2022年12月12日

古田史学会報

173号

1,蝦夷国への仏教東流伝承
羽黒山「勝照四年」棟札の証言
 古賀達也

2,九州物部氏の拠点について
 日野智貴

3,七世紀における土左国
「長岡評」の実在性

 別役政光

4,伊吉連博徳書の捉え方について
 満田正賢

5,「丹波の遠津臣」についての考察
 森茂夫

6、弓削氏と筑紫朝廷
 日野智貴

7,田道間守の持ち帰った橘の
ナツメヤシの実のデーツとしての考察

 大原重雄

8,「壹」から始める古田史学 ・三十九
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅰ
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

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乙巳の変は九州王朝による 蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだった 満田正賢(会報172号)

伊吉連博徳書の捉え方について 満田正賢(会報173号)


伊吉連博徳書の捉え方について

茨木市 満田正賢

 伊吉連博徳書は、日本書紀の斉明紀に引用されている、遣唐使の動向に関する伊吉連博徳の報告書である。孝徳紀には「伊吉博得言」という別の表現で引用されている。伊吉連博徳書は、その内容が九州王朝の存在を証明するものとして、古田武彦氏の「失われた九州王朝」で取上げられた。私は、白村江の敗戦前後の日本の変化を見極めるために、伊吉連博徳書について改めて考察を試みた。その結果、伊吉連博徳書は純粋な記録資料ではないが、それを正しく捉えれば白村江の敗戦前後の日本の変化の見極めに役立つものであるという結論に至った。

 

一.「失われた九州王朝」における伊吉連博徳書の捉え方

 日本書紀が引用した伊吉連博徳書の記事は、斉明紀五・六・七年条に引用された、己未(斉明五年:六五九年:二中歴白雉八年)、辛酉(斉明六年:六六〇年:同白雉九年)の記事である。又、孝徳紀白雉五年条には「伊吉博得言」という表現で庚寅(持統四年:六九〇年:同朱鳥五年)、乙丑(天智四年:六六五年:同白鳳五年)の記事が引用されている。白村江の敗戦(天智二年:六六三年:同白雉三年)前後の遣唐使の状態が記されており、そこに記された伊吉連博徳グループと「倭種」グループとの対立、唐の処遇が記されている。古田武彦氏は「失われた九州王朝」において、「倭種」を初めて史書に現れた九州王朝の使節団のメンバーと見做し、伊吉連博徳書を白村江前後の唐における九州王朝の使節団と近畿天皇家グループとの対立を知る直接史料と考えた。

 

二.伊吉連博徳書はいつ誰に提出されたか

(1)日本古典文学大系版日本書紀の補注では以下の説が紹介されている。

①壱岐史が連姓を与えられたのは天武十二年であり、伊吉連博徳書の提出は天武十二年以降である。(*持統朱鳥元年記事には「小山下壹伎連博徳」と記されている―満田)
②白雉五年条の伊吉博得言は伊吉連博徳書と別物である。
③斉明紀に引用された伊吉連博徳書は博徳が天武十二年以降書いたものである。白雉五年条に引用された「伊吉博得言」の帰国記事は白雉五年の出来事である。(坂本太郎説)
④斉明紀に引用された伊吉連博徳書は博徳が持統四~九年に官界復帰の為に政府に提出したもので、白雉五年の伊吉連博徳言は書に附属する編年的記録である。(北村文治説)
⑤「伊吉博得言」の引用文の最後に「今年共使人帰」という記載がある。この「今年」が何時を指すかについて、白雉五年説(坂本太郎=「今年」という言葉は、原本には「白雉五年」と書いてあったものを、書紀編者が行なった修正とみなす)と天智四年説(和田英松、北村文治)があるとしているが、「『使人』とは伊吉博得等であり、天智四年説が最も有力である」という北村文治氏の説を最後に紹介している。

 

(2)「日本書紀と伊吉連博徳」(坂本太郎著作集第二巻収録)での坂本太郎氏の考察

①斉明五年条に出てくる「小錦下坂合部石布連、大山下津守吉祥連」の冠位は天智が制定した冠位である。
②伊吉連博徳書には伊吉連博徳自身の功績が記されている。この事から、伊吉連博徳書は博徳が書紀編纂の材料として提出したものと推測出来る。

(3)私の推定
①伊吉連博徳は大宝元年(七〇一年)に従五位下に叙され、大宝三年(七〇三年)に大宝律令選定の功労褒賞を受けている、没年は不明であるが、最終の位は従五位上となっており大宝三年以降も生存していたと思われる。養老四年(七二〇年)の書紀完成時に生存していたかどうかはわからないが、書紀編纂開始時に生存していた可能性は十分にある。坂本太郎氏が推測したように、伊吉連博徳書は博徳が書紀編纂の指示が出された時に提出したものと考えて良いのではないか。
②白雉五年の「伊吉博得言」の引用文には「連」という姓が記されていない。仮に日本書紀・孝徳紀の述者が白雉期の生き証人として伊吉連博徳から直接ヒアリングして記載したものとすると、「連」という姓が抜けていることは不自然である。一方で、「伊吉博得言」の引用文には伊吉氏が連姓を得た天武十二年以降の庚寅(持統四年:六九〇年)と、乙丑(天智四年:六六五年)という年が記されている。この矛盾に答えなければならない。
③「伊吉博得言」の引用文の最後にある「今年共使人帰」の「今年」が何時を指すかについて、私は「今年」は天智四年であると考える。「今年」帰国したと博得が記した氷連老人は、持統三年の大伴部博麻の記事によって、白村江の後帰国したと推定出来る。別倭種韓智興も同様である。坂本太郎氏は、この時期何度も唐を往復した人間がいてもおかしくないとしているが、学生である氷連老人だけでなく、韓智興も伊吉連博徳も同時期に唐と日本(倭国)を往復したとは考えにくい。「伊吉博得言」において日本書紀編者が「修正=加筆」したのは「今年」という表現ではなく、伊吉連博徳が連姓を得た天武十二年以降の「智宗以庚寅年付新羅船歸」という記事と、天智四年と重なる「定惠以乙丑年付劉德高等船歸」という記事ではないだろうか。
④「伊吉博得言」の「今年」が天智四年であるとすると、伊吉連博徳はまだ連姓を得る前の天智四年に天智天皇(正式には即位前の中大兄皇子)に帰国報告を行ない、それが記録として残っていたと考える事ができる。「伊吉博得言」は本来「伊吉史博得言」であったと思われる。書紀編者は、伊吉連博徳書が存在することから、あえて「史」という姓を削ったのではないだろうか。孝徳紀白雉五年の「伊吉博得言」の主要部分は、伊吉連博徳書とは異なるものであり、伊吉史博得が中大兄皇子に提出した帰国報告書の中の一文であったと考えられる。

 

三.伊吉連博徳は純粋に事実を書き留めた記録だったのだろうか

(1)坂本太郎氏の考察
 坂本太郎氏は前出の「日本書紀と伊吉連博徳」の中で次のような考察を行なっている。
①舒明四年(六三二年:聖徳四年)に高表仁が難波津に泊まったときの接待係として伊伎史乙等という名が出てくる。新撰姓氏録には伊吉氏は、長安の人劉家楊雍の後であると記している。伊伎史氏は少なくとも舒明期以降対中国外交に携わっていた。
②最後に天譴てんけんのあったこと(*「大倭天報之近」という記事を指す―満田)を述べているのは、それがこの報告書の執筆の少なくとも一つの目的であったことを示している。
③博徳言は、博徳書に対し、補足的な意味を持ったものとして、博徳書とあまり隔たぬころに記されたものであろう。博徳書で問題の韓智興を特に別倭種と説明しているところが、両者の無関係でないことを思わせるのである。博徳書について考えた博徳と書紀との関係の大本は、またこの博徳言についても通用すると見てよいと私(*坂本)は考える。

(2)私の推定
①斉明紀五・六・七年条に引用された、己未(斉明五年:六五九年:二中歴白雉八年)、辛酉(斉明六年:六六〇年:同白雉九年)の記事は、伊吉連博徳書が日本書紀編纂を意識して作成した報告者であるならば、「事実を、日本書紀編纂による歴史創作の方針に沿った内容に粉飾して記した報告書である」と考えることが出来るのではないか。例えば「天子相見問訊之、日本國天皇平安以不」など、あたかもこの時点で唐の天子が日本国天皇に対応しているが如き表現は、明らかに粉飾されたものと考える。
②伊吉連博徳書の中でポイントとなる記事を孝徳紀白雉五年条の「伊吉博得言」のそれとつなぎ合わせると次のようになる。

「別倭種韓智興・趙元寶」→「韓智興傔人西漢大麻呂、枉讒我客。客等、獲罪唐朝已決流罪、前流智興於三千里之外、客中有伊吉連博德奏、因卽免罪。」→「爲智興傔人東漢草直足嶋所讒、使人等不蒙寵命。使人等怨徹于上天之神、震死足嶋。時人稱曰、大倭天報之近。」

 この一連の記事の解釈は、古田武彦氏が「解説に代えて」という文章を寄稿した李鐘恒氏の「韓半島からきた倭国―古代加耶族が建てた九州王朝(新泉社)」の中で詳しく考察されているが、私なりにまとめると、

「(我々とは異なる)倭国の使節団が余計なことを話したので、唐朝は流罪を決めたが、私(*博德)が申し立てをして流罪を免れることが出来た。又倭国の使節団が余計なことを話したので、使人(*博德等)は唐の天子の寵命を受けることがなかった。大倭(*倭国)が天の報いを受ける日は近い」

と解釈出来る。

③私は、伊吉連博徳が、唐における倭国から日本国への交代を推進した当事者として、精一杯自分の手柄を誇示したのが伊吉連博徳書ではなかったかと考える。倭国から日本国への交代という史実は日本書紀では隠されているが、博徳が自分の手柄を誇示するためには、それに触れざるをえなかったのではないだろうか。

④伊吉連博徳書は日本書紀編纂の為に提出されたと考えられるが、博徳は天智四年に中大兄皇子に提出した帰国報告書の中で、すでに上記の主旨を誇示していたのではないか。それ故に「伊吉博得言」の中で「別倭種」という、日本書紀編纂上危険な言葉が用いられていたのではないだろうか。

⑤「伊吉博得言」の中にある「別倭種」という言葉は伊吉連博徳書の最後に使われた「大倭天報之近」という言葉と呼応しているように思える。山田宗睦訳「原本現代訳日本書紀」では、「倭種」については、「日本人との混血児(古典文学大系)説はとらない。倭国人の意。」という注釈がついており、「大倭天報之近」については「この大倭を通説のように大和ととると文意が通じない。大倭すなわち倭国で、その天報=滅亡も近い(白村江の敗戦)、というのである。」という注釈がついている。山田氏は古田説に好意的ではあるが、「原本現代訳日本書紀」の注釈で特別に古田説を紹介しているわけではない。山田氏があえて注釈でコメントしたように「別倭種」、「大倭」が白村江の敗戦を契機にして最終的に「日本国=近畿天皇家と」王朝交代した「倭国=九州王朝」を指していることは疑いがないように思える。

 

四.まとめ

 「失われた九州王朝」も、前出した李鐘恒氏の「韓半島からきた倭国」も、伊吉連博徳書と「伊吉博得言」を貴重な同時代資料と見做してきた。一方私は、伊吉連博徳書が日本書紀編纂の為にまとめられた報告書であり、「倭種」という表現のある「伊吉博得言」の主要部分は天智四年に伊吉史博得が中大兄に提出した帰国報告書であると推測した。
 上記の想定をもとに白村江前後の日本の変化、九州王朝と中大兄の関係などを再検証することが必要ではないかと考える。そして検証にあたっては、「伊吉博得言」に「別倭種韓智興・趙元寶」という日本書紀本文に現れない人物名が記されていることから「九州王朝の実態はすべて日本書紀に事実を改竄して記されているわけではない。大半の部分は全く隠されている。」という視点を持つことが必要であると考える。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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