持統天皇の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと 久冨直子 大原重雄 (会報180号)
大きな勘違いだった古代船『なみはや』の復元 大原重雄 (会報181号)
大きな勘違いだった
古代船『なみはや』の復元
京都府大山崎町 大原重雄
【1】失敗だった実験航海

一九八九年に大阪港から釜山まで、古代船の復元による実験航海を行った『なみはや』だが、後日に漕ぎ手が当時のことを語る記事がある。「大阪市立大学のボート部が、二十六名を八~九名の三班に分け、天保山から牛窓、牛窓から福岡、福岡から対馬の各区間を分担して漕いだ。最後、対馬から釜山までは伴走船にも分乗して全員で行った。 漕いでいても風景が変わらず、前進していないような気分があった。対馬から出航した際には、大揺れで船酔いする者が続出。八人で立ち漕ぎしたが、力が入りにくく、水を十分にかいていた感覚は無かった。長時間すると手の平の豆が破れた。出航後、早く曳航が来ないかと思ったこともあった。」(OSAKAゆめネット)
これを見るに、惨憺たる結果であって、漕ぎ手は精いっぱい頑張ったのだが、そもそもの復元された「準構造船」に問題があったということではないか。齋藤茂樹氏は「現代の船体構造設計者によると、構造的にとても船とは言えない代物だった」とし、「非常に安定が悪く、そのうえ、なかなか進まない。五十センチの高さの波がきただけでもバランスを失う、また喫水が浅く少しの風でも倒れる」ような状態であって、「舟形埴輪と相似形の準構造船は、実際には存在しなかった」と断言、埴輪の船は「陸地や内海・池で曳かれるだけの喪舟」だったのではないかと指摘されている。祭祀のための船という説にも同意するのだが、私は、この『なみはや』の復元には根本的なところで大きな誤認、勘違いがあったと考えるものであり、この点について説明していきたい。

【2】モデルにした高廻り2号墳の船形土器の姿を見誤った。
大阪市平野区高廻り古墳の1号墳と2号墳から出土の船形埴輪のレプリカが、大阪歴史博物館にいっしょに展示されている。奥が1号墳、手前が2号墳のものだが、この両者をよく見てほしい。なにも目を皿のようにして見るまでもなく、素直に見れば違いがわかる。1号墳は筒型の二つの台の上に置かれており、2号墳は別の船形の上に安置されているように見えるのではないか。上下を一体としてみるとワニの口のように見えるが、実は下あごに見えるのは、上部の船の台を表現したものだ。丸木舟に波除の板の部品を組み合わせて造られた木造の船、と説明される準構造船という代物ではないのではないか。
あまり言われないことだが、埴輪の多くは、直接地面に置かれることはなく、円筒埴輪を土台にして造形されている。人物も剣や楯も鳥も魚もよく見れば円筒埴輪の上に鎮座しているのである。いくつか例外はある。円筒埴輪の代わりに椅子に腰かける人物も見られる。また馬や牛は一足ごとに台を付けているものがあるが、多くは直接地面に置かれている。家形埴輪も一例以外は台はないが、多くの埴輪は、直接地面に置かれてはいない。なぜ円筒埴輪を台にしているのかというと、埴輪はみな祭器として置かれるものであり、それが地面に直接触れると、地中の邪気が移る、または霊気が吸われてしまうといった観念から、忌避したのではと考えられる。1号の舟形埴輪だけでなく、三重県松坂市宝塚古墳の立派な装飾のある船も円筒埴輪を台にして古墳の片隅に置かれたのである。では、2号墳の場合はどのように考えればいいのであろうか。


【3】同じ轍を踏んでしまった奈良県巣山古墳の喪船の解釈
巣山古墳で出土した竪板と舷側板などから、当時の広陵町教委文化財保存センター長の河上邦彦氏は、左右二枚の舟形側板の間を角材や板材などでつなぎ、その上に木棺を載せたと推測。葬送用の特別な用具で、修羅で引っ張ったのでは、と説明されていた。これはまさに、『隋書倭国伝』の「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす。」に関連するものであろう。復元図も作画されたが、後の復元では、出土物に加える形でワニの下あごや船底などが盛り付けられてしまっている。そのようなものは全く出土していないにもかかわらず、いつのまにか修羅に置かれた喪船が、船底部に一本の丸太をくりぬいた丸木舟をくっつけて、上に舷側板を加えた準構造船なるものに鞍替えしたのは理解に苦しむ。
牽引のための修羅に載せられた船を表現した船形木製品が、弥生後期の京丹後市古殿遺跡から出土している。下あごに小孔があり、ここに綱を通して牽引するものとして作られたのであろう。大阪府藤井寺市三ツ塚古墳の修羅の実物も先端部は穿孔があり、尖頭で上向きに反るように盛り上がっている。
以上から、高廻り2号墳の船形埴輪も、喪船を円筒埴輪の代わりに船の形をしたものに安置し、それは修羅としても使われるものでもあったととらえることができる。ワニ口の下あごになる丸木舟を土台に板材を加えて準構造船にしたという理解は誤認でしかない。


【4】船首の竪板と考えられるものを船内に配置する例
大阪府八尾市久宝寺遺跡からは、実物の準構造船の船首部が出土したとして、その復元がされている。これによって、竪板と船底部の接合方法も明らかになったというのである。するとこの場合、先端が二股のワニの口のような船があったということになるのだろうか。
弥生時代から古墳時代にかけての土器や銅鐸、板絵、古墳絵画に描かれた船絵に、先端がワニの口となった表現は全くない。その中に、京都カラネガ岳2号墳の船絵は、船の前後に、梯子状のものが斜めに描かれている。これは竪板と同じものと考えていいであろう。つまりこれは、船首と船尾の中に竪板を置いているのである。久宝寺の出土船は、船首部の復元がワニの下あごになっているが、実際には竪板の前に船首部があったのかもしれない。こちらも、巣山古墳のものと同様に、祭祀用の船であったと考えられる。
宮城洋一郎氏は、万葉歌などから祭祀の場が舳先であって、ここには特別な意味があったとされている。海上の守護神である住吉神は船の舳先に祀って安全を祈願するのである。また、天皇への服属儀礼もあったようである。景行紀十二年には、神夏礎媛が、「素幡を船の舳にたてて」参向している。舳先が、祭祀や儀礼に使われる、聖なる空間であったのだろう。古代に描かれた船絵には、このようなものも描かれたのであり、それがワニの上あごのように見えたのであろう。
日本書紀履中三年に両枝船の記事がある。古事記垂仁記にも二俣小舟とある。研究者の中には、これを、ワニ口の準構造船のことだとされるご意見もあるが、いずれも池に浮かべており、とても海上を進む船とは別のものであろう。なお、記紀のフタマタ船が南洋の事例から、二艘の丸木舟を繋ぎ合わせたものという説がある。いずれにしてもワニ口の準構造船とはならない。

【5】アメリカから巨木を取り寄せることになった理由
縄文時代によく出土する丸木舟は、その幅は人間一人分ほどである。当たり前のことだが、一本の木を繰り抜いて作られる丸木舟は、その大きさに限界がある。古代船の復元で材木の確保に苦労したのは、巨木でないと数十人も乗れる船が作れないと考えてしまったからである。その為に米国オレゴン州から直径2m越えの松の木が取り寄せられたのである。もうこの時点で「古代船の復元」とは大きく外れてしまったわけだが、なぜこういうことになったのか。それは、準構造船という考え方に縛られたからである。すなわち、船底を丸木舟にしなければならないので、幅を大きくするためには、どうしても巨木が必要になってしまうのだ。だが最初から、丸木舟の関係しない構造船とすれば、無駄な手間も経費も削減できたはずである。


【6】櫂座も「苦労」した復元
魏志倭人伝の航路をたどるという触れ込みだった「野性号」の復元は、西都原古墳群出土のものをモデルとしたという。ところが、櫂座はモデルとは異なり、図にあるように爪のような形にして、櫂を安定して漕げるような工夫がされているのだ。また、ピンク石石棺を運ぶ「海王」の櫂座は、左右からの突起で櫂を挟み込めるようになっている。これは、「なみはや」で苦労したから、「改善」したのであろう。しかし、これでは古代船の復元にはならない。船形製品の櫂座は、台形状のものがついているだけだ。これは、実際とは異なる簡略化した表現であろうか。もしくは、船縁に装飾として付け加えたものかもしれない。古代船が、櫂の支点をどのようにしていたのかは、今後の検討課題であろう。
【7】見直してほしい古代船の復元と解説
大阪市のHPの二〇二二年九月二日ページ番号:九二四〇に高廻り古墳群の船とからめて、次のような解説をしている。「埴輪の全体比率から実物大の船を想定すると、全長約十五m、幅約三m、総二十~三十トン、数十人を乗せることができると思われ、当時は朝鮮半島や中国大陸との交渉が始まった『倭の五王』の時代にあたり、十分外洋にこぎ出せる船であったことは注目に値する。」実験航海は失敗だったというのに、なぜこんなことが言えるのか、お笑い種である。外洋に漕ぎだすなどと簡単におっしゃるが、そんな甘いものではない。ここには帆船についての考慮もないのだ。古代船『なみはや』の実験航海は失敗であったはずが、その原因を分析するといったことはあったのであろうか。なんら顧みることなく、後から次々と、ワニ口の準構造船が古代にあった船だと解説され、各地に復元船が作られていったというのは、非常に不可解と言わざるを得ない。
復元や航海、展覧会などを含めて三億五千万円の大プロジェクトであった『なみはや』は、今は廃館となった約百七十六億円かけた海洋博物館の敷地に置かれている。同館の引き取り手は決まったようだが、展示を続けるのなら、修羅に載った喪船を復元したもの、といった解説板をつけていただくことを強く望みたい。
さらに、兵庫県立博物館の「ヒボコ」や壱岐国博物館などの復元展示や全国にあるであろう準構造船の解説なども、早く見直していただくことを願いたい。繰り返すが、丸木舟の上に舷側板を上に重ねたワニの口のような準構造船というのは、勘違いの産物でしかないのである。
余談だが、大阪などに実物の喪船や修羅が多く出土しているということは、隋書の記述との関連が考えられるのであり、隋からの使者の裴世清は、難波の地でこの喪船の祭祀を見聞きしたかもしれない。

これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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