2022年12月12日

古田史学会報

173号

1,蝦夷国への仏教東流伝承
羽黒山「勝照四年」棟札の証言
 古賀達也

2,九州物部氏の拠点について
 日野智貴

3,七世紀における土左国
「長岡評」の実在性

 別役政光

4,伊吉連博徳書の捉え方について
 満田正賢

5,「丹波の遠津臣」についての考察
 森茂夫

6、弓削氏と筑紫朝廷
 日野智貴

7,田道間守の持ち帰った橘の
ナツメヤシの実のデーツとしての考察

 大原重雄

8,「壹」から始める古田史学 ・三十九
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅰ
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

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高松塚古墳壁画に描かれた胡床に関して (会報170号)
三内丸山遺跡の虚構の六本柱大原重雄(会報175号)

常世国と非時香菓について 谷本茂(会報175号)


田道間守の持ち帰った橘の

ナツメヤシの実のデーツとしての考察

京都府大山崎町 大原重雄

 垂仁天皇はタヂマモリを常世国とこよのくにに遣わし,非時香菓ときじくのかくのみを求めさせた。しかし、手に入れて戻った時には天皇は亡くなっていた。田道間守は泣き叫んでその場で命を絶ったという。そしてこの非時香菓は古事記、日本書紀とも今の橘であると記している。しかし小学館の古事記の注釈にも、タチバナは古くは柑橘系の総称だが、これが現在の何にあたるかは未詳とされる。魏志倭人伝に記されている橘も今と同じものかどうかはわからない。現在の橘は酸味が強く食用ではない。これが他の食することができる種類の柑橘系や果物類だとしても、はるか遠方からだと持ち帰るのは無理であろう(注1)
では古事記や日本書紀の記述に対応できる非時香菓はどのようなものか、以下に論じたい。

 

【1】古事記の記述(一部省略)

多遲摩毛理たじまもりを常世とこよの國に遣はして、登岐士玖能迦玖能木實ときじくのかくのこのみを求めしたまひき。故、多遲摩毛理、に其國に到りて、其の木實このみを採て縵八縵かげやかげ、矛八矛やけやほこを將ち來きたりし間に、天皇既に崩かむあがりましき。爾に多遲摩毛理、縵四縵、矛四矛を分けて、大后おほきさきに獻たてまつり、縵四縵・矛四矛、天皇の御陵の戸に獻り置きて、其の木實このみを擎ささげて、叫さけび哭きて白もうししく「常世の國の登岐士玖能迦玖能木實を持ちて參上まいのぼりて侍さもらふ。」とまをして、遂に叫び哭きて死にき。(中略) 又其の大后比婆須比賣命ひばすめひめのみことの時、石祝作いしきつくりを定め、又土師部はにしべを定めたまひき。

 古事記では常世国に到っていることから、実際に存在した地域であったと考えられる。縵八縵、矛八矛は書紀では八竿八縵と前後入れ替わっているが、同じ意味であろう。天皇と大后に半分にして献じているが、この箇所については後でふれたい。
 タジマモリは天皇の墓の前で泣き叫んで殉死している。書紀も同様の記述がされ、さらに古事記では大后の時に、石祝作が墓室づくりで土師が祭祀用の器物であり、葬送の儀礼を行う部民を定めたとすることからも、この橘は葬送儀礼に関係していると考えられる。

 

【2】以下は日本書紀(一部省略)

(垂仁後紀春三月十二日)田道間守たじまもり、常世國より至かへりいたれり、則ち齎もてまうでいたる物は、非時ときじくの香菓のかくのみ、八竿やほこ八縵やかげなり。田道間守、是に泣いさち悲歎なげきて曰もうさく、「命おほみことを天朝みかどに受うけたまはりて、遠とほくより絶域はるかなるくにに往まかる。萬里浪とほくを蹈みて、遙に弱水よわのみず(じゃくすい)を度わたる。是の常世の國は、神仙ひじりの祕區かくれたるくに、俗ただひとの臻いたらむ所に非ず。是ここを以て、往來ゆきかよふ間に、自おのづから十年ととせに經りぬ。豈期あにおもひきや、獨ひとりたかき瀾なみを凌しののぎて、更また本土もとのくにに向まうでこむといふことを。(中略)乃すなわち天皇の陵みささぎに向まゐりた、叫おらび哭きて自ら死まかれり。群臣まへつきみ聞きて皆涙を流す。田道間守は、是三宅連の始の祖おやなり。

 非時は時を定めない、常時あるものの意だが、これを年中絶え間なく実ができる木と考えることはないであろう。葉が落葉しないものは多くあるが、これは保存可能な木の実と考えられる。
 香菓はその漢字から香りの良いものと思ってしまうが、この場合の訓みの「カク」は古事記の注では輝くさまを表すのだという。小学館の書紀では黄金色に輝いていることとする。太陽光線で照り返すようなものは考えにくいが、黄金色なら候補はあるであろう。この点についても後述する。
 田道間守は、泣きながら、常世の国がはるか遠くの地で、人がとても容易にたどり着けないところだと語っている。古事記と違って常世国の特徴をくわしく記述しており、また神仙思想の関係する表現も含まれることから、漢籍の転用が考えられたが、書紀集解には関連するような漢籍の例文はあっても直接引用されたものは認められず、何らかの伝承を漢文にしたのではないかと思われる。ただ弱水については検索すると多数の用例が見られる。

 

【3】中国の古典に多数見られる弱水

『晋書』列伝「跨弱水以建基」跨ぐのは河のことであろう。
 旧唐書』列伝第五十四「娑夷河,即古之弱水也」娑夷河がかっての弱水であったとしていることからも河川名であろう(注2)。そしてその場所を表した記事もある。

『三国史』魏書の注釈「弱水在條支西、今弱水在大秦西」
『漢書』西域傳「安息長老傳聞條支有弱水」この條支は西アジアあたりの国と考えられるので、弱水は中国からはるか西方の河と考えられる。
『史記』大宛列伝「或云其國西有弱水、流沙,近西王母處,幾於日所入也」中国からは日の入る所とされるはるか西方にあって、しかも、流沙は砂漠地帯であり、そこを流れる河である。
『漢書』金城郡「西有須抵池,有弱水、昆侖山祠」
『漢書』西域傳「昆侖之東有弱水」昆侖は伝説上の山とされる。書紀では神仙のかくれた国と記しており、神仙思想の表現も取り入れられている。

 漢籍に見られる弱水は、河の固有名詞であり、日本書紀はその弱水を渡っている。はるか西方の地であることから、西王母や神仙思想とも関連付けられたと考えられる。砂漠地帯とも書かれているので、他に事例のない書紀の浪を蹈むというのも、海の波を蹈むとは解しがたく、波を打ったような光景の広大な砂漠の地を踏んで進んだということではないだろうか。
 なお漢書司馬相如伝下の顔師古注に「弱水ハ西域ノ絶遠ノ水ヲ謂ウ毛車ニ乗リテ渡ルノミ」とある。ここに毛車が登場するが、唐の時代までの漢籍にはほかに見当たらない。私はこの毛車を砂漠を渡るのに欠かせないラクダのことではないかと考えたい。帰国の際の峻瀾(高き波)は当然海を渡って帰ったことを示している。
 天皇がわざわざ使いを出して求めたということは、近隣にはない珍しいものとなろう。さらに王が所望するものは不老不死につながる場合が多い。またそれは美味なものとも考えられる。以上から探し求めた非時香菓は、はるか西方の砂漠地帯の樹木の育っている地域、すなわちオアシスにあるものではなかろうか。そこに育つのがナツメヤシであり、その実をデーツという。

 

【4】最古の栽培植物、そして聖樹であるナツメヤシとその実のデーツ

 北アフリカからペルシャ湾岸地域で生育する常緑で高木のヤシ科植物である。
ナツメヤシ

メソポタミアでは紀元前六〇〇〇年頃より栽培がされたようだ。今でも砂漠の中のオアシスで青々と茂っている。単茎で通常基部以外では分枝はせず、葉の全体の形は羽に似た形状である。人工授粉で栽培を行っており果実は多数が房状に結実する。この果実はデーツと呼ばれ、ビタミンや糖分を多く含み、黒糖のような甘味がありそのまま食べたり、料理や加工して菓子としても利用されている。干した実は保存がきき、遊牧民やオアシスで暮らす人々にとって欠かせない食料となる。健康食品に関心のある人以外には、日本人にあまりなじみのないものだが、実はオタフクのお好み焼きソースなどに早くから使われているようだ。さらに薬効としても期待された。果実から蜜を取って酒もつくる。樹幹は建材になり、葉は籠やむしろ、編み籠、マット状の敷物や屋根を葺く材料にもなる。さらに団扇や箒にもなる。
 栄養価の面で優れている。銅・鉄・亜鉛などの栄養素は貧血予防や抗酸化作用も期待できる。さらに甘みがあっても血糖値の上昇度合も低いようだ。マグネシウムや食物繊維も豊富で、古代においても大変貴重な木の実であった。この特徴から、王が美味で不老不死の食べ物と考えて求めさせたのは無理もないことなのだ。しかも熱帯地域以外では育たないから、近隣に求めることはできなかった。
 デーツは保存がきき、生で食べられることから遊牧民やオアシスの人々の欠かせない食料源であったことから、非時がいつもあることとつながるのである。香実はかくのみで、香りではなく輝く実という意味と解釈されている。デーツは熟せば飴色、まさに輝くような黄金色になるのである。
 よく混同される棕櫚はミャンマーや中国中央部にみられるヤシ科シュロ属のヤシであり、耐寒性がある。これが日本では棕櫚という用語でヤシ科全般を指す用語になってしまっている。聖書に出てくる樹木を棕櫚と訳出してしまったことも混同の一因とされるが、あくまでキリストと関係するのはナツメヤシである。パルメット文様の元もこのナツメヤシと考えられている。

シュロ1シュロ2

 

【5】八竿八縵の意味

 さて、解釈の定まっていない八竿やほこ八縵やかげ、古事記は逆で縵八縵やかげ・矛八矛やほこである。小学館の注釈では、竿は串刺しにしたものの助数詞、縵は葉のついたままのものの助数詞とある。だが岩波の注では縵は干し柿のようにいくつかの橘を縄に取り付けた形状とされる。以上の説明ではわかりにくい。しかし、これもナツメヤシに実るデーツの状態を見れば理解は可能である。一本の軸から枝分かれして紡錘状にたっぷりの実がついている。
その一本に実が連なるような状態は、干し柿をつるしているかのようだ。また軸から離して乾燥したものを袋に詰めた状態も考えられる。みたらし団子のように串に刺した可能性もある。どちらが竿か縵かわわからないが、これは商品売買の際の単位といったものではないだろうか。シルクロードの商人たちのデーツ販売形態を表現したものと考えたい。古事記では大妃に縵四縵・矛四矛を分けたというのも、これで理解しやすくなろう。

連なるように実るデーツ

 

【6】はるか古代から聖樹とされたナツメヤシ

 現代でも、ムスリムの慣習として、赤ん坊が最初に口にするものであり、また断食明けの食べ物としてこのデーツが使われる。古代よりナツメヤシは人々の信仰、儀礼と結びついている。
 枯死した葉の落ちたところから新しい葉が出てくるナツメヤシは、不老の象徴であった。エジプトでは葬儀の際にはナツメヤシの葉を携えて行列し、ミイラやそれを納めた棺の上に置いたという(注3)。ギリシャ神話では、太陽神アポロンは、デロス島のナツメヤシの元で生まれ、その木がアポロンにささげられて聖樹となった。古代ローマでは、死者を冥界に送る儀式を司る神アヌビスは、1世紀のローマのイシス神殿の祭壇浮彫に、左手に壺とともにナツメヤシの葉を手にしているところが描かれている。また、ティグラネ墳墓璧の厨子の図像には、女神がナツメヤシを両手に持ってかざすものがあり、これは死者を守護していることを意味している。初期キリスト教会は、キリスト教徒が迫害された際の、死に対する勝利の象徴とした。絵画の中で殉教者の持ち物として、またイエスの洗礼の背後にナツメヤシが描かれた。

イシス神殿祭壇の山犬の姿のアヌビス神  イエスの礼拝の背後のナツメヤシイエスの礼拝の背後のナツメヤシ

 以上のことから聖樹であるナツメヤシを持ち帰った田道間守が垂仁天皇の後を追って殉死することと符合する。ナツメヤシの葉をかざして死者を守護する構図ともなるのではないか。さらには古事記の、石棺や石室を造る石祝作、埴輪や祭器を作る土師部を定めたという記事も葬送儀礼の点でも重なるのである。

【7】デーツと類似点のあるナツメ

 よく混同されるものにナツメ(クロウメモドキ科、落葉高木)がある。地中海沿岸から中国まで見られ、乾果は生食できる点などナツメヤシとの共通点も多い。中国、朝鮮では古来、冠婚や正月に欠かせないものであった。奈文研ブログに「ナツメのはなし」が掲載されているが、漢方薬としても使われ、神仙とも結びついていたという。平原古墳でも出土している方格規矩四神鏡や三角縁神獣鏡の銘文にこの棗が見られる。「尚方作竟眞大巧 上有仙人不知老 渇飲玉泉飢食棗」(上に仙人ありて老を知らず、渇えば玉泉を飲み、飢えばなつめを食し)
 また長屋王邸跡からも棗と書かれた木簡が出ている。中国では一日一粒で百歳まで老いないと考えられたので、長屋王も棗を所望したのであろうか。ナツメヤシのあるオアシスが神仙の地と考えられたことと類似する。


まとめ

 日本書紀の記述から非時香菓は、中国のはるか西方の弱水の地を渡った砂漠の中のオアシスに生息するナツメヤシと考えられる。保存が出来て栄養もある木の実のデーツが、王が求めたものとしてふさわしいものであろう。さらに葬送儀礼と殉教に関わる聖樹信仰の点でも、殉死後もナツメヤシを持って天皇の墓を守護する田道間守の説話の構図と重なるのである。田道間守が実際に砂漠のオアシスに行ったとは考えにくい。おそらくは西方で語られた説話がシルクロードの民を経て氏族の祖先譚として記紀に取り入れられたと考えられる。
 書紀も古事記も橘と記しているのは気になる問題であり、古代の地名や人名などの点から検討していきたい。
 なお、田道間守はお菓子の神様として祀られているが、甘みがあってお菓子の材料となるデーツと関係するならば、あながち無関係とはいえないかもしれない。

注1.西江碓児氏はバナナではないかとされて、これを古田武彦氏は賛同されたが、論証はされていない。(市民の古代第14集1992年市民の古代研究会編◆古田武彦講演録)
 そもそも大量の農薬で育て、青いうちに採取して日持ちさせるために湯にさらしてから輸送中の冷蔵庫でエチレンガスを使用して熟成させたものが店頭にならぶ。古代の日本に持ち帰ったとしたら、虫食いだらけで腐敗も進行し、とても大王に献じることはできない。

注2.「オクサスの南北」というブログに弱水を娑夷河とするなど、田道間守と関連させて論じられる記事がある。

注3.ここで関係するのが天若日子の葬儀の行列である。河雁を岐佐理持ささりもちとし、鷺を掃持はばきもちとし、・・・とある。この掃持は箒を持つのである。その箒は葉で作られたものであるが、元はナツメヤシの葉からきていると考えられる。現在でも西アジア方面ではナツメヤシの葉が箒として使われている。ちなみにナツメヤシの葉はホウスという名で呼ばれている。この点は別途論じたい。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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