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古田武彦著作集
『失われた九州王朝』


古田武彦 古代史コレクション18 ミネルヴァ書房
(角川選書 40 謎の歴史空間をときあかす)

よみがえる九州王朝

幻の筑紫舞

古田武彦

始めの数字は、目次です。「はしがき -- 復刊にあたって」、「はじめに」は下にあります。

【頁】【目 次】
  i  はしがき -- 復刊にあたって
 iv  はじめに

001  第一章 さらば「邪馬台国」よ

015  第二章 邪馬一国から九州王朝へ

015       I  短里論争
037       II  王仲殊論文への批判
069       III 理論考古学の立場から
103       VI 倭の五王の史料批判
119       V  自署明の論理

127  第三章 九州王朝にも風土記があった

177  第四章 幻の筑紫舞

263  あとがきに代えて ーー筑後舞追記

  日本の生きた歴史(十八)

269      第一 「論証と実証」論
271      第二 「孝季の公理」論
272      第三 古代から未来へ -- 孝季論
274      第四 縄文語としての「舞」 -- 言素論の発展論

1〜8 人名・事項・地名索引

        ※本書は『よみがえる九州王朝』(角川書店、一九八三年)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(十八)」を新たに加えたものである。なお、本文中に出ててくる参照ぺージには適宜修正を加えた。


古田武彦・古代史コレクション18

よみがえる九州王朝
  -- 幻の筑紫舞
_______________
2014年 3月10日 初版第1刷発行

 著  者 古田武彦

 発行者 杉田敬三

 印刷社 江戸宏介

 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房
____________________
©古田武彦,2014     共同印刷工業・兼文堂

ISBN978-4-623-06665-0
   Printed in Japan


(旧版案内)

角川選書 40
よみがえる九州王朝

 ーー幻の筑紫舞
初 刷 昭和五十八年六月二十日
著 者 古田武彦
発行者 角川春樹
発行所 株式会社 角川書店

装幀者 杉浦耕平
協力  赤崎正一
印刷所 新興印刷株式会社
製本所 株式会社宮田製本所


はしがき -- 復刊にあたって

     ー

 わたしは人間を信じる。なぜか。わたしが人間だからだ。わたしの中の人間の声がわたしに告げる。
 「真実を言え。そして何者も恐れるな。」と。すべての声がわたしを嘲笑(わら)おうとも、すべての目がわたしを無視しつづけようとも、すべて無駄だ。わたしの中の人間の声を黙らせることは一切不可能なのである。だからわたしはその人間の声を信じる。信じ通す。それ以外にない。

 

     二

 わたしは斗(たたか)う。この地球を汚染する敵と斗う。政治主義、経済主義、現実主義、多数決主義等々のあらゆるイデオロギストを敵とする。妥協はしない。永遠に。なぜか。
 わたしは人間だからである。この地球の中に生れた生き物だからである。自明のことだ。この地球に放射能の害毒をまきちらすための美辞麗句に対して、一切の妥協は不可能なのである。

 

     三

 わたしは異議を言う。日本の歴史は虚偽の歴史である、と。八世紀以前、そして八世紀以降、すべて虚偽の柱で貫かれてきた。二十一世紀の現在までそれは不変であった。不変の虚偽だったのである。真実は何か。
 八世紀以前、それは九州王朝の時代だった。それは筑紫(チクシ)に首都をもつ時代だった。筑紫時代である。福岡県だ。
 この歴史事実を無視し、あたかも万世一系、近畿天皇家だけが日本の、歴史の中枢であるかのように主張しつづけてきた。それが八世紀から二十一世紀までの、歴史と称するものだった。虚偽である。
 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙つつがなきや。」
 この言葉が書かれているのは『随書ずいしょ』だけだ。古事記・日本書紀にはない。ないにもかかわらず、この言葉を近畿天皇家の推古天皇や聖徳太子の名前と無理矢理結びつけた。それを明治以後、現在に至るまで学界の名や教科書やあらゆる法令の名で保護しつづけてきた。それらは虚偽の法だった。なぜか。
 この『随書』には明記されている。右の言葉を書いたのは多利思北孤(タリシホヨ)という“男性”だと書かれている。なぜ、男性か。彼には妻がいた。その名前は鷄*彌弥(キミ)と言う、とハッキリ書かれているからである。
     鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。[奚隹] JIS第3水準、ユニコード96DE
     イ妥*:人偏に妥。「倭」とは別字。

 だから、女性の推古天皇とは全く別人だ。聖徳太子は男性だが、摂政どまりだった。その彼が天子などと偽称するはずはない。当然の道理だ。その道理を、明治以降、現在までであらゆる学者たち、数育者たちが無視してきた。知らぬ顔をしてきた。無理矢理の弁舌をを、国家の法が許してきた。否、奨励しつづけて現在に至っているのである。
 だからわたしはこれを虚偽の歴史である、と言うのである。
 地球のためであれ、日本の歴史のためであれ、わたしたち人間にとって真実を真実と語るとき、恐れるものは何もない。

   平成二十六年一月二十二日
                                        古田武彦


はじめに

 まだ誰の目にもハッキリと見えているというわけではないけれども、わが国の古代史観は、相和しがたい二つの流れに分たれている。
 その一つは、一元史観。わが国の古代史は天皇家を中心に発展してきた、という“信念”に立っている史観だ。戦前の史学はもとより、戦後の史学もまた、遺憾ながらすべてこれに属している。天皇家中心主義の立場である。
 これに対するのが、わたしの多元史観だ。わが国の歴史は、天皇家などよりもはるかに古く、はるかに悠遠である。それゆえ当然のことながら、天皇家以外に、あるいは以前に、別個の(一定領域の)統一国家、また別個の中心の王朝が先在し、実在していた。そのように見なす立場なのである。
 たとえば九州王朝も、その一つだ。近畿天皇家はその分王朝(分家)に当っていた。他にもある。たとえば沖縄、たとえば東北・北海道にも、天皇家とは別個の文明圏があり、その文明と政治の中枢があった。関東や北陸にも、おそらくそうだ。否、のちに天皇家の本拠となった近畿でも、すでに銅鐸圏があった。それは天皇家以前の、別個の広域の文明圏である。それゆえ独自の統一中心の存在(大阪府茨木市)がそこにあって何等不思議ではない。 ーーこれが「多元的古代」としての日本列島観なのである。
 今のところ、小・中学や高校の教科書も、大学の講座も、すべて従来の一元史観を根本として組み立てられている。明治百年の「天皇制」教育の一大成果といってよい。否、古事記・日本書紀という、八世紀の天皇家の「伝承の書」と「正史」が成立して以来、千二百年にわたる“永年の教育”の根深い成果ともいえよう。
 けれども、その千二百年の“うろこ”を静かに己(おの)が目より拭い去ってみれば、このような“偏向した目”からは、こぼれ落ちる事実、あつかいかねる重大な史料が少くないことに気づくであろう。たとえば中国の史書。それは同時代史料であり、その多く(三国志・宋書・隋書等)は記・紀に先立って成立していた。ところが、それらの描く日本古代像は、記・紀のそれとはおよそ一致しない。
 有名な一列をあげよう。七世紀前半の日本列島を東アジアに対して代表する王者、「日出ずる処の天子」の国書で有名な多利思北孤(たりしほこ)は男帝である。推古天皇のような女性とは似ても似つかない。しかも、その男帝の国をシンボライズする名山は阿蘇山。その火山活動が簡潔な漢文で活写されている。「火起りて天に接す。」と(隋書、イ妥たい国伝)。
 これほど明白に、七世紀前半に隋の煬帝と国交を結んだわが国の王者が、“飛鳥の女王(推古)”などではなく、“阿蘇山下の天子”であった事実を端的に物語る史料はない。しかるに従来の一元主義史観に立つ全学者と全教科書と全講座は、この明白な背理に向って、かたくなに目に“うろこ”を貼りつづけていたのだった。
 そのような“真実を見ざる目”は必然的に、多くの他の事実、歴史の珠玉と現代に遺存する伝承、それらの真の姿に対してもまた、永く「盲目」でありつづけることとなった。
 たとえば“九州にだけ、二種類の風土記が成立している”という、学界の中では著明の事実に対して、どの学者も鮮明な説明を与えることができなかった。そしてそのまま、今日に至っていたのである。
 また盲人と唖者によってひそかに伝えられていた筑紫舞が、実ははるか天皇家以前に淵源する宮中芸能と見られる趣をもっていたこと、その不可思議・幻妙の世界に対しても、従来の一元主義芸能史観に立つ人々は、およそこれを的確に解するすべを知らないであろう。
 けれども幸に、世の底に心の目をもつ人あって、己(おの)が生命(いのち)にかえ、この無二の舞楽を今日に守り伝えてきていたのであった。
 わたしは多元史観という学問的視野に今立つことによって、多くの新しい史的事実、わが国における豊かな口承と芸能の伝統にあらためてここに目覚めることができた。そのことを本書の読者と共に静かに深く喜びたいと思う。
 このような浄福のときにおいては、世上の讒謗(ざんぼう)や無法の妨害も、竹林の上を朝(あした)に過ぎゆく浮雲より、さらに一層はかないものにすぎぬであろう。そして真実が歴史という時の流れの中でやがてあらわとなってくること、それをわたしは心の底に深く信ずるのである。

 本書とほぼ時を同じくして、わたしの古代史学術論文集を世に提示できることを喜びとする。『多元的古代の成立』(駸々堂刊)がこれである。今年(昭和五十七年)七月、東京大学の史学雑誌に掲載された同名の論文を筆頭とする、この論文集に対して、無論賛否のいかんを問わず、学界の反応を期待すると共に、本書の読者もまたここに目をそそいでいただければ、わたしにとってこれに勝る望外の喜びはない。
 本書中、古代史上の諸説に対し、忌憚(きたん)のない批判をさせていただく点が少くなかった。被益していただいた、その御恩返しとして御海容をうることができれば、幸である。

          一九八二年十二月二十日記了


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