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『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾
川西市 正木裕
1、『筑後国風土記』
『風土記』には、行政区画を「郡」とする「郡風土記」に対し、「縣(県)」とする「縣風土記」が見られる。通説では何れも和銅六年(七一三)五月の「風土記撰進命令(注1)」により作成されたとする。
しかし、古田氏は、七〇一年の律令により「国・郡・里」制が定められた後に「縣風土記」が作成されるのは不自然であること(注2)、九州にのみ「郡風土記」と「縣風土記」が併存することなどから、「縣風土記」は七〇〇年以前の九州王朝時代に作成されたとする(注3)。
そして、『筑後国風土記』(逸文。『釋日本紀』卷十三ほか所収)中にも「郡風土記」の部分と「縣風土記」の部分がある。前者には「筑後国号条、生葉郡条、三毛郡条」があり、いずれも冒頭に「矢田部公望による」と記す(注4)。
後者には「筑紫国造磐井条(文書中では筑紫君磐井とある。以下「磐井条」)」があり、俗に「磐井の乱」と呼ばれる騒乱事件を記す。そして、「磐井条」は「前段(磐井の墓墳に関する記事。通常岩戸山古墳とされる)」と「後段(「古老伝えて云へらく」以降の磐井の乱の詳細)」にわかれており、その内容には相互に矛盾が見受けられる。
2、「磐井条」前段「磐井の墓墳」の描写
『筑後国風土記』の「磐井条前段」は、磐井の墓墳上に石造物が「整然」と並ぶ様が記されている。
◆「磐井条前段」
上妻の県。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳有り。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東と西と各四十丈なり。石人・石盾各六十枚、交陣なり行を成し、四面に周匝れり。東北の角に当りて一つの別区あり。号けて「衙頭」と曰ふ。《衙頭とは政所なり》其の中に一の石人有り。縦容(*悠然とする様)に地に立てり。号けて「解部」と曰ふ。前に一人有り、裸形にして地に伏せり。号けて「偸人」と曰ふ。《生けりし時に、猪を偸みき。仍りて罪を決められむとす》側に石猪四頭有り。「贓物」と号く。《贓物とは盗物なり》彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間有り。
この「磐井の墓墳」記事では、六〇体にのぼる石人・石盾が墓墳を囲んで整然と連なり、その乱れは記されず、「解部」と称する石人も「縦容と立つ」とする。また、「偸人・石猪四頭・石馬三疋」も含めて、これらの石造物が破壊されている描写はない。
3、「磐井条」後段「磐井の乱」の描写
これに反し、「古老伝えて云ふ」以降の「後段」では、官軍が「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕す」と石造物が破壊されている様が記される。
◆「磐井条後段」
古老伝えて云へらく、雄大迹(*継体)の天皇のみ世に当たりて、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風に偃はず。生平けりし時、預め此の墓を造りき。俄かにして官軍動発りて襲たむとするの間に、勢の勝つましじきを知りて、独自豊前国上膳の県に遁れて、南の山の峻しき嶺の曲に終せき。是に官軍、追ひ尋ぎて蹤を失ひき。士怒泄まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。古老伝えて云へらく、上妻の県に多く篤き疾有るは、蓋しくは玆に由るか、と。
また、「石人」等の破壊に加えて、古老は、「上妻の県に多く篤き疾有るは、蓋し玆に由るか」と、上妻県に疾病が多いのは、磐井の乱のときの、こうした「官軍による石人などの破壊が原因ではないか」と述べている。
ここでいう、「篤疾」とは、「戸令・盲目条(課役徴収の減免等の規定)」で「両盲目・二支廃(両脚発育不完全・歩行不能)・癲狂」ほか「最も重い身体に関する不具合」を言う。
◆『戶令第七』(目盲條)
凡一目盲。兩耳聾。手無二指足無三指手足無大拇指禿瘡無髪。久濡。下重。大隰隲。如此之類。皆為殘疾。癡。隴。侏儒。腰背折。一支癈。如此之類。皆為癈疾。惡疾。癲狂。二支癈。兩目盲。如此之類。皆為篤疾。(注5)
つまり、「上妻県には重い障がい者が多い」という意味で、これは、当然「現在(『風土記』編纂時点)」、あるいは「古老が現認した時点」で「多くいる」ということだ。「今は障がい者はいない」のに「石人を破壊したから障がい者が多い」などといえるはずはないのだ。
国文学大系『風土記』の注釈は「磐井の君のたたりという意味」とするが、打ち壊したのは「官軍」であるのに、なぜ地元民がたたられるのか不明だ。そもそも、上妻の県だけに「先天的な障がい者」が多くいるとは考えられない。古老は「官軍が手を撃ち折り、頭を打ち堕した」結果(これによるか)として「現在、篤疾(障がい者)が多くいる」という。そうであれば、後天的な「障がいを負う事件」があったことになる。つまり、古老は、「現在の上妻の県に障がいを負った者が多くいるのは、戦乱・騒乱が原因」だったと述べたことになる。
4、「古田旧説」磐井の乱は継体の乱で石像は継体軍が破壊した
この点、古田武彦氏は、『失われた九州王朝』(朝日新聞社一九七三年ほか)では、「磐井の乱」は継体による九州王朝の大王(天子)磐井に対する反乱であり、継体とされる『百済本記』の「日本天皇」の薨去(注6)は「磐井の薨去」だとし、「磐井王朝」は滅亡したとする。
そして、『風土記』の「古老伝えて云」以下は「過去、すなわち六世紀の磐井敗北後の上妻県の状況」を述べたもので、「継体の軍の磐井の軍や住民に対する暴虐の結果」を伝えるものだとした(この見解を「古田旧説」と呼ぶ)。
5、「古田新説」石像は白村江敗戦後唐の軍が破壊した
しかし、古田氏はその後、磐井以降の九州年号の継続や、装飾古墳等遺跡の状況に大きな変化が無いこと、後継者として葛子が記されており、そうであれば石人等が再整備されたはず、などの理由から、「継体の乱」は「虚構」であり「なかった」とする立場をとった。そして、石像が壊されたのは七世紀後半で、白村江敗戦後に筑紫に進駐した唐の軍によるものであり、「多有篤疾」は「風土記が作られた八世紀前半」の状況だとした(「古田新説」と呼ぶ)。(注7)
前述のとおり、「上妻県多有篤疾は過去のことで、現在障がい者は存在しない」とすることは困難だから、「八世紀前半の状況」とする点においては、「新説」が当を得ていることになろう。
6、石像破壊者を唐軍とすることの問題
但し、白村江敗戦は六六〇年代のことだ。その時の負傷者が五〇年後の筑後に多数存在したとは考え難い。さらに、『旧唐書』や『冊府元龜』では、白村江後の麟徳二年(六六五)に、唐の高宗は泰山で封禅の儀を挙行し、その際「倭国酋長」がつき従ったとする。
◆『旧唐書』(列傳第三十四劉仁軌)麟徳二年(六六五)、泰山に封ず。仁軌、新羅及百濟・耽羅・倭四国の酋長を領ゐて赴會す。高宗甚だ悦び、大司憲を櫂拜(*特別に与える)す。
◆仁軌、新羅・百済・耽羅・倭人四国の使を領ゐて、海に浮び西に還り、以て太山之下に赴く。(『冊府元龜』巻九八一外臣部 盟誓 高宗麟徳二年(六六五)八月条)
◆麟徳二年十月丁卯、帝、東都を発し、東獄に赴く。從駕する文武兵士及び儀仗・法物相継ぐこと數百里。列營、置幕、郊原に彌亘る。突厥・于闐・波斯・天竺国・罽賓・烏萇・崑崙・倭国、及び新羅・百濟・高麗等諸蕃の酋長、各の其属を率て、扈從す。(略)(『冊府元龜』巻三十六帝王部封禪二麟徳二年(六六五)条)
これは「倭国酋長」が唐に臣従したことを意味する。また、当時、唐は「羈縻政策」をとり、臣従した各国の王を「唐の都督」として帰し、そのまま国を治めさせる政策をとっていた。従って「倭国酋長」が帰国するなら都督としてであり、その役所が 「都督府」となる。そして、白村江後の唐の使節が筑紫に渡来する天智六年(六六七)に、『書紀』でただ一か所「筑紫都督府」が見える。もし、唐の軍が筑紫に駐留したとしても、「唐の都督」の統治下で破壊活動を行うことは考え難いし、実際、真っ先に破壊するだろう水城や太宰府、土塁群にその痕跡はない。
従って、唐の筑紫駐留軍が石像を破壊したとするには問題があろう。
7、王朝交代時の大和朝廷による「倭国(九州王朝)勢力の武力討伐」(注8)
『続日本紀』には七〇〇年・七〇二年・七一二年~七一三年・七二〇年~七二一年に、大和朝廷による九州勢力(隼人と呼ぶ)の討伐が記されている。
①七〇〇年の薩末比売らの反乱
七〇〇年六月には薩末比売ほか衣の評督衣君県(薩摩頴娃評)、肝衝難波(日向国肝衝評)、肥人(肥後人)ら南九州の勢力が武器をとり、律令施行の為派遣された覓国使(くにまぎし)を脅かすが、筑紫総領に収めさせる。
◆『続日本紀』文武四年(七〇〇)六月庚辰(三日)に、薩末比売・久売・波豆、衣の評督衣君県、助督衣君弖自美、肝衝の難波、肥人等に従ひ、兵を持ちて覓国の使刑部真木等を剽劫す。是に於て竺志惣領に勅して犯に准へて決罰せしむ
②七〇二年の薩摩・多褹の反乱
◆大宝二年(七〇二)三月。甲午(二十七日)信濃国、梓弓一千廿張を献る。以て大宰府に充つ。丁酉(三十日)大宰府に、専ら所部の国の掾已下と郡司等とを銓擬することを聴す。(略)七月乙未(三十日)是の日、天下の罪人を赦す。八月丙甲(一日)薩摩・多褹、化を隔てて、命に逆ふ。是に、兵を発して征討し、遂に戸を校べ、吏を置く。(略)九月戊寅(十四日)薩摩の隼人を討ちし軍士に、勲を授くること各差有り。(略)丁亥(二十三日)、天下に大赦す。
③七一三年の隼人討伐の功績者への恩賞
『続日本紀』和銅六年(七一三)には隼人戦の功績者への恩賞と、大隅国設置記事がある。隼人討伐戦は七一二年~七一三年にかけて遂行されたはずだが、当然記されるべき「隼人討伐戦」の記事が無い。そこには戦闘を記すことが出来ない何らかの事情があったと考えられる。
◆和銅六年(七一三)四月乙未(三日)、(略)日向国の肝坏、贈於、大隅、姶羅の四郡を割きて、始めて大隅国を置く。大倭国疫す。薬を給ひて救はしむ。(略)
七月丙寅(五日)、詔して曰はく、「授くるに勲級を以てするは、本、功有るに拠る。若し優異せずは、何を以てか勧獎めむ。今、隼の賊を討つ将軍、并せて士卒等、戦陣に功有る者一千二百八十余人に、並びに労に随ひて勲を授くべし」とのたまふ。
④『風土記』編纂令発布
そして、この討伐と並行して『風土記』編纂令が出される(注9)。
◆和銅六年(七一三)五月甲子(二日)畿內と七道との諸国の郡・鄉の名は好字を着けしむ。其の郡內に生れる銀、銅、彩色、草、木、禽、獸、魚、蟲等物は具に色目を錄し、土地の沃塉、山川原野の名號の所由又古老の相傳ふる舊聞異事は史籍に載して言上せしむ。
つまり、七〇〇年に始まる大和朝廷の肥後から薩摩にかけての九州勢力の討伐と、『風土記編纂』は一体のものだった(七一二年の『古事記』編纂献上も同様)。
そしていよいよ七二〇年には九州勢力の滅亡に繋がる討伐が行われる。
⑤隼人勢力の一掃
◆養老四年(七二〇)二月壬子(二十九日)、大宰府奏して言はく、「隼人反き、大隅国守陽侯史麻呂を殺す」とまうす。三月丙辰(四日)。中納言正四位下大伴宿禰旅人を征隼人持節大将軍とす。(略)笠朝臣御室・(略)巨勢朝臣真人を副将軍とす。(略)六月戊戌(十七日)に詔して曰はく、「蛮夷害をなすこと、古より有り。(略)今西隅等の賊、乱を怙み化に逆ひて屡良民を害なふ。因りて持節将軍(略)大伴宿禰旅人を遣して、其の罪を誅罰ひ、彼の巣居を尽さしむ。兵を治め衆を率て兇徒を剪り掃ひ、酋帥面縛せられて、命を下吏に請ふ。寇党叩頭して、争ひて敦風に靡く。(略)」とのたまう。
そして隼人の王(酋帥)が捕らえられ命乞いをしたが多数の隼人は殺されるか捕囚となった。
⑥七二〇年・七二一年の「隼人」の大量殺害と捕獲
◆養老四年(七二〇)八月癸未(三日)藤原不比等薨去。壬辰(十二日)(旅人を京に召喚)「但し副將軍已下は、隼人未だ平がずは留まりて屯むべし」とのたまふ。
◆養老五年(七二一)七月壬子(七日)征隼人副将軍笠朝臣御室・巨勢朝臣真人等ら還帰る。斬りし首・獲し虜合せて千四百余人。
8、筑後での騒乱
この一連の討伐記事には、筑後での騒乱は記されていない。しかし磐井時代から筑後は九州王朝の拠点だったし、筑後から熊本(肥後)にかけては多数の「石人」を伴う古墳が存在している(注10)。
また、『隋書』は、七世紀初頭の「日出る処の天子」阿毎多利思北孤の国には「阿蘇山あり」とし、隋の使者は噴火の様子を記している。そこから七〇〇年に反乱をおこした「肥人(肥後の勢力)」は、多利思北孤の俀(倭)国の中心領域、古田氏の言う九州王朝の中心勢力だったことが分かる。「肥人」の反乱が記されているからには、七〇〇年以降の一連の「反乱」は肥後・薩摩にとどまらず、大和朝廷の支配に反抗する『旧唐書』にいう倭国(九州王朝)の中心地域で広く勃発していたことになる。そして、筑紫から 肥後・薩摩を目指す「官軍(大和朝廷軍)」の行程では、必ず筑後を通過することになる。その際、これを妨げようとする勢力の抵抗があったことは想像に難くない。
石人・石馬を破壊し、抵抗する筑後の人々を弾圧したのは大和朝廷の「隼人(九州勢力)討伐軍の兵士」たちだったのではないか。「古老」はそれを「現認」していた。また、その際障がいを負った人々が多数存在していた。
ただし『風土記』に「大和朝廷の暴虐」をありのままは記せないので、筑後の人々(古老)は六世紀初頭の「磐井の乱」当時の話に仮託したのではないか。
結局、『筑後国風土記』の「磐井条」の前半は七〇〇年以前の「縣制」時代―九州王朝時の、石造物が「縦容」として立っていた時代に造られたもの。後半は八世紀初頭に大和朝廷が倭国(九州王朝)の残存勢力を「肥人や隼人」と呼んで討伐し、石造物を打ち壊して以後、大和朝廷の「風土記編纂令」を受け、筑後において既存の「縣風土記」に付加されたものと言えるのではないか。
九州の風土記編者は、あえて「縣」を「郡」に変更せず、大和朝廷側も「磐井の乱」当時―六世紀初頭の出来事なので「縣」であっても支障が無く、そのまま残ったことになる。そこが、大和朝廷の「風土記編纂令」をうけて、初めて策定された九州以外の各地の「郡風土記」と異なるところだろう。
『筑後国風土記』逸文の「磐井条」の前半と後半の矛盾は、倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代と、九州王朝滅亡の際の大和朝廷の暴挙をひそかに物語っていると考える。
なお、「磐井の乱」をどう考えるのか、については、「継体と『磐井の乱』の真実」(古田史学論集第二十三集「『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独」明石書店二〇二〇年所集)に詳しいが、機会があれば新たな観点も踏まえ、会報でも別途論じたい。
注
(注1)『続日本紀』和銅六年(七一三)五月甲子(二日)「畿內と七道との諸国の郡・鄉の名は、好字を着けよ。其の郡內に生れる銀、銅、彩色、草、木、禽、獸、魚、蟲等物は具に色目を錄し、土地の沃塉、山川原野の名號の所由又古老の相傳ふる舊聞異事史籍に載せ言上せしめよ。」
(注2)大宝二年(七〇二)の筑前・豊前国の戸籍は「郡」と記している。
(注3)古田武彦『よみがえる九州王朝』(角川書店一九八三年。ミネルヴァ版二〇一四年)
(注4)九〇四年又は九三六年の「日本紀講筵」に参列した矢田部公望の私記によることを示すもの。したがって『書紀』記事の影響を強く受けている。
(注5)大意:片眼が見えない、または、両耳が聞こえない。手の指二本、または、足の指三本、または、手足の親指を欠損している。頭のできもので髪が抜け落ちている。久漏(体から膿が漏れる)、または、下重(重症のヘルニア)、または、大隰隲(首や足の大きな腫瘍)。これらに該当する人はみな残疾とする。 癡(重度の精神障がい)、または、隴(言語障がい)、または、侏儒(小人症)、または、腰背部骨折や脊髄損傷等による肢体不自由、または、一支廃(手足の一本の欠損)、これらはみな癈疾とする。悪疾(ハンセン病)、癲狂(精神疾患)。二支廃(手足を二本欠損)、両眼が見えない、これらの人はみな「篤疾」とする。「令集解」によれば、残疾→癈疾→篤疾の順に障がいが重くなる。残疾・癈疾でも症状が重くなれば「篤疾」に移行する。従って「篤疾」は最も重い身体障がいを示す。
(注6)『書紀』継体二十五年十二月条の細注(百済本紀の引用)。「太歳辛亥(五三一)三月、軍進みて安羅に至りて、乞乇城を営る。是の月に、高麗其の王安を弑す。又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此によりて言へば、辛亥の歳は二十五年に當る。後に勘校へむ者、知らむ。」
(注7)古田武彦「磐井の乱(継体の反乱)はなかった」(『古代に真実を求めて』古田史学論集第八集。明石書店二〇〇五年ほか)。
(注8)『旧唐書』には、我が国には、紀元五十七年に金印を下賜された「倭奴国」以来、歴代中国王朝と交流してきた、九州を拠点とし東西五月行、南北三月行を版図とする大国の倭国と、元小国の日本国があり、日本国が、倭国を併合したと記す。そして、日本国は、七〇三年に大和朝廷の使人粟田真人が武則天から官位を得ているので大和朝廷を指す。つまり、『旧唐書』は、我が国には、八世紀初頭に倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への「王朝交代」があったことを記す。
(注9)七一二年には『古事記』が上程されるが、これも『続日本紀』には記されない。
(注10)岩戸山古墳同様に「石人」が置かれているのは筑後の「石人山古墳(福岡県八女郡広川町)」や「石神山古墳(福岡県みやま市高田町)」だけでなく、熊本のチブサン古墳(山鹿市)、三の宮古墳(荒尾市)、江田船山古墳(玉名郡和水町)など「肥後」にも分布している。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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