2024年4月16日

古田史学会報

181号

1,不都合な真実に目をそむけた
NHKスペシャル」(上)

 正木裕

2,倭国天皇の地位について
西村秀己・古賀達也両氏への回答
 日野智貴

3,「邪靡堆」論への
谷本茂氏の疑問に答える

 野田利郎

4,『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名
 古賀達也

5,皇暦実年代の換算法について
 正木論稿への疑問
 日野智貴

6,大きな勘違いだった
古代船 『なみはや』の復元
 大原重雄

 

古田史学会報一覧

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論文削除要請された 『親鸞思想』 -- 古田武彦「親鸞論」の思い出 (会報180号)

「天皇」銘金石文の史料批判 -- 船王後墓誌の証言 古賀達也(会報182号)


『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名

京都市 古賀達也

一、『朝倉村誌』を購入

 上京区枡形商店街の古書店で『朝倉村誌』の表題を持つ上下二巻セットの分厚い本を見つけました。どこの朝倉村だろうかと手にとって確認すると、愛媛県越智郡の朝倉村(現今治市)で、斉明天皇伝承で注目されている地です。価格も二千円と格安で、新品同様の良本ですので迷わず購入。同書は昭和六一年(一九八六年)に出版されたもので、地元の伝承や寺社仏閣の史料なども収録されていたのでお買い得でした。

 

二、朝倉村の字地名「才明」「西明」

 同書には朝倉村の字地名一覧が下巻末にあります。「ほのぎ」(注①)という一覧表で、その中の「朝倉上之村」に次の字地名がありました。

○「才明」 地番:一八三五、一八三六 地目:田
○「西明」 地番:一九〇〇、一九〇一、一九〇二、一九〇三地目:田
○「才明」 地番:二一二六、二一二七地目:田
○「才明上」 地番:二一二八、二一二九、二一三〇、二一三一、二一三二地目:田

合田洋一氏の見解(注②)によれば、この字地名は九州王朝の天子、「斉明」が当地に来た痕跡とされていますが、末尾に「みょう(名・明)」がつく地名は、九州や四国を中心に西日本各地に分布し(注③)、関東や青森県にも見えます。
 明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注④)によれば、「国―郡―町・村―小名―字」と区分けされ、「名」は「村」と「字」の中間にあるような行政区画です。表記例から判断すると、「名」の中に「字」があるというよりも、両者は併存しているようです。『朝倉村誌』に収録された「才明」「西明」は、この「みょう」地名ではないでしょうか。

 

三、『朝倉村誌』の「天皇」地名

 愛媛県東部地域に「天皇」地名が散見しますが、『朝倉村誌』にも記されていました。同県越智郡の朝倉村(現・今治市)に遺された次の「天皇」地名類が紹介されています。

○車無寺(後の無量寺)建立のこと
 院号を斉明天皇の祈願所なるが故に、天皇院と呼び、また年月を経て後、伊予皇子を御養育申し上げたため、安養院ともいった。(上巻、一九八頁)
○須賀神社(天王宮) 旧村社
〔由緒沿革〕斉明天皇の御宇に創立されたという。(中略)もと朝倉天皇又は野田宮とも称した。(下巻、一三一二~一三一三頁)
○野田・野々瀬の須賀神社
・朝倉天皇(須佐之男命を牛頭天王というため)。または野田宮ともいう。
・丸亀市本島の寺に「朝倉天皇宮」の鰐口がある。(下巻、一五〇五~一五〇六頁)
○與陽越智郡日吉郷南光坊由来之事
(中略)車無寺と号す 開祖は天皇に供奉し玉う大現の弟子無量上人也 朝倉両足山天皇院無量寺也(下巻、一七三一頁)
○伊予国越智郡朝倉南村地誌
 本郡孫兵衛作村ニ界ス其ヨリ天皇溝上流ニ至ル(中略)西ハ天皇溝上流ニ起線シ風呂本拾六番地ニ至ル川ヲ以テ朝倉北村ニ界シ(後略)(下巻、一七九二頁)
○橋 天王橋(下巻、一七九五頁)
○実報寺往還ノ選位朝倉北村飛地天皇橋ニ起リ(中略)同天皇橋前ニテ左右ヘ桜井往還ヲ岐ス(下巻、一七九六頁)
○社 須賀社村社ニシテ(中略)笠松山尾端字天皇ニアリ(下巻、一七九七頁)

 以上のように、車無寺(後の無量寺)の「天皇院」、朝倉南村の「天皇溝」「天皇橋」と字地名「天皇」が見えます。斉明天皇との関係で由来が書かれている「天皇院」と、具体的な天皇名を付されていない「天皇溝」「天皇橋」「天皇」とがあり、なぜ朝倉村にこうした名称が現在まで伝わっているのか不思議です。七〇一年、大和朝廷が成立した後に、こうした最高権力者の名称を大和から遠く離れた地で、誰かが勝手に命名使用するということはちょっと考えにくいのです。ですから、朝倉村など愛媛県東部地域に、こうした「天皇」地名が少なからず遺っているのは偶然ではなく、他地域とは異なる何らかの歴史的背景があったと考えるべきではないでしょうか。

 

四、「天皇」地名の発生理由

 九州王朝の故地、北部九州でも神功皇后や斉明天皇、天智天皇の伝承が少なからずありますが、当地の地名に「天皇」という表記が使われている例を知りません。ところが、愛媛県東部地域には「天皇」地名が少なからず遺っています。このことを多元史観・九州王朝説の視点で考察してみます。まず「天皇」地名成立のケースとして、次の可能性が考えられます。
(A)須佐之男命を祭神とする「牛頭天王」社が、後に「天皇」と表記され、その地の地名になった。

(B)近畿天皇家の天皇が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。

(C)九州王朝の天子(天皇)が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。

(D)九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下の当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗ったことにより、「天皇」地名が付けられた。

(E)当地の権力者の意思とは関係なく、あるとき誰かが勝手に「天皇」地名を付け、周囲の人々もその地を「天皇」と呼ぶようになった。

 以上の可能性が考えられますが、恐らくは一元史観に基づく(A)の解釈が有力視されていると思われます。たとえば『朝倉村誌』には、「野田・野々瀬の須賀神社 朝倉天皇(須佐之男命を牛頭天王というため)」と説明されています。〝大和朝廷の天皇以外に天皇なし〟という一元史観では、こうした解釈を採用するしかないのでしょう。
 (B)のケースは、同じく『朝倉村誌』に見える「與陽越智郡日吉郷南光坊由来之事 (中略)車無寺と号す 開祖は天皇に供奉し玉う大現の弟子無量上人也 朝倉両足山天皇院無量寺也」(下巻、一七三一頁)があります。しかし、この説明は後代の大和朝廷の時代になってから造作された、あるいは別の伝承が改変されたものではないでしょうか。
 (C)のケースとしては、久留米市の大善寺玉垂宮にあったと記録されている「天皇屋敷」があります。
 「〔御船山ノ社官屋敷ノ古圖〕に開祖安泰東林坊〈大善寺等覺院座主職なり今は絶て其跡天皇屋敷といふなり〉(後略)」『太宰管内志』(注⑤) ※〈〉内は細注。
 この「天皇屋敷」の由来は未詳ですが、筑後地方は九州王朝の中枢領域であり、「倭の五王」時代には筑後地方に遷宮していたと思われますので(注⑥)、九州王朝の天子(天皇)との関係を想定してもよいかと思います。しかし、この場合でも地名が「天皇」と名付けられたわけではありませんので、朝倉村の地名としての「天皇」のケースと同じではありません。
 (D)のケースに相当するのが、朝倉村など愛媛県東部地域に散見する「天皇」地名ではないかと考えています。この点、後述します。
 (E)は検証困難な仮説ですし、一介の人物が権力称号「天皇」を地名に採用し、それを周囲も使用するということは起こりえない現象と思われますので、今回の検証作業からは除外します。

 

五、多元的「天皇」号と「天皇」地名

 各地に遺る「天皇」地名の多くは牛頭天王(牛頭天皇)信仰に由来すると考えてもよさそうですが、それにしても愛媛県東部地域に最濃密分布する理由をうまく説明できません。これには何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。そのことを説明できる一つの作業仮説として、七世紀の九州王朝の時代、当地に天皇号を称した有力者がいたのではないかと考えました。すなわち、九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下、当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていたとする仮説です。
 古田説(旧説)では、九州王朝下のナンバーツーとしての「天皇」は近畿天皇家のこととされてきました。他方、ナンバーツー「天皇」が、近畿天皇家以外にも多元的に存在(併存)したのではないかとわたしは考えるようになりました(注⑦)。その具体例として、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」に注目しました。すなわち、九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。そして、七〇一年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。
 このことの傍証として、越智氏関連史料中に一族の人物に対して、「伊予皇子」(注⑧)、「伊予ノ大皇」「伊予土佐ノ国皇」「玉興皇」(注⑨)という、「王」ではなく、天皇の「皇」の字を用いた呼称が散見されます。こうした史料事実や「天皇」地名の存在から、九州王朝配下の大豪族、越智氏が「天皇」を名乗ることを許されたと考えることができそうです。同時に、近畿の大豪族、近畿天皇家(後の大和朝廷)もナンバーツー「天皇」を名乗ることが許された、あるいは任命されたものと推定しています。この多元的「天皇」号の併存という仮説であれば、野中寺彌勒菩薩台座銘の「中宮天皇」や、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」「仲天皇」という史料情況を説明できるのではないでしょうか。

 

六、全国の「天皇」地名

 「洛中洛外日記」連載中の〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える〟をフェイスブックで紹介したところ、小島さん(宝塚市)から、国内に現存する「天皇」地名について、次のコメントをいただきました。
〝古賀様 富山県にも有ります。「砺波市 安川 字天皇」です。徳島県にもあるようです。「美馬郡 つるぎ町 半田 天皇」〟
 わたしは両「天皇」地名のことを知りませんでしたので、この情報に驚きました。そして、もしかすると他にも「天皇」地名が在るのでないかと思い、WEBなどで調査したところ、次の「天皇」地名が見つかりました。中には、市町村合併や地名変更により、現在の地図では確認できないものもありますが、明治期には存在していたと思われます。

【国内の「天皇」地名】〔未確認〕とあるものは、WEB上の地図では確認できなったもので、存在しないということではない。
《四国以外》
○宮城県仙台市泉区実沢細椚天皇 ※当地に須賀神社がある。
○宮城県仙台市泉区野村天皇 ※当地に須賀神社がある。
○福島県喜多方市塩川町小府根午頭天皇

※当地に牛頭天皇神社がある。
○愛知県安城市古井町天皇
○京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇 ※当地に大宮神社がある。
《四国》
○徳島県美馬郡つるぎ町半田天皇 ※近隣に式内建神社がある。
○香川県高松市林町天皇
○香川県仲多度郡まんのう町四條天皇
○愛媛県西条市福武甲天皇 ※当地に天皇神社(スサノオと崇徳上皇を祭神とする)がある。崇徳上皇来訪伝承があり、それにより「天皇」地名が付けられたとされているようである。
○愛媛県西条市明理川(天皇)〔未確認〕
○愛媛県西条市丹原町長野天皇 ※近隣に無量寺がある。
○愛媛県今治市朝倉天皇
○高知県高知市春野町弘岡上天皇 ※当地に天皇神社がある。
○高知県香南市香我美町徳王子天皇〔未確認〕
○高知県香南市夜須町国光天皇

 それぞれに由来があり、その是非や、「天皇」地名成立がいつの時代なのかは検証が必要ですが、四国に濃密分布していることは注目されます。また、仙台市の二つの「天皇」の地に須賀神社があることは、愛媛県今治市朝倉の「天皇」に須賀神社があることと関係があるのかもしれません(注⑩)。

 

七、九州に分布しないテンノー地名

 枡形商店街の別の古書店で『地名の語源』(注⑪)を購入しました。四十六年前に出版された本ですが、地名研究の方法や地名の発生経緯まで論じた優れものでした。同書の「天皇」地名の項に次の説明がありました。

 「テンノー (1)天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ。(2)*テンジョー(高い所)と同義のものもあるか。九州と北海道以外に分布。〔天王・天王寺・天皇・天皇田・天皇原・天皇山・天王山・天野(テンノ)山〕」

 注目すべきは「九州と北海道以外に分布」という部分です。なぜ九州に分布しないのか理由はわかりませんが、古代九州王朝と関係するのでしょうか。それにしても、天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ「天王」地名もないとのことですから、事実であれば不思議な現象です。〔令和五年(二〇二三)十一月二二日、筆了〕

(注)

①「ほのぎ」は次のように説明されている。
 「人の住む所には、おのずからその所有をはっきりするために、自分の持ち地を区画して、そこへ杭を立てて名をつけた。昔はこれをほのぎ(保乃木・穂乃木)といった。明治時代のはじめにほのぎを小字とし、小字を集めて村や町とした。」(愛媛県生涯学習センターHPによる)

②合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、二〇一八年。

③古賀達也「洛中洛外日記」九六九話(二〇一五)〝「みょう」地名の分布〟

 同「九州・四国に多い『みょう』地名」『古田史学会報』一二九号、二〇一五年。
④『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、一九八六年。

⑤伊藤常足『太宰管内志』天保十二年(一八四一)〈歴史図書社、一九六九年(昭和四四年)、中巻一六二頁〉

⑥古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、一九九九年。

⑦古賀達也「洛中洛外日記」二九九六~三〇〇三話(二〇二三)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟

⑧「両足山安養院車無寺(無量寺の旧名)」

『朝倉村誌 下巻』一四六四頁。
⑨「玉興越智郡拝志新館ニ移事(抄)」『朝倉村誌 下巻』一七五四頁。

⑩各地の須賀神社は牛頭天皇やスサノオを祭神としており、この牛頭天皇により「天皇」地名が成立したとするのが一般的な見解と思われる。この解釈は有力とは思うが、なぜ四国に「天皇」地名が濃密分布するのかの説明は困難である。なお、ウィキペディア「須賀神社」の項によれば、四国地方は高知県のみ須賀神社が集中(十三社)している。

⑪鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、昭和五二年。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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