一番下に、和田家文書関係のリンクがございます。


日本国際教育学会                                          1999年11月7日
第10回大会報告                                          (於)京都・同志社大学
                          日本国の原風景
                      ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー

                                                        西 村 俊 一
                                                         (東京学芸大学)

 はじめに
 近年、青森県三内丸山の縄文遺跡発掘に象徴される様に、日本各地の古代遺跡の発掘調査が進み、それに伴って、日本古代史に関する旧来のイメージが大きく揺らぎ始めている。また、そのため、日本古代史の全般的見直しが歴史学の避け難い課題ともなっている。古田武彦の「九州王朝」(倭国)、「東北王朝」(蝦夷国)説は、その様な見直しの試みの一つであり、むしろその動きを先導してきたものと言うべきかも知れない。
 その中、いわゆる「九州王朝」説は、日本・中国・朝鮮の諸史籍の緻密な再考証、精力的なフィールド・ワーク、鋭く豊かな推論などから導き出された説であり、今や旧来の正統史学を沈黙に追いやる気配さえある。しかし、この説は、「大和朝廷」(近畿天皇家)が663年(天智2年)の白村江の戦いで大敗した「九州王朝」に対する従臣のクーデターによって成立したと見る点で、期せずして、今日の国際教育に対する大きな問題提起ともなっている。例えば、彼がその著書『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社、1990年刊)等において示している事実認識に対して、日本の教育関係者はどの様に対応するべきであろうか。
 他方、「東北王朝」説は、神武東征以降、その支配地域は徐々に侵奪縮小されてはいくものの、古来から「倭国」と共に「蝦夷国」が存在したとする説であり、中国史籍の『冊府元亀、外臣部、朝貢三』等と共に青森県五所川原市飯詰字福泉・和田喜八郎所蔵の『東日流外三郡誌』も傍証として用いている。しかし、まさにこの『東日流外三郡誌』を中心とする一群の「和田家資料」については、「九州王朝」をめぐる論争において惨敗を喫した感の濃い安本美典らが、現代人和田喜八郎の手になる「偽書」であるとの攻撃を加え、激しい「真書・偽書論争」が続けられてきた。古代史研究者は、その問題を純然たる事実認識の問題として扱うことも可能であるが、国際教育の研究者は、必ずや、その事実認識が帯びる今日的意味の確認を迫られることになる。したがって、これまで継続されてきた「真書・偽書論争」の帰趨にも無関心ではいられないのである。
 そこで、本報告では、北秋田の比内を生地とする安藤昌益の研究を進める中で偶々実見する機会を得たこの『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」に関して、資料の体裁と構成、その描く古代・中世史像の概要を紹介し、「真書・偽書論争」のはらむ問題について検討を加え、その上で、今後の課題について言及を試みてみたい。何やら「火中の栗を拾う」の感も無くはないが、これまでの「真書・偽書論争」に関係したことのない第三者の判断もそれなりに意味があるのではなかろうか。


1、「和田家資料」の構成と『東日流外三郡誌』

1)「和田家資料」発見の経緯
 「和田家資料」の所蔵者和田喜八郎及び同資料の編集刊行に携わってきた藤本光幸が記するところによれば、その発見の経緯は概ね以下の如くであった。 
昭和22年8月の深夜、和田家の天井板を突き破って挟箱が落下してきた。それには門外不出の古文書類が収蔵されており、それらは約200巻に及ぶ『東日流外三郡誌』のほか、『金光上人関係資料』、『天真名井家関係文書』等の合計368巻から成っていた。また、他の箱からは『東日流外三郡誌』編纂のための参考として収集されたと思われる世界史、進化論、宇宙天文学、宗教、博物学等に関する版木本や刊本数千冊が現れた。
 その後、1990年に最後の1箱を開いてみると、安倍頼良着用と伝わる鎧と共に、『丑寅日本記全』、『丑寅日本雑記全』、『丑寅日本史総解』、『奥州風土記』、『陸奥史風土記』、『丑寅風土記全』、『渡島古史抄』、『東日流古史抄』、『陸羽古史抄全』、『陸奥古史抄全』、『陸奥古事抄』、『東日流古事録』、『語部古事録』、『陸羽古史語部録全』、『日下史大要語部録』、『陸奥羽古代史諸証』、『日之本史探証』、『東北陸羽史談』、『陸奥史審抄』、『日下史大要絵巻』、『陸羽古史絵巻』、『日下北鑑全』等約1800冊(巻)の資料が現れた。以上が「和田家資料」発見の経緯の概略である。
 なお、これら以外に、和田家の屋根裏奥に隠し部屋が設けられていて、未開封の長櫃等が存在し、その中にいわゆる「寛政原本」(原副本)等が秘蔵されているともされてきたが、この件については後述する。

 2)『東日流外三郡誌』の編纂者
 これらの『東日流外三郡誌』を中心とする一群の「和田家資料」は、奥州三春藩主秋田倩季から安倍・安東・秋田家の族譜と事績の編纂を依頼されたのに応じて、1789年(寛政元年)から1822年(文政5年)までの間、秋田土崎湊の秋田孝季と津軽飯詰の庄屋和田長三郎吉次が調査記述したものであり、その後、その副本を権七、吉次、末吉の三代が書写によって虫食い等から守り、長作、元市へと引き継いで来たとされるものである。その意味で、これらは、あくまでも江戸後期に編纂された二次資料でしかないが、空白の古代・中世に関わる古文書や語部による伝承等が収録されていたことから、一躍歴史学界の注目を浴びることとなった。
 なお、その『東日流外三郡誌』には、編者とされる秋田孝季と和田長三郎吉次が連署で「凡そ本書は史伝に年代の相違なる諸説多しとも、一編の歴史と照会して事実錯誤の発見あれど、私考にして訂正するは正確とぞ認め難く、訂正の労は後世なる識者に委ねたり」と記している。また、その書写保存に努めたとされる和田末吉は、子孫への戒めとして「本書は他言無用にて護り、末代に伝ふる秘と密を如何なる事態にても失ふべからず、死致るとも護るべし」と記している。

 3)「和田家資料」の体裁と構成
 当方は、北秋田比内を生地とする安藤昌益に関心を持ち、久しくその調査研究を心がけてきているが、その過程で、安藤昌益の生地と姓はもとよりのこと、その門弟の一人に長崎通詞がおり、北斗星を気の発生する源と見なし、世界を転(天)と央土(大地)と定(海)の三層で捉え、太古憧憬の念を表白し、人間の平等を唱え、その遺著を秘蔵に付しているなど、『東日流外三郡誌』との共通点の多いことが気になるに至っていた。そこで、「真書・偽書論争」の喧しい中ではあったが、1999年(平成11年)5月23日にあえて津軽山中の石塔山を訪ね、「和田家資料」を調査する機会を持ったのであった。
 その一群の「和田家資料」は、古びた黒漆塗り車付き長櫃等の大箱数箱に錠前を施し、直筆の綴本、巻物、聞き書き、写本、紙片等の形で、同時に収集した公刊本等と共に保存されており、その数は極めて膨大であった。いわゆる「偽書」論者たちは、秋田孝季・和田吉次の手になるとされる「寛政原本」の存在を否定するのはもとより、和田末吉の手になるとされる「明治写本」の存在をも否定して、『東日流外三郡誌』を中心とする全ての「和田家資料」を現代人和田喜八郎の手になる「偽書」であると断定してきたが、当方としては、率直に言って、それは一個人では到底不可能であるとの心証を得た。仮にそれらが和田喜八郎の手になる「偽書」であるとすれば、同人の周辺に今日の大学の研究室よりも大きい偽作集団が相当長期にわたって存在し続けたと考えるしかないであろう。
 なお、和田喜八郎は、当方が安藤昌益に関心を持ち調査研究を心がけて来たことを告げると、即座に、「和田家資料」の中に安藤昌益からの10通ほどの書簡束があると異なことを語り出した。それによれば、実際の差出人名は「安藤昌益」ではなく、「安藤・・・」と普通に見かける名となっていたが、それは「昌益」のことである旨が朱筆で付記されていたという。また、それらの書簡には、ギヤマンや砂鉄についての照会が含まれていたとの記憶がある、とも述べた。これには驚嘆したが、それが事実であれば、時期的にみて、編者秋田孝季・和田吉次のいずれかの父親宛であると思われた。安藤昌益については、その書簡断片が遺っており、一応筆跡鑑定も可能である。また、それ故、自ずから、『東日流外三郡誌』を中心とする一群の「和田家資料」の真偽判断の材料ともなり得る。和田喜八郎は、それを再び探し出して当方に提供すると言明したが、その約束は後述の事情から未だ履行されないままとなっている。
 さらに、その際、和田喜八郎は、「偽書」論者を原告とする訴訟の最高裁判決(平成9年10月14日)が出された機会に、信頼出来る公共の図書館等に「和田家資料」を寄贈して一般に公開したいので、適当な寄贈先を探して欲しい旨当方に依頼した。この件についても後述する。

4)『東日流外三郡誌』を含む「和田家資料」の公刊
 そもそも歴史学者の論争は激しい言葉の応酬といった様相を呈しがちではあるが、まさにその種の「真書・偽書論争」を惹起するに至ったのがこの『東日流外三郡誌』であった。これは、まず青森県北津軽郡車力村の『車力村史』(昭和48年12月25日刊)に一部無断引用され、また、市浦村の『市浦村史資料編』(全3巻、昭和50年〜52年刊)に約200巻の中の約三分の一が了解の上で引用されている。その後、その全資料を収録した小館衷三・藤本光幸編『東日流外三郡誌』(全6巻、北方新社版、昭和58年〜昭和60年刊)や藤本光幸編『和田家資料』(全2巻、北方新社、平成4年)等が公刊された。現在も入手可能なものとしては『東日流外三郡誌』(全6巻、北方新社版、及び、八幡書店版)、『東日流六郡誌絵巻』(全、津軽書房、昭和61年刊)、『和田家資料』(全2巻、北方新社、平成4年)等がある。
 ちなみに、「和田家資料」は、「明治写本」等すでに開封済みのものだけでも数千点に及ぶ膨大なものであり、その史料価値を判断し逐次公刊して行くには相当の年月を要することが予想される。なお、和田喜八郎は、1999年9月28日に突然病死したが、現時点で注目されるのは、(1)和田家の屋根裏の隠し部屋になおも未開封の長櫃等が存在していたか否か、(2)和田一族はそれをすでに開封したか否か、(3)その中にいわゆる「寛政原本」等が含まれていたか否かといった諸点である。当方が直接知る限りでは、これに関する和田喜八郎の言明には必ずしも一貫性は認められなかった。

2、『東日流外三郡誌』の描く古代・中世史像

1)アジア大陸から渡来した阿蘇辺族・津保化族の伝承
 『東日流外三郡誌』は、東日流太古の民として、まずアジア大陸の粛慎族を祖とする阿蘇辺族に関する伝承を記している。しかし、この阿蘇辺族は、同じくアジア大陸の靺鞨族を祖とする津保化族の侵入と岩木山の大噴火のため、そのほとんどが滅び去った。その後、中国の晋では恵王帝の群公子が殺されるといった内紛が生じたが、その難民も大挙して津軽に漂着し、津保化族と融和定住するに至った。
 この様な日本北辺の広く外に開かれた原風景の記述は、実証的裏付けが乏しい以上、絵空事として退けることも容易であろう。しかし、太古の時代からこの様な民族移動がなされて来た蓋然性もあながち否定は出来ない。『日本書紀』の660年(斉明6年)の条には、阿倍比羅夫が陸奥の蝦夷を兵とする軍船200艘を率いて粛慎を伐った旨の記事が見られ、また、724年(神亀元年)に大野朝臣東人が建立したとされる「多賀城碑」には、「靺鞨国界去三千里」の字句も見られる。この様な事実は、東北地方と東アジア大陸の間に古くから緊密な交流が続いて来たことを示すものかも知れない。
 ここで留意すべきは、『東日流外三郡誌』においては、この伝承への言及が安東氏の中世における海上交易活動の活発な展開を描く伏線ともなっている点である。

2)筑紫日向軍による耶馬台国侵攻と「東日流王国」の形成
 次に『東日流外三郡誌』の描くところでは、中国東周平王帝の頃、日本国内では九州筑紫の日向族がにわかに勢いを増し、ついに安日彦・長髄彦兄弟の君臨する耶馬台国の本拠近畿への東征を開始するに至った。耶馬台国軍は、各地で長期にわたって抗戦したが、出雲族の離反もあって、ついに本拠を攻略され津軽へ落ち延びる羽目となる。そして、津軽に落ち延びた耶馬台国軍は、中国からの漂着難民と組んで津保化族を討伐し、遮光器土偶の姿の「荒吐神」を神とする五王制の王国を創った。この荒吐族の「東日流王国」(蝦夷国)は、次第に勢力を回復し、初代王安日彦の死後20代にして耶馬台国を奪回し、孝元天皇を君臨させるまでに至った。しかし、荒吐族長老の内部対立もあってその円滑な継承が果たせず、まずは若狭・大津・尾張の線以北を押領するに止まった。そして、その後、「倭朝」の遣わす田道間守、竹内宿祢、日本武尊、上毛野田道、安倍比羅夫、上毛野広人、坂上田村麿、文室綿麿等の硬軟両様の「征夷」活動によってその支配地域を侵奪され続けることになる。
 なお、以上の様な『東日流外三郡誌』の記述の中でなされている「記紀」の虚構性に対する糾弾は、主に神武東征前後までの前史部分に止まっている。つまり、「耶馬台国」、「倭朝」等の捉え方は基本的に「記紀」のそれに拠っている感があり、大きな違いは征夷軍の脆弱さをことさら強調している点のみである。ちなみに、この点に関して、古田武彦は、安日彦・長髄彦兄弟は九州から津軽に逃れたと考え、「倭国」は九州の筑紫に700頃年まで存続したとしている。その意味では、両者には共通する部分と相容れない部分があることになる。

 3)安倍・安東・秋田家の族譜と事績
 この『東日流外三郡誌』の記述は、当然のことながら、安倍・安東・秋田家の族譜描写と事績顕彰の段において、最も感情移入が激しい。安倍の姓は、元来同族である安倍比羅夫が融和策として荒吐五王に与えたとした上で、「安倍一族は奥州五国を掌中に民活し、国造り、諸々に領司せること大和の都を優りけく富ましめたりしも、日下将軍安倍頼時及び貞任の代にして、源氏に征討さるゝ世襲のおぞましき。再び、東日流に一族の再挙せる安倍一族も久しからずして南部氏に亡びける。誠に無常やるかたなきかな。」(寛政五年、秋田孝季)などと、その無念の思いを吐露している。特に「前九年の役」の1062年(康平5年)における清原武則の裏切りや、津軽に落ち延びて以後の1322年(元享2年)における藤崎城主安東季久と十三湊福島城主安倍季長による「東日流騒動」等に対しては、それらが同族争いにほかならなかったが故に、その救いのなさに大きな苛立ちを隠していない。その後、東日流は三戸城主南部守行の侵攻を受け、1442年(嘉吉2年)の芝崎城の合戦を最後に、秋田(桧山と土崎湊)及び渡島(北海道)に逃れることとなった。そして、江戸期まで存続した秋田家は、1602年(慶長7年)に常陸国宍戸五万石へ移封され、さらに1645年(正保2年)には磐城国三春五万五千石へと移封されて、『東日流外三郡誌』編纂の時点へと繋がって行くのである。
 他方、この些か怨念のこもる族譜の記述に対して、いわゆる「安東水軍」(武装商船団)については、その海外にまで及ぶ交易活動の輝かしい事績を、勇壮華麗に描写している。また、その記述も極めて詳細である。それによれば、「安東水軍」は、古来、第一軍を東日流の十三湊、第二軍を若狭の小浜、第三軍を門津の赤間関に配してきていた。しかし、1185年(文治元年)、壇ノ浦の合戦で平家に加勢し村上水軍に敗れたため、十三湊以外の根拠地を失う結果となった。そこで、陸奥平泉の鎮守府将軍藤原秀衡の舎弟秀栄を十三湊福島城の養子に迎え入れて再起を図らんとしたが、藤原秀栄は安東姓を名乗らず、藤原十三左衛門を称して三代にわたり交易の富を独占するに至った。安東一族は、これに不満をつのらせ、それを失脚させる機会を窺っていたが、1229年(寛喜元年)、十三湊福島城領内の小泊における蝦夷管領京師役の柵の構築を機に起こった「萩野台の合戦」によって、ついに十三湊の奪回に成功した。十三湊には外国船も頻繁に来航し、数多くの商家や神社仏閣が建ち並んで賑わいをみせた。「安東水軍」も「関東御免津軽船」(大乗院文書)として自在に活躍した。しかし、その総ては、1341年(興国2年)8月28日の「興国の大津波」(俗称「白髭水」)で完全に破壊され、十三湊も浅瀬となって使用不能となったため、その後再び往年の繁栄を回復することはなかったという。ただ、編者秋田孝季の経歴が事実であると仮定すれば、秋田においては、若干の交易活動が継続されていた可能性もある。
 なお、この様な編者の記述に兆している重商主義思想に関する限りは、安藤昌益の農本思想とは必ずしも相容れない。

3、『東日流外三郡誌』の史料価値に関する判断

 1)『東日流外三郡誌』の史料価値
 この『東日流外三郡誌』の記述は、言うまでもなく、編者秋田孝季の事実認識と価値判断の双方を含んでいる。それ故、現時点で見れば、いずれ、その双方について、(1)肯定できるもの、(2)肯定も否定もできないもの、(3)否定されるべきもの、の3要素が看取されるのは当然である。その中、その事実認識の当否は、認識枠組みの当否とそれに応じる実証的根拠の有無如何によって判断されなければならない。また、その価値判断の当否は、判断基準の当否とそれによる判断の整合性如何によって判定されなければならない。もちろん、その事実認識と価値判断の当否の判断に研究者自身の事実認識と価値判断が影響するのは避けられない。それ故に、研究者自身の事実認識と価値判断の適用は、明確な自覚の下になされる必要がある。しかし、その適用は、対象を処断するためではなく、むしろ両者を並置対立させて相互点検を行い、研究者自身の事実認識と価値判断を精緻化するのためになされるべきものである。
 さて、特に『東日流外三郡誌』における古代・中世史の記述には、誰の目にも上記(2)の要素が多いのが特徴である。それは、研究者自身が精確な事実認識と適正な価値判断を未だ有していないことの反映にほかならない。いわゆる「空白の古代・中世」なる表現は、まさにそのことを意味しているのである。その場合は、当然、最終判断は保留するしかないが、上記(1)と(2)を研究者自身の事実認識と価値判断に加味することによって古代・中世史像を仮構してみることは許されることであり、また意味のあることでもある。何故なら、それは、次なる調査研究の方向を見定める有力な手がかりとなるからである。「和田家資料」復刻版の編集・刊行に努めてきた小館衷三や藤本光幸が、常に、その資料価値は慎重に判断されるべきものである旨を記しているのは、この意味において、まさに当を得た配慮であると思われる。
 ところが、『東日流外三郡誌』をめぐる「真書・偽書論争」は、基本的には、上記(1)、(2)、(3)の範囲確定に関わるものでも、また、仮構された古代・中世史像の成立可能性に関わるものでもない。それは、専ら、「偽書」論者が、「和田家資料」の直接考証を経ないままで、その全記述を(3)に属するものと断定し、それによる古代・中世史像の仮構の試みを一切否認することによって生じているのである。

 2)「偽書」論者と「偽書」キャンペーン
 最初に指摘した様に、「偽書」論者は、秋田孝季・和田吉次の手になるとされる「寛政原本」の存在はもとより、和田末吉の手になるとされる「明治写本」の存在をも否定して、『東日流外三郡誌』を中心とする全ての「和田家資料」を現代人和田喜八郎の手になる「偽書」であると断定してきた。「偽書」論者が「寛政原本」や「明治写本」の存在を想定した上で「偽書」論を提起するのであれば、「偽書」の定義を含め幾分か議論の余地は残る。しかしながら、『東日流外三郡誌』を中心とする全ての「和田家資料」は現代人和田喜八郎の手になる「偽書」だとの断定から出発する以上、その記述内容に対する是々非々の対応は論理上許されない。その結果、「偽書」論者は、「もぐら叩き」よろしく、実証的根拠を有する記述さえも躍起になって全面否定せざるを得ない次第となる。しかし、それは土台無理なことであるから、いきおい罵倒や誹謗中傷を伴う「偽書」キャンペーンにまで走ることになっているのである。
 例えば、「偽書」論者が激しく攻撃してきたものに、「安東水軍」と「興国の大津波」の件がある。彼らは、それら全てを虚構として退けてきた。しかしながら、十三湊の利権をめぐる安倍・安東一族の内紛や奥州平泉の藤原氏の栄華は、十三湊を拠点とする自前の交易活動のそれなりの展開を想定しなければ説明のつかない面もあり、また、近年における十三湖周辺の遺跡調査の諸結果に鑑みても、かかる断定は性急に過ぎると言わざるを得ない。ちなみに、『東日流外三郡誌』の編者は、徳川幕府の鎖国政策を「井の中の蛙」に類するものとして大きな危惧を示しているが、これは安倍・安東一族の久しい海外交易の経験の蓄積を反映しているかにも思われ、それ故に、『東日流外三郡誌』の編者が一種の「改革開放派」であった老中田沼意次と一時関係を持ったとする記述も、あながち空言とは断じ難い面がある。
 また、同じく「偽書」論者が激しく攻撃してきたものに、福沢諭吉の『学問のすすめ』(明治5年初版)の件がある。『東日流外三郡誌』の書写保存に努めたとされる和田末吉は、明治43年1月1日付の遺文で、福沢諭吉の『学問のすすめ』の名言「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」は、安倍・安東の祖訓の一句からの引用である旨記している。確かに、『東日流外三郡誌』には、各所に、ほぼ同一の記述が認められる。したがって、この和田末吉の遺文の真偽如何は、逆に『東日流外三郡誌』の真偽を占う大きな手がかりともなり得る。その故もあってか、「偽書」論者は、これこそ「偽書」の「偽書」たる所以として攻撃を加えてきた。しかし、三春秋田家の子息が慶応義塾に学んだ事実に鑑みれば、和田末吉が秋田氏を介して福沢諭吉と接触していた可能性もあながち否定はできず、やはり性急な断定を差し控えるのが学問的態度というものであろう。
 この様に、『東日流外三郡誌』の描く歴史像は、予想を遙かに越えるものでありながらも、その蓋然性が全く無いとは断定できないものである以上、その史料価値を全面的に否定することは少なくとも差し控える必要がある。また、それ以外の膨大な「和田家資料」の中には貴重な史料が含まれている可能性も大きい。藤本光幸編『和田家資料』(全2巻、前掲)は、その可能性が決して少なくないことを暗示している。したがって、何らの直接考証を経ることもなく、その全てを社会的害悪をもたらす忌まわしい「偽書」群として物理的廃棄を迫るのは、あまりに乱暴であると言わなければなければならない。むしろ、それらの直接考証を試みることが先決であり、その上で、それらが古代・中世史の再構成に役立つか否かを見極めることが必要なのである。
 なお、安藤昌益の遺稿『自然真営道』についても、当初、書誌学を専門とした第一高等中学校々長・狩野亨吉の手になる「偽書」ではないかとの憶測が流されたことがあった。

4、「真書・偽書論争」の構図とその問題点

1)「真書」論とその問題点
 古田武彦は、「九州王朝」(倭国)説によって日本古代史に関わる旧来の事実認識の当否如何を広く問いかける一方で、『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」の史料価値を真摯に追求してきた「真書」論者の代表である。彼の研究方法は、次の3点において一般の座学的研究方法とは大きく趣を異にしている。第1に、日本・中国・朝鮮の諸史籍の緻密な再考証に努めた結果として、日本古代史を国際関係の座標に位置づけてダイナミックに捉える新たな地平を拓くに至っている。第2に、精力的なフィールド・ワークによって、座学的研究方法のみでは期待し得ない幾多の貴重な発見を行ってきている。ちなみに、柳田国男は、民俗学的調査において、当該社会の存続に関わる「禁忌」は公言されることがない故に、「古老」(informant)の確保が不可欠の要件であると考えた。古田武彦の研究方法は、この柳田民俗学の研究方法に学んでいる面もあるのではなかろうか。唯一惜しまれるのは、彼のフィールド・ワークの本格化が、高度成長政策に伴う地域開発に後れた点であろう。第3に、彼は鋭く豊かな推論によって説得力のある解釈を次々に導き出してきているが、これは、その天賦の才能に負うだけではなく、諸史籍の緻密な再考証と精力的なフィールド・ワークを前提としてはじめて可能になっているものと考えられる。その研究成果を示すものとしては、例えば、『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1993年刊)がある。旧来の正統史学は、東京大学法学部が学問的権威を急速に喪失しつつあるのと同じ意味において、この様ないわゆる「古田史学」の登場にはさぞかし困惑していることであろう。
 さて、この古田武彦の「真書」論を示すものとしては、例えば、『新・古代学』(第1〜3集、新泉社、1995年〜1998年刊)があるが、その問題点は編者秋田孝季の存在が未証明で「寛政原本」が未公開であるという2点に尽きる。その中、秋田孝季の存在については、渡辺豊和もその著『北洋伝承黙示録』(新泉社、1997年刊)において証明を試みているが、なお今後の課題として残されている。また、「寛政原本」については、「明治写本」の考証を通じて古田武彦自らがその存在を確信しているものであり、そのことをあえて公言してきたのは、その責任感によるものと思われる。しかしながら、私見によれば、「寛政原本」が存在し、それが公開されることは確かに望ましいことではあるが、その全てが良好な状態で保存されているという保証はなく、また、「明治写本」が存在する以上、「寛政原本」の存否に当該研究の成否を賭ける必要もあるまいと思われる。

2)「偽書 」論とその問題点
 『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」を「偽書」として激しく攻撃してきたものとしては、例えば、安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』(廣済堂、1994年刊)、松田弘洲著『東日流外三郡誌の謎』(あすなろ舎、1987年刊)、原田実著『幻想の津軽王国』(批評社、1995年刊)、千坂げんぼう編『だまされるな東北人』(本の森、1998年刊)などがある。この系列の著作は枚挙に暇がないほどであるが、それらが皮肉にも「和田家資料」の考証の精緻化をそれなりに促してきた面があることも一応否定は出来ない。その中でも、原田実は、古田武彦の助手であった時期に『東日流外三郡誌』以外の相当数の「和田家資料」を実見している。したがって、その悔恨の弁が第三者の耳にいきおい真実味を帯びたものとして響くのも当然である。しかし、その回心が犯罪心理学者安本美典の編になる『季刊・邪馬台国』(51号、平成5年5月5日発行)掲載の筆跡鑑定等によるというのには些か幻滅を感じざるを得ない。
 和田喜八郎は決して凡庸な人間ではないが、当方の管見するところ、その文字と文章は真に拙劣極まりないものである。それは、和田喜八郎が高等小学校卒業のため、やむを得ないところでもある。そのことは、誰よりも原田実自身が最も良く知るところではないのだろうか。『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」の文章もさほど優れたものとは言い難いが、両者に格段の差があるのは明白である。しかも、和田喜八郎自身、他人に資料を譲渡する場合は、「和田家資料」保存の必要上、その模写版を作成したと公言してきているのである。その際、和田喜八郎が、編者秋田孝季の遺言を忖度するつもりで原文に幾らか手を加えたことはあり得るかも知れない。それにしても、それらの模写版は、模写屋等の手になるものであり、和田喜八郎の自筆になるものではないのである。
 千坂げんぼうの編著の様に、専ら世論操作を狙った悪質なキャンペーン文書は論外としても、この様な事実関係の直接確認を欠いた断定は学問を志す者のとるべき態度とは思われない。おしなべて、「偽書」論の問題点は、この様に事実関係の直接確認を欠き、『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」を実見しないままで大胆にも「偽書」と断定し、個人への罵倒や誹謗中傷にまで走ってきたという点にある。「真書」論と「偽書」論のいずれが真であるかはなお即断の限りではないが、「偽書」論者を原告とする裁判が実質的敗訴に終わったのは当然の成り行きであったと言うべきであろう。
 
 3)浄円寺佐藤堅瑞住職(元青森県仏教会々長)の証言
 当方は、1999年(平成11年)9月19日、他の研究者数名と共に浄円寺(西津軽郡柏村大字桑野木田)に佐藤堅瑞住職(元青森県仏教会々長)を訪ね、聞き取りを行った。彼は、和田喜八郎が資料を発見した当時の相談相手であった由であるが、大変穏和な人柄の宗教者であった。彼は、当時、「和田家資料」の中にそれまで知られていなかった『金光上人関係資料』が含まれていることを発見し、その譲渡を申し入れたが、和田喜八郎が応諾しないため、その模写版を作成してもらうこととした。これが、「和田家資料」の模写版作成の始まりであったとされる。
訪問当日、佐藤堅瑞は、和田喜八郎が新たに持参したという初見の「金光上人関係資料」3点を示しながら、「和田喜八郎に、この様なものは書けませんよ」と、その感懐を漏らした。その意味は、主に金光上人がしたためた他力信仰論の中身に関わるものと解されたが、その資料の中の1点はいわゆる模写版であった。しかし、彼は、そのことに頓着している様子は全くなかった。そして、「偽書」論者の代表とも言うべき安本美典について、「あの人は学者さんでしょう? それがどうしてあんな行動に走るのでしょうねえ。この世の中は、本当に怖いですねえ」という趣旨のことを、問わず語りに語った。
当方は、この聞き取りによって、自らの心証に一つの定かな裏付けを得た様に感じたことを、ここに明記しておきたい。

5、「和田家資料」をめぐる現在の動きと今後の課題

1)「偽書」論者の狙い
 以上の様に見てくると、「偽書」論者の真の狙いは、『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」の真偽如何の問題よりも、むしろ「九州王朝」研究を妨害し、その影響力を殺ぐことにあるのではないかという疑惑が頭をもたげてくる。これまでの論争の経過をつぶさに辿り直してみると、一連の「偽書」キャンペーンが、(1)特定の個人を標的とした組織的攻撃であること、(2)散発的ゲリラ戦法を駆使して攪乱と破壊を執拗に繰り返してきていること、等を知ることが出来る。そこには、皇室支持者の煽動を策したり、「真書」論者をカルト扱いするといった常軌を逸した行動さえ散見される。最高裁まで争われた原告を野村孝彦、被告を和田喜八郎とする「偽書」裁判も、その審理経過から窺える様に、実は一種の仕組まれた「代理戦争」としての様相を帯びていた。和田喜八郎は、当方に対して、その裁判を大変迷惑なものに感じて来たと語ったが、その心境は十分理解できるところである。この様な騒動の経緯は、第三者にとっては、まさに驚異以外の何ものでもない。軟弱な研究者なら、この様な謀略にさらされ続ければ、大抵精神的に消耗し研究活動を滞らせてしまうことであろう。その意味で、当方は、その標的とされた者に対する深い同情と強い義憤を禁じえない。それは、犯罪心理学の世論操作への不埒な悪用であり、学問のルールからの恐るべき逸脱であった。
 そもそも、学問研究は、研究者が相互にこの様な逸脱を厳しく自己規制することによって、辛うじてその生命を保って来たのであった。しかし、今日、この様な学問倫理が次第に崩れる傾向にあるのは否めない事実であり、それは何も歴史学の分野に限ったことではない。そして、情報戦が全てを決するといった乾いた発想が、あらゆる学問領域に浸透しつつある。それは、「情報化」時代の学問研究が抱えるに至った一種の現代病と言っても過言ではないであろう。したがって、この「偽書」キャンペーンの示してきた放埒さは、決して他人事では片づけられない問題を孕んでいるのである。しかし、誰しも人間の理性と忍耐力を侮ってはならない。今や、その首謀者は、私怨を去って、速やかに学問的良心を取り戻し、「和田家資料」の直接考証に向かうべきである。
なお、安藤昌益研究においても、三宅正彦が安永壽延や寺尾五郎を相手に私怨を込めた醜い私闘を挑んだ時期があったが、それは今では過去の無粋な逸話と化しつつある。

2)青森県内の文化機関・団体の姿勢
 しかしながら、この様な「偽書」キャンペーンは、その標的如何に関わりなく、一般社会にも計り知れない弊害を与えている。当方は、前述の様に、和田喜八郎から「和田家資料」の適当な寄贈先を探すことを依頼されのであった。その際、まず考えたのは、 (1)「和田家資料」の真偽如何は、あくまで、学界一般の直接考証によって判断されるべきである、(2)「和田家資料」の内容に鑑みれば、それはなるべく青森県内に保存されるのが望ましい、といったことであった。
 そこで、予備調査の実施とそれに基づく受け入れ可能性についての打診を開始し、まず五所川原市教育委員会、青森県史編纂委員会、弘前大学等の関係者に当たってみた。ところが、それを通して知らされたのは、これまで誰もが「和田家資料」を実見していないにもかかわらず、全く当方の打診に応じる者がないということであった。実は、彼らは、「偽書」キャンペーンにひどく怯えていたのである。そのため、和田喜八郎が予備調査の受け入れを表明している絶好の機会を活かすことが出来ないのであった。この異常さには、さすがに驚きを禁じ得なかった。当方は、その時、悪霊に取り憑かれた暗黒の村を描いた外国映画があったことを思い出した。「偽書」キャンペーンの首謀者は、意外に、その謀略をゲーム感覚で行っているのかも知れないが、そのもたらしている弊害は、この様に予想以上に大きなものがあるのである。現在、当方は、最後の青森県立図書館からの回答に一縷の望み繋いでいる状態である。

3)和田一族の状況
 しかしながら、この様な異常事態に陥った一半の原因は、和田喜八郎ないし和田一族のこれまでの行動にも求められるべきものではある。和田喜八郎ないし和田一族が無神経に模写版を作り続け、それを他人に売却して生活の糧を得てきた形跡は少なからずあり、それが周囲の不信感を増幅させる大きな原因ともなってきたからである。この不見識な行為に対しては、ほかならぬ「真書」論者も厳しい譴責の眼差しを向けている様子である。地域社会の衰退による生活難は、僻地津軽の町五所川原の和田家をも襲っており、余儀ない所業であったとはいえ、真に遺憾なことであった。今後、和田一族は、如何なる理由があっても、新書写者の署名を欠く模写版などを作成するべきではない。
 また、和田一族がこれまで頑なに「和田家資料」の公開を拒み続けたのは、先祖による「他見無用」の厳しい戒めによるのは確かであるが、実はその「和田家資料」の中には、安倍・安東の隠し財宝の在処を示す古地図も含まれているのである。それ故、仮に「寛政原本」等が存在するとしても、それを未点検のままで一挙公開することに躊躇を示すのは、神ならぬ人間の心理として理解できないことではない。したがって、それを要求するとすれば、青森県の関係機関・団体は、何らかの適切な保障措置を講じる必要があるであろう。しかしながら、この間、その関係者は、あたかも旧津軽藩士の如き意識で、和田一族を「百姓」として蔑み、それに対する「村八分」や「いじめ」まで放置してきたのであった。これは、第三者を呆れさせるものであるが、いずれその道義的責任は免れ得ないと思われる。

4)今後の課題
 何はともあれ、すでにその存在が確認されている「和田家資料」については、和田喜八郎が生前その意向を表明したことでもあるから、適切な保存方策を講じて学界一般の直接考証に委ねる必要がある。図らずも、この点に関する限りは、これまで「偽書」論の側に立って論陣を張ってきた地元東奥日報社会部の斉藤光政記者とも意見の一致をみたところであった。また、「寛政原本」等が残存し、それが公開される可能性も全く無くはない。その場合に望まれるのも、決して特定の個人がそれを抱え込むことなく、広く「偽書」論者を含む学界一般の直接考証に委ねる方策を講じることである。さらにまた、その際は、私怨を去るべきは当然のことながら、特定イデオロギーによるその性急な歪曲も極力自制される必要がある。ちなみに、安藤昌益の思想も、久しくマルクス主義的解釈による歪曲にさらされ続け、その払拭には幾多の無駄な曲折を経なければならなかった。
 以上、本報告は、あくまで「真書・偽書論争」への介入を目的とするものではないが、それを避けては「日本国の原風景」を探り得る状況にないため、あえてそれに関わる私見も含めつつ『東日流外三郡誌』の描く古代・中世史像の紹介を試みた次第である。

おわりに
 日本国際教育学会は、本年、創立10周年を迎えた。その創立当時、当方は、編集代表として『国際教育事典』(アルク、1991年刊)を刊行した。その自らの執筆項目の中には、「広開土王碑」(好太王碑)の項目も含まれている。それを現在再読してみると、幸いにして大きな誤りはないものの如くであるが、その執筆当時は、『広開土王陵碑の研究』(吉川弘文館、1972年刊)の著者李進煕の反日民族主義の主張が暗く心を覆っていたことが思い起こされる。現在は、最早、その様なイデオロギー的主張が学問的に評価される時代ではないが、政治運動などの中ではなお生命を保っているのかも知れない。この様に、ある古代史認識が現実の国際教育に思わぬ影響を与えるということは、しばしば起こることである。その意味において、国際教育学は、特に現在揺らぎを示している古代史研究には十分目配りしていく必要があると考える。

【付属資料】

省略


東北の真実 和田家文書概観(『新・古代学』第1集)へ

東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説(『新・古代学』第1集)へ

「和田家文献は断固として護る」 (『新・古代学』第1集)へ

和田家文書「東日流外三郡誌」など〕 訴訟の最終的決着について(『新古代学』第三集)へ

資料和田家文書1 邪馬台城 総覧

資料和田家文書2 福沢諭吉『学問のすすめ』関係 天は人の下に人を造らず・・・云へり

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制作 古田史学の会 
著作 西村 俊一