2024年6月12日

古田史学会報

182号

1,皇弟・皇子・皇女の起源
 日野智貴

2,さまよえる狗奴国と伊勢遺跡の謎
 茂山憲史

3,不都合な真実に目をそむけた
   NHKスペシャル」(下)
 正木裕

4,藤原宮の大溝SD一九〇一A
  仮設運河説を考える  新庄宗昭

5,土佐国香長条里
  七世紀成立の可能性
 別役政光

6、 「天皇」銘金石文の史料批判
船王後墓誌の証言
 古賀達也

古田史学会報一覧
ホームページ

 

 


さまよえる狗奴国と伊勢遺跡の謎

吹田市 茂山憲史

一、はじめに

 会報一七八号で「さまよえる拘奴国と銅鐸圏の終焉」と題して、後漢書の「拘奴国」が三国志の「狗奴国」と同じ国を指しており、大阪府北部の茨木、交野あたりから滋賀県の琵琶湖東岸や東海の遠江にまで漂泊していた国らしいことを報告しました。『古代は輝いていたⅡ』古田武彦著、ミネルヴァ書房、復刻版二〇頁の「銅鐸出土分布図(上)(下)」にあるように、数十年も前から分っていた銅鐸の出土分布と、時代の変遷によるその分布中心の移動という考古学の成果を援用し、「江」と「拘」「狗」の音にこだわった文献解釈から総合的に考察した結果でした。それだけで決定的な結論が得られたわけではありませんし、「なぜそんな漂泊を余儀なくされていたのか」という疑問が沸きます。しかし、三国志によると、俾弥呼の邪馬壹国はその「狗奴国」と長年戦争をしていました。そして滋賀県守山市教育委員会は、十六年も前の平成二十年(二〇〇八)の報告書で、ある遺構の存在をすでに発表していました。私がその戦争の痕跡と考える余地がある遺構です。琵琶湖東南岸の同市と隣の栗東市とにまたがる「伊勢遺跡」がそれです。守山市教委の報告書では「拘奴国(狗奴国)が大阪平野から近江、遠江へと漂泊した」という私のような結論を出してはいませんが、古田武彦先生の多元史観、九州王朝説も考慮して理解するなら、そうした結論が自然に形成される条件をふんだんに揃えた驚きの遺跡です。文献史学と考古学の協力の仕方を模索しながら、守山市文化財調査報告書『伊勢遺跡確認調査報告書』を検討してみました。

二、銅鐸の終焉の地

 その前に、銅鐸終焉の地と思われる滋賀県野洲市の大岩山遺跡を俯瞰しておきます。大岩山遺跡は東南から西北に向かって琵琶湖に流れ込む野洲川の東北二キロ余り、「近江富士」として名高い三上山の山系山麓にあります。日本最大の銅鐸をはじめ、近畿を代表する意匠の近畿式銅鐸から東海を代表する三遠式銅鐸まで、実に二十四個もの銅鐸が近接する三カ所に集めて埋納されていました。
 野洲市が公開しているホームページの「銅鐸の謎を探る」(注1)によると、銅鐸は一般に「多くが集落から隔絶した丘陵の斜面から銅鐸のみで出土する」「近畿地方が(北部九州などの)石の鋳型から土の鋳型に移行した背景には、(中略)中国や朝鮮半島と直接交流を持つに至ったことが推定され」「弥生時代後期になると畿内に限らず、近江や東海・北陸においても土の青銅器の鋳型や鋳造関係遺物が発見され」「(多数一括の)銅鐸埋納は、大きく弥生時代中期後半と後期後半の二回の埋納時期があったと考えられます」など、全国的な銅鐸一般の動向を整理しています。その上で、「近畿式は近畿式で、三遠式は三遠式で出土」するのに大岩山遺跡は例外的に一緒に出土することを指摘し、結論の終節では「銅鐸祭祀の終焉」と題して「野洲市大岩山1962年4号鐸は故意に双頭渦紋が裁断されています。近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊されて破棄されたものや、飾耳を裁断して銅鐸を否定するような行為が行われています。銅鐸が前世の共同体を象徴する祭器であり、新たに台頭した権力者にとっては、邪魔な異物となったのです」と、この地が銅鐸圏の終焉の地だった可能性を示唆しています。

三、伊勢遺跡

(1)発見の衝撃

 伊勢遺跡は昭和五十五年(一九八〇)、守山市伊勢町の民間宅地造成工事に先立つ試掘調査で発見されました。以来、平成二十一年(二〇〇九)まで約三十年間で一〇九次の発掘調査を重ね、その遺跡の特異性・貴重性から平成二十四年(二〇一二)一月と平成二十五年(二〇一三)十月の追加を合わせて国史跡の指定を受けました。さらに、令和五年(二〇二三)十一月には伊勢遺跡史跡公園と資料館が整備され、オープンしたばかりです。
 伊勢遺跡は野洲川の西南二キロ余り。間に野洲川を挟んで東北側の大岩山遺跡と丁度相対峙する位置にあり、守山市伊勢町、阿村町、栗東市野尻に広がる約三十ヘクタールものまとまった遺跡です。甲子園球場の総面積三・八五ヘクタールの八個分相当に大型の高床式建物が林立するという弥生時代後期の大集落です。守山市教委の発掘調査報告は「伊勢遺跡確認調査報告書Ⅰ~Ⅷ」(以下、報告書Ⅰ~Ⅷと表記)までA4で本文三百頁近く、図版百七十頁余りに及び、本稿ではとても全体像を紹介することは出来ません。NPO法人守山弥生遺跡研究会が市の助成を受け、市教委の情報に基づいたホームページ「国史跡伊勢遺跡」を公開していますので、詳細はそちらを参照して下さい。(注2)

(2)類例がない集落設計

 私は伊勢遺跡が、銅鐸圏の拘奴国(狗奴国)の滅亡に関わる特殊な性格の遺跡と考えています。本稿では「さまよえる拘奴国」の解明につながると思われるいくつかのトピックスを検討します。
 確かに、伊勢遺跡は奇妙な遺跡です。周辺の多くの弥生遺跡では銅鐸が発掘されており弥生時代後期の銅鐸圏のはずですが、伊勢遺跡は際立った大型建物群の集落なのに、銅鐸が出てきません。また、大型建物が集中する遺跡の中心部では土器などの「生活臭」が極めて希薄だと報告されています。「弥生時代後期の大規模な集落遺跡で(中略)、かつて開発の対象とはならなかった標高九十八メートル前後の扇状地上の髙燥な土地に(中略)、突然出現」(報告書Ⅰ‐1頁)、「(伊勢遺跡の衰退期は)大型建物が意図的に撤去され、その跡地に規模の大きな竪穴住居が次々と建てられます。伊勢遺跡が消滅したわけではなく、その役目を終えたということで、人々は(中略)大型竪穴住居を建てて生活を継続」(国史跡伊勢遺跡ホームページ第6節伊勢遺跡の変遷)などと、驚きをもって報告されています。伊勢遺跡に集まった異質な遺跡を選んで、以下に検討します。

1【方形区画】
 伊勢遺跡では、当時国内最大級の高床式大型建物が発見されています。全国で初めて弥生時代の方形区画(複数の建物をランダムに建てるのではなく、縦横の軸方向を方形に揃えて建てる集落プラン)も見つかり、注目されました。遺跡東部地区中央で、厳重に二重の柵で方形に囲まれていたようです。中でも最大の高床式と思われる掘立柱の大型建物はSB‐1と名付けられ、柱穴配置が二間×四間(七・六メートル×一一・三メートル)で床面積八十六平方メートルを測る主殿と見られています。さらにその下層には先行する一間×二間の柱穴が見つかっており、後述のSB‐3と方位が一致することから、同じ場所に建て替えられる前の初期の建物とされ、SB‐11と名付けられています(報告書Ⅱ‐一一頁)。
 SB‐1のすぐ西隣には棟方向を直角に変えて、心柱を持つ平地式近接棟持柱の大型建物(SB‐2、床面積五十七平方メートル)、その南には方位が少しズレるのですが高床式と思われる大型建物(SB‐3、床面積四十九平方メートル)があり、さらにその南に小型倉庫のような建物があります。
 SB‐2とSB‐1を結ぶ延長線上東側には、SB‐10と名付けられた三間×三間(一辺九メートル四方)の大型総柱建物があり(報告書Ⅱ‐一五頁)、ホームページでは吉野ヶ里にあるような楼観とみています。ここにもSB‐11と同様下層に規模の小さい二間×二間の総柱建物(一辺四・二メートル四方)が同心位置で見つかっており、SB‐13と名付けられました。建て替えの「時間差は極めて短かった」(報告書Ⅱ‐一六頁)としています。

2【楕円形プラン】
 方形区画の外側に、方形区画を囲むように高床式の独立棟持柱付き大型建物がストーンサークルのように、楕円形に並んでいたようです。見つかっているのは六棟ですが、長径二三〇メートル、短径二一〇メートルの大楕円に沿って、同じような設計の建物が二十四棟も整然と並んでいた可能性が想定されています(ホームページ)。楕円形プランの思想は合議制的です。方形区画を採用する思想は王制的です。楕円形プランの集落計画の中に、二重の柵で囲まれた方形区画の集落計画があるなどという弥生遺跡は、他に例がないはずです。
 こうしたことから、時間的には近接するとしても、楕円形と方形の二つのプランは併存したのではなく、前後に時間差を持って存在したか、異なる集団が連繋したと考える必要があるのではないでしょうか。

3【五角形竪穴住居】
 三国志には「次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴国(次に奴国あり、これ女王の境界の尽きる所、その南に狗奴国あり)」とあります。前稿では、後漢書と三国志、記紀神話、出雲風土記などから俾弥呼の邪馬壹国の支配下にあった越前の「奴国」と想定しました。その越前(福井、石川)から今の鳥取にかけては、特徴的な五角形竪穴住居が有名です。ここ琵琶湖東南岸では、一般的な竪穴住居に交じって五角形竪穴住居が少数発掘されています。とくに伊勢遺跡の西部区域とその周辺に集まっているようです。「奴国」の集団の一部が短い期間、近江に移住していたと考えられます。東部区域の大型建物は生活臭が少ないのですが、西部区域の竪穴住居では生活に密着した土器が多量に発掘されています。

4【大型竪穴建物】
 一番衝撃的だったのは、報告書ⅥでSH‐1と名付けられた伊勢遺跡最大の床面積を誇る大型竪穴建物でした。「一辺一三・五メートル、床面積百八十五平方メートル(中略)。伊勢遺跡内の大型建物(SB‐1)の二倍以上の規模であり、最も大きな構造物」(報告書Ⅵ‐九頁)と説明されていますが、大型建物群が林立する同史跡では「超大型竪穴建物」と呼ぶのが相応しい建造物です。それなのに、中心の方形区画や楕円形プランの大型建物とは異なり、楕円形プランの外側、堀の内側ではありますが、東北側一番外郭のはずれに建てられているのです。
 報告書では、大型竪穴建物(SH‐1)は楕円形プランの東北側外に建てられており、SB‐9と名付けられた独立棟持柱付き大型建物(一間×五間、床面積四十三平方メートル)の桁柱列と平行しているが、その距離は二メートルと接近しすぎで、同時並存は考えにくく、位置関係からみて前後する時期に造営されたとみられる、と分析。「大型竪穴建物からは金属器などの工房を示唆する遺物や痕跡がみられず、甕や壺、大型鉢など生活に密着する土器が出土していることから、特殊な工房ではなく、首長の居所あるいは饗応の祭りを行う『大屋』のような性格が与えられるのではないか」(報告書Ⅵ‐三六頁)とまとめています。

 最も特徴的なのは、残存壁高五十センチの竪穴建物の広い床に、中央部分と四本の主柱を避けて、強い火力で焼いた床がドーナツ状に作られていることです。
「貼床部分は(中略)厚さ二十五~三十センチ(中略)、何度かに分けて踏みしめ貼床を造成したため、断面が版築状を呈している」「貼床の上面は赤褐色に発色する厚さ六ミリ~一・五センチの面が観察され(中略)、貼床を形成した後、その上面を焼いたため赤く発色した」「この層の上面には二~五ミリ程の砂礫の堆積がみられ、意識的に撒かれたと見られる」「さらにその上に精良な粘土を約四センチメートルの厚みで貼っている。その断面を見ると上面が赤燈色に発色しており、直接火を受けた面であることがわかる」とあります。
 サンプル採取した焼床片には二つの孔があり、直径一・六センチで一三度斜め下に、もう一つは直径一・三センチで一〇度斜め下に、しかし斜めの孔の向きは約四〇度違っています。「(サンプルではなく)床面で観察された孔も同様で、方向には統一性がみられず、孔の直径も大小がみられる。孔の内部も上部は発色していることから、精良な粘土を貼ったのち、まだ柔らかい段階で孔があけられ、その後上面を強い火力で焼いたものと考えられる」(報告書Ⅵ‐三二頁)と、丁寧で複雑な工程です。
 さらに焼かれた煉瓦のような壁材もあり、竪穴の土壁をすっかり煉瓦で覆っていたようです。弥生時代の日本に「煉瓦」なんて普通は考えられません。

四、塞曹掾史張政と軍事顧問団

(1)中国の正史と併せ読めば
 この大型竪穴建物は一体何だったのでしょうか。確認調査報告書Ⅵの「第3章まとめ」には「大型竪穴建物の床や壁に施された建築技術は殆ど類例をみないものである。しいて類例を挙げれば時期は異なるが、中国大陸や朝鮮半島の竪穴住居に『紅焼土』とよばれる床・壁材に焼かれた粘土材を使用する例がある。朝鮮半島の例は弥生時代後期に並行し、共時的であるが類例の増加が待たれる」としています。
 中国の正史で同時代の東夷を探せば、『三国志』には当時朝鮮半島で魏の討伐軍が遼東の公孫淵を包囲封殺したことが書かれてあり、帯方郡太守も登場します。魏は朝鮮半島を制圧していたのです。そこには大型竪穴建物のような前線基地もあったことでしょう。俾弥呼が魏に遣使した時代でもあります。

(2)床の小さな孔の謎
 「焼床」には、多数の不思議な孔が開けられています。報告書にも「用途、性格については不明である」と書いてありました。私も、この小さな細い孔の意味がどうしても分りませんでした。それである日(令和六年四月二十九日)、古代史にも考古学にも素人の知人吉本千景さんに大型竪穴建物の構造と小さな床の孔を説明し、「これは何だと思う?」と聞いてみました。彼女は一瞬考えた後簡潔に「燭台を立てる孔」と答えたのです。「家の中の火の扱いは気を遣うものですよ」といいます。その後も色々考えてみましたが、これ以上にふさわしい答えが私には思いつきません。
 むしろ吉本さんの答えから、バラバラの向きで多数の孔がランダムにあけられている謎が解けたように思います。その時々の床几や机の場所、サイズに合わせて最適な位置に灯火をかざせるようにした工夫だったのではないでしょうか。焼床では柔らかい粘土のうちに孔を予め開けておかなければ、後からせっかく作った焼床をまた毀してやたらに孔を開けるわけにもいきません。ユニバーサルな孔をランダムに多数用意しておけば、自由な模様替えにも対応できて便利です。なかなかの智恵だと感心させられます。とりわけ、前線の軍事施設でせいぜい数年という仮の短期間利用する建造物なら、うってつけの簡便な工法でしょう。
 伊勢遺跡の大型竪穴建物SH‐1は、昼も暗い屋内というだけではなく、前線からの報告や本国からの指令を受けて夜も文字や絵図を読む必要があった人たちがいたのでしょう。そう考えるのに相応しいデザインです。
 私が「SH‐1は塞曹掾史張政ら軍事顧問団の前線司令部」と考える一番の根拠です。俾弥呼と壹與の間に倭国の内乱があり、張政は少なくとも数年、帯方郡と筑紫の間を行き来していたでしょう。SB‐3やSB‐11、SB‐13が俾弥呼時代、SB‐1とSB‐10が壹與時代の建て替えと想像しています。列島中探しても、他にこれ以上の適地は見つかっていません。ただし、報告書の絶対年代推定を百年近く、新しく見直さなければ軍事顧問団の前線司令部説は成立しません。

(注1)https://www.city.yasu.lg.jp/kosodate/bunka/bunka/1454413359758.html

(注2)https://www.ise-iseki.yayoiken.jp


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

デジタルアーカーブ 新古代学の扉 事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"