古田武彦著作集


2015年 3月刊行 古田武彦・古代史コレクション23

古代史をひらく

独創の13の扉

ミネルヴァ書房

古田武彦

始めの数字は、目次です。
はしがきーー復刊にあたってはじめにあとがきは下にあります。

【頁】【目 次】

i はしがきーー復刊にあたって

v はじめに

I  《倭人伝》の扉をひらく

001 第一の扉 魏の塞曹掾史・張政の証言

     張政の証言 -- 木佐提言

003       二十年の長期滞在 張政の報告は正確である

       「日の出ずる所」はどこか 鎌田提言

008       粛慎の長老の証言 東の果ての国「裸国・黒歯国」 知られていたアメリカ大陸 漢書に記されていた「日の入る所」 スケールの大きい中国史書


024 第二の扉 中国文明の淵源・西王母国はどこか

      短里の先例

024       司馬遷の誤断 リアルな崑崙山の高さ 部分を足すと全体になる 穆天子伝の史料的性格

      中国文明の淵源をさぐる

031       天子から献上をうけた西王母 西王母の国はどこなのか 玉ロードの発見 王権のシンボルとしての玉と斧

          《「邪馬台国」新説と極限読解》

049       「邪馬台国」=沖縄本島説について 「邪馬台国」=伊豆半島南端説について 「極限読解」の意義とは 穆天子伝を「極限読解」で読むと・・・・

049 第三の扉 「一大国」は倭人が命名した

      倭人にも漢字能力があった

049       「一大国」はだれが名づけたか 倭人の母国・一大国 倭人は漢字を使っていた

056     《常世の国はあった -- タジマモリとバナナ/浦島太郎伝説》

      バナナを知らなかった近畿天皇家 「常世の国」は赤道地域にあった リアリティを感じさせる乙姫様の話 倭人は二倍年暦を使っていた 聖書の世界に見る二十四倍暦 暦法に秘められた文明の習合 浦島太郎は六倍年暦で書かれていた はじめに多倍年暦ありき

 

II  《九州王朝》の扉をひらく

071 第四の扉 郭務[示宗]と阿倍仲麻呂の証言

      旧唐書の「倭国伝」と「日本国伝」

071       白村江の戦いの相手は倭国だった 唐書の倭国記事の信憑しんぴょう性 郭務[示宗]の証言

      仲麻呂の証言

078       唐の高官になった仲麻呂 すべての、歴史家に捧げる法則

083 第五の扉 「評」を創ったのはだれか

      郡評論争とその後

083       敗戦の中の郡評論争 七世紀は評だった 評は九州王朝が創った

      制度記載の原則

089       郡制施行記事の発見 評督・助督の反抗 古田命題 太宰府はだれが設置したのか

102 第六の扉 九州年号は実在した

       続日本紀の九州年号

102        詔勅に残された年号 「白鳳」と「朱雀」

       九州年号が記された最古史料

105        平安時代に書かれた『二中歴』の原本 古事記の古写本より古い

110         《「六倍年暦」と中国の暦》


III 《日本史書》の扉をひらく

115 第七の扉 神武天皇はどこから来たか

       神武天皇の東行はあった

115       リアルな神武の大阪湾侵入 「南方の論証」 手勢は久米集団だけ 筑紫にあった高千穂の峰 糸島郡に成立した「シュリーマンの原則」 分国を求めてさまよう神武 弥生期の鯨捕り歌 糸島郡にあった伊勢の海 大事件・天孫降臨 神武天皇は博多弁でしゃべっていた

138 九州王朝に任命された「大倭」

倭人伝の「使大倭」 「倭」は本来「チクシ」である

143 第八の扉 「まへらま(まほろば)」はどこか

       筑前の中の「へぐり」と「やまと」

143        倭建命と景行天皇 平群は大和ではなかった 「やまとはくにのまへらま」

151 第九の扉 柿本人麿の鴨山

       斎藤茂吉と梅原猛

151         斎藤茂吉の鴨山とは 梅原猛の鴨山とは

       どこが本当の鴨山か

156         「石見国に在りて」 いくつかの疑問

 

IV 《考古学》の扉をひらく

165 第十の扉 卑弥呼の鏡はどれか

       従来の年代決定の矛盾

165         絶対年代と相対年代 卑弥呼の鏡をめぐる論争

       鏡は物語る

169         自説を訂正した梅原末治の良心

172 第十一の扉 「日出ずる処の天子」はだれか

        どこにもない聖徳太子の形跡

172          「上宮法皇」への疑問 干食王后は太子の妻にあらず

        九州にいた「日出ずる処の天子」

177          隋書イ妥国伝の「多利思北孤」 見え隠れする九州王朝の影

182 第十二の扉 九州と朝鮮半島 -- 言葉と出土品

        韓国古代史への入口「創氏改姓」

182           「第一の創氏改姓」あり 新羅第四代の王は日本人だった 朴姓に変えられた「ひさご」さん 族譜に秘められた可能性 韓国に残る日本語地名 「君が代」の歌に隠された糸口

        半島出土物の再検討

195           韓国の「前方後円墳」 「三種の神器」が韓国で発掘された 真実の歴史の扉を開ける時が来た

 

V 《新しい古代史》の扉をひらく

205 第十三の扉 吉野ヶ里の仮想敵国

        弥生時代から古墳時代へ

205           南部九州への侵略 弥生時代の終焉と吉野ヶ里

        呉朝の消滅と吉野ヶ里のゆくえ

209           仮想敵国は「呉」だった 古代史の実像をもとめて

215 あとがき

219 古田武彦による自己著作紹介

247 日本の生きた歴史(二十三)
        -- 中国の古典・史書にみる長寿年齢人名 大越邦生

1〜8人名・事項・地名索引

編集協力●編集工房パピルス
写真協力●朝日新聞社・青山富士夫氏・駸々堂出版・毎日新聞社・読売新聞社ほか

     ※本書は『古代史をひらく -- 独創の13の扉』(原書房、一九九二年)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(二十三)」「中国の古典・史書にみる長寿年齢」を新たに加えたものである。なお、本文中に出てくる参照ぺージには適宜修正を加えた。


古田武彦・古代史コレクション23

古代史をひらく
-- 独創の13の扉
________________
2015年 3月10日 初版第1刷発行

著  者   古 田 武 彦
発 行 者   杉 田 啓 三
印 刷 者   江 戸 宏 介
____________________________________________

発 行 所  株式会社 ミネルヴァ書房

_________________________
@ 古田武彦, 2015         共同印刷工業・兼文堂

ISBN 978-4-623-06670-4
Printed in Japan


はしがき -- 復刊にあたって

 珠玉の一篇である。
 「邪馬壹国」「日出ず(づ)る処の天子」等のキイ・ワードから、従来説の根幹に対して「?」をもった。明治維新以来、日本の学界と 「公教育」が流布してきた日本の歴史像に対して重大な疑問を抱かざるをえなくなったのである。
 『古代は輝いていた』三部作は、その全体像をしめしたものだった。『古代の霧の中から』では、わたしの歴史論理の根源をのべた。そのあとの一書、これが今回再刊される。幸せだ。
 すでに展開された全体像のあと、キラキラと光る「真実の珠玉。」、それがここに秘められている。なぜ、わたしがこのように日本の歴史像を一変する、巨峰へと向わざるをえなかったか。それがここには、クリアーに、ありていに凝縮されている。再読して驚いた。
 時は変った。否、変りつつある。それを疑うことのできない、名稿を最後に収録できた。メキシコに住む大越邦生さんの一稿である。「中国の古典・史書にみる長寿年齢」だ。この論稿はやがて日本の歴史学界を照らす「明るい星」のように輝きつづけるであろう。これを本書の読者に贈る。

平成二十六年六月二十二日稿

古田武彦

 


はじめに

 楽しい本ができた。そういう思いが深くこみ上げてくる。
 昨年(一九九一)とは対照的だ。苦しかった。一日一日が重かった。八月六日を待ちかねていた。もちろん、「『邪馬台国』徹底論争」のシンポジウムの準備だった。はじめての苦行、その連続の日々だった。
 そのあと、私に訪れた「新発見」の連続。これはいったいなんだろう。わからない。おそらく、あのから六日間で、頭が空(から)っぽになった。しぼり尽くした。そのため、乾ききった雑布が水を吸いこむように、飲み尽くした壷に酒が再びなみなみと満たされるように、新しい認識の泉の水を、生涯の日の暮れようとする旅人の私は、むさぼりのどをうるおしているのかもしれない。
 それと、もう一つ。こちらのほうが重要だ。市民の中の、多くの方々の知恵、それが私を導いた。いや、導きつづけている。これまでの、この頭脳など、思いもつかぬ新鮮なアイディア。それが次々と、私のもとに“伝達”される。あるいは電話。あるいは手紙。あるいはパソコン。あるいは懇談会。私はだんだんと育てられ、徐々に賢くしてもらっている。そういう毎日だ。なんという幸せな、老年であろうか。
 土の中からも、「新発見」が頭をもたげてくる。博多の那珂遺跡だ。この八月二十日(一九九二)、テレビで見、翌朝、各新聞を買いに駅前に走った。追いかけるように、各地からファックスや速達が送られてくる。福岡市の教育委員会の見取図がとどけられる。知りたかった、縄文土器の性格、外濠と内濠の関係、その方角などの認識が明確化してゆく。もはや、孤立の中で学んでいた、昔の私がうそのようだ。ありがたい、の一語である。
 博多、そこは「天孫降臨」のご当地だ。現地の考古学関係者の中で著名な、「前末・中初」(弥生前期末・中期初頭)の一線は、この事件の結果。この遺跡は侵略者側の要塞である。
 もちろん、現在の考古学者や古代史学者、その人部分は、「あつものにこりて、なますを吹く」のたとえどおり、やけどを恐れて、あるいは笑われるのを恐れて、「神話」に手を触れようとしないけれども。
 そのうえ、博多のことを「奴(な)国」だなどと書きつづける、二十世紀の迷信は、現在のご当地のインテリやジャーナリズムにも、なおはびこっているようだけれども。
 ーーーすべては、宿痾(しゅくあ)だ。やがて人々には、その長き病いから癒(い)える日が訪れるであろう。私はその日を待ちつつ、探究の生涯の終わりをむかえることとなろう。
 楽しい本ができた。そういう思いが深くこみ上げてくる。
 学問は闘いだ。たったひとりの聞いだ。その本質にかわりようはない。だれとの。もちろん、自分の中の頑固なる迷妄との闘いである。だれにも、手助けなどできない。
 この本を読者の机辺に送る。それが少しでも、認識の情熱へのかすかな火種となりえたら。もう私には、いうべき言葉はない。

《本文中に「武彦少言」として若干の、ささやかな文草を書いた。ご笑覧あれ。もっと書くつもりだったが、最後の一文を書いたら、もう書くことがなくなった》

那珂遺跡で発掘された二重環濠 『古代史をひらく -- 独創の13の扉』古田武彦・古代史コレクション23

那珂遺跡で発掘された二重環濠(福岡市博多区。読売新聞社提供)

二重環濠の平面図および断面図  『古代史をひらく -- 独創の13の扉』古田武彦・古代史コレクション23


あとがき

 私たちは、一本の鎖で縛られている。もう久しく、その状態が続いているので、それに気づくこともない。千二百年の束縛である。
 それは何か。もちろん、一元史観。この日本列島の歴史はたえず、近畿天皇家中心で回転してきた。そういう錯覚を基本軸とし、公的思想、それがロボットのように、この国の人間に注入されてきたのである。
 たとえば、木簡。藤原宮(奈良県)や伊場(静岡県)の土中から出土した。そこに見なれぬ「行政単位」の「評」が刻入されている。「見なれぬ」とは、古事記にも、日本書紀にも、そんな「行政単位」は書かれていないからだ。
 「○○天皇の時代に、○○天皇が『評』という制度を作らせ賜うた」
 そういう記事は、いっさいない。なくてもいい。なにせ、「行政単位」があれば、天皇。「官職名」があれば、天皇。天皇以外に、わが国では、そのようなものを作りうる者はない。 ーーこれが根本の信仰だ。学問ではない。
 信仰だから、学者たちは、やすやすとしてこれを語り、一般は、やすやすとして、これを受け入れる。しかし、学問の生命は、論証。やすやすとした講釈は、学問とは、似て非なるものである。
 たとえば、允恭天皇。
 男浅津間若子宿禰命。(古事記)
 雄朝津間稚子宿禰天皇。(日本書紀)

 「宿禰」は、明白に官職名だ。氏姓をただしたという、この天皇がこの官職名を、公的に名乗っている、ということは、この「天皇」に対して、その官職を「任命」した者がいたはず。つまり、この時代、この「天皇」は“従属者”。これに対する任命者こそ、真の統一権力者だった。
 この思考は自然だ。否、必然だ。古今東西、人間に理性あるかぎり、至当の道理だ。
 だが、日本の古代史界は、この至当の道理に対し、千二百年間、背を向けつづけてきたのであった。
 武内宿禰という、著名の人物がいる(本文前出)。神功皇后の後見役だ。だが、この「宿禰」も、古事記・日本書紀とも、いっさい、
 「○○天皇の時代に、○○天皇が『宿禰』の制を制定し賜うた」

という記事がない。なくてもいい。だれかの天皇の時代、だれかの天皇が“作らせ賜うた”のだろう。そう想像してきた。否、信じてきた。これも、信仰だから、論証は不要だった。
 しかし、以上の伝承は語っていた。天皇家は、たとえ「一いちの家来」であったとしても、やはり従属者であったこと、真の統一権力者から「宿禰」という官職名を与えられていたこと、そういう端的な事実を語っていたのである。 ーーそれが九州王朝である。私の導入した仮説だ。
 けれども、学者たちは、この事実から目をそむけ、「『天皇位』につく前の称号(宿禰)がうっかり、そのまま残ったのだろう」とか、「なにせ、記・紀は信用できないから」とか、弁明してきた。
 では、問おう。こんな大事なこと(天皇の称号)に、そんな“うっかりミス”が生じ、そのままにされる。「天皇家の正史」たる古事記・日本書紀に、そんな話、考えられるか。少なくとも私には、信じられない。
 また、「記・紀不信説」を、「一元主義」の信仰の“裏づけ”に使うとは。うまいトリックかもしれないけれど、私にはしょせん、“うますぎる、トリック”のようにしか見えない。必要なのは、やはり論証。記・紀不信説をとるなら、いよいよその論証が必要になる。それが学問だ。
 私たちは、このような“なれ合い”の中に生きてきた。そこでは、斬るか斬られるか、緊張した論証の刃、その火花はない。かわってぬるま湯の中の、仲間うちへの“目くばり”。それだけが必要とされた。そこからは“独創”は生まれない。その扉は、けっして開かないであろう。
 この点、回教やキリスト教が「国是」とされている国々にも、別の鎖があるのかもしれぬ。しかし、いまはまず、他人(ひと)ごとではない、自分の目のうつばりを取りはらうときだ。千二百年の鎖を解き放つ、プロメテウスが目覚める瞬間、それがいま、日本列島に到来しているのである。
 私はそのために、十三の扉の前に立った。そしてそれを開いた。その向こうに何が見えるか。それは読者一人ひとりのそれぞれの目にゆだねられている。
 この本の内容は、今年(一九九二)の二〜三月、四日間にわたって「古代史への十二の扉」として開講されたもの。立川(東京都)の朝日カルチャーだった。最終章は、その後の加筆。思いがけぬ「発見」だった。さっそく、この楽しい本へと、企画・実行してくださった原書房の編集部に対し、筆をおきつつ心から感謝したい。


古代は輝いていた IIIIII

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