朱鳥改元」と「蛇と犬が倶に死ぬ」記事(会報179号)
不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル」(上)正木裕 (会報181号)
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「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」
川西市 正木裕
一、存在しないはずの「暗文土師器」発掘さる
1、元日の南日本新聞報道
二〇二四年元日の南日本新聞に、次のような「存在しないはずだった…飛鳥時代の「暗文土師器」が鹿児島で初確認」との報道があった。
◆「南日本新聞」鹿児島県指宿市の尾長谷迫遺跡で、七世紀中ごろ、飛鳥時代の「暗文土師器」と呼ばれる土器が鹿児島県内で初めて見つかった。古代国家・大和政権の都があった畿内地域の影響を受けた土器とされ、これまでの南限は宮崎県だった。鹿児島県内では政権と衝突した隼人が暮らしており、専門家は「県内には存在しないと考えられていた。政権(*ヤマトの王家)と何らかの関係を持つ勢力が指宿にいたことを示す」と注目している。
「暗文土師器」は、「外面に丁寧なミガキが入り、内面には『暗文』と呼ばれる文様を放射状に施文し、金属器の光沢や質感を再現。宮都(*畿内)を中心に生産・消費された(奈文研)」土師器で、「律令体制の下で役人が食事に用いる食器として金属製の器を模して作られた(御殿場デジタル資料館)」とされている。そして、各地の出土状況から「暗文土師器は国家と関わりがあった地域でのみ出土する」と考えられていた(注1)。この点、「南日本新聞」は、
◆政治施設である「官衙」に関連する遺跡から見つかるケースが多く、国立歴史民俗博物館研究部の林部均教授(考古学)は「古代国家、都の存在を示す象徴となる土器。国家と関わりがあった地域でのみ出土する」と解説。これまでは西都市にある日向国府跡の寺崎遺跡と水運関連施設の宮ノ東遺跡が南限とされていた。
と報道している。
2、尾長谷迫遺跡とは
暗文土師器が発見された尾長谷迫遺跡(指宿市西方字尾長谷川迫七四二〇ほか)は、鹿児島湾(錦江湾)に面する高台の大隅半島や湾奥の沿岸部を一望できる場所にある弥生から中世まで続く複合遺跡で、鍛冶あるいは製鉄工房も発掘されている。発掘された「暗文土師器」は丸底椀で、七世紀後半の開聞岳の噴出物の堆積層「青コラ(火山灰)」の下の地層から出土した。これは土師器が七世紀中葉のものであることを示す。
3、『書紀』『続日本紀』ではありえない「暗文土師器の出土」
一方、『続日本紀』では、薩摩に大和朝廷が「官吏」を置いたのは薩摩の隼人を討伐した七〇二年以降とされ、七世紀にヤマトの政権の役所が置かれた形跡はない(注2)。
◆『続日本紀』大宝二年(七〇二)八月丙甲(一日)に、薩摩・多褹、化を隔て、命に逆ふ。ここに於いて、兵を発し征討し、遂に戸を校べ、吏を置く。
さらに、『続日本紀』養老四年(七二〇)には「蛮夷害をなすこと、古より有り。」とあり、隼人がヤマトの政権とたびたび衝突したことは覗えても、隼人自らがヤマトの支配を受け入れた形跡は見当たらない。そうしたことから、隼人の領域で畿内の役所と関係の深い暗文土師器の出土は「ありえない」と報道されたと思われる。
二、多元史観(九州王朝説)では「あって当然の土器」
1、『開聞古事縁起』の「大宮姫伝承」
しかし、多元史観(九州王朝説)では、七世紀の薩摩、特に指宿と畿内には深い関係があり、「暗文土師器」の出土は当然と考えられるのだ。
『書紀』や『続日本紀』には記されないが、指宿の開聞岳の麓の枚聞神社(開聞神社。指宿市開聞十町)に伝わる『開聞古事縁起』の「大宮姫伝承」(注3)では、薩摩指宿生まれの「大宮姫」が近江遷都後に天智の妃となり、天智崩御後の六七一年十一月に、大友皇子に都(近江)を追われ、翌壬申年(六七二)薩摩開聞岳に帰ったとされる。
①開聞神御誕生之事 孝徳天皇白雉元年
(庚戌六五〇)春二月十八日辰の刻。
②開聞神二歳入京之事(陸地ヨリ御上洛)・・太宰府《又ハ都督府ト》に奏し上都を告げる。宣により二歳で上京す。(*陸地から行ける京は太宰府)
③同十三歳立皇后宮事 壬戌年(六六二)天智天皇即位。・・同六丁卯年(六六七)南都朝倉都を巡り近江州志賀に都す(注4)。・・大宮姫を皇后宮に立てたまふ也。天智天皇十年辛未(六七一)冬十一月四日秘に下向。
④開聞神后御下向之事 是に大友皇子兵勢を催し大宮姫を弑せむとす・・。 (略)勢州安濃津に着き乗船。天武帝白鳳元壬申(六七二)十一月四日、薩州頴娃郡山川之牟瀬浜に着す也。(*十一月四日は伊勢出発日。頴娃郡は「評制」では衣評で、現在の南九州市・指宿市にあたる。)
通説では、隼人の姫が天智の皇后になるなど到底考えられず、 『開聞古事縁起』の大宮姫伝承は、隼人の地位を飾るための虚構・絵空事とする。しかし、大宮姫の生涯は、『書紀』に記す天智の皇后「倭姫王」の生涯と良く通じるものがあるのだ。
2、『書紀』の倭姫王
『書紀』では古人大兄皇子の女「倭姫王」が、天智即位時(六六八年)に皇后となり、天智崩御直前(六七一年十月)には大海人により天皇に推挙されるが、十二月の崩御後は、天智と伊賀宅子娘の子の「大友皇子」が後継(*後の弘文天皇)になる。そして倭姫王は六七一年十月以降消息を絶ち、以後一切の記述がない。天武が天皇に推挙した重要人物の消息が、天武紀に一切記されないのは不可解だ。
そもそも倭姫王の父母兄弟は、天智(中大兄)により「謀反人」として皆殺しになっている。
◆『書紀』大化元年(六四五)〈九月十二日条の細注〉或本に云はく、十一月甲午卅日、中大兄、阿倍渠曾倍臣・佐伯部子麻呂二人、將兵四十人を使して、古人大兄を攻め、古人大兄と子を斬り、其の妃妾は自経きて死す。
さらに、天智には、天武妃となる大田皇女、持統天皇となる鸕野皇女を産んだ遠智娘、元明天皇となる阿陪皇女を産んだ姪娘、大友皇子の母伊賀采女宅子娘など重要な嬪がおり、彼女らを差し置いて謀反人の娘を皇后とし、また大海人が天皇に推挙するのも考えづらい。
そして、『旧唐書』等の中国史書で「倭」とは、金印を下賜されて以来、阿蘇山ありとする多利思北孤まで、我が国の代表者として歴代の中国王朝と交流してきた九州を拠点とする国とされ、これに対しヤマトの王家(大和朝廷)の国は「日本国」で、「倭国」と別の国としている(注5)。
従って「倭姫王」は、本来『旧唐書』に記す「倭国(九州王朝)」の姫と考えるのが自然だろう。そうであれば薩摩から太宰府に遷り、白村江前に戦場に近い筑紫から近江に避難したことは十分考えられる(注6)。
「倭姫王」が九州王朝の姫で『開聞古事縁起』の「大宮姫」であれば、皆殺しにした一族の娘を皇后にするとか、天皇に推挙するという不自然さが解消するうえ、大海人が天智没後には即位を勧めたのも理解できる。
中大兄は六六一年の斉明崩御後も天皇に即位せず「称制」を続け、六六八年正月に天皇に即位し、翌月倭姫王が皇后となる。「称制」とは天子(天皇)は存在するが、何らかの理由で政務が執れないときに、代わって「摂政」として執政することだ。斉明が崩御し天皇不在なら即位に支障はないはずだが、「天子(天皇)」がヤマトの王家の天皇でなく、倭国(九州王朝)の天子(王)で、かつ政務が執れない状況であれば「称制」はあり得ることになる。そして、称制当時、「筑紫君薩夜麻」が唐に抑留されていた。
六六三年の白村江の大敗北で、九州王朝の薩夜麻は捕囚となり、唐に連行され唐に臣従し、「倭国酋長」として高宗の「封禅の儀」に参列する。そして、高宗の「羈縻政策」によれば、高句麗や百済の「酋長」同様に、「都督(倭王)」に任命され、郭務悰や唐の軍と共に帰国することになる。その年次は『書紀』では天智十年十一月となっているが、天智十年記事の「ずれ」から、実際は「筑紫都督府」がみえる天智六年(六六七)十一月と考えられる(注7)。つまり、六六三年から六六七年十一月まで倭王(倭国酋長)は不在だった。中大兄は薩夜麻不在の間は、倭王薩夜麻に代わって近江で政務をとり、これが「天智称制」だと考えられよう。そして、薩夜麻が敵国だった「唐」の都督として帰還したのを契機に倭姫王を娶り、倭国(九州王朝)の王に即位、天智九年(六七〇)には「庚午年籍」を造籍、国号を日本と改め(*『三国史記』新羅本紀文武王一〇年(六七〇)に「倭国更えて日本と号す」)、翌天智十年(六七一)一月二日に「近江令」を制定する(*「法度・冠位の名は具に新しき律令に載せたり」とある)。ただ、天智没後の近江朝では、九州王朝や倭姫王と無縁の大友皇子が後継者になる。
一方、九州には唐の郭務悰と軍、高宗から都督倭王に任ぜられた薩夜麻がいる。天智が、九州王朝の「入り婿」として政務を執るのは容認できても、倭姫王と無縁の大友の倭王即位は、唐としても、また九州王朝としても認められず、大海人を支援して近江朝を滅ぼし、羈縻政策通り薩夜麻が倭国(九州王朝)の王に復位した、これが「壬申の乱」だ。
3、薩摩に帰った「大宮姫」と「倭姫王」
古田武彦氏は、『壬申大乱』(注8)で、大海人が大友から逃れたのは、奈良の吉野でなく唐の軍の駐留する佐賀吉野だとされるが、そうであれば大海人が天皇に推挙した倭姫王も九州に逃れて不思議はない。
『開聞故事縁起』は、薩摩に帰った「大宮姫」は指宿に宮殿を造営し、以後三十余年間、薩摩と太宰府を居所としたと記す。
◆『縁起』御假殿御入之事(白鳳二癸酉年六七三年)。神嶽の麓に假殿を御営む。御假殿を俗に「京殿」と云ふ。后宮帝曰く、此地を外朝で西の極霊之最勝(*最も霊験あらたかな地)とする。本城に御移りし後、以て御假殿の堂・寺を法華寺と号く。寺地に四方五輪石塔を建つ。
「御嶽麓離宮営構之事」には「假殿」は「離宮」と称され、「方十町の宮殿楼閣」で、「上都に準じ数十の官舎が甍を連ねる華麗なもの」だったとある。
太宰府政庁二期の創建は、瓦の編年から観世音寺創建(六七〇年)にやや遅れると考えられるため(注9)、六七〇年代に造営したという「本城」とは「太宰府」を指すことになろう。また、同「離宮御入之事」では、「大宮姫」は離宮に遷って以後三十余年これを「外域の離宮」と呼んだとある。
◆「離宮御入之事」時は天武白鳳二年癸酉夏五月五日也。此の仙土を離宮とし凡そ三十餘年也。之を呼びて外域と云う。九州の貢物は當離宮と太宰府に奉進される也。
そして、九州の諸司は薩摩・指宿の離宮と太宰府に貢納したと記すから、「大宮姫」は太宰府を「本城」、薩摩を「離宮」とし九州一円を勢力下に置いていたことになる。これは、木簡の研究で、七〇〇年まで西海道諸国の貢進物は、ヤマトでなく、太宰府に送られていたことから裏付けられる。
◆「(評制時代)西海道諸国では基本的に貢進物は大宰府に送られ、調綿など少数を除いて宮都まで齎されることはなかった。(評制時代の飛鳥・藤原・難波地域で)出土した荷札木簡において、確実に西海道諸国から送られたと言えるものは皆無であった。」 「西海道では仕丁・衛士も向京しなかった。」(注10)
大宮姫の薨去は七〇八年とあり、これは六七三年から三十数年後にあたるため、姫の薨去まで離宮は存続したことになる。
◆「皇帝后宮岩隠之事」(略)元明帝和銅元(七〇八)戊申歳六月十八日皇后御寿五十九薨御也
4、大宮姫は『書紀』の倭姫王で『続日本紀』の「薩末比売」
『続日本紀』には七〇〇年・七〇二年に「薩末比売」ら南九州の勢力が、大和朝廷の律令施行に抵抗して、反乱をおこした事が記されるが、これは「大宮姫」の存命中の出来事になる。
◆『続日本紀』文武四年(七〇〇)六月庚辰(三日)。薩末比売、久売、波豆。衣の評督衣君県、助督衣君弖自美、肝衝難波、肥人等を從へ、兵を持して覓国使刑部真木等を剽劫す。是に竺志惣領に勅して犯を決罰す(注11)。(略)十月己未(十五日)石上朝臣麻呂を筑紫惣領とす。
ここには、九州王朝の地方制度である「評」が記されており、「衣の評」は大宮姫の帰還地で離宮を営んだとされる頴娃郡だから、「薩摩比売」とは「大宮姫」であり、同時に倭国(九州王朝)の姫「倭姫王」を指すこととなる。また、「肝衝」とは後の肝衝郡で、錦江湾を挟んで指宿の対岸の大隅半島の領域、「肥人」とは肥後国球磨郡一帯の『筑前国風土記』で「球磨囎唹(贈於)(熊襲か)」とされる勢力と考えられる(注12)。これは「薩末比売(大宮姫)」が南九州一円を統治していたことを意味し、 当然「離宮」とされる政庁も存在していたことになろう。
『書紀』で、六七一年以降姿を消した、近江朝における天智の皇后「倭姫王」が、『開聞故事縁起』に記す、近江から指宿に帰り、宮を造った「大宮姫」で、七〇〇年に南九州の勢力を糾合する力を持つ「薩末比売」であれば、その宮・官衙で畿内の高級な暗文土器が使用されていても不思議はない。
「大宮姫伝承」を「史実に基づかない創作」とし、「薩末比売」を夷蛮の隼人の頭目とする立場では「ありえない土器」でも、多元史観で「倭姫王」を九州王朝の姫で、『開聞故事縁起』の「大宮姫」であり、かつ、三十余年を経て大和朝廷の支配に抵抗した「薩末比売」だと考えれば、「暗文土師器」は指宿の尾長谷迫遺跡に「あってしかるべき土器」となる。逆に、畿内の官衙と関係の深い土器が指宿で発掘されたことは、『開聞故事縁起』の大宮姫伝承に考古学上の根拠を与えたことになろう。
最後に、南日本新聞の情報をお知らせ戴いた茂山憲史氏に深謝申し上げます。
(注)
(注1)例えば姫路市広畑区の才村遺跡で発掘された暗文土師器は、 「一般集落からは出土しない遺物。付近に役所のような施設があった可能性がある」(兵庫県まちづくり技術センター)と解説されている。
(注2)『書紀』には、六九二年に筑紫大宰に大隅と阿多に仏像を伝えよと命じる詔があるだけで、ヤマトの勢力が役所を置いた記事はない。
(注3)「大宮姫」については古賀達也氏が『最後の九州王朝ー鹿児島県「大宮姫伝説」の分析』(市民の古代第十集。一九八八年)で詳述されており、本会のホームページから閲覧できるので参照されたい。『開聞故事縁起』は、『山岳宗教史研究叢書⑱修験道資料集〔二〕西日本編』(五来重編。名著出版、二〇〇〇年)による。なお読み下しは筆者。
(注4)『書紀』で近江遷都は天智六年(六六七)三月だが、『海東諸国紀』(申叔舟著。一四七一年)では、斉明七年(六六一年・九州年号「白鳳元年」)に白鳳に改元し近江に遷都したとある。
(注5)『旧唐書』倭国は古の「倭奴国」なり。(略)山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中国と通ず。四面小島。五十余国、皆付属す。
日本国は、倭国の別種なり。(略)もと小国にして倭国の地をあわせたり・・東西南北各数千里西界と南界は大海にいたり、東界と北界には大山ありて限りとなす。山外はすなわち毛人の国なり。
なお、「倭」の文字の音は呉音・漢音ともイ(ヰ)またはワで「ヤマト」の音はない。『書紀』は神代紀に「日本、此を耶麻騰と云ふ。下皆此に效へ。」と記し、「日本国」が「倭国」で「ヤマトの王家の国」と見えるように編纂したことになる。
(注6)ヤマトの王家が六六七年に飛鳥から近江に遷都した理由・目的や遷都の効果は不明だが、倭国(九州王朝)が白村江の戦の前に唐・新羅の侵攻に備え難波からさらに東の近江に複都を設け、直前には王族や主要官僚が移るのは合理的な施策。(*『書紀』は「近江朝には左右大臣及び智謀群臣」がいたと記す。)
(注7)①薩夜麻が捕囚になったことは『書紀』持統四年(六九〇)十月乙丑(二十二日)記事から、「倭国酋長」が捕虜となり唐に臣従したことは『旧唐書』からわかる。
②唐の「羈縻政策」は、臣従した夷蛮の首長を唐の官吏の「都督」に任命し、本国に帰し、その国の王として政務を執らせる政策。
③『書紀』では薩夜麻の帰還は天智十年(六七一)十一月とあるが、同年の劉仁願による李守真等派遣記事は「三年以上の繰り下げ」があり、同じ「十一月」で、「筑紫都督府」記事のある天智六年(六六七)十一月が真の帰国年月の可能性が高い。
(注8)古田武彦『壬申大乱』(東洋書林二〇〇一年十月。ミネルヴァ書房から復刻)。
(注9)大宰府政庁Ⅱ期の瓦(老司Ⅱ式)は観世音寺創建瓦(老司Ⅰ式)よりやや遅れる。観世音寺の創建は『続日本紀』では「天智期」の発願、『二中歴』では白鳳年間、『日本帝皇年代記』『勝山記』では白鳳十年(六七〇)とされる。
(注10)市大樹「飛鳥藤原木簡の研究」塙書房二〇一〇年二月三四九頁。
(注11)「竺志惣領」は『書紀』では「筑紫大宰帥」と書かれ、持統八年(六九四)に美努王が任命されているが、七〇二年に再び隼人の反乱がおきていることから、美努王は「犯を決罰」できず更迭され、後に大和朝廷で左大臣となる石上朝臣麻呂が任命されたと考えられる。この竺志惣領交代で「大宮姫」の「本城」太宰府は大和朝廷に完全に掌握されたことになる。
(注12)肝衝・贈於この地域が大和朝廷によって大隅国に編入されたのは七一三年の大伴旅人を将軍とした隼人討伐時で、このときまで同地域の隼人は大和朝廷に抵抗していた。
◆『続紀』和銅六年(七一三)夏四月乙未(三日)、(略)日向国の肝坏、贈於、大隅、姶羅の四郡を割きて、始めて大隅国を置く。大倭国疫す。薬を給ひて救はしむ。
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