2024年2月15日

古田史学会報

180号

1,「倭姫王」と発掘された
 「暗文土師器」

 正木裕

2,皇極はなぜ即位できたのか
河内祥輔・神崎勝両氏の問題提起
 日野智貴

3,野田利郎氏の
「邪靡堆(ヤビタイ)」論と漢文解釈への疑問
 谷本茂

4,論文削除要請された『親鸞思想』
古田武彦「親鸞論」の思い出
 古賀達也

5,「中天皇」に関する考察
 満田正賢

6,持統天皇の「白妙の衣」は
対馬の鰐浦の白い花のこと
 久冨直子 大原重雄

7,令和六年、新年のご挨拶
「立正安国論」日蓮自筆本の「国」
 古賀達也

 編集後記

 

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持統天皇の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと 久冨直子 大原重雄 (会報180号) ../kaiho180/kai18006.html


持統天皇の「白妙の衣」は

対馬の鰐浦の白い花のこと

京都市 久冨直子
京都府大山崎町 大原重雄

 ヒトツバタゴ(別名ウミテラシ・ナタオラシ・ミズイシ、俗名なんじゃもんじゃ)はモクセイ科の大陸系植物で、古代より大陸への窓口であった対馬を象徴する植物として、対馬市の木に指定されている。また昭和三年に 国の天然記念物にもなっている。
 対馬北部の鰐浦地区は国内最大の自生地であり、五月初旬の開花期には三千本といわれるヒトツバタゴが一斉に白い花を咲かせ、初夏に積もる雪のようである。この鰐浦は、対馬海峡を挟んで韓国の釜山を望む対馬の北端にある。波の穏やかな日には、山を白く彩るヒトツバタゴの花の影が海面を白く染め、日が落ちかけても暗い入り江が明るく照らされることから「海照らし」とも呼ばれている。
 同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名があるという(ウキペディア参照)
 現在は名古屋など各地にも見られるが、それは近世の移植であり、もとは大陸、朝鮮に自生していたものが、その移住民により早くにこの地にもたらされたのかもしれない。
 このヒトツバタゴを昭和天皇は歌にされている。

「わが庭の ひとつばたごを見つつ思ふ海のかなたの対馬の春を」昭和五十九年

 これは上対馬の町長が天皇の為にと持参し、それが御所に植えられたものだそうだ。昭和天皇も歌にするほどの見事な白い花の光景を、古代人も歌にしていたのではなかろうか。
 それは持統天皇の作歌とされる万葉集第一巻28番

春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山春すぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山

 この歌は、対馬に咲くヒトツバタゴを白い衣を干したような情景に見立てた歌ではなかろうか。この点について論じていきたい。

 

Ⅰ「らし」に注目された国文学者毛利正守氏の論文

 毛利氏は、「夏の到来・推移を根拠づける景色について、またその根拠に基づく確信に満ちた推量表現『らし』等の検討を通して、萬葉歌の中にこの歌を位置づけることにしたい」とされる。つまり、該当歌は季節感を強く表しものだという視点で理解しなければならないということであろう。氏は、新井栄蔵氏の引用もされながら、古代中国の四時(季節)観が、日本ではより豊かな情念とより巧緻な感触を生み出す季節感が形成、成熟していったと説明されている。
 よく指摘されることだが、「いわばあたりまえのこと」のような「春すぎて夏来るらし」は、二つの季節を詠むだけの感動、さらに過ぎ去る春の季節を惜しむ気持ちがあり、それと同時に、この歌自体の主題は夏の到来にあるとし、その根拠を「らし」をもって詠みあげているところに力点があるという。ちなみに、「冬過ぎて春来るらし朝日さす春日の山に霞たなびく」(巻十1844※暖が春)という該当歌と同様の二つの季節が詠われ、さらには、春・夏・秋の三季を読み込んだ「春は萌え夏は緑に紅の斑に見ゆる秋の山かも」(巻十2177)という事例もある。
 毛利論文では、推量表現「らし」の使われた歌が、該当歌以外に十三首あることを紹介されている。

①梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来たるらし 巻五834
②うちなびく春来るらし山の際の遠き木末の咲き行く見れば 巻八1422
③霞立つ野の上の方に行きしかば鶯鳴きつ春になるらし 巻八1443
④ひさかたの 天の香具山この夕へ 霞たなびく 春立つらしも 巻十1812
⑤いにしへの、人の植ゑけむ杉が枝に、霞たなびく春は来ぬらし 巻十1814
⑥うち靡く、春立ちぬらし、我が門の、柳の末に、鴬鳴きつ 巻十1819
⑦冬過ぎて 春来るらし 朝日さす 春日の山に 霞たなびく 巻十1844
⑧鴬の春になるらし春日山、霞たなびく夜目に見れども 巻十1845
⑨うち靡く春さり来らし山の際の、遠き木末の咲きゆく見れば 巻十1865
⑩白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺の鴬鳴くも 巻十1888
⑪野辺見ればなでしこの花咲きにけり我が待つ秋は近づくらしも 巻十1972
⑫妹が手を取石の池の波の間ゆ、鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし 巻十2166
⑬今よりは秋づきぬらしあしひきの、山松蔭にひぐらし鳴きぬ 巻十五3655

 以上の十三首は、「らし」を根拠づけているものが、いずれも鳥や花、霞、虫の声といった自然物であることを指摘されている。そうすると、持統の歌だけが特異な一首だというのである。はたしてそうなのであろうか。

 

Ⅱ「白妙能衣乾有」に何らかの象徴と迫られた、奈良県立万葉文化館の井上さやか氏の論文

 先の毛利論文を踏まえながら、井上論文では、「衣乾有」という表現が自然物である可能性にもふれている。毛利論文では白妙の衣は実景であり、見立てとは考えられないとされたことに対し、藤原定家の『拾遺愚華』等で白妙の衣を卯の花の見立てと解している例も挙げながら、ただそれがなぜ、夏の到来を意味するのかという疑問を持つ井上氏は、どうして香具山に干してある白妙の衣が夏の到来を推量させる根拠となるのか、「白妙能生衣乾有」が何らかが象徴されていた可能性を排除できない、「衣乾有」をどう解するかが改めて問題となってくる、とされている。(注1)このように該当歌は百人一首にも取り入れられるなどたいへん有名な歌であるにもかかわらず、研究者を悩ませる問題を内包する歌なのであって、いまだに解釈に疑問が残る謎の歌なのである。
 しかし、「らし」のある歌で唯一、自然物でないという点も、見方を変えれば疑問も解消するのではないだろうか。夏の到来を示す根拠は、人工物ではなく白い花のことだとすれば、一気に氷解するのである。井上氏の言うなんらかの象徴とは、ヒトツバタゴのことと考えればよいのではないか。

 

Ⅲ「たり」の事例にみる見立て

 「衣乾有」の「たり」は、動作・作用が完了し継続する状態を意味するが、万葉歌には見立てで使われていると思われるものがある。
天原振離見者白真弓張而懸有夜路者将吉 (万葉百科 奈良県立万葉文化館参照)
天の原ふりさけ見れば白真弓張りて懸けたり夜道は吉けむ 巻三289
 大空をふり仰いでみると、白い真弓を張ったように月がかかっている。夜道はよいことだろう。
淺緑染懸有跡見左右二春楊者目生来鴨
浅緑染め掛けたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも巻十1847
 浅緑色に枝を染めて懸けたと思われるほどに、春の柳は芽を出したことだ
 二例ではあるが、衣を干すということが、見立ての表現ととることは十分に可能であろう。

 

Ⅳ鰐浦はヒトツバタゴの古来からの群生地

 この花の群生地の入り江は鰐浦である。日本書紀の神功紀には以下のような記事がある。

 從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波、不勞㯭楫、便到新羅。

 神功皇后は、兵を整え、和珥津から出発するが、この地は現在の対馬の北端に位置する鰐浦のことである。帆船は神の力も受けて順風が吹いて舵も櫂も使うことなく新羅についたという。この鰐浦は半島と最短距離の港であって、活発に人の行き来するところであり、魏志倭人伝の記事の南北に市擢するとあるような物資のやり取りを行う貿易港でもあったのではないか。四月に鰐浦に寄港しようとする人々には、目の前に広がる白い光景を見る事ができるので、船旅の疲れも忘れることができたかもしれない。ちなみに韓国ではイパプナムと言う名で、これは白い花で覆われた様子が白いご飯に似ていることから付けられたようだが、立夏の頃に咲くので、立夏木とも呼ばれている。台湾では「流蘇樹」(レースの木)、他に「四月雪」という呼称もあるようだ。

 

Ⅴ万葉歌の地名をすべて奈良の大和や近畿を中心に考えるのは疑問

 竜田山(龍田山)は万葉歌によく登場し、奈良あたりが有名だが、熊本県にも龍田山(立田)があるように、伊勢も三重県以外の各地に見受けられる。万葉歌には次のような地名への疑問がもたれた例がある。(注2)

和銅五年壬子(七一二)夏四月長田王伊勢齋宮に遣しし時、山辺御井に作る歌。
山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子どもあひ見つるかも 巻一81
うらさぶる心さまねし(*重なる、次々とうかぶ)ひさかたの天のしぐれの流らふ見れば 巻一82
海の底沖つ白波立田山いつか越えなむ妹があたり見む 巻一83
 右二首今案ずるに御井にて作る所に似ず。若疑當時誦われし古歌か。

 これらは、「題詞」では三重の伊勢神宮に行った時の歌の様に記されるが、左注にあるように「伊勢の御井」にはあわない。この点、万葉学者の中西進氏も次の様に述べている。
 「山の辺の御井は斎宮にあるのではない。御井を見ることを主とし、その上に伊勢少女に会ったという、ふしぎな一首である。古歌を口ずさんだか、それこそ九州派遣の折の歌か、である。もし後者なら、いかにも心細そうな口ぶりも理解できるし、上にあげた(*二四五~二四八の)九州の歌と脈絡がつき、歌の空虚感もよく理解できる。」(中西進が語る「魅力の深層」) つまり、左注では御井の地についての疑問が書かれ、中西進氏は、九州の地を想定されている。このような、疑問点が香具山とされた他の歌にもあるのではなかろうか。
 

Ⅵ天の香具山について

 原文は香来山である。柿本人麻呂が高市皇子の殯の時の第二巻199番では、来山之宮、とある。だが、現代の読み下しでは、なぜか香具山と表記されている。香具山と詠み込まれた歌は該当歌以外に十首もある。

香具山と解されているその他の万葉歌 (一部省略) :以下はは原文の漢字
・大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば 巻一2:天香具山
・香具山は畝傍ををしと耳成と相あらそひき 巻一13:高山
・香具山と耳成山とあひし時立ちて見に来し印南国原 巻一14:高山 
・大和の青香具山は日の経の大き御門に春山としみさび立てり畝傍の 巻一52:香具山
・わご大君の万代と思ほしめして作らしし香具山の宮万代に過ぎむ 巻二199:香<来>山
・天降りつく天の香具山霞立つ春に至れば松風に 巻三257:天芳来山
・忘れ草わが紐に付く香具山の故りにし里を忘れむがため 巻三334:香具山
・古の事は知らぬをわれ見ても久しくなりぬ天の香具山 巻七1096:天香具山
・ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも 巻十1812:天芳山
・香具山に雲居たなびきおほほしく相見し児らを後恋ひむかも 巻十一2449:香山

 以上のように、香具山と異なる表記が、高山が二首、香来山が該当歌含め二首、芳来山が一首、芳山が一首、香山も二つである。また「天」のない香具山もある。すべてが、奈良の香具山であるのかは疑問であろう。対馬の場合は、鰐浦の背後にある高麗山が候補となるのではないか。頂上からは半島の姿を見る事ができる。高麗はこうらい、と訓み、香来も字余りにはなるが同じ訓みができる。高麗は他にコマ、コウマ,コウレイ,コウリなどの訓みがあるが、対馬の高麗山の場合は高句麗のことではなく、山上からは半島の姿がうかがえるので韓国の山と呼んでいた可能性もあるのではないか。巻一2には天の香具山で国見をすると詠われているが、高麗山は防衛のための国見の意味もあったかもしれない。現在、自衛隊の管轄で入山禁止になっていることからもこの山麓の重要性が窺える。

 

Ⅶ「天」に関して

 また、漢字の表記が香具山とは異なっても、古事記や日本書紀の記述にある天の香具山であったとしても、その所在地の一番の候補に対馬があがるのではないだろうか。
 古事記のイザナギとイザナミの国生みの所の壱岐島と対馬に関して以下のような記述がある。
次生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱。次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。

 すなわち、対馬も壱岐島も「天」の名が冠されているのである。
 さらに、『海東諸国記』の対馬の記事には次のような記述がある。「南北に高山あり、みな天神と名づく。南を子神と称し、北を母神と称す。俗神を尚び、家家素饌をもって、これを祭る」という。いくつもの山を崇めていたようである。古事記には、天の岩戸のくだりで鹿の肩の骨で占いをするという記述がある。鹿卜のことであり、後に亀卜にかわるのだが、これは大陸で広く行われてきた天を祀る習俗であって、天の意思を知るために骨卜が行われたのである。これを執り行う卜部が重要視され、延喜式では平安時代になっても、対馬十人、壱岐五人、伊豆五人を京に招いているという。このような人たちが、対馬の山々を「天」を象徴する神々として祀ってきたのであろう。そうすると、天の香具山は、特定の山ではなく、広く対馬の山並みを意味していたのかもしれない。いずれにしても、天の香来山が高麗山の別称ではなく、信仰としての対馬の山々であっても、ヒトツバタゴが白妙の衣に例えられた白い花であるという結論にかわりはないと思われる。

 

Ⅷ夏が来ることを待ち望んだ貴重な一首

 多数ある万葉歌だが、春を待ち望んだ歌は多くあるが、夏山、夏草などの語はあっても意外にも夏を歌うものはないという。作者は、夏を一番歓迎するような人物だったと考えることもできる。鰐浦で海に潜ることをなりわいにする海女にとっては、夏の到来は待ち望んでいたものだ。また船乗りにとっても同じであろう。この歌は、海で生きる人々の素直に夏の到来を喜ぶ歌となるのではないか。
 そうすると持統天皇の歌ではないのだろうか。万葉集の中に持統天皇の作歌は六首とされているが、いずれも持統を示す明確な表現はない。(注3)特に「春すぎて~」は題詞がなければ叙景歌ともみられそうで、持統帝が天武帝挽歌「やすみしし~」に示されたはげしい哭泣の情はここにはその片鱗もない、との伊藤義教氏の指摘もある。しかし、高天原廣野姫天皇との記述を尊重するということであれば、昭和天皇が庭の花からはるか対馬への思いを歌にされているように、王朝内で歌われたものであったとしても説明はつくとしておきたい。
 以上のように、この持統の歌とされる「白妙の衣」は、まるで白衣を干しているように見える白い花のヒトツバタコのことであると考えてもよいのではなかろうか。

注1.中西進氏は、山に白いものが見える事実を、どう見立てるかと楽しんだ歌ではないかとし、該当歌は、香具山に残る白い雪を干してある白い布に見立てて戯れ楽しんだ歌だとされたが、いささか無理のある説明であり、夏を実感するものにはならないであろう。

注2.古田史学の会正木裕氏のご教示による。

注3.古田武彦氏は、万葉歌の研究で、題詞や左注はあとから付けられたもので、歴史史料としては二次史料、一次史料の本文が大事だと指摘されている。ただ、該当歌については、『古代史の十字路 -- 万葉批判』で、中西進氏の雪とする比喩歌という考えは否定されたが、その理由の説明がないのが残念である。


 これは会報の公開です。

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