2023年4月11日

古田史学会報

175号

1,唐代里単位の考察
「小里」と「大里」の混在
 古賀達也

2,常世国と非時香菓について
 谷本茂

3,上代倭国の名字について
 日野智貴

4,三内丸山遺跡の虚構の六本柱
 大原重雄

5,「壹」から始める古田史学 ・四十一
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅲ
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧

九州王朝都城の造営尺 -- 大宰府政庁の「南朝大尺」 古賀達也(会報174号)
九州王朝戒壇寺院の予察 古賀達也 (会報176号)


唐代里単位の考察

「小里」と「大里」の混在

京都市 古賀達也

一、はじめに

 『旧唐書』倭国伝の「去京師一萬四千里」や同地理志に見える里程記事は実際距離との整合が難しく、実測値から換算した一里の長さもバラバラである。本稿では、諸説ある唐代の里単位について考察し、「小里」(約四三〇m)と「大里」(約五四〇m)が混在していたことを明らかにする。

 

二、『旧唐書』地理志の里単位

 『旧唐書』地理志に記された各都市間の里数値を実測距離に基づいて換算したところ、それぞれの一里の長さは次の通り。

(Ⅰ)京師→河南府(洛陽) 「在西京(長安)東八百五十里」 三二七㎞〔一里三八五m〕
(Ⅱ)京師→卞州 「在京師東一千三百五十里」 四九七㎞〔一里三六八m〕
(Ⅲ)東都→卞州 「東都四百一里」 一七〇㎞〔一里四二四m〕
(Ⅳ)京師→徐州 「在京師東二千六百里」七五七㎞〔一里二九一m〕
(Ⅴ)東都→徐州 「至東都一千二百五十七里」 四三五㎞〔一里三四六m〕

 このなかで、より安定した実測値を出せるのが京師から河南府(洛陽)間だ。唐が京師(長安)と東都(洛陽)の東西二京制を採用していたこともあり、両都間の距離を記した(Ⅰ)「在西京(長安)東八百五十里」の記事は信頼性が高いことと、その陸路が黄河南岸にほぼ沿ったルートであり、地図上の実測値と実際の道行き距離が大きくは異ならないと判断できるからである。この理解を補強する次の里程記事もある。

(Ⅵ)京師→華州 「在京師東一百八十里、去東都六百七十里」

 華州は京師(長安)と東都(洛陽)の間にあり、京師までの百八十里と東都までの六七〇里の合計がちょうど八五〇里。
 そして、長安・洛陽間は水路として黄河も使用できるので、その南岸を通る陸路が大きく迂回したり、両京間が不必要なじくざぐ行程になっていたとは考えにくい。それこそ、東西の都を最短距離の軍用道路で繋いだとしても不思議ではない。こうした理解から、地理志の里程記事が一里五三〇mや五六〇mで書かれているとは考えられない。両京間は地図上では約三二七㎞だが、もし一里を五三〇mや五六〇mとすれば、その距離は四五〇・五㎞と四七六㎞になり、実測値と大きく離れてしまうからだ。
 しかしながら、唐代の一里については、約三二〇m(注①)から約五六〇m(注②)までの諸説があり、当問題が簡単には解決できないことがわかる。

 

三、唐代の小尺と大尺

 唐代の一里を何メートルとするのかについて、先行研究によれば次のような求め方がある。
(1)唐代の尺(モノサシ)を求め、その実測値から一里を換算するという方法。
(2)歴代史書に見える「尺」の変遷記事に基づき、より確かな時代の尺の実測値から換算する。
(3)そうして得られた唐代の一里が長安城遺跡などの実測値に対応しているか確認する。『旧唐書』地理志などの里程記事との対応を検証する。
 この方法論で最初に問題となるのが、(1)の唐代のモノサシの実測値だ。多数出土・伝存している唐尺には微妙に差(二八~三一・三五㎝。注③)があり、千八百尺を一里と計算するため、その小差が千八百倍に広がり、計算上の一里に更に差が生じるという点である。『中国古典文学大系 二二 大唐西域記』(平凡社、一九七一年)補注〝『西域記』の「一里」の長さ〟に見える、「里数を計る基礎となる唐尺の現存するものは多数あるが、その長さには小差があり、従って一定の公認された数値としては今日なさそうである。」という解説はそのことを意味している。

 

四、唐代の「小里」と「大里」

 唐代の尺(モノサシ)の実測値から一里を求める方法は、唐尺には小尺(約二四㎝)と大尺(約三〇㎝)とがあるため(注④)、この差が千八百倍され、どちらの尺を採用したかで、「小里」(約四三〇m)と「大里」(約五四〇m)〔古賀による仮称〕という大差が発生する。この問題に気づいたので、『旧唐書』地理志の里程記事は「小里」で記されたのではないかと推定していた。そこで、先行研究を調査し、次の記事を見つけた。

 「唐尺に關しては徳川時代以來議論があつて、その大尺を棭齋の如く九寸七分とするものヽ外、曲尺と同じとし又は九寸八分弱とする説がある。近頃でも關野博士は後者を採り(平城考及大内裏考二二頁)足立氏は前者に與さる。(前掲書三〇頁以下)この両説に對して棭齋は本朝度考中に詳しく批判してゐるから茲には論究しない。足立氏は大尺を曲尺の一尺として、唐里は大程が曲尺の千八百尺、小程が曲尺の千四百九十九尺四寸とする。棭齋の考證より算出した里程とは五十尺前後の差があるが、小程は大約わが四町に、大程は五町に相當するといひうるであらう。而して大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。(足立氏前掲書四九頁)」森鹿三「漢唐の一里の長さ」(注⑤)

 ここに見える「小程」「大程」こそ、わたしが仮称した「小里」「大里」に相当する。そして、注目したのが「大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。」という指摘だ。そこで、この「小程」「大程」の出典を調べたところ、足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注⑥)であった。そこでは次のように定義されている。

「左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。」(四四頁)

 そして、『旧唐書』地理志などの里程記事は小程で記されているとする。

 「兎に角唐里の長安・洛陽間の八百五十里は小程の計算であって、事實に適合することが推定せられる。なほ又他の地方に就いても、舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。同時に漢書及び舊唐書に記載した里程は決して無稽の數字でないことが知られる。
 以上の諸例に就いて考へて見ると、大程は隋若くは初唐に制定せられて、之を両京の城坊に適用したが、一般に励行せられたのではなくて、地方の里程・天文又は司馬法の如き舊慣の容易に改め難いものは、なほ舊制に近い小程が用ひられたのである。茲にも前に述べた劃一的でなく、また急進的でない支那の國民性が窺はれる。我が大寶令雑令の
 凡度地五尺為歩、三百歩為里。
も亦此の小程を採用したものだと思はれる。大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(四九~五十頁)

 以上のように、「小里」「大里」という概念が、昭和八年に「小程」「大程」として発表されていた。なお、足立喜六氏(一八七一~一九四九年)は土木技術者・数学の専門家で、長安遺跡の実地踏破を行っている。

 

五、『入唐求法巡礼行記』の里数値

 『長安史蹟の研究』の著者、足立喜六氏の名前には見覚えがあった。東洋文庫に収録されている円仁の『入唐求法巡礼行記』(注⑦)の訳注を施された人物として記憶していたのだ。
 二十数年前、『三国志』倭人伝の行程(里数)表記の様式が後代史料(主に旅行記)にどのような影響を与えたのかを調べたことがある。そして『海東諸国紀』(注⑧)や『老松堂日本行録』(注⑨)などに、倭人伝の行程記事の影響や関係性を見つけたりした。そのときに『入唐求法巡礼行記』も読んでいた。
 同書は円仁(七九四~八六四年)の唐の五台山・長安への巡礼日記。各旅程間の里数が事細かに記されており、唐代の里程研究にも使用できる史料だ。こうした中国内の里数を日本から来た円仁に実測できるはずもないことから、当時の中国人から聞いた、当地の里程認識が記されたものと考えざるをえない。当時の唐里は足立氏の研究によれば一里約四四〇mの「小程」であり、円仁が記した里程もこの「小程」での値と思われる。ところが、この「小程」による里数が後の「大程」(一里約五三〇m)での里数と異なるため、そのことを疑問視する記事が塩入良道氏による同書補注に見える。

 「西京から二千来里については、〈小野本注〉では千三百―千六百の諸説を挙げ、実際は千五、六百里であろうとする。」(『入唐求法巡礼行記2』一一二頁)

 西京(長安)から北京(太原府)まで二千里とする『入唐求法巡礼行記』原文に対して、「実際は千五、六百里であろう」と、小野本の注者(小野勝年氏)は疑っているのだ。おそらく、小野勝年氏には唐代の「小程」の認識がなく、地図上の距離を「大程」で換算したのではないか。同時に、何の説明もなく小野本の注を補注で紹介した塩入良道氏にも足立氏が提起した「小程」の認識がなかったのかもしれない。ちなみに、「小程」で里程記事を理解していた足立氏は当該部分に注をいれていない。『入唐求法巡礼行記』の里程記事は『旧唐書』地理志と同様に、「小程」で理解しなければならないのである。

 

六、『旧唐書』『新唐書』の里数値

 『長安史蹟の研究』には、唐代里単位の大程(一里約五三〇m)と小程(一里約四四〇m)の使用時期について次の説明がある。

 「舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。(中略)大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(四九~五〇頁)

 「大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になった」とあるので、『新唐書』の里単位を調べるために地理志と夷蛮伝の里数を『旧唐書』と比較した(注⑩)。ちなみに、『旧唐書』は五代晋の劉昫(八八七~九四六年)、『新唐書』は北宋の宋祁(九九八~一〇六一年)による編纂。
 『新唐書』地理志を一瞥して驚いたのだが、『旧唐書』には京師(長安)や洛陽(東都)から各主要都市や地域への距離、たとえば「天寶元年、改東都為東京也。(略)在西京之東八百五十里。」というように東京(洛陽)と西京(長安)間の距離が八五〇里と記述されているが、『新唐書』には各地域の戸数や人口、地名の変遷などは記されているものの、両都からの距離(里数)が書かれていない。これで正史の地理志として役に立つのだろうかと思うような「省略」ぶりだ。ただし、国土の全領域については両書とも地理志冒頭に里数値を記している。

〔『旧唐書』地理志〕
漢 東西     九千三百二里
  南北 一万二千三百六十八里
隋 東西      九千三百里
  南北  一万四千八百十五里
唐 東西     九千五百十里
  南北  一万六千九百十八里
〔『新唐書』地理志〕
漢 不記
隋 東西      九千三百里
  南北  一万四千八百十五里
唐 東西     九千五百十里
  南北  一万六千九百十八里

 『新唐書』の里数値が『旧唐書』の小程による里数値にほぼ基づいていることがわかる。それならば同様に各地域までの里程も『旧唐書』に基づいて記せばよいと思うのだが、それができなかった事情があるのだろう。おそらく『新唐書』が成立した北宋代の里単位(大程)による国内各地の実測里数値と、小程により記された『旧唐書』地理志の里数値が異なるため、『新唐書』編者はあえて記さなかったのではあるまいか。というのも、一旦、小程から大程へ里数を換算してしまうと、その影響が地理志冒頭の全国領域里数値にまで及び、果ては地理志以外の里程記事、たとえば夷蛮伝の里程まで書き改める必要が生じる。編纂時(十一世紀)より数百年前の交流情報に基づく里数値の再検証など困難と判断したのかもしれない。

 

七、唐代史料中の里数記事の読み方

 本稿での考察の結果、唐代には複数の里単位があることがわかった。特に「小里(小程)」(一里約四四〇m)と「大里(大程)」(一里約五三〇m)が併用されている可能性があり、個別の里数記事毎にどちらで記載されているのかの検証が必要である。これが本項の結論である。〔令和五年(二〇二三)二月十六日、筆了〕

(注)

①『中国古典文学大系22 大唐西域記』(平凡社、一九七一年)補注の〝『西域記』の「一里」の長さ〟(四一六頁)に、「里数を計る基礎となる唐尺の現存するものは多数あるが、その長さには小差があり、従って一定の公認された数値としては今日なさそうである。その大略について言えば、唐代には大小二種の尺度がある(日本の曲尺と鯨尺のもと)。」として、唐代の一里を三二〇m、四四一m、四五三m、四五四mとする説があることを紹介している。

②『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社、一九八二年)巻末の「中国歴代度量衡基準単位表」には、「唐・五代」での一里は五五九・ 八〇mとある。

③矩斎「古尺考」(藪田嘉一郎『中国古尺集説』綜芸舎、一九六九年)の「現存歴代古尺表」によれば、唐代の尺(モノサシ)十四品が掲載され、その一尺の実測値は二八~三一・三五㎝である。

④山田春廣氏(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」(二〇二一年十二月二二日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何㎝か― 〟によれば次の唐尺がある。
 唐小尺 金工 長さ二四・三㎝
 唐玄宗開元小尺 金工 長さ二四・五㎝
 唐玄宗開元大尺 金工 長さ二九・四㎝
 ※開元尺は、唐の玄宗皇帝が開元年間(七一三年~七四一年)に『開元令』で定めたとされているもの。
 従って、どの尺単位を千八百倍するかで一里の長さは大きく変わる。
唐小尺二四・三㎝×千八百=四三七・四m
唐玄宗開元小尺二四・五㎝は四四一m
唐玄宗開元大尺二九・四㎝は五二九・二m

⑤森鹿三「漢唐の一里の長さ」『東洋史研究』一九四〇年。

⑥足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(一九三三年)。

⑦円仁『入唐求法巡礼行記』足立喜六訳注・塩入良道補注、平凡社・東洋文庫、一九七〇年・一九八五年。

⑧申叔舟『海東諸国紀』岩波文庫、田中健夫訳注、一九九一年。当書と倭人伝の行程表記の類似について、次の拙稿で指摘した。
 「洛中洛外日記」二一五一~二一五三話(2020/05/12~15)〝倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)~(4)〟

⑨宋希環『老松堂日本行録 ―朝鮮通信使が見た中世日本―』岩波文庫、村井章介校注、一九八七年。当書と倭人伝の韓国内陸行行程の類似について、次の拙稿で紹介した。
 「洛中洛外日記」九九七話(2015/07/09)〝老松堂の韓国内陸行〟

⑩『旧唐書』は中華書局本(一九八七年版)、『新唐書』はWEBの「維基文庫」を使用した。


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