2024年2月15日

古田史学会報

180号

1,「倭姫王」と発掘された
 「暗文土師器」

 正木裕

2,皇極はなぜ即位できたのか
河内祥輔・神崎勝両氏の問題提起
 日野智貴

3,野田利郎氏の
「邪靡堆(ヤビタイ)」論と漢文解釈への疑問
 谷本茂

4,論文削除要請された『親鸞思想』
古田武彦「親鸞論」の思い出
 古賀達也

5,「中天皇」に関する考察
 満田正賢

6,持統天皇の「白妙の衣」は
対馬の鰐浦の白い花のこと
 久冨直子 大原重雄

7,令和六年、新年のご挨拶
「立正安国論」日蓮自筆本の「国」
 古賀達也

 編集後記

 

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柿本人麻呂系図の考察(会報179号)

『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名 古賀達也(会報181号)


論文削除要請された『親鸞思想』

古田武彦「親鸞論」の思い出

京都市 古賀達也

一、親鸞研究の核心、「三夢記」

 日野智貴さん(古田史学の会・会員)から論文が届きました。古田先生の親鸞研究「三夢記」真偽論争に関する立派な論文(会報一七八号掲載:編集部注)でした。同論文への意見を求められ、久しぶりに「三夢記」(注①)に関する先生の著作を精読しました。『親鸞 人と思想』清水書院(一九七〇年)、『親鸞思想 その史料批判』冨山房(一九七五年)、『わたしひとりの親鸞』毎日新聞社(一九七八年)、『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』明石書店(二〇〇二年)を二日かけて読みました。
 冨山房の『親鸞思想』は古田先生から頂いたもので、思い出深い一冊。表紙の裏には次の一文が記されています。

「人間好遇、生涯探求
  古賀達也様 御机下
 いつもすばらしい御研究やはげましに導かれています。今後ともお導き下さい。
     一九九六年五月十五日
           古田武彦」

 過分のお言葉をいただき、この本は家宝となりました。

 「三夢記」は偽作とされてきたのですが、古田先生が真作であることを証明。なぜ親鸞が「三夢記」を末娘の覚信尼に与えたのかなど、興味深い内容を含む研究です。この「三夢記」が先生の親鸞研究にとっていかに重要であるか、次の文からうかがえます。

〝問題の行き着くところ、それは「学問の方法」だ。人間の所業に対する、認識の仕方なのである。古代史も、親鸞も、対象こそ異なれ、同一の方法だ。
 わたしがこの半世紀をふりかえってみて、真に憂いとすべきところ、それはこの「方法の停滞」と「旧手法の反復」である。(中略)例えば、例の「三夢記」の信憑性問題。わたしの親鸞研究にとって一の核心をなしたこと、本集中にもくり返し言及されている通りである。〟
  『わたしひとりの親鸞』「あとがき」

 親鸞研究でも、日野さんに続く若き後継者が出ることを願っています。

二、法蔵館からの論文削除要請

 『親鸞思想』が冨山房から発刊されたのには「数奇な運命」がありました。同書は京都の法蔵館から出版予定で、出版広告まで出されていたにもかかわらず、突如、特定論文類の削除を要請されたのです。このときの様子が、同書「自序」に書き留められています。

〝自序
 親鸞の研究はわたしにおいて、一切の学問研究のみなもとである。わたしはその中で、史料に対して研究者のとるべき姿勢を知り、史学の方法論の根本を学びえたのである。(中略)この一書は誕生の前から数奇な運命を経験した。かつて京都の某書肆から発刊することとなり、出版広告まで出されたにもかかわらず、突然、ある夕、その書肆の一室に招かれ、特定の論文類の削除を強引に求められたのである。当然、その理由をただしたけれども、言を左右にした末、ついに「本山に弓をむけることはできぬ。」この一言をうるに至った。
 わたしの学問の根本の立場は“いかなる権威にも節を屈せぬ”という、その一点にしかない。それは、親鸞自身の生き方からわたしの学びえた、抜きさしならぬ根源であった。それゆえわたしは、たとえこのため、永久に出版の機を失おうとも、これと妥協する道を有せず、ついにこの書肆と袂を別つ決意をしたのである。思えば、この苦き経験は、原親鸞に根ざし、後代の権威主義に決してなじまざる本書にとっては、最大の光栄である、というほかない。――わたしはそのように思いきめたのであった。〟

 こうして出版の道が閉ざされたのですが、それを惜しんだ家永三郎氏のご尽力により、冨山房から出版されました。そのことも「自序」に記されています。

〝けれどもその後、幸いに事情を知られた家永三郎氏の厚情に遭い、今回、東都の冨山房より出版しうることとなった。かつて少年の日、わたしは冨山房の百科辞典を父の書棚に見出し、むさぼるように読みふけった思い出がある。本の乏しい戦時中であった。ここよりわたしの初の論文集を刊行しうることとなったのは、一個の奇縁と言うべきであろう。〟

 家永氏は、東北大学で学ばれていた古田先生に出会われたとのことで、同書「序」で次のように紹介しています。

〝本書の著者は東北大学に学び故村岡典嗣先生に就いて日本思想史学を専攻し、近年まで育英の業に従事しつつその専攻の研究にいそしみ、めざましい業績を次々とあげてこられた篤学の士である。たまたま私が村岡先生逝去直後東北大に出講したという縁故により、著者は二十年後の今日まで上京されるごとに陋屋を訪れて研究の成果を私に示されるのであるが、そのたびにいつも学界の通念を根本からうち破る新説をもたらすのを常とした。その精進ぶりには舌を捲かないでいられないばかりでなく、研究を語るときの著者のつかれたような情熱に接すると、怠惰な私など完全に圧倒されてしまうのであった。
 今、著者が全力投球の意気ごみでとりくんできた親鸞研究にひとくぎりのついたのを機会に、冨山房から一冊の論文集が上梓されることになったのは、まことによろこびにたえない。親鸞研究に豊富な新知見を加上する本書の公刊が、学界に寄与するところ絶大なもののあろうこと、とくにもともと活潑な親鸞研究をいっそう促進する強烈な刺激となることであろうことは、私の信じて疑わないところである。〟

 『親鸞思想』は明石書店『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅰ』(注②)に収録されています。なお、書名は『親鸞の思想』の予定だったそうです。ところが同名の書籍が既に発刊されていたため、『親鸞思想』にしたと先生から伺ったことがあります。

三、叡山脱出の真実

 論文削除を拒絶した当時の経緯をお聞きしたとき、どの論文の削除を求められたのかをわたしは聞き漏らしました。おそらく親鸞と恵信尼に関する論文ではないかと想像はするのですが、先生がお元気なうちに聞いておくべきでした。
 わたしは古田古代史に惹かれて入門しましたが、その後、先生の『親鸞 -- 人と思想』などを読み、日本思想史にも関心を持つようになりました。そのことに気付かれたのか、古田先生から日本思想史学会への入会を勧められました。同学会は村岡典嗣先生の流れを汲む由緒ある学会。もちろん、先生の勧めですから断ることなどできません。入会には会員二名の推薦が必要で、古田先生と岩手大学の岡崎正道先生(近代史・近代思想史、教授)に推薦状を書いていただきました。入会後、筑波大学や京都大学で開催された年次大会で、古典中の二倍年暦や九州年号真偽論の研究を発表しました。今、思うと門外漢(専攻は化学)の発表で、冷や汗ものでした。
 結局、日本思想史の勉強はほとんどできないままで、先生の親鸞研究の著書・論文を読んだり、思想史に関する講演を聞くという〝耳学問〟が続きました。そのなかで、最も感動したのが、親鸞と妻、恵信尼との深い愛情に関わる研究「叡山脱出の共犯者」(注③)でした。そこには印象的な文章があります。本稿の最後に紹介します。

「すなわち、〝親鸞の比叡山脱出の陰に恵信尼がいた〟――これが善鸞義絶状の率直に指さすところだ。否、「陰」どころではない。思えば親鸞自身が〝比叡山脱出の直接の動機は女性問題だ〟と、赤裸々に告白しているのではないか。それはほかならぬ「六角堂女犯の夢告」なのである。〝女性抜きに、親鸞の比叡山脱出を解する〟――そのような姑息な道は、この明白な史料がこれを許さないのである。」
 「母(恵信尼)が娘(覚信尼)に父の「女犯の偈文」を書き与え、〝ここにあなたの父の人柄がある〟と言い、娘の身辺に飾らせる。――これは一体、何を意味するだろう。(中略)このような史料事実を解しうる道は一つしかない。――曰く、〝この「女犯」の、当の女性は恵信尼その人であった〟この答えだ。」※()は古賀注。
 「親鸞の生涯にとって「女犯の夢告」とは、何だったのか。次の三点が注意される。
 第一に、「生涯荘厳」とあるように、それは〝恵信尼と生涯を共にする〟ことの表明であった。
 第二に、(中略)「末法の僧の妻帯」思想は、単に〝個人的経験の正当化〟にとどまるものではなかった。末法における新しい真実として、万人の前に宣布すべき真理と見なされている。(中略)
 第三に、建長二年、三夢記を娘の覚信尼に対して書き与えた、という事実がしめすように、親鸞は父として己が娘の面前にこの「女犯の夢告」を隠さなかった。この点、親鸞の死後、恵信尼が娘に対してとった態度と根本において一致している。この親鸞の娘に対する態度からも、「女犯の夢告」が恵信尼を相手とするものであることは裏付けられよう。」
 「これに対し恵信尼は、たとえもし越後の豪族三善氏の娘であったとしても、しょせん〝田舎豪族〟の一介の娘にすぎなかった。そしてその「一介の娘」のために、親鸞は比叡山を捨て、生涯これを悔いなかったのである。(中略)

 このような親鸞の姿が、女としての恵信尼の目にどのように映っていたか。「中世」と現代と、時代は離れていても、その人間の真実に変わりようはない。それゆえわたしは決してこれを見あやまることができないのである。」
〔令和五年(二〇二三)八月二二日、「洛中洛外日記」より改稿筆了〕

(注)

①「建長二年(一二五〇年)文書」とも呼ばれ、「磯長の夢告」「大乗院の夢告」「六角堂、女犯の夢告」の偈文(詩句)を記したもので、七八歳の親鸞が末娘の覚信尼に与えた文書。

②古田武彦『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅰ』明石書店、二〇〇二年。

③同『わたしひとりの親鸞』毎日新聞社、一九七八年。『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』(明石書店、二〇〇二年)に収録。二〇一二年、明石書店から単行本出版。


 これは会報の公開です。

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