2024年2月15日

古田史学会報

180号


1,「倭姫王」と発掘された
  「暗文土師器」

 正木裕

2,皇極はなぜ即位できたのか
河内祥輔・神崎勝両氏の問題提起
 日野智貴

3,野田利郎氏の
「邪靡堆(ヤビタイ)」論と
漢文解釈への疑問

 谷本茂

4,論文削除要請された『親鸞思想』
古田武彦「親鸞論」の思い出
 古賀達也

5,「中天皇」に関する考察
 満田正賢

6,持統天皇の「白妙の衣」は
対馬の鰐浦の白い花のこと
 久冨直子 大原重雄

7,令和六年、新年のご挨拶
「立正安国論」日蓮自筆本の「国」
 古賀達也

 編集後記

 

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柿本人麻呂と第一次大津宮(日野智貴(会報179号)

皇暦実年代の換算法について -- 正木論稿への疑問 日野智貴 (会報181号)


皇極はなぜ即位できたのか

河内祥輔・神崎勝両氏の問題提起を受けて

たつの市 日野智貴

はじめに

 皇極天皇は舒明天皇の皇后であったことを除くと、その即位の理由となる要素がほぼない人物であった。『古事記』によると舒明天皇には同母兄弟がいたが、皇極天皇は舒明天皇の姪であって、舒明天皇に親等が近い訳ではない。さらに他の女帝は(直前の推古天皇も)皆皇女であるのに対して皇極天皇は敏達天皇の曾孫である。
 つまり舒明天皇には子供もいたし兄弟もいた訳で、その妻とは言え血統的には近いとは言えない皇極天皇の皇位継承順位が高いとは考えにくい。そこで河内祥輔は皇極天皇の即位を疑問視する仮説を主張し①、神崎勝は逆に皇極天皇と孝徳天皇が実は舒明天皇の同母兄弟であって異母兄弟とする記述こそが造作であるとした②。(文中敬称略、以下同)
 しかし、安易な造作説の主張には「何でもあり」の議論を行う余地が出てしまう欠点がある。古田学派においても九州王朝史からの盗用や九州王朝隠蔽のための造作の存在が主張されてきたが、それは「『日本書紀』や『古事記』の記述を安易に疑うべし」というものではないと考える。
むしろ『日本書紀』の記事を安易に造作視しなかったからこそ、例えば「推古紀」の「遣唐使」記事を「遣隋使」の記事とする通説に与せず、多利思北孤による遣隋使と推古天皇による遣唐使とが別物であることを論証するなど、多元史観の正しさを証明することが出来た。
 本稿は皇極天皇の即位と言う一件不可解な記述においても極力『日本書紀』の記述を尊重しつつ、多元史観による解釈を試みるものである。

 

傍系皇族の即位の例

 河内によると、過去の天皇と三親等(皇極は敏達からも舒明からも三親等)の者が即位した例は皇極・孝徳の姉弟以外には後花園天皇と光格天皇の例しかないと言う。後花園天皇と光格天皇は世襲宮家から即位した例であり、言わば直宮不在(直系不在)の状況で即位した例であって、しかもいずれも先代の天皇の養子という形式を取っていた。
 つまり、他に一親等や二親等の皇族がいる状況において、より血統の「遠い」皇族が即位した例は存在しない、ということになる。
 しかしながら、三親等どころかもっと遠縁の者が即位した例は存在する。周知の通り継体天皇がそれである。
 しかもこの時、『日本書紀』によると継体天皇以上に遠縁の倭彦王という人物の方が当初は有力な皇位継承候補であった、と言う。つまりより遠縁の人間が皇位継承候補になり得る状況は、この時に確かに存在したのである。
 仮に皇極天皇が倭彦王と同じ様な状況にあったと仮定した場合、舒明天皇の同母兄弟をさておいてでも即位をした理由に説明がつく。

 

倭彦王とは何者か

 既に拙稿で述べたが③、「倭彦」は「倭国から派遣されたヒコ」と解釈するのが妥当である。これは大和政権の大王(いわゆる「天皇」)でない人物にも見られる称号であることから、大和政権の上位により強大な政権(九州王朝④)が存在したことを示す傍証となる。
 つまり、皇極天皇も倭彦王と同様、背後に九州王朝の意図があり大和政権の大王候補となった、という作業仮説が成り立ちうるのである。
 しかしながら、この作業仮説はあくまでも九州王朝説を前提とした場合に成り立ちうるものである上に(従って一元史観の論者が「皇極非即位説」や「舒明・皇極同母兄妹説」を唱える際の有力な反論とはなり得ない)、皇極天皇と九州王朝の関係を具体的に示す根拠がない以上、多元史観の論者からも疑問視されるであろう。そこで、まずは大和政権内部の事情から皇極天皇が即位した事情を見てみたい。

 

即位しなかった人物たち

 皇極天皇が即位した際に、誰が「即位できなかった」のを見るとその事情がより鮮明になるであろう。
 舒明天皇が崩御した時点で、開別皇子(天智)は既に十六歳であり当時では成人年齢であるから、皇位継承候補であったはずである。仮に彼が若すぎるとしても、舒明天皇には第一子の古人大兄皇子が存在した。
 実際、乙巳の変で皇極天皇が退位した後は孝徳天皇よりも先に古人大兄皇子の即位が検討されている。つまり古人大兄皇子は皇位継承の有力候補であった。敢えて不利な点を挙げるならば、母親が皇族ではないことである。
 河内は西暦六世紀において子孫に皇位を伝えた天皇は欽明天皇や敏達天皇のように皆母親が皇女であり、逆に子孫に皇位を伝えられなかった安閑天皇、宣化天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇らは全て母親が「氏」出身の女性であったことを根拠に、生母が皇族の天皇が「直系」と見做されていた、とする。これは説得力のある仮説である。
 舒明天皇も生母が糠手姫皇女であったし、しかも同母兄弟がいた。ならば古人大兄皇子よりも舒明天皇の同母兄弟が有力な皇位継承候補となってもおかしくはない。
 ところが、ここから謎が発生する。何故か、古人大兄皇子を差し置いて即位したのは舒明天皇の同母兄弟ではなく、生母が皇族ではあるものの皇女ではない皇極天皇であったのである。
 ここから判るのは、舒明天皇の同母兄弟や子供たちに即位を「させない」という意思である。皇極天皇は舒明天皇の血統に即位をさせないために即位をした、と考えた方が妥当であろう。
 念の為に言うと、天智天皇即位までの中継ぎと言う解釈には従い難い。仮にそうであれば、乙巳の変の後で古人大兄皇子が皇位継承候補にのぼることは無いと推察されるからである。皇極天皇即位の時点では天智天皇への皇位継承は必ずしも確定的ではなかったのである。

 

上がった漢皇子即位の可能性

 一方で皇極即位により皇位継承順位の上がった人物もいた。それは漢皇子である。
 彼は皇極天皇が舒明天皇と再婚する前に高向王と結婚した際に生まれた子供である。『日本書紀』は高向王を用明天皇の孫としている。
 皇極即位により、漢皇子は二つの点で他の皇位継承候補よりも有利な立場となった。
 第一に、舒明天皇の同母兄弟は確かに「父親が天皇、母親が皇女」という、当時の「直系」観念に沿う存在である(天智もそれに準ずる存在だ)。しかしながら、彼らは蘇我氏の血が一切入っていない。その上、父親の彦人大兄皇子も祖父の敏達天皇もいずれも母親が皇族であり、蘇我氏以外に有力な外戚がいる訳ではない。

 ところが、高向王は用明天皇の孫であるため、用明天皇の母親が蘇我氏であるから蘇我氏の血統も入っている。しかも「高向王」という名前からは高向氏に養育された可能性も考えられる。高向氏には二系統あり、一つは蘇我氏と同族の皇別氏族、もう一つは魏の文帝の末裔を称する渡来系氏族であるが、いずれも大和政権の有力氏族である。
 第二に、古人大兄皇子は母親が蘇我氏であると言う点では有利な条件を備えている。しかしながら、当時は蘇我氏の血を引くだけでは有力な皇位継承候補となれなかったことは、蘇我氏の血を引く山背大兄王が他ならぬ蘇我入鹿によって滅ぼされ、逆に蘇我氏の血を全く引かない舒明天皇が即位したことにも表れている。
 その点、漢皇子は母親が天皇で父親も皇族である。父親が天皇では無かったことが唯一の弱点であるが、舒明天皇も父親が天皇では無かったこと、母親が天皇になったこと、を考えたら一躍皇位継承の有力候補として浮上することは疑いようがない。
 逆に言うと、漢皇子を有力な皇位継承候補にしようと思えば、皇極天皇が即位する必要性があったのである。むしろそれ以外に皇極天皇が即位した事情は推察しにくい。

 

漢皇子は何者であるのか

 それでは漢皇子とは一体何者なのであろうか?
 母親である皇極天皇が自分の長男である漢皇子を即位させようと、自らその「中継ぎ」となった、というストーリー自体に不自然さはない。推古天皇についても息子である竹田皇子即位までの中継ぎであったと言う説がある。竹田皇子は両親ともに天皇であり、河内説における「直系」の定義を充分に満たしていた。
 しかしながら、皇極天皇即位の時点では蘇我氏の血を引く山背大兄王に古人大兄皇子や舒明天皇の同母兄弟を始めとする有力な皇位継承候補が複数存在した。皇極天皇が彼らの即位を阻止するために即位したと考えることは可能であるが、同時に「何故阻止できたのか」という疑問が次に浮かぶ。現実に皇極天皇が即位できた以上、他の有力候補の即位を阻止することに成功したのである(河内説ではこの問題を回避するためか、皇極即位自体を造作とするが)。
 そこで先の倭彦王の例を基に考えると、漢皇子が実は九州王朝関係者ではないか、という作業仮説が成り立つ。
 その場合、『日本書紀』に漢皇子の父親である高向王が「橘豊日天皇之孫高向王」(斉明紀)と記されていることが問題となる。これを見る限り、明らかに漢皇子は大和政権の人物であって九州王朝の入る余地は無い。また倭彦王の場合とは異なりまた九州王朝が高向王や漢皇子に官位を与えたと言うような痕跡も無い。
 だが、一方でこの高向王の紹介の表記は異例である。『日本書紀』では地の文で人物の系譜を「○○の孫」と紹介する際、同時に「○○の子」又は「○○の女」という言葉も併記するのを通例とするからだ。

 例えば
・母を渟名底仲媛命と曰ふ、事代主神の孫、鴨王の女なり。(懿徳紀)
・道主王は、稚日本根子太日々天皇の孫、彦坐王の子なり。(垂仁紀)
・息長足日廣額天皇、渟中倉太珠敷天皇の孫、彦人大兄皇子の子なり。(舒明紀)
のように。皇極天皇自身も
・天豊財重日重日(此云伊柯之比)足姫天皇、渟中倉太珠敷天皇の曾孫、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の女なり。(皇極紀)

と記されている。
 例外として、父親が記されず単に「○○の孫」とだけ記されている人物が、三人だけいる。

・五十五年春二月戊子朔壬辰、彦狹嶋王を以て、東山道十五國都督を拝す、是れ豐城命の孫なり。(景行紀)
・母を仲姫命と曰ふ、五百城入彦皇子の孫なり。(仁徳紀)
・葛城襲津彦の孫玉田宿禰(允恭紀)

 しかしながら、彦狭島王と玉田宿禰はそもそも父親が不明な人物である。また仲姫は『古事記』によると品陀真若王が父親であるが、彼は『日本書紀』には登場しない人物である。つまりこれら三人は『日本書紀』に父親が登場しないからこそ、父親の名前が省略されたという解釈が可能である。
 もっとも仲姫に関して言うと、その父親である品陀真若王の存在をどうして『日本書紀』が隠したのか、謎である。しかしながら、それについては本稿の論題から外れるので別に論ずることとする。
 さて、高向王が用明天皇の孫であるならば、その父親は用明天皇の息子であり、そして用明天皇の息子であるならば『日本書紀』の「用明紀」に記されているはず、ということになる。にも拘らず高向王の父親が記されていないことは不審であり、上記三人とは事情が異なる。

 

高向王の父親は誰か

 高向王の父親が不明であることを不審として、井沢元彦は高向王がそもそも用明天皇の孫であったことを疑い、皇極天皇の最初の夫は外国人であった可能性すらあるとの仮説を唱えている⑤。
 他にも小説の形式ではあるが(井沢も小説家ではあるが)、黒岩重吾が小説『落日の王子』で蘇我入鹿高向王説を唱えている。
 当然高向王が用明天皇の孫であるという『日本書紀』の記述が造作である可能性はある。しかしながら、ここは一度、『日本書紀』の記述を最大限に尊重して可能性を考えてみたい。
 これまた小説ではあるが、営為つぐむがオンライン小説『天武天皇は"蘇我入鹿の子"である。』というタイトルからして黒岩の影響を受けた作品において、高向王の母親が用明天皇の娘である酢香手姫皇女であり、蘇我蝦夷の妻が酢香手姫皇女であると「壁越推量」している。しかしながら「壁越推量」で作成された小説では残念ながら先行研究とは言い難い。
 『日本書紀』を見る限り酢香手姫皇女は用明天皇の唯一の娘である。しかも彼女は伊勢の斎宮である。当時斎宮に独身の義務があったかは不明であるし、斎宮になる前や後に結婚していた可能性もあるものの、だからと言ってその夫が外国人や蘇我蝦夷だと言うのはやや突飛な作業仮説であると考える。
 伊勢の斎宮の結婚相手であれば、まず伊勢の関係者から探すのが当たり前ではあるまいか。そう考えると、真っ先に浮かぶのは伊勢王である。
 若き日の伊勢王か、それとも、伊勢王の父親か。この仮説に立った場合、伊勢王が九州王朝の天子であるという古田学派の仮説を前提とすると、高向王は九州王朝の天子の息子と言うことになる。それならば『日本書紀』が高向王の父親の名前を隠す動機が存在する。もしも高向王の父親が用明天皇の息子であれば隠す必要が無いからだ。
 九州王朝と蘇我氏の血を引いているとなれば、高向王は俄然皇位継承の有力候補となる。だが高向王やその子の漢皇子は、肝心の大和政権の先代の舒明天皇とは男系では神武東行以前まで、女系でも欽明天皇の代まで遡らなければならない「傍系」の人物であったため、舒明天皇の姪である皇極天皇を一度擁立して母子継承の可能性を探る必要性があったのではあるまいか。

まとめ

 皇極天皇が即位した事情は謎であり、一元史観の論者でも『日本書紀』の内容を疑い「皇極不即位説」「舒明・皇極同母兄妹説」が登場する状況である。だが、仮に皇極天皇の目的が漢皇子の即位であったとすれば、殊更に造作を主張しなくとも説明できる。
 ではどうして漢皇子が皇位継承候補となったのか。それはある程度作業仮説が入らざるを得ないが、仮に高向王が九州王朝の天子の子供であれば、前期難波京への遷都直前である九州王朝の意向もあれならば『日本書紀』が高向王の父親の名前を隠す動機が存在する。もしも高向王の父親が用明天皇の息子であれば隠す必要が無いからだ。
 九州王朝と蘇我氏の血を引いているとなれば、高向王は俄然皇位継承の有力候補となって皇位継承候補に浮上した可能性が出てくる。
 私はこの例に限らず、九州王朝と大和政権の大王の間には深い婚姻関係があったと考えるが、そのことについては別に論じることとしたい。

① 河内祥輔(二〇一四)『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館

② 神崎勝(二〇一〇)「皇極(斉明)天皇の出自をめぐって」『立命館文學』六一八

③ 拙稿(二〇二二)「「倭日子」「倭比売」と言う称号」会報一六九号

④ 但し、西暦七世紀後半には前期難波京が倭国の首都であったことは疑いようがなく、従って「九州王朝」と言う呼称に議論はあってしかるべきであろう。

⑤ 井沢元彦(一九九八)『逆説の日本史古代怨霊編』小学館


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