『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名 古賀達也(会報181号)
難波宮から出土した「九州王朝」 -- 泉武論文の欠失と新視点 古賀達也(会報183号)
「天皇」銘金石文の史料批判
船王後墓誌の証言
京都市 古賀達也
一、「天皇」号の新・旧古田説
九州王朝(倭国)と近畿天皇家(後の大和朝廷)との関係について、古田武彦先生は、七〇一年の王朝交替より前は、倭国の臣下筆頭の近畿天皇家が七世紀初頭頃からナンバーツーとしての「天皇」号を称していたとされた(古田旧説。注①)。ところが晩年には、七世紀の金石文などに見える「天皇」はすべて九州王朝の天子の別称であり、近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(七〇一年)からとする新説を発表した(注②)。
わたしは古田旧説を支持しているが、その理由は、「天皇」銘を持つ七世紀の金石文・木簡や史料などが近畿地方で出土・伝来しており、その内容が『日本書紀』に記された近畿天皇家の事績と矛盾しないことなどによる。このテーマは七世紀の日本列島の姿を明らかにするうえで重要である。本稿では船王後墓誌(国宝)の天皇銘について、改めて論究した。
二、古田新説に不都合な船王後墓誌銘
近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(七〇一年)からとする古田新説にとって、最も不都合な金石文が船王後墓誌だ。その銘文(訓よみくだし)は次の通り。
「惟に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(六四一年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(六六八年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。」
銘文に見える三人の天皇を通説では次のように比定する。
○乎娑陀宮治天下天皇→敏達天皇(五七二~五八五年)
○等由羅宮治天下天皇→推古天皇(五九二~六二八年)
○阿須迦宮治天下天皇→舒明天皇(六二九~六四一年一〇月)
最後の阿須迦天皇の名前が墓誌には二度見える。「阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三」と「殯亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」だ。後者は「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(六四一年)に船王後が亡くなったという記事だが、この年が「阿須迦天皇之末」であり、その年干支は「歳次辛丑」(六四一年)とあることから、「阿須迦天皇」をこの年(舒明十三年)の十月に崩御した舒明天皇とする通説が成立した。
この通説は古田新説にとって決定的に不都合なものであった。もし、「阿須迦天皇」が九州王朝の天子の別称であれば、治世の「末」の「歳次辛丑」(六四一年)かその翌年に九州年号が改元されていなければならないからだ。しかし、そのときの九州年号「命長二年」(六四一年)が改元されるのは、六年後の常色元年(六四七年)のこと(注③)。これでは「阿須迦天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説は成立しない。天子が崩御したのに、改元されないことなど有り得ないからである。
そこで古田先生が主張したのが、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」という解釈だ。しかし、これはかなり無理筋の解釈で、古田旧説を支持するわたしと新説を唱えた先生との間で論議が続いた。
三、古田新説に従えない理由
「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈を、かなりの無理筋とした理由を列挙する。
(a) 古田先生の主張であれば、銘文に「末」の字は不要であり、「阿須迦天皇之歳次辛丑」(六四一年)だけでよい。治世の末年と理解される「末」の字をわざわざ入れる必要は全くない。それにもかかわらず「末」の一字を入れた理由の説明がなされていない。
(b) 仮に、阿須迦天皇の治世を永く見積った場合、当時の九州年号は「仁王(十二年)」「僧要(五年)」「命長(七年)」の三年号であり、合計しても二四年(六二三~六四六)にしかならず、次の「常色」改元(六四七年)は六年も先のことだ。途中の十九年目を治世の「末」と表記するのは明らかに不自然。例えば「二〇二四年十月」を「二〇二四年末」というようなものだ。普通に「二〇二四年末」とあれば、年末の十二月下旬頃と思うであろう。すなわち、十月を年末というくらい不自然な解釈なのだ。
※「仁王元年(六二三)」の前年に九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)が崩御しており、「阿須迦天皇」の治世初年をこれ以前にはできない。
(c) その不自然な「末」表記に前例があったとしても、それは「末」の本義とは異なる異質の少数例であり、その少数の可能性の存在を示すに過ぎない。従って、異質な少数例の方が本来の意味の多数例よりも有力な解釈とする史料根拠の明示と合理的な説明がなされて、初めて〝論証した〟と言えるのだが、古田新説ではその論証がなされていない。単なる可能性の「主張」を、学理上、「論証」とは言わない。〝可能性だけなら何でもあり〟との批判を避けられないからだ。
(d) 『日本書紀』の舒明天皇の没年と「阿須迦天皇之末歳次辛丑」の年次(どちらも六四一年)は一致するが、古田新説では、これを〝偶然の一致〟と見なさざるを得ない。自説に不利な史料事実を〝偶然の一致〟として無視・軽視するのであれば、あまりに恣意的と言わざるをえない。他方、『日本書紀』と同時代金石文とが一致するのだから、それを根拠とする通説の方が有力とするのは文献史学の常道である。
以上のように、船王後墓誌銘文に対する古田先生の読解は、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説に不都合な金石文による批判を回避するための〝論証抜きの解釈〟と言わざるを得ない。とりわけ(c)の指摘は、〝論証とは何か〟という「学問の方法」に関する基本テーマだ。尊敬する古田先生には申しわけないが、わたしは古田新説には従えないのである。
四、「末」の一字が意味すること
同墓誌に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」の「末」について、通説ではどのような説明ができるであろうか。「洛中洛外日記」(注④)などでも述べてきたが、わたしの理解は次の通りだ。
(Ⅰ) 舒明天皇は辛丑年(六四一)十月九日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのはその翌年(六四二年一月)であり、辛丑年(六四一)の十月九日より後は舒明の在位中ではなく、皇極天皇の在位中でもない。従って辛丑年を「阿須迦天皇(舒明)の末」(最後の一年)とする表記は適切である。
(Ⅱ) 同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」とあるように、戊辰年(六六八年)であり、その時点から二七年前の辛丑年(六四一)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」の年で、年干支は「歳次辛丑」とするのは正確な表記であり、墓誌の内容として適切である。
(Ⅲ) 同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と、全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していない期間に当たる、船王後の没年月日を記した今回のケースだけは在位中ではないので、治世中を意味する「世」や「朝」を使用せず、「末」という〝非政治的〟で、ある時期を示す字を用いて「阿須迦天皇之末」という表記にしており、在位中と非在位中とを正確に使い分けていることがわかる。
(Ⅳ) このように、同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの空白期間を「末」の一字を用いて正しく表現しており、「末」の一字の存在理由を説明できない古田新説(九州王朝の天皇)よりも通説(舒明天皇)の方がはるかに妥当である。
以上のわたしの指摘に対して、既に亡くなられていた古田先生はともかく(注⑤)、古田新説支持者からの具体的な反論を期待する。
五、天皇名の宮号表記
本稿では、船王後墓誌に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」の「末」について詳論し、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説は成立し難いとした。そうすると、墓誌に見える三名の天皇は近畿天皇家の人物となるわけだが、その結果、新たに論ずべき課題も見えてきた。
同墓誌には、船王後の生涯に於いて特筆すべき事績と埋葬の年次表記として、次の五件が記されている。
(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇(五七二~五八五年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇(五九二~六二八年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇(六二九~六四一年十月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」(六四一年十二月三日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (六六八年十二月)
この内、(1)(2)(3)は次の構造となっている。
[地名]+「宮」+「治天下 天皇」+「之世(朝)」
これは七世紀の金石文に見られる天皇名表記様式で、わたしはこれを宮号表記天皇名と呼んでいる。この宮号表記の場合、〝一つの宮殿には一人(一代)の天皇に限る〟という前提が必要だ。すなわち、新天皇の即位の度に遷宮するという伝統を持つ王家にしか採用できない名称表記方法なのだ。従って、近畿天皇家の場合、藤原宮や平城宮、平安宮のように複数の天皇がそこで「治天下」していた場合、そのままではどの天皇のことを言っているのかわからず、宮号を天皇名に使用するのはあまり適切な表記方法とは言えない。
余談だが、九州王朝(倭国)の場合、七世紀前半からは太宰府「倭京」を都としており、その宮殿に君臨したであろう数代の天子を宮号表記、たとえば「倭京の宮の天子」のようには呼んでいないと考えられる。その根拠として、法隆寺釈迦三尊像光背銘には「上宮法皇」とあり、天子(法皇)の阿毎多利思北孤は「上宮」という宮殿にいたように思われ、「上宮」の「上」が倭京内の小地名なのか、あるいは地名とは無関係に命名された王宮の名称なのか、今のところ不明である。わたしは後者の可能性が高いと考えている。すなわち、九州王朝の天子は「上宮」と呼ばれる宮殿で執政していたから、歴代の天子は「上宮法皇」「上宮王」などと呼ばれていたのではないかと推定している。その場合、どの天子かを特定するために九州年号を併記したのではあるまいか。この件については別途論じることにしたい。
(4)は異質の表記で、[地名]+「天皇」であり、七世紀の金石文の天皇名表記としては珍しい。管見では次の七世紀の天皇銘金石文がある。天皇名表記部分を抜粋する。
《七世紀の「天皇」銘金石文》
○六〇七年? 法隆寺薬師仏光背銘(奈良県斑鳩町)
「池邊大宮治天下天皇」「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」
○六六六年 野中寺弥勒菩薩像台座銘(大阪府羽曳野市)
「中宮天皇」
○六六八年 船王後墓誌(大阪府柏原市出土)
「乎娑陀宮治天下天皇」「等由羅宮治天下天皇」「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」
○六七七年 小野毛人墓誌(京都市出土)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
○六八〇年? 薬師寺東塔檫銘(奈良市薬師寺)
「清原宮馭宇天皇」「大上天皇」
○六八六・六九八年 長谷寺千仏多宝塔銅板(奈良県桜井市長谷寺)
「飛鳥清御原大宮治天下天皇」
これらと比べて、宮殿所在地の地名だけを天皇名にした(4)「阿須迦天皇」は異質。ただ、同墓誌には直前に「阿須迦宮治天下天皇」とあるので、二度目を簡略化したのかもしれない。それにしても、「阿須迦宮天皇」ではなく、「阿須迦天皇」とまで簡略した理由は不明だ。
六、異質の年次表記「戊辰年」
船王後墓誌の五件の年次・年代表記のなかでも(5)の船王後の埋葬(改葬か)年次、すなわち同墓誌成立年次と考えられる「戊辰年十二月」は注目すべき記事と思われる。なぜなら、六六八年時点の墓誌銘文作成者の歴史認識、あるいは墓誌の読者に対して、このように認識して欲しいとする編纂意図を知る上での貴重なエビデンスだからだ。この銘文を多元史観・九州王朝説の視点で読むとき、一元史観の理解とは異なる歴史像が見えてくる。それは次のようなことだ。
(ⅰ) 六六八年は九州王朝(倭国)の時代であり、近畿天皇家は九州王朝の臣下であり、近畿地方の有力豪族である。
(ⅱ) 従って、「○○宮治天下天皇之世」や「○○宮治天下天皇之朝」という表現は、船氏の直属の主人である近畿天皇家の大義名分に基づく、当該領域「天下」のトップを意味する「治天下天皇」、その「治世」や「朝廷」を意味する「世」「朝」の字を採用している。
これは小領域版「中華思想」的表現である。埼玉古墳群(埼玉県行田市)の稲荷山古墳出土鉄剣銘に見える「左治天下」や(注⑥)、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土鉄剣の「治天下」(注⑦)も同類の表現。
(ⅲ) すなわち、九州王朝時代であるにもかかわらず、『日本書紀』(七二〇年成立)の大義名分「近畿天皇家一元史観」の表現を先取りするかのような銘文を、六六八年時点の船氏は採用したことになる。
(ⅳ) この船氏の行為は、白村江戦後の六六八年時点での九州王朝と近畿天皇家の力関係が影響していると考えることができる。
九州王朝説によるならば、以上の考察へと進まざるを得ない。もちろん、他の解釈もあるので断定するわけではない。そのうえで、「戊辰年十二月」にはもう一つ重要な問題がある。それは、『日本書紀』によればその年は天智七年にあたり、同年一月には称制から天皇に即位しており、墓誌中の他の年次表記例に従えば、「近江大津宮治天下天皇之戊辰年十二月」のような近畿天皇家の大義名分による表記になってしかるべきだが、そうはなっていない。同墓誌裏面末尾には数文字分の余白が残っており、「戊辰年十二月」の前に、たとえば「大津宮天皇」程度の文字を加えることは可能であるにもかかわらずだ。
七、船王後墓誌銘と天智の関係
「戊辰年」は天智七年(六六八年)に当たり、『日本書紀』によればその年の一月に天智は称制から天皇に即位する。
「七年春正月丙戌朔戊子、皇太子卽天皇位。(或本云、六年歳次丁卯三月卽位。)」天智紀七年正月条
墓誌中の他の年次表記と同様に、本来であれば「近江大津宮治天下天皇之戊辰年」のような近畿天皇家の大義名分に基づく表記になるところだ。しかしそうではないことから、後代史料である『日本書紀』(七二〇年成立)の記事よりも、同時代史料の金石文「船王後墓誌」(六六八年)を重視するという文献史学の基本的方法に従えば、次の可能性に留意が必要だ。
(A) 六六八年当時、天智は天皇に即位していなかった。即位記事に「或本云、六年歳次丁卯三月卽位」と前年の六六七年に即位したとする異伝も見え、これが正しければ、ますます墓誌の年次表記と乖離する。
(B) 船氏は天智を「阿須迦天皇」の後継と認めていなかった。しかし、天智は「阿須迦天皇」(舒明)の第二皇子であることから、この理解は困難と思われる。
(C) 「阿須迦天皇」(舒明)没後のどこかの時点でに、近畿天皇家は天皇を名乗ることができなくなっていた。この理解では近畿天皇家が「天皇」号を世襲することを九州王朝の天子が認めなかったことになるのだが、白村江戦後の九州王朝にそうした必要があるのかという問題がある。
いずれにしても七〇一年の王朝交代前のことであり、九州王朝説に基づいた検討が必要だ。
他方、天智の皇后の倭姫王を野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」とする説が古田学派内で注目されているが、近畿天皇家が天皇号を称することができる家柄であれば、近江大津宮には天智天皇と中宮天皇(倭姫王)という二人の天皇が夫婦として在位していたことになってしまい、さすがにこれは不自然と思われる。そうすると、(A)のように天智は天皇に即位していなかったという理解のほうが妥当となるのだが、もしそうであれば、例えば不改常典を定めた「近江大津宮御宇大倭根子天皇」(注⑧)とは天智ではなく、中宮天皇(倭姫王)ということになるのかもしれない。他の解釈もあり、慎重に考えたい。
〔令和六年(二〇二四)四月十六日、改稿筆了〕
(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏之光背銘」朝日新聞社刊、一九八五年。
②同『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」ミネルヴァ書房、二〇一四年。
③「歳次辛丑」(六四一年)に九州年号が改元されていないことを指摘したのは正木裕氏(古田史学の会・事務局長)。
④古賀達也「洛中洛外日記」一七三七~一七四六話(2018/08/31~09/05)〝「船王後墓誌」の宮殿名(1)~(6)〟
同「船王後墓誌の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』一五二号、二〇一九年。
⑤古田武彦氏は二〇一五年十月逝去。古賀の最初の発表は二〇一八年八月。古田氏没後三年を経て発表したのは〝古田先生の喪(三回忌)が明けるまでは批判論文の発表を控える〟という自らの思いに従ったことによる。「洛中洛外日記」一五三一話(2017/11/02)〝古田先生との論争的対話「都城論」(1)〟で、そのこと(三回忌)について触れた。
⑥稲荷山古墳出土鉄剣の銘文(ウィキペディアによる)
〔表〕辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
〔裏〕其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
⑦江田船山古墳出土鉄剣の銘文(同右)
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也
⑧『続日本紀』元明天皇即位の宣命には「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」とあり、聖武天皇即位の宣命には「淡海大津宮御宇倭根子天皇」とある。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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