2024年6月12日

古田史学会報

182号

1,皇弟・皇子・皇女の起源
 日野智貴

2,さまよえる狗奴国と伊勢遺跡の謎
 茂山憲史

3,不都合な真実に目をそむけた
   NHKスペシャル」(下)
 正木裕

4,藤原宮の大溝SD一九〇一A
  仮設運河説を考える  新庄宗昭

5,土佐国香長条里
  七世紀成立の可能性
 別役政光

6、 「天皇」銘金石文の史料批判
船王後墓誌の証言
 古賀達也

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緊急投稿 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル」(上) 正木裕(会報181号)
      不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル(下)      (会報182号)

『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾 正木裕(会報185号)

YouTube動画 本当の「倭の5王」 -- 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル古代ミステリー 正木裕 https://youtu.be/Lqwanzd9n6g


緊急投稿
不都合な真実に

目をそむけたNHKスペシャル(下)

川西市 正木裕

一、「倭の五王」は疑いも無く「ヤマトの天皇」としたNHK

 二〇二四年三月二十四日の第二回「NHKスペシャル古代史ミステリー」では韓国の古墳取材などをもとに、「ヤマト王権 空白の世紀」と題して、「倭の五王」の事績を取り上げた番組が放映された。ただ、第一回の「邪馬台国の謎に迫る」同様に、同番組では「ヤマト一元史観(注1)」に立ち、「倭の五王=ヤマトの大王」
を動かぬ事実として制作されていた。 しかし、近年の韓国での考古学の発展成果や、『宋書』『好太王碑』『三国史記』などの外国資料と『日本書紀』を併せて検討する時、「倭の五王」は九州の勢力(大王たち)だったことがわかる。そこで前回に続き、番組が取り上げなかった文献上、考古学上の事実を挙げ、「倭の五王は九州の大王たち」だったことを明らかにしていきたい。

二、番組が取り上げなかった「不都合な文献上の事実」

1、中国史書に記す半島に侵攻した「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)

 中国南朝の史書には、五世紀に半島に侵攻し、高句麗・新羅と戦った「倭の五王」、『宋書』では「讃(『梁書』は賛)・珍(『梁書』は彌)・済・興・武」が記されている。
①「讃」(*『晋書』義熙九年(四一三)「倭国朝貢す」。)、『宋書』永初二年(四二一)「倭讃、万里貢を修む」。元嘉二年(四二五)「讃また司馬曹達を遣し表を奉り方物を献ず」。「讃死して弟珍立つ。使を遣して貢献す」。

②「珍」元嘉十五年(四三八)「四月己巳。倭国王珍を安東将軍とす」。

③「済」元嘉二〇年(四四三)「倭国王済、使を遣わし奉献す。また安東将軍倭国王とす」。元嘉二十八年(四五一)「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加ふ。上所二十三人を軍郡に除す」。

④「興」「済死す。世子興、使を遣わして貢献す」。大明六年(四六二)「倭王世子興・・安東将軍倭国王とすべし」。

⑤「武」「興死して弟武立つ」。昇明二年(四七八)、「使を遣わして上表す」。(*「倭王武の上表文」は別掲)。「武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王に除す」。
『南斉書』建元元年(四七九)「倭王武号して鎮東大将軍とす」。
『梁書』天監元年(五〇二)「鎮東大將軍倭王武、号を進めて征東大将軍とす」。
(参考)「将軍」の品階は四征将軍、四鎮将軍、四安将軍、四平将軍の順。

 これらの記事から、『宋書』に記す「讃・珍・済・興・武」の続き柄と在位期間が次のとおりだったことが分かる。
◆「讃」(~四一三~四二一~四二五~)―(弟)「珍」(~四三八~)―(続き柄不明)「済」(~四四三~四五一~)―(世子)「興」(~四六二~)―(弟)「武」(~四七八~五〇二~)。

 

2、『宋書』の「倭の五王」と矛盾する『書紀』の「天皇」

 一方、『書紀』に記すヤマトの天皇の続き柄と在位期間は次のとおりだ。
◆応神(二七〇~三一〇)―(息子)仁徳(三一三~三九九)―(息子)履中(四〇〇~四〇五)―(弟)反正(四〇六~四一〇)―(弟)允恭(四一二~四五三)―(息子)安康(四五四~四五六)―(弟)雄略(四五七~四七九)
 応神の前代の神功紀は、半島史書との対比で「二運一二〇年繰り上げ」られており、神功薨去は『書紀』で二六九年・実年三八九年となる。従って、翌二七〇年「庚戌」の応神即位は三九〇年「庚戌」と考えられる(注2)。もし五世紀の「倭の五王」をヤマトの天皇とするなら、「応神~雄略の七人の内の五人」となるはずだ。
◆応神元年(二七〇)春正月丁亥朔、皇太子即位。是年、太歳庚寅。
 ただ、「讃・珍」について、「讃」を応神とすれば、「珍」は弟だから、応神の子の仁徳ではありえない。また、「讃」を仁徳としても履中はその子だからこれもあり得ない。
 また、「讃」を履中とすれば「珍」は反正となるが、「讃と珍の在位年数」は、最短でも四一三年~四三八年の二十五年間だが、履中・反正の在位年数は四〇〇年~四一〇年の十一年間だからこれもあり得ない。つまり「讃・珍」は「応神・仁徳・履中・反正」のいずれにも充てはまらないことになる。
 「済・興・武」について、続き柄では「済」允恭―(子)「興」安康―(弟)「武」雄略の組み合わせが成立するが、「武」の上表文(四七八年)では、高句麗が新羅・百済を併呑し、父の「済」・兄の「興」が「奄に」死去したとする(注3)。
◆『宋書』(「武」の上表文抜粋)句驪無道にして、図りて見呑(*占領)を欲し、辺隷(*ここでは百済)を掠抄(*かすめ取る)し、虔劉(*殺す)して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むと曰ふと雖も、或は通じ、或は不からず。臣が亡考済、実に寇讐(*敵)の天路を壅塞する(*ふさぐ)を忿かり、控弦(*兵士)百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ(*あと一歩のところで成就しなかった)。(略)今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を效し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。
(藤井寺市による意訳)高句麗は非道な国で、周辺の国々の占領を図り、略奪や殺戮行為をやめない。いつも占領地に滞留するので、その土地の良い風俗が失われ、道路の通行もままならない。亡くなった父の済は、かたき(高句麗)が天子の道を塞いでしまったのを怒り、正義の声に感激するたくさんの強兵を率いて、今まさに進軍しようとしていた。ところが急に父と兄が亡くなって、喪に服さなければならなくなったので、出兵をとりやめた。それで、高句麗とは休戦状態で未だ勝利していない。今に至って、甲を作り、兵を率いて父兄の志を継いで戦いに出ようと思っている。正義の勇者たちは、功績を立てようといさんでいる。敵と刃を交えれば、ふり返ることなく前進しようと思っている。

 通説は、「済」を「允恭」に、「興」を「安康」とするが、二人が「奄に死去」した記事は無いことに加え、①「済」に比定する允恭紀には「衣通郎姫とのロマンス」はあっても高句麗に向け大挙出陣を企てたことなど記されず、②「興」に比定する安康紀も軽皇子・大草香皇子・眉輪王など「身内」の争いで明け暮れた挙句に眉輪王に殺され、半島での戦の影も見えない。
 そもそも、『書紀』には「讃・珍・済・興・武」などの名は無く、宋王朝への遣使や官位の下賜記事などない。それだけではなく、中国史書に記す歴代の倭国の王「倭奴国王・帥升・俾弥呼・壹與・阿毎多利思北孤」の名も一切見えない。逆に、『書紀』に記す譽田(応神)~大泊瀬幼武(雄略)ほかのヤマトの「天皇」の名は、『宋書』等の中国史書には記されない。このように、『書紀』の天皇たちと中国史書の「五王」との齟齬は明らかだが、番組では全く示されなかった。

 

3、『書紀』は半島で高句麗・新羅と戦ったのは「筑紫の勢力」と記す

 そして、番組では、一貫して「半島で高句麗や新羅と戦ったのはヤマトの王」としているが、『書紀』では、実際に高句麗と戦ったのは「筑紫の勢力」だと記している。
 高句麗は四七五年に百済に侵攻し、王都漢城を陥落させ、蓋鹵王(四五五~四七五 )を誅殺し、男女八千人を捕虜とした。子の文周王(四七七年に暗殺)は逃れ熊津に遷都したが、事実上百済は崩壊する。
◆『三国史記』「高句麗本紀」長寿王六十三年(四七五)九月、王、兵三萬を帥ゐて百済を侵し、王都漢城を陷し、其王扶餘慶(蓋鹵王)を殺して男女八千を虜として帰る。
 倭国はこれに対抗し、『書紀』雄略二十三年(四七九)に、「質」としていた末多王を「筑紫国の軍士」が護って百済に帰国させ、東城王として擁立したうえで、「筑紫の将軍」が軍船を率いて高句麗を攻めた。
◆『書紀』雄略二十三年(四七九)四月、百済文斤王(三斤王四七七~四七九)薨る。天王、昆支王の五子中第二の末多王の幼年くして聡明きを以て、勅して内裏に喚し、親ら頭面を撫で、ねむごろにいましめて、其の国に王とす。兵器を賜ひ、筑紫国の軍士五百人を遣して、国に衞り送りて、是を東城王(四七九~五〇一)とす。是の歳、百済の調賦、常の例より益れり。筑紫安致臣・馬飼臣等、船師を率ゐて高麗を撃つ。

 「武」は四七八年に、「今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を效し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり」と上表している。これは「今より高句麗を討伐する」との宣誓だ。そして翌四七九年、宣誓どおり高句麗討伐戦に乗り出す。その際、武力をもって東城王を擁立したのも、高句麗と戦ったのも「筑紫国の軍士・将軍」、つまり「筑紫の勢力」だった。
 一方、「雄略」は四九七年七月に病を得、八月に崩御しており、次代の清寧紀にも顕宗紀にも高句麗討伐戦の記事はない。従って、「武」の上表をそのとおり遂行したのは筑紫の勢力といえる。
 NHK番組ではこうした「ヤマト一元史観」にとって不都合な文献上の事実には一切触れなかった。

 

三、番組が取り上げなかった「不都合な考古学上の成果」

1、百済南西部の「北部九州様式」の前方後円墳

 番組では、韓国の前方後円墳と大仙古墳(伝仁徳天皇陵)の映像を流し、ヤマトの王権の半島進出の証拠であるかのように述べていた。しかし、韓国の考古学の発展により五世紀後半から六世紀初頭、すなわち「倭の五王」の時代の、旧百済地域への「倭国の進出・支配」を示す遺跡・遺物が続々と発見されている。それは「ヤマトの勢力」の遺跡・遺物ではなく、「北部九州勢力の進出」を示す古墳や埋葬品だった。
 近年、韓国の旧百済南西部、厳密には栄山江流域(光州市・羅州市・木浦市一帯)、咸平地域、瓦灘川流域、海南半島地域(図1)に、十七基にのぼる前方後円墳が発見された。そして、それらの古墳は「平面長方形で平天井を呈し、立柱石と腰石を配する形態で、時には石室に赤色顔料の塗布が確認される横穴式石室を有する」という「九州様式の前方後円墳」だった。そして、概ね「倭の五王」の時代の五世紀後半~末の造営で、六世紀当初には一斉に造営が止み、韓国の考古学者も「これらの前方後円墳は五世紀末頃~六世紀初頭に北部九州の勢力が造ったと考えられる」(朴天秀論文①・注4)、あるいは「北部九州地域から百済の栄山江流域へ影響を与え、九州系横穴式石室が出現した」(崔榮柱・注5)としている。
 番組では、「前方後円墳はヤマトの王権の象徴」とし、「仁徳陵」と並べて、百済の前方後円墳を紹介しているので、ヤマトの王が「倭の五王」で、ヤマトの勢力が百済の前方後円墳を造営したかのように見える。しかし、実際は「九州の勢力が造営した古墳」だった。崔榮柱氏・朴天秀氏らの研究は広く知られているから、NHKは文献だけでなく、「不都合な考古学上の成果」もあえて無視したことになろう。
 さらに、韓国の調査・研究では、①「前方後円墳」だけでなく「北部九州様式の方墳や円墳」も発見され、②図1のように前方後円墳を核として、周りを方墳・円墳が囲む「コロニー」を形成していたこと、③「横穴式石室」のみならず、百済の「竪穴式石室」についても「北部九州地域の竪穴式石室に直接的な系譜を求めることが可能」とされる(注6)。

 

2、出土物が北部九州の古墳と一致

 また、古墳・石室の様式・形状だけでなく、出土物も、その多くが次のように北部九州の古墳と一致している(*朴天秀論文①による)。
①「ゴホウラ製貝釧」佐賀県の関行丸古墳、福岡県櫨山古墳、熊本県伝佐山古墳(玉名市繁根木)から出土する「繁根木型のゴホウラ製貝釧」が、韓国海南造山古墳(*九州式石室の円墳)ほかからも出土している。なお、伝佐山古墳は半島製の金の首飾りや、素環頭太刀・甲冑など大量の武具の出土で知られている。

②「栄山江流域産の土器」栄山江流域に見られる両耳付壺・鋸歯文土器・有孔広口小壺等が、対馬(塔の首二号石棺墓ほか)と北部九州(前原市浦志遺跡ほか)から出土。

③「鳥足紋叩き土器の石室内副葬」福岡県苅田町の番塚古墳、福岡市の梅林古墳で、栄山江流域産の鳥足紋叩き土器が石室内に副葬されており、日本列島の前方後円墳でこの地域産の土器の副葬はこの二 例にとどまる。

 

3、「高句麗戦用に生産した甲冑」は全て九州の古墳出土だった

 出土品について特に指摘しておきたいのは、NHK番組で「ヤマトの王が高句麗と戦うため共通の型紙を用いて大量生産した甲冑」と紹介された三領は、全て九州の古墳出土だったことだ。橿考研吉村和昭氏らの研究報告では、これに福岡県行橋市場代二号墳出土甲冑を加えた次の四領が、現時点で共通の型紙を用いた「古墳出土の甲冑」の全てとする(注7)。
①「益生田古墳群」(福岡県久留米市)

②「西都原四号地下式横穴墓一号」(宮崎県西都市)

③「小木原一号地下式横穴墓」(宮崎県えびの市)④「馬場代二号墳」(福岡県行橋市)

 番組では古墳の名称のみが表示され、あたかもヤマトの出土のような印象を与えたが、「高句麗戦用に生産した甲冑」が九州出土なら、高句麗と戦ったのは「九州の大王」と考えるのが自然だろう。
 なお、③の小木原地下式横穴墓群付近には、灰塚地下式横穴墓群・島内地下式横穴墓群・芋畑地下式横穴墓群などが集積している。中でも島内地下式横穴墓群は未盗掘で、土に埋もれず、完全な状態の副葬品が大量に出土、千五百年前のタイムカプセルといわれ、甲冑一式(頸甲・肩甲・草摺を含むセットで完存)・矢三百本(近接する時期では全国でも三番目の出土数)・二組の装飾馬具・鏡箱入りの倣製盤龍鏡・朝鮮半島製の銀装円頭大刀他が出土している。特に銀装円頭大刀は朝鮮半島製(百済ないしは加耶)の、日本で類例の少ない大刀で、一号人骨に伴い、この人物が朝鮮半島での活動(軍事や交易などの交渉)に関わった可能性が指摘されている(注8)。
 こうした半島関係の武具が九州一円から発見されている状況は、畿内をはるかに凌駕し、「九州全体の勢力が半島侵攻に参画していた」ことを示している。

 

四、北部九州様式の古墳コロニーの形成は長期間の地域支配を示す

1、北部九州勢力の半島進出

 北部九州様式の前方後円墳を核とし、北部九州様式の円墳・方墳が周りに点在するというコロニーは、相互に一定の距離をおき、百済南西部の十二カ所で形成されている。『好太王碑』『三国史記』『書紀』に記す「倭の五王」の半島進出の経緯は次のとおりだ。
① 三九一年に「讃」は半島南部(百済・任那・新羅)に侵攻。
◆ 『好太王碑』倭は辛卯年(三九一)を以て来り、渡海し百殘加羅新羅を破り、以て臣民とす。

②三九二年に高句麗好太王は反攻をかけ、百済漢江以北まで併合し、百済辰斯王は死去。
◆『三国史記』「百済本紀」辰斯王八年(三九二)七月。高句麗王談德,兵四萬を帥て、来りて北鄙を攻ち、石峴等十余城を陷す。(略)漢水の北の諸部落、多に没す(辰斯王)狗原行宮で薨る。

③三九二年に倭国の紀角宿禰等、阿花王を百済王に擁立。
◆『書紀』応神三年(二七二)(*実年は三九二年)是歳、百済辰斯王立ちて、貴国の天皇に礼失し。故に紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を遣して、その礼無き状を嘖讓はしむ。是に由りて、百済国、辰斯王を殺して謝ひき。紀角宿禰等、便に阿花を立てて王として帰る。

④三九六年に阿花王は好太王の攻勢に屈して高句麗に臣従する。
◆ 『好太王碑』永楽六年丙申(三九六)(高句麗)王躬ら水軍を率いて残国を討科し、・・十八の城を攻め取る・・百済王(阿莘王)跪き自ら今以後(高句麗の)永き奴客となることを誓う。

⑤倭国は百済が高句麗に臣従したのを見て、三九七年に東韓一帯(百済南東部)を占領。百済は改めて倭国に臣従し、直支(後の腆支王)を倭国に出す。
◆『書紀』応神八年(二七七、実年三九七)阿花王立ちて貴国に礼旡し。故に我が枕彌多禮・及び峴南・支侵・谷那・東韓の地を奪はれぬ。是を以て、王子直支を天朝に遣して、先王の好を脩む。

⑥四〇〇年に高句麗は新羅を救援、任那・加羅地域にも出征し、この攻勢により百済は再び高句麗に臣従。
◆ 『好太王碑』永楽一〇年(四〇〇)歩騎五万を遣し新羅に往く。倭中に満つ。官軍至りて倭賊を退く。倭を急追し、任那・加羅城を抜く。百済に軍を移し城を囲み、百済は倍旧の貢物と王子を質に出す。

⑦四〇四年に倭国は反転攻勢をかけ、半島の奥深く侵攻。
◆『好太王碑』永楽十四年(四〇四)甲辰、而るに倭、不軌にして帯方界に侵入す。好太王自ら兵を率い倭寇を斬りつくすこと無数。永楽十七年(四〇七)五万を派兵し倭寇を追い、平壌を過ぎ討伐す。兜類万余、資材を獲得す。

⑧四〇五年の阿花王崩御に際し、倭国は百済腆支王を擁立し、漢城で即位させる。
◆『書紀』応神十六年(二八五、実年四〇五)、百済阿花王薨りぬ。天皇、直支王を召して謂ひて曰はく「汝国に返りて、位に嗣げ。」とのたまひ、仍りて且た東韓の地を賜ひて遣す。東韓は、甘羅城・高難城・爾林城是なり。
◆『三国史記』碟禮、訓解を殺し、自ら立ちて王となる。腆支、倭に在りて(*訓解の)訃るを聞き、哭泣し帰らむことを請す。倭王、兵士百人を以て衛り送る。・・腆支倭人を留め自ら衛り、海島に依りて待つ。国人碟禮を殺し、腆支を迎へ即位せしむ。

⑨四三五年頃に倭国(九州王朝)「珍」は百済王族の抵抗を抑え百済南西部を支配。
◆『書紀』仁徳四十一年(三五三、実年四三五年ごろか)(注9)紀角宿禰を百済に遣して始めて国郡の壃場を分ちて、具に郷土所出を録す。是の時に、百済の王(毗有王)の族酒君、礼无し。是に由りて、紀角宿禰、百済王を訶ひ責む。時に百済の王悚りて、鐵の鎖を以て酒君を縛ひて、襲津彦に附けて進上す。

 これは、四三三年に毗有王と新羅の訥祇麻立干が羅済同盟を結んだことへの対応・報復で、この時、倭国が百済の一部を事実上占領し、「税(貢納品)の徴収台帳」を作成したことを示す。阿花王時代に百済南東部は倭国の支配下に入っている(図2)から、四三五年頃に百済南西部を支配したと考えられる。そして国郡の壃場を決めるとは「統治領域を定める」ことであり、徴税台帳を作成するのは「領主として統治を始める」ことを意味する。このころに北部九州の勢力が進出したと考えれば、一定の統治期間を経て五世紀後半~末に「北部九州様式の墳墓群」が形成されるのは自然のこととして理解できる。半島に進出し高句麗や新羅と戦ったのは九州の勢力だった。

 そして、四七九年には筑紫の勢力が武力で東城王を即位させ、高句麗と戦うが、五〇二年に末多王は廃され「筑紫の島」で生まれた武寧王が即位する。
◆『書紀』武烈四年(五〇二)是歳、百済末多王無道にして、百姓に暴虐す。国人遂に除き嶋王を立て、是を武寧王とす。

 

2、北部九州様式の墳墓群消滅と九州勢力の半島からの撤退

 しかし、武寧王即位以後新羅の攻勢が激しく、五一二年には任那防衛を百済に要請するため「筑紫国の馬」を贈り、?有王時代に奪った「百済南西の四県」を百済に返還する。
◆『書紀』継体六年(五一二)四月丙寅(六日)、穗積臣押山を遣して百済に使せしむ。仍ち筑紫国の馬卌匹を賜ふ。十二月、百済、使を遣して貢調す。別に表して任那国上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四県(*百済南西部の全羅南道栄山江州域ほぼ全域)を請ふ。哆唎国守穗積臣押山奏して曰く(略・大伴大連金村の賛同を得て四県を百済に付ける)表に依り任那四県を賜ふ。
 しかし、五三二年には任那加羅(金官加羅)が滅亡する。
◆『三国史記』法興王十九年(五三二)、金官国主金仇亥と妃及び三子(奴宗・武德・武力)、国帑と宝物を以て(*新羅に)来て降る。(新羅が金官国併合。)
 そして、百済に栄山江州域を返還した五一二年~五三二年頃に、北部九州様式の古墳とコロニーが消滅する。
 こうした歴史経過はNHK番組に反して、五世紀を通じて半島に侵攻していたのは「九州の勢力」であり、「倭の五王」は九州の大王たちだったことを示している。

(注1)戦前・戦中は初代の神武以来、戦後史学においても、遅くとも三世紀俾弥呼・壹與以降の我が国の統治者は「ヤマトの王家」であるとする歴史観。

(注2)『書紀』では、応神八年丁酉(二七七)に阿花王が太子を質に出したと記すが、『三国史記』では阿花王六年丁酉(三九七)とある。従って『書紀』では応神紀も神功紀同様「二運一二〇年繰り上げ」られていることになる。

(注3)「済」から見た父「讃」と、その弟「珍」が共に没したとする説では、仁徳とその子で允恭の兄の反正(或いは履中)が共に「奄に没した」ことになるが、『書紀』にそのような記事がないうえ、履中・反正紀に「高句麗戦」の記述も無いので成立しない。なお、「奄に父兄を喪う(奄喪父兄)」の「奄に」は、通常「にわかに」と読む。しかし『宋書』の朝貢記事から済・興は別々に死んでいると考えられるから、「奄喪父兄」を「奄に父兄を喪う」と解釈すると、矛盾が生じる。そうではなく「奄」は「おおう・あまねく」の意味で、父兄らを「奄に喪う」( 「奄く喪う」)と読むべき。
 高句麗長寿王は四五四年新羅を討伐し、四七五年に百濟を壊滅させており、四五四年は済から興へ、四七五年は興から武への移行期にあたる。済も興も「奄に高句麗戦で喪った」とすれば、朝貢時期のずれと武の上表文が一致する。なお、済が安東大將軍なのに興が安東将軍なのは「倭国の劣勢」の反映と考えられる。

(注4)朴天秀、論文①「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳―古代九州との国際交流―」 (『九州国際大学国際関係学論集』五巻 二〇一〇年三月)

(注5)崔榮柱「韓半島の栄山江流域における古墳展開と前方後円形古墳の出現過程」(『立命館文学』立命館大学人文学会二〇一三年七月)

(注6)高田貫太「五世紀前半の西南海岸地域に点在する竪穴式石室については,日本列島の北部九州地域の竪穴式石室に直接的な系譜を求めることが可能であり,基本的には当地へ渡来した倭系集団が主体となって構築した可能性が高い」(「五世紀の朝鮮半島西南部における竪穴式室の構造」( 国立歴史民俗博物館研究報告第二一七集二〇一九年九月)

(注7)「古墳時代中期における甲冑生産組織の研究―「型紙」と製作工程の分析を中心として―」(吉村和昭研究代表。橿考研二〇一八年三月)。なお、出土品以外では、八五七年(天安元年)開山とされる長野県飯田市立石寺所蔵の短甲も同一型が使われている。

(注8)「島内地下式横穴墓群第一三九号墓現地説明会資料」(えびの市。二〇一五年一月二十五日)

(注9)『書紀』の仁徳紀の実年は外国史書に比較できる史料がないため不明確だが、仁徳四十一年(三五三)は『書紀』紀年で応神八年(二七七・実年は三九七年)の七十六年後だ。応神の年齢の長さ(「紀」百十一歳・「記」百三十歳)や仁徳の在位年数の長さ(八十七年)は「二倍年暦」と考えられ、そうであれば三九七年から、「七十六年の半分の三十八年後」の四三五年ころにあたると考えられよう。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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