2024年6月12日

古田史学会報

182号

1,皇弟・皇子・皇女の起源
 日野智貴

2,さまよえる狗奴国と伊勢遺跡の謎
 茂山憲史

3,不都合な真実に目をそむけた
   NHKスペシャル」(下)
 正木裕

4,藤原宮の大溝SD一九〇一A
  仮設運河説を考える  新庄宗昭

5,土佐国香長条里
  七世紀成立の可能性
 別役政光

6、 「天皇」銘金石文の史料批判
船王後墓誌の証言
 古賀達也

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小論

藤原宮の大溝SD一九〇一A

仮設運河説を考える

杉並区 新庄宗昭

◆問題の所在

 奈良・大和三山/香具山・耳成山・畝傍山に囲まれた中央に持統天皇の藤原宮がある。方一キロの巨大な宮殿である。これを方五キロの条坊都市・藤原京が取り囲んでいる。これらは一九六〇年代から始まり現在まで半世紀にわたって続く藤原宮・京跡の発掘調査研究の成果なのだが、大きな謎を抱えている(注一)。 今日まで斯界は、藤原京の下層には古墳時代以降に記すべき生活層はないと認識してきた。しかし、藤原宮の下層にはわたくしたちが知らない、教科書では教わらなかった都市の歴史があったのではないか、という大きな問題を孕んでいる。それが「藤原宮宮内先行条坊(以下、先行条坊と呼ぶ)」である(注二)。
 周知の通り、藤原宮宮殿群の下層から側溝の整備された条坊が広範囲に発見された(図1)(注三)。それらは発掘調査が進むに従い、藤原京条坊そのものであることを明らかにしていった(注四)。ところが、藤原宮が載る宮域の先行条坊は藤原宮建設前に、消しゴムで消すように整地土で埋められていた。つまり、藤原宮はあらかじめ出来上がっていた条坊網の上に載っていたのである。さらに、その先行条坊上には、官衙のような正格な建物群跡が検出され、先行条坊は藤原宮が活動を始める前に実際の都市活動環境であったことを示していた。この問題提起(謎)に奈良文化財研究所の回答はない(注五)。それどころか、下層から検出されるこれらの先行条坊は「藤原宮建設のための仮設の道路網であり、不要になったので埋められた」と説明し続けるのだ(注六)。
 さらにこの無回答の延長上に、問題を複雑にしている謎がある。先行条坊「朱雀大路計画線」の東側に南北に長さ五〇〇メートル以上にわたって検出されている大溝SD一九〇一A(おおよそ深さ二メートル幅六メートル)である。斯界は、これが初めて発見されて以来、これを藤原宮造営のための資材運搬用の仮設運河であると解釈して、今日まで変わることがない(注七)。藤原宮の下層は藤原宮の建設時代のものだとする最後の頼みの綱であろうか。しかし、ことはそれらの期待を挫くような方向に進んでいる。『奈良文化財研究所紀要二〇二〇』の思わぬ報告である。仮設運河説は終幕を迎えているようである。

 

◆『紀要二〇二〇』の報告で知る大溝SD一九〇一Aの平面構造

 調査が進み二〇二〇年、一九八次調査の大溝SD一九〇一Aに関する詳細な分析結果が『紀要二〇二〇』に掲載された。そこに思わぬ図が載っている。図2(注

 この図の状況が果たして、この大溝がこれら五棟の建設のための仮設運河として機能したことを明らかにしているであろうか。土木・建築の専門家を待つまでもなく否であろう。北大垣中門の基壇を発掘した担当官は「ことに南北溝SD1901の埋め立て部に位置する東側柱列に当たる穴では、それに加えて大量の石を穴の底部に敷きつめており、礎石の不等沈下に対する配慮がみられる」と言ってその二度手間の地業の過大さを報告している(注九)。 仮設の大規模な深い運河を掘って、柱材など資材運搬が終わった後、さらにそれを丁寧に埋め固め、今度はそこを再び掘り込んで栗石を敷き固める、この手順を大規模な五棟の殿舎の基礎工事それぞれで行うなどあり得ない工程なのだ。さらに、大溝SD一九〇一Aの東側にこれと並行に幅二メートルの溝がある。殿舎建設のために仮設運河を順に埋める手順となり、ためにこれをバイパスする水路を東側に設けたのだとする(図2に見える東側の溝)。仮設運河のための仮設バイパスなどは屋上屋を重ねる類い、論外である。初めからここにルートがあればよい。仮設運河では無いこと歴然としている。

 

◆『紀要二〇二〇』の報告で知る大溝SD一九〇一Aの断面構造

 もう一つ挙げておこう。図3(注一〇)を見てほしい。大極殿院内の調査地点(一八六次と一九八次)間の大溝SD一九〇一A底面の高さ(勾配)である。その間一二〇メートルあるが、図3の通り、その標高は八〇センチメートル北側(一九八次)が下がっていると計測する。であれば 六/一〇〇〇勾配であり、建物の陸屋根などの水勾配程度である。大極殿院内のこの部分だけで下流が高さ二メートル満水の時、上流の水位は一・二メートルしか入らない。さらに下流の宮域北端・宮大垣中門まで約五〇〇メートルある。ここまで行くと三メートルを超える高低差になる。これで閘門(こうもん)を使って運河になるのかどうか? SD一九〇一Aの深さは二メートルだから、この距離では下流で溢れてしまう計算だ。この勾配では、この大溝は水を流せば溜まることはなく、小川のようにサラサラと流下するであろう。
 報告者は数ページを使って、詳細な断面の流水解析を説明し、三十二層に及ぶ堆積層の成因を推測する。さらに技術的に水量管理がなされたはずだとする。それには閘門が必要であり、これを探索することが求められるという。詳細な分析には敬意を表するが、しかしその前に単純な構造を問題にしない。平面構造や断面構造を見れば、流水の波紋や流紋あるいは閘門を問題にする以前ではないかと思うのだが、いかがであろうか。

 

◆藤原宮造営のための仮設運河ではない

 ことは簡単である。藤原宮建設の時代よりも前に機能停止した旧い水路状の大溝SD一九〇一Aがあった。それを埋め立てて殿舎群を建設した。埋め立てても水捌けが悪かったのであろう。そのためのバイパスを作ったのだ。当たり前の手順である。
 さらに、次のことも明らかになる。藤原宮の占地計画は、先行条坊と大溝SD一九〇一Aの存在を理解した上で決定されており、そもそもこの先行条坊や大溝が藤原宮建設とは全く関係なく存在していたこと、そこに後から、藤原宮が無理無理、つまり軟弱地盤であろう大溝の上に殿舎群が載ることがわかってなお、占地したことを物語っている。大溝の存在は百も承知というわけである。

 

◆課題

 以上、この大溝SD一九〇一Aは平面構造からも断面構造からも極めて単純に藤原宮造営のための仮設運河では無いことを示している。斯界が期待するよりも遥かに古い遺構なのだ。この大溝から出土する数々の遺物は、この大溝の機能が停止し、長い間そのまま開口状態であったことを物語っている。また、このSD一九〇一Aが先行条坊を壊していることから、先行条坊はそれよりもさらに古く遡るということになる。では一体、この大溝SD一九〇一Aは何時、誰が、何のために開鑿したのであろうか。あるいは、この大溝は先行条坊を上から乱暴に切り裂いて造られているように見える。このことを含めて、問題は解決していない。藤原宮の下層から検出されるこの大溝SD一九〇一Aも、先行条坊と同様、藤原宮の時代以前に何事かの都市構造があったことを示している(注一一)。以上の問題提起(謎)に答えるためには、『奈文研紀要二〇二〇』報告に見るような微に入り細を穿つ三十二層の堆積層を緻密に分析する方向ではなく、大局的な観点から合理的に解釈することが求められるだろう(注一二)。大溝SD一九〇一A発見から四十六年、斯界はもうそろそろ「仮設運河説」から解放されてもいいのではなかろうか。若い研究者の斯界の大勢に流されない挑戦に期待する。
二〇二四・四・九了

 

【注・出典】

注一 奈良文化財研究所は一九七〇年から藤原宮跡の調査が始まり、平城京跡の調査とは独立して飛鳥・藤原地区の調査部を設け、継続して取り組んできた。調査次数は二一〇次を数える。

注二 筆者『実在した倭京・藤原京先行条坊の研究』二〇二一 ミネルヴァ書房に拙論を展開している。

注三 先行条坊の発見は早く、西方官衙地区の第4次調査(一九七四)で最初の発見があり、第二〇次調査(一九七八)は大極殿院で朱雀大路計画線・大溝SD一九〇一Aを検出している。この報告書(藤原宮発掘調査概報八)以降、前者は仮設・計画線であり、後者は建設用運河と解釈され、今日まで変わらない。図1の写真の出典は奈文研『藤原宮ー半世紀にわたる調査と研究』一九八四に筆者文字追加

注四 奈文研『木簡Ⅱ解説』一九八一

注五 奈文研 第五八次・第一六九次調査。先行条坊に関する研究は今世紀に入って極端に不活発になり、結論の出ないまま二〇一〇年代を迎え、第五八次・第一六九次調査の結果など、先行条坊の活性であった可能性などは全く検討された形跡がないまま、今日に至っている。あたかも消しゴム説が真であるかのような状況である。

注六 奈文研『なぶんけんブログ』二〇一四・十二にこれまでの奈文研の見解を二、三紹介している。いずれの場合であっても消しゴムで消すように埋められているのだが。

注七 筆者ブログ「斯界の通説・運河SD一九〇一A・一~三」『新庄嘉堂残日録』https://blog.goo.ne.jp/shinjocadで過去の調査報告を調べている。

注八 この図2は「藤原宮下層運河SD一九〇一Aの検討」『奈文研紀要二〇二〇』九四頁の図一二二を筆者が分析のために加筆加工したものである。なお、一九八次調査時点では、大極殿後殿(の基壇)は確認されていない。『奈文研報告二〇二三』による成果を筆者がこの図に付加している。

注九 飛鳥・藤原宮発掘調査概報六(一九七六)一七頁

注一〇 図3は前掲書「藤原宮下層運河SD一九〇一Aの検討」『奈文研紀要二〇二〇』一〇〇頁 図一二六を筆者が加筆 

注一一 筆者前掲書(注二)による。この都市構造は『書紀』孝徳紀から天武紀上まで名前の載る「倭京」条坊であろうと考える。呼称としても、事実そう呼ばれていた蓋然性が高い。天智が近江大津宮に遷都する。その翌年、『書紀』は「皇太子(天智)幸倭京」と記す。『書紀』編者はこの行幸事実だけをそっとわたくしたちに教えてくれている。遷都して天智のいなくなった京は倭京と呼ばれていたのである。

注一二 【予察】課題の中で少し述べた通り、この大溝は荒っぽく、速成で施工されたような印象を受ける。水路幅が定まっていない。一応、朱雀大路計画線に沿ってはいるが、幅三~一〇メートルとグネグネと護岸線はうねっている。護岸工は無く、素掘りのままのようである。運河に必要な側道(引馬道)も確認されない。また、条坊を無造作に切り裂いていることから、条坊の施工管理主体とは別種の主体が条坊を無視して造営した可能性も考えられる。例えば唐進駐軍である。もっとも、その前にこの大溝SD一九〇一Aの上流と下流の痕跡追求が急がれるであろう。検討課題である。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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