柿本人麻呂と第一次大津宮 日野智貴(会報179号)
皇弟・皇子・皇女の起源 日野智貴(会報182号)
倭国天皇の地位について
西村秀己・古賀達也両氏への回答
たつの市 日野智貴
私は以前、倭国の天子の称号が「法皇」でありその下に「天皇」が存在した、とする仮説を提唱したⅠ。
これについて「天子=天皇」とする西村秀己から批判があったⅡ他、私が先行研究として参照した古賀達也からはブログで「倭国に『天皇』は同時に複数存在した」という旨の仮説(以下「天皇多元説」)が提唱されているⅢ。両者の主張は正反対であるが、いずれも私の仮説とは異なるものである以上、反論の必要を感じた。
しかしながら、西村と古賀の主張は多岐にわたるため、本稿ではその一部について批判を加えることとする。本稿には続行を予定している他、本稿に二人を含む皆様からの再批判が来て議論が深まることを期待している。(文中敬称略)
一、法皇は「在家」の天子
はじめに前提を確認しておきたい。それは倭国における「法皇」はあくまでも「在家」の天子である、ということだ。
というのも、西村から「『法皇』をナンバーワンの称号とする限り、その人物は既に後継者を定めた上で『出家』し『法皇』となる必要があるが、出家前に実子が出来るとは限らないので不自然である」という趣旨の批判が来たからだ。
私は「法皇」を「菩薩戒を受戒した天子の称号」とした。そして(在家の)天子である隋の文帝が多利思北孤の国書における「海西の菩薩天子」であるとする礪波護Ⅳや正木裕Ⅴの先行研究も存在し、特に正木の論稿は(西村が編集者である)本会の会報にも掲載されたから、法皇が在家の天子であることについては会員に対して特に説明の必要は無いと考えていた。
しかしながら、おそらくは①後世の「法皇」は「出家した『元、天子』」であり②菩薩戒の受戒のみで「出家」した「法皇」も後世存在したことⅥ等から、倭国の「法皇」も出家していたのではないか、と考えておられる方はいるようである。
ここは重要な点であるが、倭国の「法皇」と平安時代以降の「法皇」とは、称号こそ同じでも全く違う制度である。一言で言うと、倭国の「法皇」は現役の「天子」であるのに対して平安時代以降の「法皇」はあくまでも「元、天子」である。もちろん現役の天子であれば在家であることが想定される。
そして天子の称号が「法皇」である以上「天皇」は別の人物の称号なのではないか、というのが私の仮説の最大の論拠なのである。
二、法皇も天皇も「皇」身位者
それでは法皇が天子であればその「臣下」となる天皇はどのような地位であったのだろうか?
私は法皇と天皇の違いは「『正一位』と『従一位』程度の差であった」としたが、これについて西村からは「『君臣』の関係を理解しているとは思えない主張」であるとの批判を受けた。
だが、それに対する私の答えは法皇も天皇もどちらも「皇」身位者であった、というものである。
「皇」身位者とは井上正望による「天皇・太上天皇・院、三后・皇太夫人・女院を総称して便宜的に」まとめた造語であるⅦ。もっとも井上は実例が無いため省略したのであろうが、律令国家においては三后(皇后・皇太后・太皇太后)・皇太夫人と共に皇太妃・太皇太妃・太皇太夫人も「皇」身位者に分類されるべきであろう。
井上は「皇」身位者について「臣下ではない」存在としてまとめたようであるが、一応「天子ではない」のであれば「皇」身位者と雖も臣下ではある。しかしながら、皇后や「元、天子」は我が国において中国の例とは異なり必ずしも天子への「臣従」が厳格に示されなかったことは、承知の通りである。
一例を挙げると、中国の皇后は後宮に籠って官僚たちに姿を見せないため、宦官を使って(非公式に)影響力を及ぼさない限りは、政治的権力は有しない。一方、日本での皇后は律令においても男性の官吏を職員として従えることが明記されており、また摂政の任命は幼い天皇に変わって皇太后や女院が行うことがあった。
また官位においても親王は品階をその他の官吏等は位階をそれぞれ与えられていたが、「皇」身位者は品階も位階も与えられていない。周知の通り我が国における位階は天皇に近い程数字が「一」に近づくのであるが、「皇」身位者はいわば「零」の場所にいる訳である。
この品階も位階も与えられていないがその上位に位置する存在たちを「君臣」に分けるよりも「皇」身位者としてまとめて考える方が有用な場合がある。そのため私も「皇」身位者の用語を使うこととしたい。
三、「皇」身位者の起源
さて品階や位階がない、敢えて言うならば「一位」でも「一品」でもなく「零位」「零品」とも言うべき立場にいる「皇」身位者が、どうして大和朝廷(から現在の皇室における我が国)において天皇ただ一人ではなく複数存在したのか、は別に論ずるべきテーマである。
だが私はこの複数の「皇」身位者の存在は決して大和朝廷による独創ではなく、倭国時代からの“伝統”であったと考えるのである。
例えば『魏志』「倭人伝」における卑弥呼とその「男弟」の関係や『古事記』に記された熊曾建の「兄弟統治」の例がそれである。少なくとも『古事記』において九州の支配者である熊曾建は兄弟の両方が「熊曾建」と呼ばれており、両者を「君臣」の関係として別々の称号で呼んだ痕跡は見当たらない。
そのような“伝統”を背景として「皇」身位者が複数存在するという制度が形成されたのではあるまいか。そして私は倭国の法皇と天皇の関係も同様のものであったと考えるのである。
その根拠の一つが「中宮天皇」の表記である。
四、「中宮天皇」の論理
以前の拙稿でも述べたことではあるが、野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像の「中宮天皇」という表記は「天皇」が「中宮」にいたことを示している。さて後世の大和朝廷において「中宮」とはまさに「皇」身位者である皇后や皇太夫人等の家政機関にして居場所であるし、それ以外の意味に解釈する必要性も無い。従って、中宮天皇は皇后又はそれに準ずる「皇」身位者であったと考えられる。
一方、私が「日本には女帝が後宮に籠る文化は無かった」「寝食を後宮で行っていたから『中宮天皇』だ、と言い出すと男性天皇も『中宮天皇』になってしまう」という旨の述べたことについて西村は「これはあくまでも記紀的な状況だ」として卑弥呼の例を挙げている。
しかし卑弥呼についても『魏志』「倭人伝」によると「王と為りてより以来、見る者少なし」とは言え「男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝へ」たとある。卑弥呼の時代でさえ、一人だけとはいえ「辞を伝える」男性が女性君主の周囲には存在した。この点、宦官制度を設けて通常の男性を徹底的に後宮から遠ざけた中国との大きな違いだ。
ましてや、今は倭国が「天子」を名乗り実際に前期難波京に見られるような巨大な官僚機構を整備した時代の話である。その時代になってもなお、女帝は卑弥呼のように後宮に籠ったままであり、女帝が表に出るのは大和朝廷の独創であると言われるのであれば、そう考えた理由も知りたいものである。
そしてこの「中宮天皇」の論理は「天皇=天子」とする西村説だけではなく、その正反対の古賀の天皇多元説にも突き刺さるものとなる。「皇」身位者が複数存在すると私は記したが、限度というものがある。皇后クラスの人物が複数存在するのは難しいし、現に大和朝廷では「皇」身位者が複数必要な場合は「皇太后」「太皇太后」という風に別の称号を用意されている。
それが、倭国では「天皇」という同一の称号を複数の人物が一緒に使っていた、というのは、不自然ではあるまいか。後世「一帝二后」や「一帝三后」の例は存在したが、その時も「皇后と中宮は違う」という苦し紛れの解釈をしたほどで「皇后は同時に二人いても構わない」という開き直りは存在しなかったのである。
五、「船王後墓誌」という反証
また古賀は「非、天子」の「天皇」の例として「船王後墓誌」の天皇の例を挙げている。これには私も同感であるが、その「船王後墓誌」には「乎娑陁宮治天下 天皇之世」「阿須迦宮治天下 天皇之朝」等、「天皇」が一人であることを前提とした表記がある。
もしも天皇が複数存在するのであれば「天皇之朝」等という表現は不自然であろう。例えば近世において(奈良時代後期からその傾向はあるが)国司は複数存在するのが通例であったが、「大岡忠相が越前守であった頃」等という表現はあまりしないであろう。大岡忠相と同じく越前守となった大岡忠與の時代には上杉鷹山も越前守だったわけであるが、「大岡忠與が越前守であった頃」等というと上杉鷹山の関係者は違和感を抱くはずだ(しかも大岡忠相も上杉鷹山も同じ江戸幕府の臣下であるが、同様に古賀の想定する「天皇」も同じ倭国の天子の臣下なのである)。
そもそも同時期に「天皇」が複数いた根拠は皆無であり、どうして古賀が天皇多元説を唱えているのか、私には不明である。
まとめ
論ずべき点は他にもあるのであるが、残りは皆様の批判を仰いだ上で続稿を書くとして、ここでまとめに入らせていただきたい。
野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像の「中宮天皇」という表記は、倭国時代の天皇が後世の「皇」身位者と同様の地位にあったことを示唆するものの、一方でその天皇が天子であったことを否定する。また、天皇が同時期に複数いたという主張にも懐疑的な史料となる。
さらに「船王後墓誌」の内容は天皇多元説にとって不利な史料であろう。天皇天子説も天皇多元説も、いずれも史料状況に少なくともストレートに一致するとは考えられない。
注
Ⅰ拙稿(二〇二一)「九州王朝の「法皇」と「天皇」」会報一六三号
Ⅱ西村秀己(二〇二一)「「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か?」会報一六三号
Ⅲ古賀達也(二〇二三、洛中洛外日記)「多元的「天皇」併存の新試案」
Ⅳ礪波護(二〇〇五年)「天寿国と重興仏法の菩薩天子と」『大谷学法』八三・二
Ⅴ正木裕(二〇二〇年)「「高良大菩薩」から「菩薩天子多利思北孤」へ」会報一六二号
Ⅵ日本の天台宗では菩薩戒のみで出家できるという解釈を採用したため、天台宗僧侶から授戒された法皇は比丘の戒律である具足戒や沙弥の戒律である十戒を受けていない。しかし日本天台宗は平安時代以降の話である。
Ⅶ井上正望(二〇二二)「喪葬時の廃朝・廃務から見た親族意識の変化と天皇」『日本古代天皇の変質』塙書房所収
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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