古田武彦著作集

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2011年9月刊行 古田武彦・古代史コレクション7

よみがえる卑弥呼

日本国はいつ始まったか

ミネルヴァ書房

古田武彦

2013.09.17 校正 正誤表(服部和夫氏校正、有り難うございます)

備  考
171 5 しゅうさんけい しゅうさんけい

振り仮名、駸々堂版も同様

208 下図 三角縁神獣鏡「載」 三角縁神獣鏡「載」 下図タイトル
417 7 御沐之忌、故,  御沐之忌、故  
417 8 故(れ) 故(れ) 振り仮名

弥生遺跡出土全漢式鏡 三角縁神獣鏡「舶載」 古田武彦『よみがえる卑弥呼 --日本国はいつ始まったか』 ミネルヴァ書房

 

始めの数字は、目次です。

 【頁】 【目 次】

i はしがき ーー復刊にあたって

001 第一篇 国造制の史料批判
      ーー出雲風土記における「国造と朝廷」

003   序
003   第一節 出雲風土記における「国造と朝廷」
020   第二節 出雲史料の再吟味
033   第三節 考古学上の諸問題
038   結び

 〈解題〉 「日本列島に、朝廷は一つしかなかった。それが大和朝廷である」 ーーこれが、明治以降の古代史学において、ことさら強調された命題であった。研究思想を貫く根本信念とさえいえよう。この一点においては戦前も戦後も不変だった。しかしそれは、江戸期の国学者たちのイデオロギー的な読解と、そのための「原文改定」という改変史料にもとづくものだったのである。

049 第二篇 部民制の史料批判 ーー出雲風土記を中心として

 〈解題〉 「『部』とは、大和朝廷中心の政治組織であった」 ーー津田左右吉はこの命題を反復・強調した。一方で記・紀神話を否定しながら、他方でこの命題によって近畿天皇家一元主義の史観は、戦前以上に「安定した基礎」の上に立つこととなった。戦後古代史学はそれを継承した。しかしその史料基礎は、「国学者の改変史料」にあった。出雲風土記は全く異なった「部の成立」の史実を証言している。

093 第三篇 続・部民制の史料批判 ーー「部」の始源と発展

 〈解題〉 出雲風土記中の「部」は、大穴持命の「出雲朝廷」を原点とする政治組織である。 ーーこれが前稿の帰結であった。だが、問題はこの地点にとどまりえなかった。「大穴持命以前」に、すでに「部」は存在していた。たとえば「蝮部」などは、その一つである。縄文以前の現地信仰、祭祀伝統に立った「部」であった。大穴持命はその統合・発展の中枢に存在していたのである。多元的部民論の成立、その歴史の諸相を分析した。

143 第四篇 卑弥呼ひみかの比定 ーー「甕依姫」説の新展開

 〈解題〉 一見、迷路に入ったかに見える「邪馬台国」論争には、一個の重大な盲点があった。それは、卑弥呼(ひみか)の比定問題である。神功皇后・倭迩迩日百襲姫命・天照大神等があげられたが、いずれも「同定」の基本要件において不適合である。これに対して筆者はかつて筑後風土記中の甕依姫(みかよりひめ)をあげたが、ここでも、あまりにも重要な「原文改定」の手が加えられ、「定本」化されてきていた。それが晦冥の原因だったのである。

167 第五篇 九州王朝の短里 ーー東方の証言

 〈解題〉 倭人伝の基本問題の一つに「短里」のテーマがある。周代に発し、魏・西晋代に復活した「一里=約七七メートル」の里単位である。筆者の提起に対し、反論が出されたが、いまだ提起の「要かなめ」(江東方数千里・赤壁の論証)を回避したままのように見える。ところが、果然、三国史記・三国遺事・翰苑・日本書紀・風土記・万葉集等にも、同じ「短里」がクッキリと遺存している事実が検出され、邪馬一国・九州王朝の存在証明となった。

199 第六篇 邪馬壹いち国の原点

 〈解題〉 「邪馬台国」という改定国名は、大和、山門等がいずれも弥生期の考古学的出土物の分布中心となっていない、この肝心の事実によって否定されざるをえない。代わって邪馬一国の場合、「邪馬プラス壹(いち 「倭国」の自称)」という複合国名だ。狗邪韓国・不耐穢*国というように。その中心地名たる「邪馬=山」の地はどこか。『「邪馬台国」はなかった』以来の、この課題が、はからずも今回“解決の糸口”をうることとなった。
     穢*(わい)は、禾編の代わりに三水偏。JIS第3水準ユニコード6FCF

229 第七篇 日本国の創建

 〈解題〉 戦前の史学では、日本国の建国を神武即位年に求め、戦後の史学では、国家の成立を四〜六世紀の間に“浮遊”させてきた。しかし、実証主義の立場では、日本国の成立は「天智十年(六七一)」である。隣国の史書がこれを証言し、日本書紀もまた、これを裏づける。明治以降、公的史観の座におかれてきた、近畿天皇家一元主義のイデオロギーに決別し、史料実証の方法論を貫徹する。多元史観は、その帰結である。

289 第八篇 好太王碑文「改削」説の批判
     ーー李進煕氏『広開土王陵碑の研究』について

 〈解題〉 昭和四十七年、それは好太王碑研究にとって、一の画期をなした年である。李進煕氏の改竄(かいざん)説が学会に衝撃を与えたからである。同年五月の『思想』の論文につづき、十月、『広開土王陵碑の研究』が世に問われた。同年これに対する再検証を加えるものとして、「書評論文」の形をとって当論文は執筆された。爾来、十五年の歳月が流れ、論争の当否について、すでに大勢上の決着を迎えるに至ったようである。
     (『史学雑誌」八二 - 八、昭和四十八年、所載)

339 第九篇 好太王碑の史料批判
      ーー共和国(北朝鮮)と中国の学者に問う

 〈解題〉 李氏との「改竄」論争において、一の決定的なポイントが“欠落”していた。それは好太王碑そのものを実地に検証すること、この一点である。その宿願が達せられたのが、昭和六十年三月下旬。好太王碑の碑面に目をこすりつけるようにしながら、問題の「倭」字が、何の疑うべくもない「石の文字」で刻みつけられているのを眼前にしたのであった。その記念すべき研究調査行の報告である。

379 第十篇 アイアンロード(鉄の道) ーー韓王と好太王の軌跡

 〈解題〉 好太王碑の碑面に現れず、しかもそこに記せられた好太王の生涯の軌跡の秘密を解くカギ、それは「鉄」の問題である。この点、すでに三国志の魏志韓伝の中にこの問題が記され、半島における、韓・穢*・倭の動向、さらに中国(魏。楽浪郡・帯方郡)の関心が、この一点を焦点としていたことを示しているのである。この三世紀の鉄の軌道、それを追うて南下したのが、好太王の軍であった。
     穢*(わい)は、禾編の代わりに三水偏。JIS第3水準ユニコード6FCF

401 あとがき

403 文庫版によせて

413 日本の生きた歴史(七)

415       第一 朝廷論
420       第二 国造と部民論
424       第三 日本論
437       第四 続・倭語論
444       第五 史料批判論

1〜8 人名・事項・地名索引

※本書は、朝日文庫版『よみがえる卑弥呼』(一九九二年刊)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(七)」を新たに加えたものである。なお、本文中に出てくる参照ページには適宜修正を加えた。

[参 考]学術雑誌掲載論文
1 第2編 部民制の史料批判 ーー出雲風土記を中心として
  『昭和薬科大学紀要』第21号(1987年)
2 第8編 好太王碑文「改削」説の批判 ーー李進煕氏「広開土王陵碑の研究」について
  『史学雑誌』82?8(1973年8月)
3 第9編 好太王碑の史料批判 ーー共和国(北朝鮮)と中国の学者に問う
  『昭和薬科大学紀要』第20号(1986年)
4 第10編 アイアン・ロード(鉄の道) ーー韓王と好太王の軌跡
  『昭和薬科大学紀要』第20号(1986年)

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古田武彦・古代史コレクション7

『よみがえる卑弥呼ひみか

日本国はいつ始まったか

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2011年9月30日 初版第1刷発行

 著 者 古田武彦

 発行者 杉田敬三

 印刷社 江戸宏介

 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房

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©古田武彦 2011

ISBN978-4-623-06055-9

   Printed in Japan


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