伊吉連博徳書の捉え方について 満田正賢(会報173号)
「中天皇」に関する考察 満田正賢(会報180号)../kaiho180/kai18005.html
「中天皇」に関する考察
茨木市 満田正賢
天智天皇の皇后である倭姫王(やまとひめ=「わのひめおう」とも読める)が天皇であったとする喜田貞吉氏の『中天皇考』を中心に「中天皇」「中皇命」という名前で記された九州王朝の天子に関する考察を行った。なお「中天皇―中宮天皇」は、すでに服部静尚氏が「中宮天皇―薬師寺は九州王朝の寺」(『古代に真実を求めて』第二十五集)などで考察しており、服部氏は「中宮天皇の存在は九州王朝最後の大上天皇の存在を示すものであり、倭姫王はその候補である」としているが、私は視点を少し変えて、「中天皇」の記録を通じて倭姫王とはどのような人物であったかを浮き彫りにすることを考察の目的とした。
一.中天皇に関する通説の所説比較
日本古典文学大系『続日本紀』の神護景雲二年十月の称徳天皇の宣命にある「中都天皇」に関する補注30―10に記された所説は次のようなものである。
①喜田貞吉『中天皇考』―中間天皇また
は中宮天皇の略称
宣命「中都天皇」は元明。「中天皇」は斉明と倭姫とする。
②折口信夫『女帝考』―皇后はすべて「中つ天皇」
神と天皇との間に立つ仲介者なる聖者
③田中卓『中天皇をめぐる諸問題』―「中都天皇」は元正。「中都天皇」と「仲天皇」は語義を異にする。
*称徳天皇の宣命にある「中都天皇」は平城京で統治した第二の天皇のことで、「先天皇」「中天皇」「後天皇」の区別によるもの。万葉集の「中皇命」は間人皇女につけられた固有名詞で、大安寺縁起の「仲天皇」も間人皇女=「中皇命」を指す。
二.喜田氏『中天皇考』の積極面と限界
1. 懐風藻・智蔵伝による倭姫王が天皇であったことの証明
田中卓氏は喜田氏が取り上げた各種史料の中で、懐風藻・智蔵伝にある「太后天皇」という表現には触れていない。しかし、懐風藻・智蔵伝の記述は、喜田氏が、倭姫王が天皇であったことの一番確実な証拠としているものである。
*懐風藻・智蔵伝の読み下し文
「智蔵は、俗姓禾田氏、淡海帝の世唐国に遣学す。(中略)太后天皇の世、師本朝に向かふ。同伴陸に登り、経書を曝涼す。法師襟を開き風に對かひて曰はく、『我も亦経典の奥義を曝涼す』といふ。衆皆嘲笑り妖言と以為へり。試業に臨み、座に昇りて敷演す。辭義峻遠、音詩雅麗。論蜂のごとくに起れりと雖も、應對流るるが如し。皆屈服し驚駭せずといふこと莫し。帝嘉みしたまひ、僧正に拝したまふ。」
2.喜田氏の智蔵伝の解釈
日本古典文学体系『懐風藻』の注釈では、この「太后天皇」を持統としているが、喜田氏は天武二年に智蔵が僧正に任ぜられたと『僧綱補任』に記されていることから、「太后天皇」は天智と天武の間の天皇である、即ち倭姫王が天皇になった証拠である、と考察した。そして、倭姫王が天皇になったのは、天智崩御から天武即位までの間の極めて短期間であると捉え、「中天皇とは先帝と後帝との中間を取りつぐ中間天皇の義か。若しくは中宮天皇の略称なるべし。」という結論を引き出した。そして倭姫王が天皇となったことを、飯豊、推古、皇極、斉明、倭姫、持統、元明、元正と同列に扱い、いずれも(男系の)先帝と後帝との間を取りつぐ、中間の天皇であると結論付けた。
3.懐風藻・智蔵伝に対する喜田氏の解釈の問題点
智蔵伝をよく見ると、智蔵が「太后天皇の世、師本朝に向かふ」という文章に、「帝嘉みしたまひ、僧正に拝したまふ。」という文章が続いている。これを文面通り読めば、「帝」とは智蔵が帰国報告した時の天皇、すなわち「太后天皇」になる。喜田氏は、『僧綱補任』の記述を根拠にして「帝」は天武天皇のことだと理解しているが、『僧綱補任』には、永治二年(一一四二)に僧綱に補任された僧の名前も記されており、平安後期の感覚で、元資料に記されていた干支を天武二年と記したものと思われる。すなわち、天武二年には「太后天皇」と呼ばれた倭姫王が君臨していた、そして天武が倭姫王を天子として奉っていたことの証拠となると思われる。(*天武の和風諡号は「天渟中原瀛真人天皇である。天武は自らを「真人=臣下一位」の天皇と呼んだ可能性もあると考える。)
喜田氏は倭姫を、飯豊、推古、皇極、斉明、持統、元明、元正各天皇と同列に並べて、「中天皇」は(男系の)先帝と後帝との間を取りつぐ、中間の天皇であると結論付けている。この中で、飯豊皇女については、日本書紀の「忍海の角刺の宮で天下の政治を執った」という記事が根拠となりうるが、倭姫王については、天武(大海人)が天智の危篤の場に臨んで、「天下は皇后(倭姫王)に授けるべきだと述べた」という記事によって推測しているにすぎない。喜田氏は、日本書紀に倭姫王が天皇になったと記されていいことには関心が薄いように思われる。
同時に、智蔵伝は太后天皇を「帝」と呼ぶ一方で、天智に「淡海帝」という表現を用いている。すなわち天智天皇と太后天皇(倭姫王)を同列に扱っている。倭姫王が倭国王(九州王朝の天子)という意味で「天皇」と呼ばれているのであれば、天智も倭国王(九州王朝の天子)になったと考えなければならない。
三.万葉集に記された「中皇命」の解釈について
1.喜田氏の解釈と田中氏の反論
万葉集第一巻には、二か所「中皇命」が出てくる。第一は三番歌・間人連老の歌につけられた題詞「(舒明)天皇の内野に遊猟した時に、中皇命の間人連老をして献らしめし歌」という記述である。第二は第十番歌、十一番歌、十二番歌につけられた題詞「中皇命の紀伊の温泉に住ききたまひし時の御歌」である。喜田氏は、第三番歌の題詞の中皇命は斉明、第十、十一、十二番歌の題詞の中皇命は倭姫王であると考察した。しかし、田中卓氏は、万葉集の「中皇命」は他に類を見ない表現であり、そのような表現を複数の人物に当てはめるのはおかしい。「中皇命」は特定の人物を指す固有名詞で、最もふさわしいのは舒明天皇と皇極天皇の皇女(中大兄の同母妹)で孝徳天皇の皇后であった間人皇女である、と反論した。
2.古田武彦氏の解釈
古田氏は、『古代史の十字路―万葉批判』で、万葉集の三番歌と十番・十一番・十二番歌の題詞に出てくる「中皇命」という言葉に注目している。そして「中皇命」とは九州王朝の天子であり、「中」とは博多を流れる那珂川などに共通する固有名詞である、そして題詞の内容は歌の内容とかけ離れたものであると考察した。三番歌にある「朝には」という文は原文では「朝庭」と書かれていることなどから、実際には朝廷賛美の歌であると、歌の意味を読み取った。
次に各歌を読み下し文、原文、古田武彦氏現代語訳の順に記す。
*万葉集三番歌
「やすみししわが大君の朝には取り撫でたまひ夕にはい寄り立たししみとらしの梓の弓のなか弭の音すなり朝狩りに今立たすらし夕狩りに今立たすらしみとらしの梓の弓のなかはずの音すなり」
「八隅知之我大王乃朝庭取撫賜夕庭伊縁立之御執乃梓弓乃奈加弭乃音為奈利朝狩尓今立須良思暮狩尓今他田渚良之御執能梓弓之奈加弭乃音為奈里」
「八方の領土を支配されるわが大王の(お仕えになっている)、その天子さまは、弓を愛し、とり撫でていらっしゃる。その皇后さまは、天子さまにより添って立っていらっしゃる。その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。朝の狩りに、今立たれるらしい、夕の狩りに今立たれるらしい。その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。」
*万葉集四番歌:反歌
「たまきはる内の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」
「玉尅春内乃大野尒馬敷而朝布麻須等六其草深野」
「この内野の(中の)大野に馬を並べ朝の足踏みをされているのであろう、その草深い野よ。」
*万葉集十番歌
「君がよも我がよも知らむ磐代の岡の草根をいざ結びてな」
「君之歯母吾代毛所知哉盤代乃岡之草根乎去来結手名」
「貴女の寿命も私の統治も、いつまでつづく、と誰が知ろう。この盤代の名にふさわしく、いつまでもつづくことを祈って、さあ岡の草結びをしよう。」
*万葉集十一番歌
「吾がせこは借廬作らす草なくは小松が下の草を苅らさね」
「吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃草乎苅核」
「わたしの夫(中皇命)が草で仮廬を作らせていらっしゃる。もし草が足りないなら、(今私がいる)小松の下の草をお苅り下さいな。」
*万葉集十二番歌
「わが欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の珠そ拾はぬ。《或いは頭に云はく、わが欲りし子島は見しを》」
「吾欲之野嶋波見世追底深伎阿胡根能浦乃珠曾不拾《或頭云吾欲子嶋羽見遠》」
「わたしが貴女に見せたいと思ってきた野嶋(明石海峡)は、もう見せた。だけど、あの底の深い英虞湾の真珠は、まだ拾ってない、これからの楽しみだよ。(あるいは)わたし自身が行きたいと願っていた吉備の児島は、もう見た。だけど、あのだけど、あの底の深い英虞湾の真珠は、まだ拾ってない、これからの楽しみだよ。」
3.私の解釈
古田氏は、中皇命=間人皇女(中皇女)説を否定して、中皇命は男性の九州王朝の天子であると考察している。そして、十一番歌「吾がせこは借廬作らす草なくは小松が下の草を苅らさね」という歌は、中皇命の妻がうたった歌であると解釈している。しかし、十番歌・十一番歌・十二番歌とも作者は共通であり、中皇命自身が女性であると考える方が自然ではないだろうか。
そもそも、日本書紀に全く記されていない「中皇命」が九州王朝の男性の王ならば、なぜ題詞に記されているのか。古田氏の万葉集批判の考え方からすれば、「中皇命」という記述は消されてしかるべきである。題詞に「中皇命」という名前が記されているのは、「中皇命」が万葉集編纂時点で個人名として浸透しており、消し去れない存在であったからとしか思われない。
しかし私は中皇命=間人皇女説はやはりおかしいと考える。天皇になっていない人物を皇命と呼ぶだろうか。また、間人皇女が約四千五百首ある万葉集の第一巻の三番、(四番)、十番、十一番、十二番に取り上げた歌にふさわしい人物であろうか。私は「中皇命」が消し去れない存在でありながら、なおかつ秘匿された「天皇」であった人物であったと考える。
私は、倭姫王を、「日本書紀に『斉明天皇』として記された九州王朝の天子」の皇女で倭国王を継いだ人物であると考察した。倭姫王は白村江の敗戦の時には九州にいて、唐軍の九州上陸を恐れた倭姫王は戦地に赴かなかった中大兄(天智)に庇護を求めて、近江に移り、そこで天智と婚姻して天智に倭国(九州王朝)の政治を委ねたと考えた。そのように考えれば、「中皇命」は、九州王朝の王であり、なおかつ天智の皇后として日本書紀にも記されており、しかし天皇であったことを秘匿されている人物、即ち倭姫王にぴったりと当てはまるのではないだろうか。三番歌は、中皇命が、当時の大王(『斉明』という名で日本書紀に記された九州王朝の天子又はその父王)をたたえてうたった歌。十番、十一番、十二番歌は、倭姫王が中大兄(天智)との間で取り交わした歌と捉えれば、スムーズに理解できるのではないだろうか。
四.その他の各種史料に残る「中天皇」について
1.大安寺縁起の「仲天皇」について
天平十九年大安寺三綱言上の伽藍縁起流記資財帳には、大安寺の由来が記されており、この寺が聖徳太子によって基を開かれ、代々の天皇付託を受けて斉明天皇に及び、尚完成せざることを述た後で、次のように記している。
「(斉明)天皇筑紫朝倉宮に行軍し、まさに崩じたまはんとする時、甚く痛み憂ひ勅りたまはく、此寺を誰かにか授けて
参集ると先帝の待ち問いひたまはば、いかが答え申さんと憂ひたまひき。時に近江宮御宇天皇奏したまはく、(中略)仲天皇奏したまはく、妾も我妋と、炊女として造り奉らんと奉しき。時に手を拍ち慶びたまひて、崩じたまひき」
喜田氏は、近江宮御宇天皇(天智)を我妋(*夫と同じ)と言い、自らを「妾」と言い、炊女になっても大安寺を造り奉らんと斉明天皇に対して請け合う「仲天皇」は天智天皇の妻となる倭姫王しかいないと考察した。喜田氏は斉明と天智が親子であり倭姫王が天智の妃であるという日本書紀に沿った関係でこの文面を解釈したが、「日本書紀に『斉明』と記された九州王朝の天子」と倭姫王が親子であり、天智が倭姫王の婿になったという関係においてもこの文面は有効であると考える。
2.野中寺所蔵の仏像銘の「中宮天皇」について
喜田氏は、河内の野中寺所蔵の仏像銘に「中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉彌勒御像也」という文があり、丙寅年(天智五年)四月に「開」という御方(*喜田氏はこの人物を「天命開別天皇」すなわち天智天皇と理解する)の記になることから、これは斉明天皇であると理解し、自分の母親を中宮と呼ぶのは解せないが必ずしも不可ではないとした。
喜田氏が疑問を感じたように、天智が自分の母親を中宮天皇と呼ぶのは解せない。太政天皇又は太后天皇と呼んでしかるべきである。天智は天智七年に即位しており、天智五年はまだ称制の時期である。天智が自らの皇后となる倭姫王に敬意を表して「中宮天皇」と呼んだと考えればつじつまは合うと考える。
3. 称徳天皇の宣命中の「中都天皇」と正倉院御物象牙牌の「平城御宇中太上天皇惟心持経」という銘について
これらについては、田中卓氏の考察の通り、「中皇命」「中天皇」と呼ばれ、「太后天皇」とも呼ばれた倭姫王の時代の後で、元正天皇が「中都天皇」・「中太上天皇」と呼ばれた可能性があると考える。
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