「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か(会報179号)
野田利郎氏の「邪靡堆(ヤビタイ)」論と漢文解釈への疑問 谷本茂 (会報180号)
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「邪靡堆」論への谷本茂氏の疑問に答える
姫路市 野田利郎
はじめに
『会報一七九号』(二〇二三年十二月)に、『邪靡堆』とは何か」を発表しました。『隋書』俀国伝の前文の「邪靡堆」は魏の時の都であった、との報告です。また、唐の李賢が『後漢書』の邪馬臺国に「案今名邪摩惟音之訛也」と注を入れることができたのは、『隋書』俀国伝に、魏の時の都が邪靡堆であると書かれていたからと付記しました。
この拙論につき、谷本茂氏は「野田利郎氏の『邪靡堆』論と漢文解釈への疑問」を『会報一八〇号』(二〇二四年二月)に発表されました。本稿は、その疑問への回答です。なお、谷本氏の疑問は、「邪靡堆」と「唐の李賢の証言」に区分していますから、回答も二つに区分します。
一.邪靡堆
1.『隋書』俀国伝の前文(番号、傍線は筆者による)
①俀國,在百濟、新羅東南,水陸三千里於大海之中依山島而居。
②魏時,譯通中國三十餘國,皆自稱王。
③夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。
④其地勢東高西下、都於邪靡堆,則『魏
志』所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。
⑤漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。
⑥安帝時,又遣使朝貢,謂之俀奴國。(以下略)
2.拙論の概要
(1)①から⑥までの文を確認すると、①は隋の時です。②に「魏の時」⑤に「漢光武の時」、⑥に「安帝の時」とありますから、前文は時代毎に記述されていることが判ります。
そのため、②の「魏の時」は⑤の「漢光武の時」の直前までに懸かります。つまり、②、③、④は「魏の時」です。④の邪靡堆は「魏の時」ですから、「(魏の時)邪靡堆に都す、則ち、『魏志』のいわゆる邪馬臺なる者なり」と書かれていたことになります。「魏の時」と『魏志』と時代が一致し、文意が通じています。
(2)④の後半に、「古よりいう、『樂浪郡境および帶方郡を去ること並びに一萬二千里にして、會稽の東にあり、儋耳と相近し』と」あります。この文は『後漢書』倭伝と『魏志』からの引用文です。地の文ではありません。岩波文庫の訳も「古云」以下を鍵括弧で括り、引用文であることを示しています。この後に説明しますが、谷本氏の疑問の大半は「引用文」と「地の文」を混同したためと思われます。
3.谷本氏の疑問とその回答
邪靡堆に関する、谷本氏の疑問は〈a〉、〈b〉、〈c〉の三つです。それぞれ個々に回答します。
(1)谷本氏の疑問〈a 〉とその回答
〈a〉③の「其国境東西五月行南北三月行」という情報や④の「其地勢東高西下」といった情報は『三国志』に限らず、三国時代の同時代(ないしは準同時代)史料に全く現れていない記述である。これらの情報を魏の時のものとする根拠は、野田氏が想定した{「水陸三千里」(隋の時の情報:里単位は通常(長)里)=「東西五月行+南北三月行(魏の時の情報)」=青森から長崎までの日本列島の距離=[隋代の(長)里で約千六百㎞]}という、自説しか挙げられていない。③が魏の時の情報であるとするならば、青森から長崎までの日本列島をほぼ縦断する(倭人の部族の)領域が三世紀に存在したという、史料根拠あるいは考古学的根拠を提示すべきであろう。
逆に、氏のご指摘の様に青森~長崎の距離(水陸三千里=隋の通常里単位とされる)が「東西五月行南北三月行」によく合致するのであれば、それは取も直さず、「東西五月行南北三月行」が隋の時代にもたらされた情報ではないか、という疑問を誘起させるであろう。つまり、野田氏の理路から言えば、寧ろ、③は隋の時の情報とみなす方が自然だという結論になるのではあるまいか。
〈a 〉の「回答」
第一に、私が③の「其国境東西五月行南北三月行」や④の「其地勢東高西下」を魏の時とする根拠は、俀国伝に「魏の時」と書かれているからです。
第二、①の(俀国)の水陸三千里に対し、(魏の時)の③に「夷人里数を知らず、ただ計るに日を以てす。その国境は東西五月行、南北は三月行にして、各々海に至る」とあります。それらを具体的な数値にして、日本列島の地形と合致することを確認しましたが、「魏の時」であると証明したわけではありません。俀国伝に、すでに「魏の時」とありますから、私が史料や考古学から、重ねて論証する必要はないのです。
第三に、③④の情報が、仮に隋の時代に入手されたとしても、魏徴は、その情報を「魏の時」の事として記述していますから、これらの情報自体は、隋の時代の事柄ではないのです。
以上の通り、谷本氏の疑問は拙論の誤解です。
(2)谷本氏の「疑問」〈b〉とその回答
〈b〉④が魏の時代の記述だとするならば「去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」が「古云」と表記されている理由が理解不能になるであろう。「万二千余里」は魏志倭人伝で初めてもたされた情報であり、それが何故「古云」と表現されるのか意味不明である。現代(隋ないし唐初期の時代)の地の文であるから、三世紀中葉・魏の時代にもたされた情報が「古云」と記されて自然なのである。
また、魏代の倭人の情報は、帯方郡を起点に示されており、楽浪郡を起点として示すのは漢/後漢代ではあっても、魏代の表現とは思われない。『漢書』地理志・如淳注、『三国志』、『魏略』いずれも帯方郡起点の記述である。楽浪郡を起点とする表現は『漢書』地理志・本文、『後漢書』である。
④の後半の文は隋書の編集者が過去の史書の表記をまとめて一括して記述した(隋~初唐代の)地の文とみなすのが自然であろう。少なくとも、野田氏は魏代に楽浪郡を起点に倭人の情報を表記する例を示す必要があるのではなかろうか。〈b 〉の「回答」
第一に、谷本氏は「地の文」と「引用文」を誤解されているようです。文章から「会話や引用」を除く、叙述の目的で書かれた部分が「地の文」です。俀国伝の①~⑥では、④の「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近」は引用文ですが、それ以外は「地の文」です。地の文に「魏の時」や「漢光武の時」などが書かれているのです。
第二に、谷本氏は、④が魏の時であるなら「古云」との意味が不明と云います。しかし、地の文は魏徴が書いていますから、唐の時代です。「古云」とは「地の文」よりも昔ですから、魏や後漢代は「古云」に含まれます。
第三に、谷本氏は、魏代は帯方郡が起点で、楽浪郡は漢/後漢代であり、魏代と思えないと云われます。「古云」は引用文で、『後漢書』倭伝と『魏志』からの引用です。谷本氏は「引用文」と「地の文」を混同しています。地の文に「魏の時」の記述がなされていても、引用文に漢代や魏代の事が引用されていても、問題ではないのです。
第四に、谷本氏は、引用文である「古云」を「隋書の編纂者が過去の史書をまとめて一括して記述した地の文とみなすのが自然であろう」と云っています。しかし、「古云」以下は「引用文」ですから、「地の文」とみなすことはできません。
以上の通り、「引用文」と「地の文」の意義から、谷本氏の疑問点は解消します。
(3)谷本氏の「疑問」〈c 〉とその回答
〈c〉現代の倭の都が「邪靡堆」と呼ばれているからこそ、それはすなわち魏志のいう(ところの)邪馬臺であると説明しているのであり、「魏の時」の都が「邪靡堆」であるなら、何故またわざわざ魏志を引用して説明する必要があるのか、「文意が通じる」どころか、意味不明の解説となってしまうと考えられる。以上から③、④は通説のように(古田氏の理解のように)『隋書』編纂時期の情報に基づく地の文とみなすのが妥当であろう。
〈c 〉の「回答」
第一に「魏の時」の都は隋の時に「邪靡堆」と呼ばれていますから、「邪靡堆」が『魏志』の所謂「邪馬臺」であることを説明する必要があるのです。
第二に、谷本氏は「③④は、通説のように『隋書』編纂時代の情報に基づく地の文とみなすのが妥当であろう」と述べています。しかし、すでに説明した通り、④の「古云」の引用文を除き、③④は「地の文」です。③④の地の文の情報が、仮に隋の時代に入手されたとしても、魏徴は、それらの情報を「魏の時代」の事として記述しています。「隋の時」の事にはなりません。
以上の通り〈b〉と同じ、「地の文」と「引用文」を明確にすると疑問は解消します。
二.唐の李賢の証言
1.拙論の概要
(1)李賢の注の内容
『後漢書』(百衲本)の倭伝に次の文があります。「其大倭王居邪馬臺國[案今名邪摩惟音之訛也]」[ ]は唐の李賢の注です。李賢の注は岩波文庫本に訳がなく、私が次のように訳しました。「案ずるに、今の名は邪摩惟の音の訛るなり」です。
邪馬臺国への注ですから、「今の名」は邪馬臺国を指しています。邪摩惟の音が訛って、今の名の邪馬臺国と呼ばれたことになります。
(2)李賢が注を入れた背景
李賢が『後漢書』の邪馬臺国に注を入れた根拠は、次のように推測できます。李賢は唐の皇太子です。李賢が『後漢書』に注釈をしたのは唐の六七六年です。李賢は『隋書』(六三六年成立)、『北史』(六五九年成立)を読み、『後漢書』に注釈をしたことになります。
李賢は「邪馬臺国」に注を入れて、邪摩惟の音が訛って邪馬臺と変化したと云っています。ただ、このような変化を、直接記載した史書はありません。「邪摩惟」の字形は「邪靡堆」に酷似していますから、李賢は『隋書』の内容から、この結論に達したと考えられます。その考察の過程は次のようです。
第一に李賢は「都於邪靡堆,則『魏志』所謂邪馬臺者也」から、魏の時の邪靡堆は邪馬臺であり、「『魏志』の邪馬壹が邪馬臺へ変化したことを知ります。また、『隋書』の後に成立した『北史』には「邪摩堆」とありますから、邪靡堆を邪摩堆とします。
第二に、「邪馬臺」が「邪摩堆」と表記されていることから、「邪馬壹」の表記も「邪摩惟」とします。そして、『後漢書』の「邪馬臺」へ「案ずるに、今の名は邪摩惟の音が訛るなり」の注を入れたのです。
李賢は『隋書』の「邪靡堆」が魏の都であることから、『後漢書』に注を行ったのです。仮に、李賢が「邪靡堆」を「隋の時の都」と考えていたなら、後漢では「邪馬臺」、魏では「邪馬壹」、隋では「邪靡堆」と都の名は変遷したと理解し、『後漢書』の邪馬臺へ注を入れることは、できなかったと推測します。
2.谷本氏の「疑問」とその回答
谷本氏の疑問は、(1)の「李賢の注の内容」に対するものです。谷本氏は『後漢書』(百衲本)を〈ⅹ〉、『太平御覧』に引用された『後漢書』を〈y〉とし、次の疑問を述べています。
A.「谷本氏の疑問」
野田氏は〈x〉の「案今名邪摩惟音之訛也」を〔李賢は「邪馬臺国」に「案ずるに、今の名は邪摩惟の音の訛るなり」と注を入れて、邪摩惟の音が訛って邪馬臺と変化したといってます〕(会報一七九号一三頁)と理解されている(傍線は谷本付記)。卒直に言って、氏の解釈は文脈の誤解ではなかろうか。文法的にはそう読める余地があるとしても、そう解釈した場合には、「今の名」とは何を指すか?野田氏は「今の名」が「邪馬臺国」を指すものと理解されているようである。しかし、それは五世紀(ないし後漢代)の呼称であるから、「今の名」が「七世紀当時の名」を意味するとする限り、その理解は間違っている。李賢注は[〈ⅹ〉も〈y〉も]范曄の記した「邪馬臺国」を対象とした注釈なのであるから、[「今の名」=「邪馬臺国」]の等号は成り立たない。したがって、野田氏の想定する《邪摩惟の音が訛って邪馬臺(現代の名)へ変化した》という理解は無理である。
従来の解釈通り、「案ずるに、今の名の邪摩惟は(邪馬臺の)音の訛なり」とするのが妥当であり、文脈上も整合すると思われる。つまり、現代は「邪摩惟」と呼んでいるが、これは范曄の記した(五世紀/後漢代の)「邪馬臺」の音が訛ったものである、という注釈と理解すべきなのである。
B.「回答」
(1)疑問の後半に、谷本氏は李賢の注の解釈をしていますから、はじめに、谷本氏の解釈の問題点を指摘しておきます。
谷本氏は、[案ずるに、今の名の邪靡惟は(邪馬臺の)音の訛なり]と解釈します。氏は「邪馬臺→邪靡惟」と変化し、現代(唐代)は邪靡惟としています。しかし、次の問題があります。
第一に、唐代の頃に邪馬臺国を「邪靡惟」と表記した史書があるとは思えません。谷本氏は、そのような史書を示すことができるのでしょうか。
第二に、原文は「邪摩惟音之訛也」です。「邪摩惟の音が訛った」と書かれているのです。つまり、「邪摩惟→〇〇」となります。ところが、谷本氏は注釈文には無い「邪馬臺」を挿入し、「邪馬臺の音が訛った」と原文とは異なる解釈を行っています。
谷本氏の問題は「今」を唐代と断定し、「今名」に邪摩惟を当てるため、邪摩惟が唐代にあったことになり、矛盾した結論となっているのです。
(2)谷本氏への疑問へ回答します。
第一に、李賢は唐代の人です。『後漢書』(五世紀、范曄の作)に李賢が注を入れるとき、二つの場合あります。その1は「後漢書の名称」が唐代では、どのように言われているかを記載する場合です。つまり、[「後漢書の名称」→「今の唐代の名称」]のケースです。谷本氏はこの場合だけを想定しています。しかし、逆の場合もあるのです。
その2に、「後漢書の名称」が、五世紀以前では、どのように言われていたかです。この場合には、[「五世紀以前の名称」→「後漢書の名称」]となります。邪馬臺国への注はこの場合と考えます。
第二に「今」の用法です。谷本氏は「今」を「現代」に限定して考察されています。しかし、「今」には指示代名詞の「これ」の意味があります(『漢辞海』三省堂)。
『後漢書』の李賢の割注と本文との間で指示代名詞を用いている例(注1)がありますので、邪馬臺国の注にある「今」は「指示代名詞」の「これ」と考えることができます。つまり、「今の名」は邪馬臺国を指しているのです。以上のことから、拙論を再度説明します。
原文は「其大倭王居邪馬臺國[案今名邪摩惟音之訛也]」です。
李賢の注は「邪摩惟音之訛也」を主題とする文です。「訛る前の名」は「邪摩惟」です。「訛った後の名」が「今名」です。「今」は指示代名詞の「これ」ですから、直前の本文にある邪馬臺国を指しています。邪馬臺が「訛った後の名」となります。「邪摩惟」→「邪馬臺」と訛ったのです。邪摩惟は魏志倭人伝の邪馬壹と音が通じています。つまり、「邪馬壹」→「邪馬臺」となり、史書の内容にも合致するのです。以上が谷本氏の疑問への回答です。
おわりに
谷本氏への疑問を回答しました。
また、私は「邪靡堆」を魏の時の都と論じるだけでなく、俀国の都についても、「俀王の都への行程記事を読む―『隋書』俀国伝の新解釈―」(『会報一五八号』、二〇二〇年六月)で、俀王の都は近畿の難波付近にあったと発表しています(注2)。
谷本氏は、氏の疑問の「おわりに」で、邪靡堆を俀国の都と考えられた動機を縷々と述べられています。動機は今後の活力ではありますが、邪靡堆が俀国の都であるなら、そのことを論証願いたいものです。
最後に、谷本氏の「疑問」により、拙論が一層客観的な論となり、氏へ感謝申し上げます。
(完)
(注1)次の『後漢書』東夷伝の李賢の注に、本文の「蓋馬大山」を注釈文中で「其山」と「其」を用いています。
「東沃沮在高句驪蓋馬大山之東[蓋馬,縣名,屬玄菟郡。其山在今平壤城西。平壤即王險城也]」
(注2)その後に得た知見を加え、『多元一八〇号』(二〇二四年三月)に「俀王の都」を発表しています。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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