新古代学の扉

案内

論文

英文があります
学問の未来
万葉の覚醒
人麻呂の運命
親鸞思想
 

古田史学会報

古田武彦(案内のみ)
古賀達也
津軽を論ず
 
 
神武東征
  と天孫降臨
短里と二倍年暦
九州年号
法隆寺移築論争
吉野と熟田津
国引神話
と出雲王朝
好太王碑論争
和田家文書
東日流外三郡誌

 
海の古代史
 
第一巻
親鸞--人と思想
第二巻
親鸞思想
第三巻
わたしひとりの親鸞
 
「邪馬台国」は
  なかった
失われた
  九州王朝
盗まれた神話
邪馬壹国の論理
ここに
古代王朝ありき
倭人伝を
徹底して読む
 
よみがえる卑弥呼
 
古代史を疑う
 
古代は沈黙せず
 
真実の東北王朝
 
人麿の運命
 
古代史の十字路
-- 万葉批判
 
壬申大乱
 
多元的古代の成立
(上)  (下)
 
九州王朝の歴史学
 
失われた日本
 
古代の霧の中から
 
天皇陵を発掘せよ
 
邪馬台国論争
  は 終った
 
古代史の宝庫九州
 
邪馬一国への道標
 
邪馬一国の証明
 
よみがえる
 九州王朝
 
吉野ヶ里の秘密
 
邪馬壹国から
 九州王朝へ
 
東日流
[内・外]三郡誌
 
奪われた国歌
「君が代」
 
古代は輝いていた
  IIIIII
 
古代史を開く
 
古代史をゆるがす
 

ミネルヴァ日本評伝選
 『俾弥呼ひみか

 
俾弥呼の真実
 
史料批判のまなざし
 
現代を読み解く
  歴史観
 
真実に悔いなし
 
神の運命
 

九州王朝

九州年号
 
 
会誌案内
市民の古代
 
新・古代学
 
なかった
 
古代に
 真実を求めて
 
電子書籍
 
中村幸雄論集
 
神武が来た道
 

資料編

●寄稿
日本国の原風景
 
一士官候補生の
戦後の体験
 
旅の記憶
 
古田史学入門講座
 
新説 伊予の古代
 
地名が解き明かす
  古代日本
 
葬られた驚愕の古代史
 
「日出処の天子」は誰か
 
 
和田家資料 1
      
 
北鑑(きたかがみ)
 
 
『琴歌譜』の
楽譜と和琴の祖型
 
「戦後型皇国史観」
に抗する学問
 
古田武彦
  研究年譜
 
 
市民の古代索引
 
 
いろは歌留多
 
洛中洛外日記 '05 
洛中洛外日記 '06 
洛中洛外日記 '07
洛中洛外日記 '08
・洛中洛外日記 '09
洛中洛外日記 '10
洛中洛外日記 '11

洛中洛外日記 '12

洛中洛外日記 '13

洛中洛外日記 '14
洛中洛外日記 '15
洛中洛外日記は、
ブログに集約
 
邪馬台城 総覧
人の下に人を造らず
 

Video講演

古田武彦

古賀達也

正木裕
 

リンク

歴史探訪
東京古田会

古田武彦記念
 古代史セミナー報告

多元的古代
 研究会
九州古代史の会
同上会報
古田史学の会
  ・東海
古賀達也の
洛中洛外日記ブログ

La-Balsa
  
多元的「国分寺」
研究サークル
 
古田史学の会
古田史学の会事務局長
正木裕
〒666-0115
兵庫県川西市
向陽台1-2-116
【電話番号】
090−4909−8158
 
Internet担当
●横田幸男
【住所】
 大阪府大阪市生野区
 勝山北5-10-3
【電話番号&FAX】
06−6770−5329

事務局便り

 

新古代学の扉

入会案内

お断り:このホームページとブログ「古賀達也の洛中洛外日記」は別構成です。
      検索は別々に行ってください。

 HP内検索エンジン
  検索オプション

 

▼ 案内 講演会  例会関西東海

 2019年11月 8日改訂

1,ブログ古賀達也の洛中洛外日記

 ブログを2035話まで掲載

 「前期難波宮副都説反対論者への問い」、「二中歴」、二倍年暦、および九州王朝の「東大寺」問題はブログで展開しています。  

 2026話2027話2028話2029話2030話2031話

 new2032話2033話2034話2035話を掲載

 

2,関西古田史学協賛講演会 案内 ・報告を設置

 7月度講演会案内

7月 9日(火)、和泉史談会で正木氏講演、報告を掲載

7月26日(金)、誰も知らなかった古代史の会で服部氏講演(飛鳥の謎)、報告を掲載

 8月度講演会案内

8月6日(火)、古代大和史研究会で、正木氏(磐井の乱の真実)講演、報告を掲載

 9月度講演会案内

9月 3日(火)、古代大和史研究会で、正木氏(聖徳太子の生涯は「九州年号」で記されていた)講演、報告を掲載

9月10日(火)、和泉史談会で、正木・茂山氏講演、報告を掲載

 10月度講演会案内

10月15日(火)、市民古代史の会・京都で服部氏(飛鳥の謎)講演、

 11月度講演会案内

11月 5日(火):午前10 時〜午後5時、古代大和史研究会で、「史実伝承の断絶」で報告を掲載

 

11月12日(火):午後2時〜4時、和泉史談会で講演

11月19日(火):午後6時45分〜8時15分、市民古代史の会・京都で正木氏講演

11月22日(金):午後6時30分〜20時 誰も知らなかった古代史の会で服部氏講演

 

 12月度講演会案内

12月 3日 午前10時〜12時 古代大和史研究会で正木氏講演

 


Facebook古田史学の会 へ

英文ホームページBack to the Future へ

国際人間観察学会Phoenix - Goddess of truth never dies へ

中国語ホームページ史之路 へ


◎「古田史学」研究サイト@なんば.opu案内
大阪府立大学I-siteなんばまちライブラリーの交通アクセスはここから
開館時間: 火〜土 13:00〜20:00
       上記のうち、祝日は13:00〜17:00

まちライブラリー@大阪府立大学をご利用いただくには会員登録が必要です。
会員登録時に、実費(500円)が必要です。

住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル3階まちライブラリー内
 アクセスは、南海電鉄難波駅 なんばパークス方面出口より南約800m 徒歩12分
 地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より南約1,000m 徒歩15分
 地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)1号出口より東約450m 徒歩7分です。

「古田史学」研究サイトの蔵書目録です。

 

古賀達也の洛中洛外日記
第2030話 2019/11/01

首里城焼亡を悼む

 沖縄県の象徴的建造物であり文化遺産の首里城が火災により失われたことをニュースで知りました。沖縄県民や首里城を愛しておられる皆様のお嘆きはいかばかりか。心より同情申し上げます。

 今回の首里城焼亡の様子をテレビで見ていて、巨大木造建築物に一旦火がつくと、その火の手の速さが想像以上であったことに驚きを禁じ得ませんでした。
 古代史研究においても『日本書紀』に記された著名な火災記事として、法隆寺(天智九年・670年)と難波宮(天武紀朱鳥元年・686年)の焼亡があります。特に難波宮(前期難波宮)は瓦葺きではないことから、外部の火災であってもその火の粉により類焼しやすいことと思われますし、上町台地上という立地条件により、消火のための「水利施設」が十分にあったとも考えられません。従って、その延焼速度は今回の首里城よりも速かったのではないでしょうか。
 『日本書紀』天武紀朱鳥元年正月条には難波宮焼亡が次のように記されています。

 「乙卯(十六日)の酉のとき(午後六時頃・日没時)に、難波の大蔵省失火して、宮室悉(ことごと)く焚(や)けぬ。或いは曰く、阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べりという。唯(ただ)し兵庫職のみは焚けず。」

 この記事によれば、大蔵省か阿斗連薬の家で発生した火災により、宮殿が全焼したことになります。しかも「酉のとき」日没の時間帯ですから、瀬戸内海方面に沈む夕日に照らされる中、当時、日本列島内最大規模の難波宮(前期難波宮)が紅蓮の炎の中に焼亡する様子を、難波の都人たちは為す術もなく眺めていたことでしょう。
 現代も古代も、このような火災は痛ましいものです。難波宮跡からはこの火災により焼けた焼土層が検出されており、それにより整地層上に重層的に建設された前期難波宮と後期難波宮の遺構を区別することが可能な場所もあります。あるいは、瓦葺きだった後期難波宮の遺構層位からはその瓦が出土しますから、このことによっても前期難波宮と後期難波宮の遺構の区別が可能です。
 また、前期難波宮焼土層からは白い漆喰も多数出土しており、前期難波宮の主要施設は漆喰で加工されていたと推定されています。しかし、その漆喰も火災を止めることはできませんでした。
 白い漆喰により表面が加工されていた前期難波宮は、恐らく現在の改修後の姫路城のように白い宮殿だったのではないでしょうか。その完成間近の前期難波宮で白雉改元の儀式が執り行われています(九州年号「白雉元年」652年。『日本書紀』には二年ずらされて650年を「白雉元年」とし、その二月に大々的な白雉改元儀式記事が挿入されています。拙稿「白雉改元の史料批判」をご参照下さい。『「九州年号」の研究』に再録)。
 姫路城が「白鷺城」の異名を持つように、前期難波宮も「白雉宮」と呼ばれていたのではないかと、わたしは想像しています。「白雉元年(652)」九月に完成したという、九州年号の「白雉」と白い漆喰の出土しか、今のところ根拠がない作業仮説ですが、いかがでしょうか。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2031話 2019/11/01

難波京朱雀大路から大型建物と石組溝が出土

 前期難波宮九州王朝複都説に反対する論者からは、七世紀中頃の難波宮の存在を否定したり、上町台地上の日本列島内最大級の遺構(古墳時代〜前期難波宮時代)を矮小化する見解が未だに見られるのですが、そうした見解に対して考古学的出土事実は〝ノー〟を示し続けています。その新たな発見が『葦火』195号(2019年10月、大阪市文化財協会編集)に掲載されましたので紹介します。
 『葦火』195号で「難波京朱雀大路跡で古代の大型建物と石組み遺構を発見」という記事が発表されました。今回の出土地点は前期難波宮朱雀門(南門)から南へ約800mのところ(天王寺区城南寺町)で、豊臣秀吉が城下町として整備した古い寺町が残っているため、これまであまり発掘調査が進んでいない地域です。そこから、掘立柱建物1棟と南北方向の石組み溝が発見されました。建物の全体の規模は不明ですが、柱の規模から一般の建物としては大型のものとされています。
 石組みは、建物の西側を通る朱雀大路の(幅32.7m)よりも東側にあるため、朱雀大路の側溝ではなく、建物敷地内の溝と思われます。石組み溝内や柱抜き取り穴から七世紀中〜後葉の時期の須恵器や土師器、遺物が出土しており、溝と建物は前期難波宮の時期のものと考えられます。石組に使用された石材は前期難波宮の北西官衙の水利施設の暗渠に使用されたものと共通する、六甲や播磨地域を含む山陽帯の花崗岩が用いられていました。
 更にもう一つ大きな発見がありました。同遺構の前期難波宮造営時期かそれ以前に遡る可能性のある層位から、「奉」と推定される文字が刻まれた「陶硯」が出土したのです。土器に記された「奉」の文字としては、日本では最も古い事例になりそうとのことです。新羅でも陶器に「奉」の文字を刻む例があることから、新羅から伝わった祭祀文物とみる説もあるそうです。そして、次のように指摘されています。

 「硯の出土は、文書を扱う人が周辺で活動していたことを物語ります。今回見つかった建物が建てられる以前に、周辺に重要な施設があった可能性も想定する必要がありそうです。」(大庭重信・協会学芸員)

 わたしが前期難波宮九州王朝複都説を発表して以来、この十年間も前期難波宮や難波京が国内最大規模の王都・王宮であることを支持する出土が続いています。この考古学的事実を九州王朝説ではどのように説明できるのかという考究を続けた末の結論が、前期難波宮九州王朝複都説であることを是非ご理解いただきたいと願っています。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2032話 2019/11/02

『多元』No.154のご紹介

 友好団体の「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.154が届きました。拙稿「古田学派の目標と未来 ー小笹豊さん『九州見聞考』の警鐘ー」を掲載していただきました。同号には吉村八洲男さん(上田市)の「『曹操』墓と『蕨手文様』」や竹田侑子さん(弘前市)の「縄文時代、シュメール人は渡来したかー 発掘遺物にみるシュメール【1】」など、初めて知るような先駆的論稿が注目されました。
 また、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「金石文に九州年号が少ない理由」が冒頭に掲載されており、そこで紹介された阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)の見解にわたしは触発されました。とても興味深い見解でしたので、別途、論じたいと思います。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2033話 2019/11/03

『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)

『多元』No.154に掲載された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「金石文に九州年号が少ない理由」を興味深く拝読しました。服部さんは金石文に九州年号の使用が少ない理由として、「九州王朝律令」に九州年号の使用を命じた条文がなかったので、人々は「年号」よりも使い慣れた「年干支」を使用したためとされました。そして、「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)の説を紹介されました。
 その阿部さんの説は下記のブログに掲載されています。関係部分を転載します。

【以下、転載】
https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/43fed8a15ed5361aecdc521c482058b4
「古田史学とMe」 2017年09月10日
「那須直韋提の碑文」について(三)

 (前略)これについては『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」には「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

 「凡公文応記年者。皆用年号。 釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 この答は「庚午」の年には「年号」があったということを前提としたもののようにも考えられます。それが使用されていないのは「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかったからと受け取れるものであり、このことから「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかったともいえるでしょう。(後略)
【転載おわり】

 博識で律令に詳しい阿部さんらしい論証です。阿部さんは『令集解』「儀制令・公文条」の解説部分にある「庚午年籍」に関する問答を根拠に、〝「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかった〟〝「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかった〟とする見解を用心深く表明されています。
 これはわたしの見解とは異なりますが、こうした異説・異論の発表は学問・研究にとって大切なことであり、しかも史料根拠(エビデンス)や論理展開(ロジック)も明解で、歓迎したいと思います。(つづく)

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2034話 2019/11/03

『令集解』儀制令・公文条の理解について(2)

 「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする阿部さんの説が成立するためには、少なくとも次の二つのハードルを越えなければなりません。一つは、『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章(本稿末に掲載)の読みが妥当であることの証明。二つ目は、『令集解』の解説部分は同書成立当時(九世紀中頃)の編者(惟宗直本:これむね・なおもと)の認識であり、その認識が六〜七世紀の九州年号時代の歴史事実を正しく反映していることの証明です。
 阿部さんのブログの当該論稿〝「那須直韋提の碑文」について(三)〟にはそれらの証明がなされていません(他の論稿中にあるのかもしれませんが)。もっとも、この論稿の主たる目的や要旨は「那須国造碑」碑文の理解や史料批判で、「九州王朝律令」そのものの研究論文ではありませんから、上記の証明にはあえて触れておられないだけかもしれません。(つづく)

○『令集解』「儀制令・公文条」 (『国史大系 令集解』第三冊733頁)

 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕
 ※〔 〕内は『令集解』編者による解説。「国史大系」本によれば、二行細注。

《参考資料:『令集解』ウィキペディアの解説》
『令集解』(りょうのしゅうげ)は、9世紀中頃(868年頃)に編纂された養老令の注釈書。全50巻といわれるが、35巻が現存。
惟宗直本という学者による私撰の注釈書であり、『令義解』と違って法的な効力は持たない。
 まず令本文を大字で掲げ、次に小字(二行割注)で義解以下の諸説を記す。概ね、義解・令釈・跡記・穴記・古記の順に記す。他に、讃記・額記・朱記など、多くの今はなき令私記が引かれる。特に古記は大宝令の注釈であり、大宝令の復元に貴重である。ただし、倉庫令・医疾令は欠如している。 他にも、散逸した日本律、『律集解』、唐令をはじめとする様々な中国令、及び令の注釈書、あるいは中国の格(中にはトルファン出土文書と一致するものもある)や式、その他の様々な法制書・政書及び史書・経書・緯書・字書・辞書・類書・雑書、また日本の格や式、例などの施行細則等々が引用されている。
 現存35巻のうち、官位令・考課令第三・公式令第五の3巻は本来の『令集解』ではなく、欠巻を補うために、後に入れられた令私記である。

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2035話 2019/11/04

評督の上位職は各「道」都督か(1)

 那須国造碑の碑文についての古田説の論証を再確認するために、古田先生の『古代は輝いていたⅢ』を読み直したところ、三十数年前の同書発刊時(1985年)に読んだとき、かすかな違和感を抱いたことを思い出しました。それは次の箇所でした。

〝この金石文(那須国造碑)の最大の問題点、それは、「評督」という旧称の授与時点と授与者を隠していることにあることが判明しよう。
 では、授与者は誰か。わたしには、それは「上毛野の君」が最有力候補ではないか、と思われる。なぜなら、関東にあって「武蔵国造」などの任命権を近畿天皇家と争った者、それが「上毛野の君」だったからである。〟(『古代は輝いていたⅢ』ミネルヴァ書房版。305〜306頁)

 那須直葦提に評督を授与したのは「上毛野の君」とする古田先生の見解に、わたしは違和感を覚えたのです。評制は九州王朝が全国に施行した制度と古田先生はされているのに、関東の豪族である「上毛野の君」が評督を授与するということに、わたしは納得できなかったのです。しかし、古田史学に入門したばかりの若造だったわたしには、畏れ多くて古田先生に意見などできませんでした。
 今回、この懐かしい著作の一文中の「上毛野の君」に再会し、わたしには思い当たることがありました。藤井政昭さんの優れた論稿「関東の日本武命」(『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)によれば、『日本書紀』景行天皇55年条に見える「東山道十五國」の「都督」に任命された「彦狭嶋王」は上毛野国の王者で、『先代旧事本紀』「国造本紀」には「上毛野国造」とされているとのこと。
 先の古田説を敷衍すれば、「東山道十五國」の「都督」であり、「上毛野国造」でもある彦狭嶋王が「東山道」各地の評督を任命したということになり、このケースにおいては、「評督」の上位職掌(任命権者)は各「道」の「都督」ということになります。(つづく)

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2026話 2019/10/30

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(2)

 臼杵市満月寺の多層石塔や石仏については、「洛中洛外日記」1818〜1822話(2019/01/08〜12)〝臼杵石仏の「九州年号」の検証(1)〜(5)〟で取り上げたことがあります。というのも、臼杵石仏に九州年号「正和(五二六〜五三〇)」が刻されたものがあるとする文献(鶴峯戊申『臼杵小鑑』)があり、もしその記事が正しければ現存最古の九州年号金石文になるかもしれず、わたしも早くから注目してきたからです。それは次のような記事です。

『臼杵小鑑』(国会図書館所蔵本。冨川ケイ子さん提供)
 「満月寺
 (前略)〈満月寺は宣化天皇以前の開基ときこゆ〉十三佛の石像に正和四年卯月五日とあるハ日本偽年号〈九州年号といふ〉の正和四年にて、花園院の正和にてハあらず。さて其偽年号の正和ハ継体天皇廿年丙午ヲ為正和元年と偽年号考に見えたれば、四年ハ継体天皇の廿四年にあたれり。然れば日羅が開山も此比の事と見えたり。(後略)」
 ※〈〉内は二行割注。旧字は現行の字体に改め、句読点を付した。

 この記事などに対して、わたしは次のように「洛中洛外日記」1822話(2019/01/12)〝臼杵石仏の「九州年号」の検証(5)〟で考察しました。

【以下、転載】
①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。

②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。

 ②のケースの場合、石仏の「正和四年」は九州年号と判断できるのですが、そのことを学問的に証明するためには、「正和四年卯月五日」と刻銘された石仏が鎌倉時代のものではなく、6世紀まで遡る石像であることを証明しなければなりません。しかし、現在では刻銘そのものが失われているようですので、どの石造に刻されていたのかもわかりません。そうすると、せめて満月寺近辺に現存する石仏に6世紀まで遡る様式を持つものがあるのかを調査する必要があります。
【転載おわり】

 以上の考察の結論として、
 「今のところ臼杵石仏に6世紀まで遡るものがあるという報告は見えません。」
 「6世紀の倭国において『卯月』という表記方法が採用されていたのかという研究も必要です。」
 として、わたしは臼杵石仏に彫られていたとされる「正和四年卯月五日」を九州年号と断定することは学問的に困難と判断しました。(つづく)

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2027話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(3)


 鶴峯戊申が『臼杵小鑑』で紹介した満月寺石仏の「正和四年卯月五日」の刻銘は現存しないようですが、満月寺には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された五重石塔が現存しています。その下部から次のような刻銘が読み取れます。

【満月寺五重石塔刻銘】
「正和四年乙卯夘月五日願主阿闍梨隆尊敬白」
「滅罪証覚利益衆生所奉造立供養如件」
「右為先師聖霊尊全及隆尊之先考先妣」
「合力作者 阿闍梨圓秀」

 このように「正和四年乙卯夘月五日」とあり、年干支が「乙卯」と記されていますので、九州年号「正和四年」の年干支「己酉」と一致しません。
 他方、「正和」という年号は鎌倉時代にもあります。その正和四年(1315)の年干支は「乙卯」であることから、この五重石塔は鎌倉時代の正和四年乙卯(1315)の造立であることがわかります。この石塔の刻銘の写真を拝見しますと、干支の「乙卯」は縦書きの「正和四年乙卯夘月五日」とある文字列の中で「二行割注」のように横書きで「卯乙」と記されています。このように干支部分のみを小文字二行の横書きに記す例は中近世史料では普通に見られる書法で、同石塔に刻された「正和四年」(1315)の年次と矛盾なく対応しています。
 たとえば年干支二文字を小文字で横書きにされた金石文として、九州年号「朱鳥」が記された「鬼室集斯墓碑」が著名です。没年について次のように記されています。

 「朱鳥三年戊子十一月八日殞」

 一行の縦書きですが、年干支「戊子」部分の二字は小文字の横書きです。なお、年干支部分を小文字で横書きにするのは、鎌倉時代頃の金石文からよく見られるようになるといわれています。
 また、「夘月」という表記も六世紀前半にまで遡る例は国内史料には見えず、10世紀初頭頃に成立した『古今和歌集』136番歌(紀利貞)の詞書に見える「うつき(卯月)」の例が国内史料では最も古いようです。このことも同石塔を九州年号の「正和四年」(529)とする理解を困難としています。その点、鎌倉時代の「正和四年」(1315)であれば全く問題はありません。(つづく)

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2028話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(4)

 満月寺五重石塔の「正和四年乙卯夘月五日」を九州年号「正和」とするには、年干支の不一致や「夘月」という表記成立時期の問題があるため困難なのですが、それら以外にも下部に大きく記された「梵字」の伝来時期という課題も横たわっています。
 満月寺五重石塔の下部の四角四面部分に「梵字」四文字が大きく彫られています。この「梵字」も中近世の石造物(五輪塔や多層石塔、板碑など)によく見られるものです。この満月寺石塔の「梵字」は大日如来を囲む金剛界四仏のこととされ、キリーク(阿弥陀)・タラーク(寶生)・ウーン(阿閦)・アク(不空成就)の四文字が彫られています。
 「梵字」とはウィキペディアによれば、「日本で梵字という場合は、仏教寺院で伝統的に使用されてきた悉曇文字を指すことが多い。これは上述のシッダマートリカーを元とし、6世紀頃に中央アジアで成立し、天平年間(729年-749年)に日本に伝来したと見られる。」と説明されています。もちろん、この解説は大和朝廷一元史観に基づいていると思われますから、梵字や密教の九州王朝(倭国)への伝来がいつ頃かは不詳とせざるを得ません。しかし、六世紀の金石文や七世紀の史料などに「梵字」は見えませんから、満月寺五重石塔の造立を六世紀とすることはやはり困難と言わざるを得ません。(つづく)

 
 

古賀達也の洛中洛外日記
第2029話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(5)

 本シリーズ冒頭で、ご町内の北村美術館庭園(四君子苑)で多くの石造物(五輪塔・多層石塔・石仏など)を拝観させていただいたことを紹介しましたが、そのとき、わたしが最も関心を払ったのが古そうな三重石塔の年代でした。というのも、満月寺五重石塔の年代検討のため、わたしは日本各地の鎌倉時代の多層石塔をインターネットで調査し、その様式による年代観を勉強していたからです。ですから、その年代観がどの程度のものか、北村美術館の石塔で確かめたいと考えたわけです。その結果、その三重石塔は鎌倉時代のものと判断し、美術館の方に確認したところ、ほぼ当たっていました(鎌倉前期頃とのこと)。
 わたしがインターネットで調査した多層石塔は次のものでした(ネットで写真を見ることができます。付されていた解説も一部転載しました)。こうした同時代の他の多層石塔の様式からも、満月寺五重石塔の造立年代を鎌倉時代後期の「正和四年乙卯」(1315)とすることは極めて妥当との結論に至りました。と同時に、九州年号「正和四年」(529)とするのは困難というのが学問的判断と思われます。(おわり)

【以下、転載】
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kanto.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(1)東日本(関東以北)の石塔巡拝

○元箱根賽の河原層塔(神奈川県箱根町元箱根)
 初層軸部(塔身)は、四方に輪郭をとり、二字づつの梵字を刻んである。写真の塔身左側から四仏の不空成就(アク)と釈迦(バク)、正面は観音(サ)と四仏の阿弥陀(キリーク)と続き、さらに左回りで、地蔵(カー)と四仏の宝生(タラーク)、四仏の阿しゅく(ウーン)と薬師(バイ)がセットになって彫られているのである。金剛界四仏だけでは事足らず、信仰の対象として馴染み深い釈迦、観音、地蔵、薬師という仏たちまで彫り込んだ意欲には脱帽であろう。
 基礎正面の中央輪郭部に、正和三年(1314)という鎌倉後期の年号が彫られているそうである。残欠塔とはいえ、関東には鎌倉時代の在銘層塔は数基しかなく、まことに貴重な存在なのである。

○城願寺五重塔(神奈川県湯河原町)
 塔身(初重軸部)は、周辺に関東様式ともいえる輪郭を巻き、金剛界四仏の梵字を彫り込んでいる。写真に写っているのは、アク(不空成就)である。やや力の無い書体である。
 各層の屋根は、軒裏に垂木型が刻んであり荘重なシルエットを創出している。軒の反りは鎌倉風の剛健な様式で美しい。相輪の存在が記された本があったが、現在は失われてしまったようだ。塔身に嘉元二年(1304)という、貴重な鎌倉後期の年号が刻まれているのである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-chugoku.html
石塔紀行(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(10)中国・四国・九州(大分以外)の石塔巡拝

○薬師寺七重塔(広島県尾道市因島原ノ町)
 正和四年(1315)鎌倉後期に建てられた石塔で、全体にほぼ完存する秀麗な遺構と言えるだろう。
 基礎には輪郭を巻いた中に格狭間を彫り、塔身には金剛界四仏の種子が刻まれている。梵字の彫りは、この時代にしては華奢で、同じ鎌倉後期でも次掲の光明院塔に比べると、鎌倉の豪快さはかなり失われてしまっているようだ。
 それでも、笠や相輪の優美さは見事で、軒の反りや厚さには鎌倉後期の特徴を十分に見ることが出来る。屋根の裏に一重の垂木型が彫り出されており、繊細な美意識も感じ取れる。笠の幅の逓減率も理想的で全てが美しいのだが、優等生だがやや個性に欠ける、といった評価が出来るのかもしれない。
 基礎は低いが、背の高い塔身(初層軸部)には、輪郭の巻かれた中に金剛界四仏が薄肉彫りされている。各仏の名称は方位から推測するしかないが、いずれもほのぼのとした情緒に満ちた彫像である。

○青目寺五重塔(広島県府中市本山町)
 やや摩滅しているが、四面に胎蔵界四仏の種子(梵字)が薬研彫りされている。
 各層の屋根を見ると、軸部と一体に作られていることと、軒の厚さや反り具合が何とも大らかに造られていることに気が付く。のびのびとした表現は鎌倉後期以後の様式通の範疇からは抜けており、案の定案内板によれば、基礎正面に「正応五年(1292)」という鎌倉後期の初めの年号が刻まれているのだった。
 相輪が失われているのは残念だが、全体に漂う飛び切りの古塔ならではのオーラのような雰囲気が感じられて感動した。各層の屋根はそれぞれが上の軸部と一体となる彫り方で、適度な厚さのある軒は緩やかな反りを示している。五層の屋根の幅の逓減率が自然なので、見るからに品位のある落ち着いた姿をしている。
 塔身東面の仏像(阿閦如来か)の下に、寛元元年(1243)という鎌倉中期の銘が入っているそうだったが、肉眼では判然としなかった。各部の特徴が、いかにもこの魅力的な造立銘に相応しい佇まいであることに感動した。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kyoto-n.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(5) 京都(北部)の石塔巡拝

○金輪寺五重塔(京都府亀岡市宮前町)
 延応2年(1240)という鎌倉前中期の作との事だが、総体的に古調を示していて格調高い。特に反りの少ない笠の緩やかさは、石塔寺のイメージにも似て素晴らしい。初層軸部に四方仏が彫られ、その下の基礎石には梵字の四方仏が彫られていた。梵字にはアやアンが見られることから胎蔵界四仏だろう。

 
 

史料として古田史学会報138号まで公開しています。

 



 

講演会案内


 

 


集会案内

一度覗いてみて下さい。誰でも参加できます。(要、参加費)

古田史学の会・関西2019年11月例会

期日

2019年11月16日(土)
午前10時より午後5時まで

場所

アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
3階第三会議室

会議室は案内で確認願います

交通アクセスはここから

〒540-0006 大阪市中央区法円坂 1丁目1-35

・地下鉄谷町線「森ノ宮」駅2番出入口から西へ約500m。
・JR環状線「森ノ宮」駅下車。10番出口より中央大通り沿いに東へ約500m。

報告

会員発表例は例会報告参照

参加費 500円

    12月例会は、21日(土)アイサイトなんばでおこないます。
関西例会は、毎月第三土曜日午前10時より午後5時までです。



古田史学の会・東海 例会

案内は古田史学の会東海のホームページでご覧ください。


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから