皇弟・皇子・皇女の起源 日野智貴(会報182号)
「船王後墓誌」銘文の「天皇」は誰か西村秀己・古賀達也両氏への回答(2) 日野智貴(会報185号)
稲員家系図の史料批判と
高良玉垂命の年代
たつの市 日野智貴
はじめに
古田先生が稲員家系図について「倭王旨=高良玉垂命」「多利思北孤=神天子連家」等という作業仮説を提唱したが、それについて充分な検証はなされず、ただ飯田満麿氏が「多利思北孤=神天子連家」という古田説を前提として「対象天子二十二名対象年号二十二個」の仮説を発表したことがある程度である。
しかしながら「一天子=一年号」というのは、一世一元の制以前の話としては大変不自然である。それに限らず稲員家系図はあまりにも代数が多く、「仁徳五十五(三六七)」鎮座の伝承を杓子定規に尊重すると一代当たりの平均年数が著しく短くなるので、そもそも高良玉垂命の年代を西暦四世紀後半とすること自体を見直すべきではあるまいか。
そこで私による私案を提供したい。
「稲員家系図」の内容
「稲員家系図」では、高良玉垂命の第二子である朝日豊盛命神の子供・物部日良仁光連から公兼皇連岩まで二十六代の人物が直線的に(父子継承として)描かれているが、親鸞の祖父が「日野家系図」から削除された結果日野家と親鸞の系譜の台数が一致しなかった著名な例からも判る通り、この種の系譜の代数は必ずしも信頼のおけるものではない。
恐らくは「稲員家系図」の二十六代の中には相当数の兄弟継承も含まれていると考えられる。しかし、兄弟継承が多いとしても限度がある。
高良玉垂命から公兼皇連岩までは二十八代である。公兼皇連岩を古田先生は七〇一年の人物とし、また稲員家は筑紫君磐井であると主張している。高良玉垂命を三六七年の人物とした場合、短くて一六八年、長くて三三五年の間に二十八代もの君主が立ったことになる。
つまり、短く見積もって平均四.五年、古田説でも平均約十三.一年の在位年数となる。だが多利思北孤は彼を上宮法皇であるとする古田先生自身の説に従えば三十年以上の在位をしている訳であり、倭の五王についても明らかにこの平均在位年数よりも長く在位した倭王がいることから、かなりの「十三.一年、未満」の人物の存在があって初めて古田説は成り立つことになる。
そして実際、飯田氏はまさに古田説を成り立たせるために、西暦七世紀の倭国の天子について「対象天子二十二名対象年号二十二個となり、矛盾は完全に解消される」と述べたのであるが、これは要するに二十人近くも「数年で代替わり」をした天子が西暦七世紀の間に集中したということである。しかしながら、譲位の多かった平安時代等でさえもここまで極端に在位年数の短い天子が続いたという例を私は知らない。
そもそも古田先生が公兼皇連岩を七〇一年の人物としたのも充分な根拠があるとは言い難い。飯田氏も触れている通り、彼よりも後代の美濃理麻呂保続が白鳳時代の人物として明記されている。私も古賀代表と共に稲員家でこの系図のレプリカを見せてもらい、当該記述を確認している。そうすると公兼皇連岩はもっと前の人物であるとせざるを得ない。
高良玉垂命の年代
そこで注目したのが、高良玉垂命の年代である。高良玉垂命が西暦三六七年の人物であるという伝承が、本当に正しいのか。この伝承を信じる限り、稲員家系図はかなり不自然な系図となってしまう。
『高良記』では高良玉垂命を神功皇后の再婚相手としている。一方で、同書は宝満大神と河上大明神(豊姫)とが神功皇后の妹であり、また高良玉垂命の弟が豊姫の配偶者であるともしている。
さて、高良玉垂命を神功皇后の再婚相手とするのはそのまま史実とは見做し難い。むしろ宝満や豊姫と言った九州の地元の神々(九州王朝の神々)を神功皇后の伝承と「習合」した結果と考える方が自然であろう。古賀達也氏が宝満と豊姫を俾弥呼と壱与とに比定したが、そうであれば高良玉垂命も俾弥呼や壱与と同時代の人物とみなすべきではあるまいか。
三六七年から干支二巡遡ると二四七年であり、丁度俾弥呼が没して壱与が即位した年である。俾弥呼が独身であったことは『魏志』に記述があるが壱与にそのような記述はないので、壱与が高良玉垂命又はその弟を夫とした可能性は充分にある。或いは、高良玉垂命が女神であるという伝承を重視した場合、壱与が初代高良玉垂命であった可能性もある。
そうすると、古田説や飯田説よりかは不自然さは軽減されるであろう。
具体的な比定について
既に私は倭の五王時代の倭王は物部氏であるという仮説を提示し、多利思北孤の時代とは姓が異なるとした。そのことを踏まえると、この系譜は物部氏の系譜であるとされている以上、公兼皇岩は多利思北孤の前代の天子であろう。
後は単なる作業仮説であるが、仮に「仲」のつく人物が殺された人物であると仮定した場合、神仲熊連豊は熊曾建で神天仲連就は倭王斉か。そうであるならば神天子連家が旨、神道天連良が讃、神司宮連法が珍、神頭国連軌が興、神斗玉連仍が武となる。武の二代後の賢名皇連忠が倭国の初代天子と考えると、これは比較的自然な比定と言えるであろう。
高良玉垂命を旨とした場合、その直後は倭の五王の時代であるから、不自然な比定とならざるを得ないのである。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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