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皇弟・皇子・皇女の起源
たつの市 日野智貴
はじめに
皇弟・皇子・皇女の名称は、字義だけを見れば単に「天皇の弟」や「天皇の子供」を指す一般名詞であり、実際律令においてはその意味で用いられている。しかし、古来一貫して皇弟・皇子・皇女が一般名詞として用いられていた訳ではないことは、『古事記』等ではこうした用語が用いられていないことでもわかる。
管見の限りでは、大和政権における皇弟・皇女・皇女の使用開始時期については定説が存在しないと思われる。また古田学派においてもこれについて論じている論稿は私の知る限りでは無かったので、ここに私見を考察したい。
固有名詞としての「スメイロド」
『古事記』には皇弟・皇子・皇女と言った用語は全く用いられていない。皇族は基本的に「王」「命」「郎子」「郎女」等を付けて呼ばれている。
だが、例外的に三枝部穴太部王(穴穂部皇子)の別名が「須売伊呂杼」と記されている。「スメイロド」は漢字にすると「皇弟」であろうし、実際『日本書紀』にも穴穂部皇子は「皇弟皇子」であると明記されている。仁藤敦史は「須売伊呂秤という穴穂部と同じような固有名詞的な用い方をして」いることに注目し、皇弟が天皇の弟一般を指すのではなく「人格・資質において卓越した皇子が第二子以下に存在した場合に限って」用いられる称号であるとしている①。
仁藤の論証は説得力があるがそれが成り立つためには、第一に穴穂部皇子の時代にすでにその兄が「天皇」と呼ばれていたこと、第二に穴穂部皇子以外に「皇弟」と呼ばれるものが殆どいなかったこと、を論じる必要があるであろう。
第二の論点は「スメイロド」が『古事記』において固有名詞的に使われていることを説明する必要があるからだが、これについては『日本書紀』でも明確に皇弟と呼ばれているのは他に大海人皇子しかいないことが根拠とはなり得る(「孝徳紀」の皇弟については大海人皇子ではないとする説がある②)。つまり『古事記』が対象としている時代に皇弟と呼ばれていたのは穴穂部皇子しかいなかった可能性が高い。
次に問題となるのが第一の論点であり、言い換えると穴穂部皇子が皇弟と呼ばれているのは「記紀編纂時の追号」か「当時からの呼称」か、ということである。
だが『古事記』や『日本書紀』の編者が穴穂部皇子だけを「特別扱い」する動機は恐らくないのであり、当時「皇弟」という文字を充てるのが一般的だったかはともかく、「スメイロド」という名前で呼ばれていたこと自体は肯定するのが妥当である。そうすると穴穂部皇子の兄が「スメロギ」と呼ばれていたことになる。
敏達・用明という画期点
そうすると「天皇」号の使用が天武天皇以降であるというような通説には大きな疑問を抱かざるを得ない。穴穂部皇子の兄、具体的には敏達天皇や用明天皇のいずれか若しくは双方が「天皇」ないし「スメロギ」であったということになるからである。
これは金石文でも裏付けがある。「船王後墓誌」では敏達天皇と用明天皇とが「天皇」として記されていると解釈されており、「法隆寺薬師仏光背銘」では用明天皇が「大王天皇」と記されている。
ただしいずれも後世の偽作とする説がある他、「船王後墓誌」の「天皇」が本当に大和政権の天皇を指すのかは議論が分かれるところではある。私自身「船王後墓誌」の「等由羅宮治天下 天皇」を用明天皇とし「阿須迦宮治天下 天皇」を推古天皇とする解釈に就いては、疑問を抱いているところであり別に論ずる予定である。
とは言え、穴穂部皇子が「皇弟」と呼ばれていたことを考えると、敏達天皇や用明天皇が「天皇」と呼ばれていたことは不審ではないどころか、むしろ自然である。古田学派において「天皇は天子の称号である」という先入観から(倭国の天子は九州王朝であるという自身の仮説のみを根拠として)敏達天皇や用明天皇が天皇と呼ばれていた可能性を排除するのは問題のある態度であろう。
また『古事記』においては敏達天皇以降、各天皇の崩御の干支と在位年数の双方が明記されるようになっている。このことは敏達天皇の時代に何らかの画期点があったことを示唆するものである。
天皇の世襲と「皇子」
一方で『古事記』はスメイロドを固有名詞のように扱って「皇弟」という感じを用いないどころか、「皇子」「皇女」の称号も全く用いていない。これはスメイロドを同時代の呼称であるとする立場からすると、「皇子」「皇女」の称号を用いていないことも同時代の用例であったことを示唆する。
もっとも『日本書紀』では一貫して「皇子」「皇女」表記を用いている。しかしながら、飛鳥池出土木簡からは『日本書紀』に「皇女」と記されている人物が「皇子」と記されており、『日本書紀』の用例は同時代の用例ではないと考えられる。
そもそも『養老律令』でも男女関係なく「皇子」や「親王」とされており、『日本書紀』の「皇女」の称号は『養老律令』以降に追号されたものと考えるのが妥当であろう。
だが「皇子」の方は飛鳥池出土木簡でも用例がある。「皇弟」のような半ば固有名詞的扱いではなく、純粋に「天皇の子供」と言ったニュアンスであると考えられる。つまり一般名詞的な用法としての「皇子」がこの時期には誕生していたのである。
ではいつの時期から一般動詞的な意味での「皇子」号が登場したのであろうか?
『古事記』では天皇の子供が「命」「王」「郎子」「郎女」とバラバラであり、天皇の子供をまとめて呼称する一般名詞は見当たらない。飛鳥池遺跡の時代には「天皇の子供」という括りが必要な事情があったと考えられる。
それは大和政権において「天皇」が世襲されるようになった、より正確に言うと「天皇の子供の中から次の天皇が選ばれるべき」という観念が成立するようになった、と言うことを指すのではないだろうか?『古事記』の時代も父子継承が理想とはされていたが必ずしも守られてはおらず、そもそも『古事記』が対象とする時代の全ての大和政権の君主が「天皇」を名乗っていた訳では無いから、「天皇の子供=皇子」という用例は成立し得なかったのである。
ではいつから「天皇」の称号が世襲されるようになったのだろうか?それは天智天皇の「不改常典」制定が一つの画期であったと考えられる。
というのも、「不改常典」という言葉を最初に用いたのは、まさに天智天皇の娘である元明天皇であるからだ。「天皇の子供が次の天皇になる」という原則を天智天皇が定めており、それを元明天皇が自身の即位正当化に利用した、と考えるのが妥当であろう。なお元明天皇の時代は『養老律令』制定以前であるから女性も「皇子」と呼ばれていた時代であり、元明天皇も天智天皇の「皇子」であったのである。
まとめ
敏達天皇や用明天皇の時代から大和政権の君主が「天皇」と呼ばれることはあった。しかしこの時期はまだ「天皇」が世襲されるかは明確ではなく、天皇の弟の中から一部の有力な王が穴穂部皇子のように「皇弟」と呼ばれることはあったが、これは固有名詞的な用法であって『養老律令』にみられるような一般名詞的な用法では無かった。
天智天皇が「不改常典」を定めて以降、天皇は「天皇の子供」が世襲するべきという制度・観念が成立した。そこで「天皇の子供」を包括する一般名詞として「皇子」が成立した。それは『大宝律令』『養老律令』にも引き継がれた。
『養老律令』制定(施行はかなり後になるが)から『日本書紀』成立の間に、「天皇の娘」は皇子ではなく皇女と呼ばれるようになった。
このことは、天智天皇以前の「天皇」称号の実態についても分析を深めることとなる。「中宮天皇」や「越智天皇」も必ずしも世襲の称号ではないことを示唆するからである。
また「皇弟」の称号が当初一般名詞的な意味では無かったということは、一種の官職ないし特別な称号のようなものであるということになる。ではどうして大海人皇子が「皇弟」と呼ばれたのか、また「孝徳紀」の「皇弟」とは誰なのか、についても今後議論を深めていくべき課題である。
注
① 仁藤敦史(一九九三)「皇子宮の経営」『国立歴史民俗博物館研究報告』五〇集
② 砂川恵伸(二〇〇六)『天武天皇と九州王朝』新泉社
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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