30号(平成8年10月)のコピーで、次の記事が掲載されていました。

○29号 「亀井南冥と金印の謎を追って」大谷英彦(亀陽文庫客員理事)
○30号 「国宝『金印』について」庄野寿人

 『能古博物館だより』の全文が同館ホームページに掲載されており、詳細はそちらを読んで頂くこととして、まず大谷稿では庄野寿人さん(同館初代館長)から聞かれた戦後間もない頃の思い出として次の話が紹介されています。
 「以前、あの金印は今宿にある神社の御神体だったものを南冥が持ち出したという話を聞いたことがある。」
 「敗戦で陸軍省を退職し、福岡市役所の市史編纂室の所長をしていた小野有耶介さんという方は、なかなかの変わり者で九大で国史学を専攻し『陸軍省戦史編纂室勤務』から戦後、福岡市史編纂を担当された。(中略)ある日、その小野さんが朱印を押した半紙を机上に広げて腕組みをされていた。小野さんは『これは亀井南冥が八雲神社から御神体の金印を借りだす時に神社に借用を示すためにした金印の印影だよ』と私に説明された。(中略)小野さんが見せてくれた半紙はその後どうなったか分からない。
 この話から私も、同神社と金印印影を実見するため現地を訪ねて事実を確認しています。以来、三十年になりますね。」

 このように庄野寿人さんの「証言」を紹介し、庄野さんとともに訪問調査し、その顛末を次号に掲載すると締めくくられています。ところが、次号(30号)では庄野寿人さん御自身の一文が掲載され、戦後からの経緯について改めて詳述されています。
 この『能古博物館だより』の両記事が「亀井南冥の金印借用説」の出所です。そこで、わたしは同博物館に電話で両氏の連絡先を問い合わせましたが、庄野さんは既に故人となられており、大谷さんとはお付き合いもなく、同館には知っている者もいないとのことでした。(つづく)

 

 

古賀達也の洛中洛外日記
第1782話 2018/11/08

上町台地北端部遺構の造営方位

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)により、古代遺構の中心線の振れ方向に時代や王朝毎に一定の傾向があり、その傾向差を利用して遺構の編年が可能とする仮説が発表されました。とても興味深い仮説であり、わたしもその推移を注目しています。他方、遺構の造営方位はそれほど単純な変遷ではなく、個別に精査すると複雑な状況も見えてきます。本稿では六世紀〜七世紀における大阪市上町台地北端部遺構の造営方位とその背景についての研究を紹介します。
 その研究とは「洛中洛外日記」1777話(2018/10/26)「難波と筑前の古代都市比較研究」で紹介した南秀雄さんの「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(大阪文化財研究所『研究紀要』第19号、2018年3月)という論文です。同論文には六世紀における上町台地北端の遺構について次のように説明されています。

 「上町台地北端では、台地高所を中心に200棟以上の建物が把握されている。竪穴建物は6棟のみで他は掘立柱建物である。傾向として、中央部(現難波宮公園)には官衙的建物があり〔黒田慶一1988〕、その北西(大阪歴博・NHK)には倉庫が多い。中央部から北や東では、手工業と関連した建物群がある。また規模や区画施設から『宅』、瓦の点在から寺院の存在が予測される。」(6頁)

 そして、「北西地域の建物変遷(旧大阪市立中央体育館地域)」の時代別の遺構図を示され、次のようにその建物の方位について述べられています。

 「北西地域の建物群は、約150年間、北西−南東または北北西−南南東を向いている。地形に合わせたというより、近くを通る道に合わせたためと考えられる。(中略)津−倉庫群−官衙域という機能の分化・固定と歩調を合わせて、それらを結ぶ道が固定し、その道に方向等を合わせるように屋敷地や土地利用の固定化が惹起されていった。」(7頁)

 このように上町台地北端部付近では六世紀から七世紀前半の150年間は中心線を西偏させた建物群が造営され、七世紀中頃になると正方位の前期難波宮や朱雀大路・条坊が造営されます。難波京や前期難波宮のような正方位の都市計画や宮殿・官衙の造営には権力者の意思(設計思想)の存在を想定できますが、それ以前の150年間は単に2点間を最短距離で結んだ直線道路に合わせて建物造営方位が設定されたことになり、それは「思想性」の発現というよりも、都市の発生に伴う「利便性」の結果と言わざるを得ません。従って、そうした「利便性」により、たまたま成立した同一方位を持つ建物群の場合は、その方位に基づく編年は適切ではないことになります。
 以上のように考えると、ある権力者(王朝)の方位に対する思想性の変遷をその遺構の編年に用いる場合は、少なくとも次の条件が必要と思われます。

 1). 権力者の意思が設計思想に反映していると考えられる王宮や中央官衙、あるいは都の条坊などの方位を対象とすること。
 2). それら対象遺構の造営年代が別の方法により安定して確定していること。
 3). それら遺構の方位が自然地形の影響(制約)を受けていないこと。
 4). より古い時代の「利便性」重視により造営された道路等の影響を受けていないこと。
 5). 地方官衙・地方寺院などの場合、中央政府の設計思想の影響を受けており、その地方独自の影響等を受けていないこと。

 およそ以上のような学問的配慮が必要と思われます。これらの条件を満たした遺構の方位の振れに基づき、新たな編年手法が確立できれば素晴らしいと思います。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1773話 2018/10/13

土器と瓦による遺構編年の難しさ(9)

 創建時期の判定に使用された創建瓦より古く編年されている瓦が一枚だけ出土するという事例は観世音寺以外にもあります。本連載の最後にその事例を紹介し、そのことが持つ学問的意義と可能性について説明します。
 それは大阪市天王寺区国分町の摂津国分寺跡から出土した軒丸瓦一点です。この瓦は7世紀前半頃と編年されている「素弁蓮華文軒丸瓦」で、他の時代の瓦に混じってその破片が一点だけ出土しているのです。発掘調査報告書によれば当地からは古代瓦などが出土しており、現地地名も天王寺区国分町であることから、ここに聖武天皇による摂津国分寺があったとする説が有力視されています。
 『四天王寺旧境内遺跡発掘調査報告?』(1996.3大阪市文化財協会)に記された摂津国分寺跡出土瓦の図表には「素弁蓮華文軒丸瓦」片(SK90-2出土)と共に8世紀のものと見られる「複弁六葉蓮華文軒丸瓦」や「重圏文軒丸瓦」が掲載されています。そしてこの瓦について「ほかに一点だけこれらの瓦より古い瓦が出土しているので、奈良時代にこの地に国分寺が造られる以前にも寺があった可能性も考えなければならない。」(105ページ)とされています。
 『大阪市北部遺跡群発掘調査報告』(2015.3、大阪文化財研究所)においても、この瓦のことを「一方で、SK90-2次調査では7世紀代とみられる素弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、国分寺以前にこの地に寺のあった可能性も指摘されている。」(160ページ)としています。
 このように聖武天皇の命により8世紀中頃以降に創建された国分寺遺構からより古い瓦が出土すると「国分寺が造られる以前にも寺があった」と解釈されるのが通例です。しかし、摂津には大阪市北区にも国分寺が現存しており、この「二つの国分寺」という現象を多元史観・九州王朝説の視点でとらえると、7世紀前半頃の九州王朝による国分寺(国府寺)と聖武天皇による八世紀中頃の国分寺という多元的「国分寺」というテーマが浮かび上がります。
 この「二つの摂津国分寺」とは、ひとつは大阪市北区国分寺にある護国山国分寺で、「長柄の国分寺」とも称されています。もう一つは先に紹介した天王寺区国分町にある国分寺跡です。一元史観による説明では、北区に現存する国分寺は摂津国府が平安時代(延暦24年、805年)に上町台地北側の渡辺に移転したことに伴って「国分寺」を担当したとされているようです(『摂津国分寺跡発掘調査報告』2012.2、大阪文化財研究所)。
 なお、北区にある「真言宗国分寺派 大本山 国分寺(摂津之国 国分寺)」のホームページによれば、その地は「長柄」と呼ばれていたことから「長柄の国分寺」とも称されています。以下、同解説を転載します。

 【転載】
 寺伝によると、大化元年(六四五年)末に孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を造営するも、崩御の後、斉明天皇により飛鳥板蓋宮へ遷都される。その後、入唐大阿闍梨道昭、勅を奉じて先帝の菩提を祈るため難波長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立し「長柄寺」と称した。そして、仏教に深く帰依した聖武天皇により天平十三年(七四一年)一国一寺の「国分寺建立の詔」を公布されると、既存の「長柄寺」を摂津之国国分寺(金光明四天王護国之寺)として定める。世俗「長柄の国分寺」と称され、今日まで歴代天皇十四帝の勅願道場として由緒ある法灯を伝燈してきた。古くは難波往古図に「国分尼寺」として記載されている。
 【転載終わり】

 このように一枚の古い瓦と「二つの国分寺」の存在は、寺院遺構の編年という問題を超えて、多元的「国分寺」研究という新たな学問的展開を予想させるのです。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1774話 2018/10/19

創建四天王寺の4度西偏

 「洛中洛外日記」1073話(2015/10/11)「四天王寺伽藍方位の西偏」で紹介したように、難波京の条坊はかなり正確に中心線が正方位に一致していますが、その難波京内にある現・四天王寺の主要伽藍の南北軸が真北より5度程度西に振れています(目視による)。この西偏が創建時まで遡るのか、その後の何度かの再建時に発生したものか、ずっと気になっていました。そのことについて、1073話「四天王寺伽藍方位の西偏」では次のように考えていました。

【以下、転載】
 (前略)四天王寺(天王寺)が創建された倭京二年(619年、『二中歴』による)にはまだ条坊はできていませんから、天王寺は最初から「西偏」して造営されたのではないでしょうか。その「西偏」が現在までの再建にあたり、踏襲され続けてきたという可能性です。
 もし、そうであれば九州王朝の「聖徳」が難波に天王寺を創建したときは、南北軸を真北から「西偏」させるという設計思想を採用し、その後の白雉元年(652年)に前期難波宮と条坊を造営したときは真北方位を採用したということになります。この設計思想の変化が何によるものかは不明です(後略)
【転載終わり】

 この疑問を解明するために、先日、大阪歴博を訪問し、学芸員の方に創建四天王寺の図面を見せていただきました。閉架の書庫に保管されていた昭和42年発行の分厚い書籍『四天王寺』(文化財保護委員会編、吉川弘文館)に収録されている創建四天王寺の平面図を懇切丁寧に解説していただきました。その概要は次のようなものでした。

 1). 昭和42年当時の発掘調査平面図は「磁北」が採用されており、方位を判断する際は注意が必要である。
 2). 創建四天王寺図面(図版136)の方位表示には、遺構の中心線が磁北から3度東偏していることが記されている。
 3). 調査当時の磁北は約7度西偏していることから、創建四天王寺の中心線は正方位より約4度西偏していることになる。
 4). 四天王寺は再建が繰り返され現在の伽藍に至っているが、現在も西偏していることから、創建四天王寺の4度西偏した遺構の上にそのまま再建されたこととなる。
 5). 前期難波宮の中心線(正方位との差は0度40分)には及ばないが、四天王寺は正方位を意識して造営されたと考えられる。前期難波宮に付属する建物(西方官衙)にも正方位からややずれたものもある。
 6). 前期難波宮以前の上町台地にあった建物遺構は正方位とは大きく離れているが、それらに比べると四天王寺は正方位を意識した造営がなされたと考えられる。

 以上、考古学者らしく発掘調査事実に基づいた慎重な説明で、『四天王寺』に記された遺構の解説とも矛盾していませんでした。同書には創建時の伽藍図面の他にも、平安時代と江戸時代(慶長・元和)の「中心伽藍復元模式図」が掲載されており、いずれも西偏した創建四天王寺の真上に同じ中心線がとられています。そのことから、現在の四天王寺が創建時の西偏を踏襲しているとしたわたしの推測は当たっていたことがわかりました。
 このような考古学的事実から推測できることは、「倭京二年」(619、『二中歴』年代歴)に「難波天王寺」(四天王寺)を創建した九州王朝は正方位を意識しながらもなぜか約4度西偏した中心線を採用し、白雉元年(652、『日本書紀』の白雉三年)に造営した前期難波宮に至り、正方位に一致した中心線を採用したことになります。この変化が、方位測定技術の向上の結果として発生したのか、「4度西偏」に何かしらの意味(設計思想)があったのかは不明ですが、この点は研究課題として留意しておきたいと思います。
 なお、学問的厳密性保持のために両遺構の編年について改めて説明しておきます。まず、『二中歴』年代歴の記事を根拠に四天王寺創建を倭京二年(619)とすることは、出土した創建軒丸瓦の考古学編年の「620年頃」と一致し、文献史学と考古学のクロスチェックが成立しており信頼性が高いと思われます。
 次いで、その創建瓦と同笵の瓦が前期難波宮整地層から出土しており、倭京二年(619)創建の四天王寺よりも前期難波宮造営が新しいことを示唆しています。更に前期難波宮の水利施設から大量に出土した須恵器杯Gの編年が七世紀前半から中頃とされており、出土木材の年輪年代測定などからも考古学的には前期難波宮の創建は七世紀中頃とされています。「戊申年」(648)木簡の出土や巨大な前期難波宮完成に対応する記事が『日本書紀』孝徳紀白雉三年(652、九州年号の白雉元年)記事に見えることから、ここでも文献史学と考古学のクロスチェックが成立しています。
 このようにクロスチェックによる安定した編年が確定している創建四天王寺や前期難波宮遺構の中心線方位に基づき、九州王朝の寺院や宮殿の設計思想の変遷を推定することが学問の方法からも重要と考えています。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1775話 2018/10/22

10月度関西例会報告

 一昨日、「古田史学の会」関西例会が「大阪府社会福祉会館」で開催されました。なお11月は「福島区民センター」、12月は「i-siteなんば」に会場が戻ります。ご注意ください。
 「洛中洛外日記」1748話1749話「飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)(2)」で紹介した服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の飛鳥浄御原宮=太宰府説とする新説が発表されました。その概要は次のような論理展開でした。

 1). 「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
 2). 当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
 3). そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 質疑応答でわたしから、「飛鳥浄御原宮」が太宰府(政庁 II 期、670年頃の造営か)とするなら条坊都市の造営も七世紀後半と理解されているのかと質したところ、七世紀後半と考えているとの返答がありました。この太宰府条坊七世紀後半造営説には問題点と強みの双方があり、当否は別として重要な見解と思われました。
 その問題点とは、政庁 II 期よりも条坊の方が先に成立しているという井上信正説と一致しないことです。そして強みとは、条坊から七世紀前半の土器が出土していないという考古学的知見と対応することです。今のところ、この服部新説は示唆に富んだ興味深い仮説とは思いますが、まだ納得できないというのがわたしの評価です。しかし、学問研究ではこうした異なる新見解が出されることが重要ですから、これからも注目したいと思います。
 わたしからは過日の福岡市・糸島市の調査旅行で得た「亀井南冥の『金印』借用書」というテーマを報告しました。それは西区姪浜の川岡保さんから教えていただいたもので、志賀島から出土したとされている国宝の「金印」は福岡市西区今宿青木の八雲神社の御神宝(御神体)であり、亀井南冥が持ち主から借りたとする「借用書」が存在していたという新情報です。詳細は「洛中洛外日記」で報告予定です。
 今回の発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
 (1).飛鳥考(八尾市・服部静尚)
 (2).倭人伝の戸と家(姫路市・野田利郎)
 (3).吉野ヶ里遺跡の物見櫓の復元について(大山崎町・大原重雄)
 (4).亀井南冥の「金印」借用書(京都市・古賀達也)
 (5).藤原不比等の擡頭(京都市・岡下英男)
 (6).発令後四ヶ月の早すぎる撰上と元明天皇について(東大阪市・萩野秀公)
 (7).俾弥呼と「倭国大乱」の真相(川西市・正木裕)

○事務局長報告(川西市・正木裕)
 新入会員の報告・『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会(10/14久留米大学)の報告・11/06「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・10/31「水曜研究会」の案内(第四水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館。連絡先:服部静尚さん)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」・10/26「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、11月は福島区民センター・西井健さんの著書『記紀の真実 イザナギ神は下関の小戸で禊をされた』紹介・10/28森茂夫さんが京都地名研究会(京丹後市)で講演「浦島伝説の地名〜水ノ江、墨(澄)、薗を巡って」・合田洋一さんの著書『葬られた驚愕の古代史』の村木哲氏による書評「『近畿中心、天皇家一元』史観を解体する」(図書新聞3369号)・新年講演会の案内・その他

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1776話 2018/10/25

八雲神社にあった金印

 「洛中洛外日記」806話(2014/10/19)「細石神社にあった金印」で紹介したのですが、『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房)に志賀島の金印「漢委奴国王」が糸島の細石神社に蔵されていたという同神社宮司の「口伝」が記されています。「古田史学の会・四国」の会員、大政就平さんからの情報が古田先生に伝えられたことが当研究の発端となりました。さらに同地域の住民への聞き取り調査により、「細石神社にあった金印を武士がもっていった」という伝承も採録されたとのことです。
 志賀島から出土したとする「文書」の不審点が以前から指摘されてきましたし、肝心の志賀島にも金印が出土するような遺跡が発見されていないという問題点もありました。そのため、この細石神社に「金印」が伝えられていたという情報にわたしたちは注目してきました。しかし、当地の関係者の口伝でしか根拠がなく、学問研究の対象とするには難しさが伴っていました。ところがこの度、福岡市西区の川岡保さんから驚くような不思議な新情報が寄せられました。
 FACEBOOKでお付き合いしている川岡さんが、10月14日に久留米大学で開催した講演会に見えられ、金印は福岡市西区今宿にある八雲神社の御神宝として伝えられたもので、筑前黒田藩の大儒として著名な亀井南冥が同神社から借り受けたものとする資料をいただきました。しかもその「証言者」についても具体的な氏名が伝えられていたのです。(つづく)

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1777話 2018/10/26

難波と筑前の古代都市比較研究

 大阪文化財研究所『研究紀要』第19号(2018年3月)に今まで読んだことがないような衝撃的な論文が掲載されていました。南秀雄さんの「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」という論文です。このタイトルだけでも九州王朝説・古田学派の研究者や「洛中洛外日記」の読者であれば関心を持たれるのではないでしょうか。「博多湾岸」といえば天孫降臨以来の九州王朝の中枢領域ですし、「上町台地の都市化」と聞けばまず前期難波宮を連想し、この両地名により前期難波宮九州王朝副都説が思い浮かぶはずだからです。もちろん、わたしもそうでした。
 この論文は五世紀の古墳時代から七世紀前半の前期難波宮以前の上町台地の都市化の経緯を出土事実に基づき、世界の都市化研究との対比により考察したもので、更に上町台地との比較で福岡平野の比恵・那珂遺跡の分析を行ったものです。論文冒頭の「要旨」には次のように記されています。

 「要旨 地政学的位置が類似する大阪上町台地と博多湾岸を対象に、都城制以前の都市化について、外部依存と機能分化を指標に比較・検討した。上町台地では、5世紀以降三つの段階を経て、6世紀末には、木材・農産物・原材料を外部に依存し、手工業生産を膝下に抱える需給体制が整備され、工房群・港・各種の行政外交施設を地形に即して分置した機能分化が進行した。6世紀後葉には、世界標準に照らして都市と呼ぶべき姿となっていた。一方の博多湾岸の比恵・那珂遺跡も、手工業を広域で分担した違いはあるが、7世紀前半には類似した内部構成を取っていた。2地域の都市化には、ミヤケ(難波屯倉・摂津官家)による、地形環境の変化に適合した開発・殖産が大きな動因となったと考える。」

 この論文でわたしが最も注目したのは、数ある遺跡の中でなぜ上町台地との比較対象に博多湾岸の比恵・那珂遺跡が選ばれたのかという理由と、上町台地北部から出土した5世紀の法円坂遺跡の大型倉庫群について漏らされた次の疑問でした。

 「法円坂倉庫群は、臨時的で特殊な用途を想定する見解もあったが、王権・国家を支える最重要の財政拠点として、周囲のさまざまな開発と一体的に計画されたことがわかってきた〔南2014b〕。倉庫群の収容力を奈良時代の社会経済史研究を援用して推測すると、全棟にすべて頴稲を入れた場合、副食等を含む1,200人分強の1年間の食料にあたると算定した〔南2013〕。」(2頁)
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。もっとも可能性のありそうな台地中央では、あまたの難波宮跡の調査にもかかわらず、同時期の遺構は出土していない。佐藤隆氏は出土土器とともに、大阪城本丸から二ノ丸南部の、上町台地でもっとも標高の高い地域を候補としてあげている〔佐藤2016〕。」(3頁)
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」(16頁)

 ここに記された法円坂倉庫群を必要とした王宮・王権とは、わたしは九州王朝が河内・難波を6世紀末頃の「河内戦争」により直轄支配領域とする以前に当地を支配した王者のことではなかったかと推定しています。近畿天皇家一元史観論者であればこの倉庫群を「大和朝廷の出先機関」と結論づけるところでしょうが、南さんは「簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい」とされ、出土事実を重視される考古学者らしい慎重さがうかがわれます。その上で、次の記述で論文を締めくくっておられます。

 「都城制以前の都市化については、政治拠点・王宮の所在地の奈良盆地との対比が必須である。これは今後の課題としたい。」(17頁)

 わたしとしては、南さんが上町台地と比恵・那珂遺跡を対比されたように、九州王朝の政治拠点・王宮所在地の筑紫との対比をまず行っていただきたいところです。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1778話 2018/11/03

10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。今月は来春発行の『古代に真実を求めて』用原稿の執筆などで多忙を極め、体調不良になりましたが、志賀島の金印研究史の調査や創建四天王寺や太宰府発掘調査報告書の精査を行いました。これらについては「洛中洛外日記」で報告予定です。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《10月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/10/02 『東京古田会ニュース』182号のご紹介
2018/10/13 『古代に真実を求めて』編集部の強化人事
2018/10/21 『九州倭国通信』No.192のご紹介
2018/10/28 大谷光男編著『金印研究論文集成』を閲覧
2018/10/31 『多元』148号のご紹介

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第1779話 2018/11/03

滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦(1)

 先日、滋賀県栗東市の蜂屋遺跡から法隆寺式瓦が大量に出土したとの報道がありました。法隆寺(西院伽藍。和銅年間に当地に移築)の瓦に混じって、創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕に焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(にんとうもんたんべんれんげもんのきまるがわら)」2点(7世紀後半)も確認されたとのことです。
 この出土事実から古田史学・九州王朝説ではどのような問題が抽出できるのか、報道以来考え続けてきました。一元史観の通説による解説は単純なもので、蜂屋遺跡には法隆寺と関係が深い勢力があり、法隆寺の瓦、あるいはその笵型を得て当地に寺院を造営したという理解で済ませているようです。
 仮に当地に法隆寺と関係が深い勢力があったとしても、報道されている出土事実からは、その同笵瓦がどちらからどちらへもたらされたのかは不明だと思うのですが、専門家の解説では矢印は法隆寺から蜂屋遺跡へとされており、一元史観という「岩盤規制」により、文化は畿内から他地方へというベクトルが無条件に採用されているかのようです。こうした理解で済ませるのは「思考停止」状態だと、わたしは思うのです。
 それでは古田史学・九州王朝説の立場からはどのような推論や論理展開が可能でしょうか。(つづく)

【京都新聞EWEB版より転載】
法隆寺と同じ軒瓦出土、関連寺院造営か
滋賀、飛鳥時代の遺跡

 滋賀県文化財保護協会は1日、縄文時代から中世にかけての集落遺跡「蜂屋遺跡」(栗東市蜂屋)で新たに建物の溝跡が見つかり、法隆寺とその周辺以外では見られない軒瓦が出土した、と発表した。飛鳥時代後半(7世紀後半)の軒瓦で、「法隆寺と強い関連があった寺院がこの土地で造営された有力な手掛かり」といい、専門家は当時では有数の文化拠点があった可能性を指摘している。
 河川改修に伴い約6千平方メートルを調査。発見された溝跡は4カ所で、幅約1メートル〜約3.5メートル、深さ約20センチ〜約40センチ。飛鳥時代の築地塀跡とみられる。南北の長さは約10メートル〜約24メートルにわたり、中から大量の瓦が出土。法隆寺や同寺に隣接する中宮寺でしか確認されていない「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(にんとうもんたんべんれんげもんのきまるがわら)」が2点確認された。
 軒瓦は「笵(はん)」と呼ばれる木型で作られ、繰り返し使われると笵に傷ができる。そのため、同じ笵で瓦を作ると、文様とともに傷も写し出される。2点の軒瓦はハスの花の文様で、花托(かたく)に小さく膨らんだ傷があった。この傷や文様の細かな配置が、法隆寺創建当時の遺構とされる「若草伽藍(がらん)」の軒瓦と一致するという。
 奈良時代の資料によると、蜂屋遺跡がある栗東市北部は当時、法隆寺の水田や倉があったとされる。今回の軒瓦の発見で、同寺との関係が飛鳥時代にさかのぼれるという。
 出土した瓦からはほかにも県内では数点しか見つかっていない法隆寺式軒瓦が50点以上確認された。
 同協会は「法隆寺から軒瓦が持ち込まれたか、この土地で同じ笵を用いて軒瓦を作ったと考えられる。法隆寺と強いパイプを持った有力者がいた」と説明。滋賀県立大の林博通名誉教授(考古学)は「第一級の仏教文化が培われ、当時では国内有数の文化拠点があった可能性がある」と話す。

 
 
 
史料として古田史学会報127号まで公開しています。

 

 


講演会案内


なし

 


集会案内

一度覗いてみて下さい。誰でも参加できます。(要、参加費)

 

古田史学の会・関西2018年11月例会

期日

2018年11月17日(土)
午前10時より午後5時まで

場所

福島区民センター

交通アクセスはここから

住所:〒553-0006
大阪府大阪市福島区吉野3丁目17−23

・地下鉄/千日前線「野田阪神駅」下車、7番出口上がる
・阪神電車/「野田駅」下車、改札左手を出る。西へ200m 
・JR/環状線「野田駅」下車、徒歩8分
・東西線「海老江駅」下車、徒歩5分
・バス/市バス大阪駅より幹59酉島行「福島区役所前」下車

報告

会員発表例は例会報告参照

参加費 500円

2018年12月例会は、15日(土)I-siteなんばでおこないます。
関西例会は、毎月第三土曜日午前10時より午後5時までです。

 

 


第161回古田史学の会・四国勉強会済み

期日

2018年11月 2日(金)
 午後1時30分〜4時30分

 ※定例日は3日の土曜日ですが当日は祝日で会場が休館日となりますので前日に繰り上げました。お間違いのないようにお願いします。


場所

愛媛県立男女共同参画推進センター
2階 第三会議室

愛媛県松山市山越町450
(伊予鉄本町6丁目電停より徒歩3分)
Tel: 089−926−1633(場所の確認のみにして下さい)

演題
と講師

 

演題1〜『越智氏のルーツを求めて -- 隠地(おち)神楽考』
   講師〜白石恭子(当会・幹事)

演題2〜『古田武彦の百問百答』その二
   講師〜合田洋一(当会・事務局長)

※なお、『古田武彦の百問百答』の本をお持ちの方、また前回の史料をご持参ください

 

連絡先 携帯090−8976−8399(事務局長・合田)

参加費

会員500円
非会員1000円、初めての方500円

 



古田史学の会・東海 例会

案内は古田史学の会東海のホームページでご覧ください。

 

 

 

 

 
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