2023年4月11日

古田史学会報

175号

1,唐代里単位の考察
「小里」と「大里」の混在
 古賀達也

2,常世国と非時香菓について
 谷本茂

3,上代倭国の名字について
 日野智貴

4,三内丸山遺跡の虚構の六本柱
 大原重雄

5,「壹」から始める古田史学 ・四十一
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅲ
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧

田道間守の持ち帰った橘の ナツメヤシの実のデーツとしての考察 大原重雄 (会報173号)

三内丸山遺跡の虚構の六本柱大原重雄(会報175号)../kaiho175/kai17504.html

三内丸山遺跡の虚構の六本柱

京都府大山崎町 大原重雄

 三内丸山遺跡のシンボルのような存在となっている大型掘立柱建物(通称六本柱)は、復元にあたっては異論もあって、結局は妥協の産物とでもいえるような屋根のない床三層の違和感のある建物に落ち着いた。報告書や解説本を見る中でいくつか疑問点が浮かび、その後の検討の結果、この復元には無理があったことを述べたい。

通称六本柱通称六本柱

 

【1】巨大なクリの木の木柱は、直径一mなのか?

 岡田康博氏執筆の同遺跡の解説文(注1)では、「一九九四年六月 太さは一mほどで、これまでの発掘調査で出土していたどの木柱よりも一回り大きかった」 「特に大型で、直径約一mの」 「さらに柱穴の中には直径約一m」と書いておられる。ここでは「ほど」「約」と記されているので、必ずしも一mきっかり、もしくは一mを越えるとは明言しておられない。一m未満だがそれを例えば九七㎝とかにすると細かいことになるので、おおよそで一mと表記したというようにも受け止められる。
 ところが、初期の頃の報告書や解説本、新聞報道では異なる数字が記されているのである。一九九六年の国松俊英『いまよみがえる縄文の都』(注2)には三八頁に「直径八〇㎝」とあり、この中で引用されている朝日新聞の一九九四年七月一六日夕刊の記事にも「直径約八〇㎝の木柱三本と柱穴六個」とある。翌日の毎日新聞も大きな見出しで「直径八〇㎝」と打ち出している。
 その後の二〇〇七年の調査報告書『三内丸山遺跡34』(注3)では、この残存していた木柱についての調査図と数値が掲載されている。四つのピットで「確認された木柱は残存状態が良好で、中でもピット2の木柱は最も太く」、とある。それぞれの残存長径は、八五,八六,七六,七七㎝である。また残存短径は七六,七九,五三,七一㎝。残存高は四五,五〇,四二,六一㎝となっている。すなわち最大で直径八六㎝であり、残りはそれ未満である。そしてこの四本を平均すれば八一㎝なのである。八一㎝を約一mとするのは、間違いとはいえないが、やや不正確ではなかろうか。本来ならば約八〇㎝が適切な表記ではないか。現在のホームページや関連の記事もみな約一mとされているのだが、これはある事情によって、意図的になされたものではないだろうか。令和三年度の「研究紀要」(注4)に掲載の図の解説パネルに「柱は直径七〇から九〇㎝ほど」とある。表現に使い分けがされているのかと思ってしまう。この点について遺跡センターに問い合わせると、「表面の腐食による目減りがあったことと、さらに、木製品は、乾燥とともに収縮したりします。なので、木柱は、調査・取り上げの過程で少しづつ劣化していきます」との説明であった。これはおかしい。出土してから一五㎝も木材が縮んだというのか。木材を乾燥させるにはかなりの時間がかかるはずで、発掘調査でもし木製品が出土したら、取り上げるまで濡らした布で覆って保護しておくのが常識ではないか?もし実際に小さくなったとするなら、どうして展示物に発掘出土時より一五㎝小さくなっています、といった但し書きをしないのか。詭弁ではなかろうか。

 

【2】不可解な地耐力調査

 二〇〇二年の『青森県史別編』(注5)は、岡田康博氏も執筆担当をされているが、遺跡の概括や、高さ二〇mという六本柱建物の復元の妥当性について説明されている。先に「柱の直径が一m近くもある大型のものを大型掘立柱建物と呼んでいる」とされてから、「大型の柱穴が六基が検出された。さらに柱穴の中には直径約一mのクリの巨木を利用した木柱が一部であるが残存していた」という。そして直径だけでなく長さも二〇mを超えるクリの巨木であったと説明される。その裏付けとなるような土木工学的な調査が行われたという。それは、土の密度や支持力を調べることで、巨大木柱をささえていたその下層の地耐力を「標準貫入試験」という方法で分析したという。一九九五年にボーリング調査が行われた結果、地耐力はかって一㎡あたり六ないし一〇トンの荷重がかかっていた。「これらから木柱の直径を平均一mとすると、最小で一四m、最大で二三mの高さの木柱が立っていた可能性」と記している。ここでは「平均一m」となっているが、それならば六本柱のいずれかの直径は一mを越えていたということになるのではないか。さらに、平均八一㎝と一mではその数値計算におおきな誤差が生まれるのではないか。また、この地耐力検査は、周辺の大きな木柱のあったところでも、比較サンプルとして実施されたのであろうか。これらの点に関しても三内丸山遺跡センターに問い合わせたところ、行っていないとの返事であった。比較することもなく、どうして妥当な数値と言えるのか。そもそも四千年あまりも前の地層の地質を現代の建築物の耐震の判断と同じように考えるのは無理ではないか。この調査は直径一mの六本柱を二〇mもの巨木で屹立していたことにするまやかしではなかろうか。

三内丸山遺跡六本柱柱穴断面図、柱痕データー

 

【3】巨木が二度傾いていた「内転び」とする解釈

 復元されている六本柱は、実はよく見ると垂直に立てられているのではなく、すべて傾斜させて立てているのである。現地ではなく写真などでしか知らないものには言われないと気が付かないことだが、ではなぜ傾けているのであろう。
 先ほどの地耐力に続いて、木材の設置方法についての説明がされている。「木材そのものは互いに向かい合うように少し傾き(内転び)、柱穴に木柱が入る位置は柱穴の中央ではなく、北側の列は北壁に接するように、南側の列は南壁に接するように固定されていた」とあり、さらに四五一頁には「内側へ2度弱ほど傾斜」で「内転びともいえるような工法」と記されている。岡田康博氏は自著(注1)でも「ひとつの柱穴(ピット2のこと)に二カ月以上要する調査を行い、結局わずかではあるがお互い向かい合ったように傾いている、内転びと判断した」と述べておられる。私はこの点についても、この「二か月以上」の調査の具体的にわかる記載、例えばどのように角度を計測したのかなどの説明された報告書はどれのことか問い合わせたが、該当する報告書は不明との回答であった。つまり報告書にはないということだ。この点については、遺跡復元プロジェクトの大林組が判断したもののようだが、この点を大林組に尋ねると発掘担当者の同意のもとに判断したとのことだ。遺跡センターの説明では青森県の発掘調査報告書は自前で調査したものを記載し、他組織の分析事例は、基本的に記載しません(業務委託をしたものを除く)、との少し妙な回答であった。四千年以上も前の巨木の根元に近い部分が、数学上の円柱のように底面から垂直に立ち上がる形状をしているなどとはありえないことだ。残存していた高さが五〇㎝ほどの木柱を見てもどうやって二度傾斜の判断をしたというのか。
 そもそも内転びという技法が縄文時代にあったとは考えられないが、どうしてこのような説明をされたのか。この傾斜する木柱から、これは高層の構造物を安定的に支えるためであり、構造物のない木柱だけが直立する復元案を否定するものと考えられたのではなかろうか。縄文研究ではお馴染みの小林達雄氏は、建物ではなく、巨木だけが直立するものとの自説を強く唱えられていたからであろう。
 既に他の縄文遺跡では、巨大な柱穴と残存痕から、直立の木柱だけを建てた復元が石川県の真脇遺跡などにある。だいたい、柱穴は出土していても、地上にどのような構造物があるのかは誰もわからないのである。そして、信州には縄文からの祭りの名残ではないかともいわれる諏訪の御柱おんばしらの事例もあり、柱だけを直立させていた可能性が窺えるのである。一方で福島県宮畑遺跡では巨木の柱穴に掘立柱建物の復元がされているが、これについてはあとで記したい。
 先の朝日新聞の記事には「建造物であれば吉野ケ里遺跡より二千数百年古い時代に、規模で吉野ケ里の楼閣をしのぐ、高さ二〇mを越える大きなものであった可能性が出ているという」とある。これは記者が岡田氏などに取材しての内容であり、記者が自分の吉野ヶ里に関しての知識などから判断して書いたものではなかろう。これは多少のリップサービスがあったとしても、岡田氏自身が吉野ケ里の楼閣(物見櫓)を越えるものを想像していたのではないか。すなわちこの六本柱は単なる直立の柱ではなく、高さで吉野ケ里を越えなければならない構造物であったとしたい願望から、直径を一mにし、内転びや地耐力調査を利用したのではないだろうか。この願望は、本人だけでなく、観光目的による行政からの強い意向もあってのことかと思われる。

六本柱の復元案 建物説と非建物説

 

【4】復元されたクリの巨木の疑問

 復元された木柱は、当然発掘されたクリと同種の材木が使われている、と思われている。私もそのように思っていた。ところが、現在の日本には、直径一mものクリの木で高さが二〇mになるものは容易に確保できないのであった。クリの巨木は各地に見ることが出来るが、それは、杉の木のように直立したものではなく、ねじれたり途中で枝分かれしているのである。クリの木は耐久性にすぐれ、枕木や建物の土台に使われるが、高層の柱になることはない。そのため海外に求めることとし、ロシアのソチから「ヨーロッパグリ」が輸入されたという。お値段は一本千百万円という。驚きの価格だが、それでも平城京本殿の復元に使われた檜は一本二千五百万円という。何本使われたのか知らないが、六本柱の木は半額以下でお安いのかもしれない。さらに奇妙なことがある。
 岡田康博氏のブログ「縄文悠々学」の二〇一〇年の記事に「先日、三内丸山遺跡に復元されている大型掘立柱建物の太い柱が腐食しているとの報道がありました」とあるのだ。復元されて一四年目のことだ。高価なクリの木が、そんなに早く腐るのか。これに関しては、青森県会議員がブログでこの点について疑問を呈している。ロシアの木材が本当にクリであったのか、柔らかいナラの木ではなかったかというのである(注6)。クリの木ではなかったのなら早期の腐食も理解できるが、結論は不明のままだ。世界にも真っ直ぐなクリの巨木はなかったということではないか。これが縄文時代の日本にはあったとは、とても言えないであろう。しかも、そのロシアのヨーロッパグリも、高さ二〇mを越える理想的な巨木はなかったようで、実際の復元では高さ一五mとなっている。次に同じような巨大木柱跡が出土して話題となった福島県宮畑遺跡の復元の場合をみることにする

 

【5】巨木を柱にした建物を復元した宮畑遺跡

福島県宮畑遺跡復元堀立柱建物直径90cmの柱

福島県宮畑遺跡復元クリ巨木の柱

 一九九八年に巨大柱穴跡が確認された宮畑遺跡は、検出された住居の半数ほどが意図して焼かれていたという謎をもつものであった。多数検出された竪穴住居以外にも掘立柱建物跡もあって、その中に直径九〇㎝の柱痕があった。そこに高さが七mほどで高床一段の壁のない吹きさらしに屋根を付けた掘立柱建物が復元されている。使われたクリの木は樹齢百六年のものとのこと。それが使われた柱をよく見ると、整った円柱状の柱ではなく、ふくらみや歪みが見られるものであった(注7)。これがクリの巨木の実体を示しているのではないか。いくら直径が大きくても、だからといって高層の楼閣のようなものを想定するのは無理なのである。このような材木の形状から2度もの傾斜が判断つくのかも疑問となろう。さらに二〇mあまりの巨木を縄文人がどのように立てたのかについても合理的な説明はできていない。この点で、宮畑遺跡の建物の復元は無難なものかもしれない。
 実は、三内丸山では六本柱だけでなく、別の箇所より、直径八五㎝の柱痕が見つかっているのである。(注8)これは六本柱と同格のものであるにもかかわらず、重視されずに、他の掘立柱建物跡と同じ扱いにされて、特記されることもないというのも不思議である。

 

【6】石川県真脇遺跡の木柱列は寄木で一本の柱をつくった。

 真脇遺跡の場合は、縄文晩期の環状木柱列で、直径約七mの真円配置に十本の柱が立ち、残存する木柱痕の幅は六八~九八㎝で蒲鉾状に半割にされていたという。使用したクリの木の直径は一mを越えている。このようなクリの木は入手困難なため、六〇㎝前後の栗木を使い寄木し、出土した木柱根に合わせて柱の長さは七mとした。寄木は木造船制作の技術で、接着剤を使うものであり縄文時代にはありえない。これは高さに無理があっての復元であった。同じ石川県のチカモリ遺跡では、復元されたのは高さ一mほどのもので、これこそ縄文時代当時の復元に妥当なものであったかもしれない。こういったところからも、栗の木での復元には大きな問題が内在していることを物語っているのである。

石川県真脇遺跡クリの巨木の柱

 

【7】吉野ケ里遺跡の物見やぐらの柱穴のサイズも虚構だった。

 先にもふれたように六本柱の復元にあたって意識したと思われる吉野ケ里遺跡の楼閣、物見やぐらについても問題があった。佐原真氏は以下のように述べている。(注9)「柱の痕跡は残っていなかった。沢村仁さんは『現地の調査員に聞くと直径二五㎝ほどだという。それなのに復元された建物の柱の直径は五〇センチもあった。』と書いている。しかし七田忠昭さん(吉野ケ里調査担当)に改めて確かめたところ、この数値は、外壕の外にあった倉の柱のもので、物見やぐらの柱の太さは、やはり分からなかった、ということである。」そして、他の事例から直径六〇㎝と「判断」したというのだ。この物見櫓そのものも、都合のいいように柱のサイズを想定して作られた虚構の復元であった。それに対抗心?をもって吉野ケ里の物見櫓の高さ一二mを越えんが為に、直径一mで高さ一五mのクリの巨木の高層建築物を創造したのである。これは、虚構に虚構を重ねたものと言わざるを得ない。

まとめ

 以上のように、直径一mでの地耐力調査の疑問、傾斜二度という謎の測定、栗の木に二〇mで柱に使える巨木の存在の困難さ、さらには他の遺跡の復元事例といったことから、きわめて無理のある復元であることを説明した。巨大柱穴が発見された当初は、その高層の建物の姿、用途について様々な意見が交わされた。魚群や潮目、来訪者を監視する物見説、国見を行う望楼説、祭祀のための高楼説に天文台説、司馬遼太郎氏の灯台説も注目されるなど盛り上がったのであるが、そもそもの高層の巨大木柱の構造物という大前提がミスリードされたものであったのだ。世界遺産になった縄文遺跡の中で、特に六本柱の建造物はシンボルともいうような存在として、メディアにもよく掲載されている。一般人だけでなく世界中の古代史を研究する人びとが、これを実際に存在したものと受け止め、各自の研究の判断材料にされる、といったことのないように願うものである。とにかく、これに限らず古代史の復元は問題が多くあり、はなから信じるのではなく冷静に見ていくことが重要であろう。

注1岡田康博『日本の遺跡48三内丸山遺跡改訂版』同成社二〇二一

注2国松俊英『いまよみがえる縄文の都』佼成出版社1996年1月25日第1刷

注3青森県教育委員会『三内丸山遺跡34掘立柱建物編』平成19年度

注4三内丸山遺跡センター『特別史跡三内丸山遺跡研究紀要3』令和3年度

注5青森県史編纂考古部会編集『青森県史別編三内丸山遺跡』平成14年3月

注6哘清悦『子孫のために美田をのこすブログ』ブログ記事

注7福島市公式ユーチューブ「ジョーモピア宮畑」より

注8岡田康博『日本の遺跡48三内丸山遺跡改訂版』同成社2021「1992年11月中期の直径85㎝のクリの巨木を使った大型掘立柱建物跡が発見された」とある。

注9佐原真『吉野ケ里と三内丸山 物見やぐらと空想建物』月刊考古学ジャーナル417.1997

【参考】 

佐々木藤雄『北の文明・南の文明―虚構の中の縄文時代集落論―第1回目』ブログ記事

鈴木克彦『考古学倫理を考える』2018自主出版(青森県図書教育用品(株))


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