「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」 正木裕 (会報180号)
緊急投稿 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル」(上) 正木裕(会報181号)
不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル(下) (会報182号)
YouTube動画 本当の「倭の5王」 -- 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル古代ミステリー 正木裕 https://youtu.be/Lqwanzd9n6g
緊急投稿
「不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル」
(上)
川西市 正木裕
一、NHKで放映された「邪馬台国」「倭の五王」に関する番組
二〇二四年三月十七日と二十四日に「NHKスペシャル古代史ミステリー」と題して、第1集では「邪馬台国」(「邪馬台国の謎に迫る」)、第2集では「倭の五王」(ヤマト王権 空白の世紀)に関する番組が放映された。
番組は「私たちの国のルーツを解き明かす壮大なミステリー」と打ち上げていたが、その内容は一貫して「邪馬台国大和説・倭の五王ヤマトの大王説」に基づくものだった。「基づく」と言ったのは「ヤマト説の解説」ですらなく「邪馬台国はヤマト・倭の五王はヤマトの大王である」ことを自明とした番組という意味だ。公共的使命を持つと考えられているNHKだから、一般の方々の中にはこの放送により「大和説が正しい」と思った方も多いのではと危惧するところだ。
そして、「邪馬台国」については「九州説・大和説がある」と解説しつつも、「吉野ヶ里」を簡単に紹介したのみで、近年学会において有力とされる比恵那珂遺跡や須玖岡本遺跡等の状況には全く触れず、大和説一辺倒で「纏向邪馬台国・箸墓俾弥呼の墳墓説」が繰り返し述べられた。
(編集部注:一般には倭国の女王は「卑弥呼」という表記で知られているが、『三国志魏書』の本紀には「俾弥呼」とあるので、本稿では引用に懸かる部分でもこれに統一する)
また「倭の五王」編では、文献上で在位期間や続き柄から五王をヤマトの天皇に治定することの困難さや、近年百済南西部で続々と発見される前方後円墳が「北部九州様式」であること、出土物も九州と共通することにも触れることはなかった。このように「古代史ミステリー」は、邪馬壹国にせよ倭の五王にせよ「大和説に不都合な真実」には一切触れない番組だったと言える。
そこで、番組があえて取り上げなかった「文献上・考古学上」での「不都合な真実」を幾つか挙げ、番組制作姿勢への問題提起とするとともに、かえって、そ
こから、古田氏の唱える「邪馬壹国九州説・倭の五王九州の大王説」の正当性を明らかにしていきたい。
二、番組が取り上げなかった「不都合な研究成果」
まず三月十七日放映の「邪馬台国」編から始めよう。
番組では、以下のようなヤマト説に不都合な、近年の考古学上の研究成果を無視し、視聴者に知らせない編集方針をとっている印象を受けた。
①無視された都市化の研究の進展
二〇一八年十二月に大阪歴史博物館で開催された、「古墳時代における都市化の実証的比較研究—大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地(纏向・南郷等)」総括シンポジウムで、「俾弥呼の時代に、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の比恵・那珂遺跡地域で、他にはなく、『初期ヤマト政権の宮都』とされる纏向遺跡では、そのような状況は依然ほとんど不明」とする研究が発表され、報告書に掲載された(注1)。
②紹介されない現場の発掘者の見解
『魏志倭人伝』から、俾弥呼・壹與が半島・帯方郡や魏・西晋朝と交流していたことは明らかだが、橿原考古学研究所で約四十年間纏向はじめ大和の遺跡を発掘してきた関川尚功氏が、「畿内ではありえない邪馬台国」と題する本を出版(注2)。その第四章「纏向遺跡の実態」では、纏向の「主な交流地域は吉備・山陰まで」で、「少ない金属製品と大陸系遺物」は「対外的交流については・・・依然としてほとんど認められない」ことを示し、「この遺跡を仮に邪馬台国として想定した場合、そこに比較できるような遺構や遺物というものが、全くと言ってよいほど見当たらない」、「纏向遺跡は、邪馬台国とは地域・性格、そして時代も全く異にする遺跡ではなかろうか」と結論づけた。
③触れられない九州と纏向の「外交交渉」の差
同じく橿考研で主任研究員を務めていた坂靖氏(二〇二三年二月急逝)は、纏向は海外交渉を示す資料が希薄で、当時の外交拠点は北部九州だとした。
◆「庄内式期の纒向遺跡には、海外交渉を示す資料が極めて稀薄である。日本列島における楽浪系土器の分布の東限は、島根県山持遺跡。北部九州では…比恵・那珂遺跡群などで楽浪系土器が集中的に出土し、当該期の外交拠点であったと考えられる。それに対し、纒向遺跡に楽浪系土器は皆無であり、外交拠点となったのは,布留式期以降と考えられる」(注3)。
こうした研究は、纏向が俾弥呼の邪馬壹国でないことを強く示唆するものだ。つまり「ヤマト説にとって不都合な内容」だから番組で紹介しなかったのではないか。
三、「不都合な真実」のカット
また、「大和説に不都合な文献や考古学上の事実」をカットしたと思われるケースが、以下の様に多々見受けられた。
①「径百余歩徇葬者奴婢百余人」をカット
画面には「邪馬壹国」と表示しながら、音声は「やまたいこく」だったが、これはさて置いても、重要な問題は『魏志倭人伝』の文面の「俾弥呼以死大作塚」を表示しながら、その後にあるはずの「径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」の部分をカットしていることだ。
「径」は円墳だ。そこで前方後円墳である箸墓説では「径」を「後円部のこと」と強弁しているが、箸墓の後円部の径は百五十mで、百余歩なら一歩一.五mとなる。周代以降一里は三百歩であることは変わらないから、「箸墓基準」では一里四百五十mとなる。そうなら千里の狗邪韓国~対馬が四百五十㎞となり、これはありえない。
一方『三国志』「韓伝」には韓は方(一辺)四千里とあり、実測約三百㎞・一里約七十五m・一歩約二十五㎝、径百歩だと約二十五mとなる。『倭人伝』を読む限り、箸墓を俾弥呼の墓とすることはできないのだ(注4)
また、大和の古墳には「徇葬」の形跡がない。一方、九州では須玖岡本では巨石下甕棺墓の周辺に甕棺が「集団埋葬」されていることは周知のとおりだ。また隣接の比恵・那珂遺跡でもそうした状況が見受けられる。
②『魏志倭人伝』の距離・方位を取り上げない
番組では、「邪馬台国」の位置について、当初に「海の中という説もある」とだけ述べ、『魏志倭人伝』には距離や方位が明確に記されていることを伝えなかった。距離・方位を取り上げればヤマトには決して行かないことが誰の目にも明らかになるからだろう。
『魏志倭人伝』には帯方郡から女王国まで一万二千余里とあるところ、帯方郡から伊都国までの里数合計は一万五百里で残りは千五百里だ(注5)。末盧国から伊都国は五百里だから、千五百里は怡土平野からせいぜいその三倍で、ヤマトは勿論九州中部にも届かない。小学生でもわかる算数だ。また方位は伊都国から不彌国までが東とあるだけで、あとは南か南東かでヤマトには向かない(*伊都国からは東南、奴国に至る。東行、不弥国に至る。南、投馬国に至る。南、邪馬壹国に至る。)。従って、これらの距離・方位を否定するには『魏志倭人伝』の「距離も方位も出鱈目」と言わざるを得ず、一気に番組の信頼性が落ちる。だから距離・方位をあえて取り上げなかったと推量される。
③考古学に基づかない纏向遺跡の大型建物の復元図
番組では、纏向遺跡の「大型建物」を想像図として復元放映している。しかし、関川尚功氏は、注2で紹介した『考古学から見た邪馬台国大和説』で次の様に述べている。
(纏向の)「主な建物のA~Dの四棟のうちAはその後の調査では存在しなかったといい、最も規模が大きく中心的とされる建物Dも主柱の半数以上が(その後の庄内期・古墳期の遺構の掘削の為)失われているため全体像には理解が及ばないところがあり・・推定復元の結果が先行」と述べ、かつ「主柱の多くが欠失しているのは、その後に築かれた…特に前期の大きな区画溝による掘削のためである。遺構の中心になるような重要な建物であれば、その後があまり時間をおかずにいくつもの遺構によって簡単に壊されるようなことはないであろう。」と「重要な中心的建物」という治定にも疑問を呈している。「大型建物図」は、番組の意図に合わせ「考古学的事実の確証がないまま」邪馬台国の中心施設に相応しいように作図した疑いを抱かせるものだ。
④纏向を「邪馬台国」の宮都であるようにみせる「鳥瞰図」
番組では寺沢薫氏が原画作成に関与した「大型建物」を核とした「纏向遺跡の鳥瞰図」を示し、「邪馬台国」の宮都のように見せた。しかし、寺沢氏本人が「箸墓と大型建物は先後関係があるが同一画面に再現している」という。これは「箸墓古墳の年代には大型建物は存在しなかった」という意味なのにNHKはそのまま掲載し、視聴者に錯覚を与えている。存在時期が違う施設を同一画面上に描くこうした手法は望ましくない。まして「大型建物」の存在が不明確なのだからなおさら問題があろう。なお、関川氏は「纏向遺跡は、地形から見ると複数の旧河川によって分立している遺跡群であり、遺跡の範囲は最盛期には広大であるが、それは遺構の広がるところばかりではなく、河川域も含んでいるからである」という。つまり、纏向遺跡の鳥瞰図についても、実態に即さない「推定復元」が先行しすぎているのだ。「纏向の都市化」について否定的な見解が出されるのも当然だろう。
⑤「鉄の鏃で狗奴国を討伐」は考古学上の事実に反する
番組ではヤマトの俾弥呼が「鉄の鏃で狗奴国を討伐」したかのような映像を流していた。しかし、大和からの鉄器出土が増えるのは前方後円墳が一般化してからであり、俾弥呼の時代、大和での鏃などの鉄製品の出土は、福岡に比べて極めて乏しく、纏向での最古級の鉄の精錬遺物は、紀元三〇〇年前後の土坑からの出土した鉄滓(*鉄くず)だ。従って俾弥呼が鉄鏃で狗奴国を討伐したとするのは適切ではない。
そもそも『魏志韓伝』には「国、鉄を出す。韓・濊・倭皆從ひてこれを取る。諸の市買には皆鉄を用ゐ、中国の銭を用ゐるごとし。また以て二郡(*楽浪・帯方)に供給す」とあり、俾弥呼時代の遺跡であれば鉄製品が相当量出土するはずだがそうなっていない。一方、三世紀ごろとされる福岡比恵遺跡の竪穴住居ほかの多くの遺跡から、板状の鉄素材が出土しており、その形状から「貨幣」として用いられていたとも推測される(注6)。
番組では「鉄鏃による狗奴国の討伐」を述べながら、あえて鉄製品の出土量に触れなかったのは、鉄鏃で狗奴国を討伐したのは九州の勢力となるからだろう。
四、触れられなかった『魏志倭人伝』記載の「物」
①俾弥呼が魏に献上した「弥生絹」
『魏志倭人伝』には俾弥呼が絹織物を魏朝に献上したと記すが、弥生時代の絹の出土は北九州に限定され、日本最古の純国産の絹が、弥生前期末(紀元前一〇〇~一五〇年頃)の福岡市早良区の有田遺跡から出土し、比恵那珂遺跡や須玖岡本遺跡からも出土している。そして、京都工芸繊維大学名誉教授だった故布目順郎氏は次の様に述べている。
◆養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも四百年間は九州北部で独占していた。(略)『魏志倭人伝』は、邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し、その時期は弥生後期にあたる。そのことと上記のことから、邪馬台国の所在地としては北部九州とするのが妥当であると考える(注7)。
②「文書外交」に不可欠な「硯」
『魏志倭人伝』の伊都国・一大率条には、「王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」とある。こうした「文書外交」には文字・文章を解する知識は勿論、「筆記具」が必須となる。この点纏向遺跡に「硯」は見当たらないが、九州では二〇一六年に柳田康雄国学院大客員教授らが三雲・井原で硯を発見、その後福岡で使用痕跡のある硯の発見が相次いでいる。
③交易に必要な「権(秤に用いる重り)」
『魏志倭人伝』の対海国条には「船に乗り、南北に市糴す」とあるように半島と九州間の頻繁な交易が記される。このような俾弥呼の時代の半島との交易に不可欠なのが「権(秤の重り)」だ。「権」は半島では基準量を十一gとし、「十進法」(十倍・二十倍・三十倍など)で作られていたが(*尚南道の茶戸里遺跡出土の青銅権)、畿内の「権」は基準値は八,七gで、かつ他国に例のない二・四・八・十六・三十二倍の「八進法」で作られた「権」だった(*石権亀井遺跡出土権)。
一方、福岡県では二〇二一年に春日市の須玖遺跡群から、半島と同一基準の十一gで十進法の権が出土している。これは、半島と交易していた「邪馬台国」は九州にあったことを示すものだ。
④「三角縁神獣鏡」でなく「呉鏡」の出土を俾弥呼と関連付ける
番組では「ヤマト説の切り札」とされてきた「三角縁神獣鏡」ではなく、「呉鏡」と俾弥呼を関連付ける映像と解説を放映していた。呉と俾弥呼の関連とは、「呉は東アジアの覇権のために倭国と関係を持とうとした。それが呉鏡出土の理由だ」というものだ。こうした解説の背景には、近年、冶金学者の新井宏氏らによる銅鏡に含まれる鉛同位体分析から、三角縁神獣鏡を始め魏の年号を持つ鏡の殆どに、韓国(全州鉱山)や、我が国の岐阜県神岡鉱山などの鉛が添加されており、これらが中国製ではなく、仿製鏡(国産)であることが改めて確認されてきたことがある(注8)。
また、㋐三角縁神獣鏡は五百枚以上出土する。㋑中国からの出土が無い。㋒「景初四年」という存在しない年号の銘の三角縁神獣鏡がある。㋓黒塚古墳で重要視されたのは棺内の頭部におかれた画文帯神獣鏡(漢鏡)。棺外に三角縁神獣鏡は位置づけが低い、ことなどから、俾弥呼の鏡は三角縁神獣鏡でなく、九州に多く出土する「漢鏡」との説もかねてから強く主張されている。もう以前のように「三角縁神獣鏡」をヤマト説の柱に据えるわけにはいかないのだ。そこで西日本以東に多く出土する「呉鏡」や公孫氏との関係が深い楽浪鏡をヤマト説の根拠に位置付けようとしたと思われる。
しかし、「呉鏡」とは具体的には「画文帯神獣鏡」を指すが、これは魏と対立する呉の地域を中心に、呉に臣従した南方諸国や公孫氏の支配する楽浪などで多く出土する。孫権は二三〇年に沖縄と考えられる東夷の夷洲に派兵し、男女数千人を捕虜としているから、「親魏倭王」の俾弥呼にとっては敵対する勢力の鏡と言えよう。従って「呉鏡」は俾弥呼とは「縁遠い鏡」であり、その出土を「邪馬台国」の根拠とするのは無理な論理といえよう。そして「呉鏡」の出土こそ俾弥呼と対立していた狗奴国の領域を示すものと考えられよう(注9)。
また、俾弥呼には「五尺刀二口」が下賜されている。漢代の一尺は約二十三㎝だから、「五尺」は約百十五㎝、魏の一尺なら約二十四㎝で約百二十㎝となる。そして、これに合う刀が糸島市から出土している(前原上町向原遺跡出土の素環頭大刀、百十九㎝)。
このように「NHKスペシャル古代史ミステリー」は、「ヤマト説ありき」で、これに不都合な研究・文献・遺物を無視する極めて公正さを欠く番組だったと言えよう。今後は科学的かつ客観的で公正な番組作りを強く求めるものだ。
*なおNHKの番組を取り上げる都合上、番組で用いた「邪馬台国」と表記するが、本来は勿論「邪馬壹国」である。
注
(注1)福岡市埋蔵文化財課久住猛雄氏の発表。「同シンポジウム資料集」大阪市文化財協会編に掲載。
(注2)関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説―畿内ではありえない邪馬台国』(梓書院。二〇二〇年九月)
(注3)坂靖「ヤマト王権中枢部の 有力地域集団」(歴史民俗博物館研究報告第二一一集、二〇一八年)
(注4)「円墳」の大きさを見ると、奈良では、今注目されている奈良市の富雄丸山古墳は径百十m、五条市の近内鑵子塚古墳径八十五m、天理市の塚穴山古墳径約六十三m、葛城市の鍋塚古墳径四十六mと大型円墳が多く、これらも俾弥呼の墓には大きすぎる。
これに対し、九州の円墳では、最大が糸島市神在の釜塚古墳の径五十六mで、同じ糸島の狐塚古墳は径三十三m、博多区の今里不動古墳は径三十四m、春日市弥生の赤井手古墳は径三十m、京都郡みやこ町の呰見大塚古墳は径二十五ⅿなど三十m前後となっている。いずれも時代は下がるが、俾弥呼の墓もこの程度のものか、それ以下だったと推測される。
(注5)対海国は方四百里で島を越えるには半周するから里数は八百里。同様に一大国は方三百里で、半周六百里、合計千四百里となり、これに不彌国までの百里を加えると千五百里で、総里数一万二千里となる。
(注6)比恵遺跡出土の板状鉄製品は最大長 8.6㎝、幅 3.1㎝~3.83㎝、厚さは最大で 1.3㎝ 。重量は 280.98g。
(注7)布目順郎「シルクの考古学」(『繊維と工業』巻四十五、一九八九)
(注8)鉛には質量数が204、206、207、208の四種類の同位体があり、その比率が産地によって異なる。鉛同位体比の208Pb/206Pbが2.12~2.14、207Pb/206Pbが0.855~0.865の鏡は仿製鏡の可能性が高く、三角縁神獣鏡はこの範囲に入る。
(注9)この点、漢代までの史書には、我が国には西に燕地に属する「楽浪海中の倭人」と、東に呉地に属する「會稽海外の東鯷人」がいたと記す。
◆『漢書』(地理志・燕地)楽浪海中倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見すと云う。
(呉地)會稽海外東鯷人有り。 分れて二十余国を為す。歲時を以て来り献見すと云う。
『後漢書』(東夷列伝、倭)會稽海外東鯷人有り。分れて二十余国を為す。
會稽海は東シナ海を指し、その外の東鯷人は「呉地に属する」という。従って東鯷人の領域から「呉鏡」が出土するのは自然のことだ。そして、東鯷人は漢代以降には見えず、これは「銅鐸圏」の滅亡と軌を一にし、古田武彦氏は「疑う余地もない『銅鐸圏の人々』だ」とする。
◆古田武彦『邪馬壹国の論理』ー金印の「倭人」と銅鐸の東鯷人ー(ミネルヴァ書房、二〇一〇年)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
デジタルアーカーブ 新古代学の扉 事務局 E-mailはここから。Created & Maintaince by" Yukio Yokota"