2024年8月14日

古田史学会報

183号

1,難波宮から出土した「九州王朝」
 泉武論文の欠失と新視点
 古賀達也

2,香川県の九州年号史料
 「長尾三家由緒」の紹介
 別役政光

3,稲員家系図の史料批判
 と高良玉垂命の年代
 日野智貴

4,神功皇后の喪船と
 空船による策略の謎
 大原重雄

5,九州王朝倭国と
タケシウチノスクネの生誕地
 陶山具史

6,放送大学に古田史学サークルを
倉沢良典

 

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「天皇」銘金石文の史料批判 -- 船王後墓誌の証言 古賀達也(会報182号)

飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言 古賀達也(会報184号)


難波宮から出土した「九州王朝」

泉武論文の欠失と新視点

京都市 古賀達也

一、前期難波宮孝徳朝説批判への批判

 令和五年四月六日の「古田史学の会・関西」遺跡巡りの特別企画として、高橋工氏(大阪市文化財協会)を招き、難波宮発掘調査の最新状況についてうかがうことができた(注①)。高橋氏は難波京条坊を発見した考古学者。実証的発掘調査を主領域とする考古学において、出土遺構を極めて論理的に考察する研究者で、わたしが尊敬する考古学者の一人だ。講演で次のスライドが映し出された。

「5 孝徳朝(前期)難波宮説批判への批判
 七〇年代に前期難波宮内裏の構造が明らかになるにつれ、この宮跡が孝徳朝(7世紀中葉)に遡ることがわかってきた。『日本書紀』に登場する難波長柄豊碕宮である。しかし、主に文献史学(古代史)の研究者から前期難波宮は天武朝(7世紀後葉)より古くはならないという批判が出た。理由は、孝徳朝にはこのように大規模な宮殿を必要とする官僚制度(およびそれを規定する成文法)がなかったとする考えによる。
 しかし、その後約三〇年間に行われた発掘調査では、遺構の年代が7世紀中葉を示す発見が積み上げられ、前期難波宮が孝徳朝の難波長柄豊碕宮である蓋然性は高まっていった。そして、ついに二〇〇〇年、府警本部の発掘調査で「戊申年(六四八年)」を記した木簡が出土したことで、このことは証明されたと私達は考えている。
 ところが、ここ数年で、やはり孝徳朝説を否定する論文が続けて発表された。この論文では難波宮下層を孝徳朝難波宮に比定している。遺構考古学的にはこの殆どを論破することが可能であるが、根本には大化改新を史実性を低く評価し、巨大な前期難波宮が文献に現れた官僚制度とつりあわないとみる一部の文献史学者の考え方がいまだに根強く残っているということであろう。
 では、文献との整合性を重視するのであれば、日本書紀白雉三(六五二)年に長柄豊碕宮の完成を記された「秋九月、造宮已訖、其宮殿状不可殫論」の評価に相応しい宮殿が他にあることを示す必要があろう。」

 この高橋氏の見解は近畿天皇家一元史観に基づく通説に依っており、全てには賛成できないが、前期難波宮が七世紀中葉の造営とすることには賛成である。「秋九月、宮を造ること已に訖りぬ。其の宮殿の状、殫に論うべからず」の評価に相応しい宮殿が他にあることを示す必要があろうとの主張は真っ当なものだ。
 他方、未だに「前期難波宮孝徳朝説」(七世紀中葉造営説)に反対する論文が発表されていることに驚き、「誰の論文でしょうか」とたずねたところ、「橿原考古学研究所の泉さん」とのこと。

二、「前期難波宮孝徳朝説」批判の論理

 高橋氏から教えて頂いた、泉武氏の論文「前期難波宮孝徳朝説の検討」とその続編「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」を読んだ(注②)。天武朝造営説は、今までにも少数の研究者から発表されていたが、発掘調査で判明した多くの考古学的根拠により、殆どの研究者から孝徳朝造営説が支持され、ほぼ定説となった。従って、今更どのような根拠で批判するのだろうかと興味を持って泉論文を精読したところ、従来にない視点が見られた。
 それは一元史観(日本書紀の記事の大枠を是とする歴史認識)に基づく考古学者には反論しにくく、定説の立場からはどのような反論がなされるのか楽しみだ。泉氏の孝徳朝説批判の論点には反証可能だが、定説側からの反論が困難な指摘こそ、わたしが提唱した前期難波宮九州王朝複都説の傍証とも言えるものであった。その意味に於いて、泉論文には新たな指摘がなされており、その結論(前期難波宮天武朝説)には反対だが、優れた批判論文と思われた。
 泉説の特徴は、前期難波宮整地層の下から出土した下層遺跡の建物を孝徳朝の宮殿と見なし、整地層上に建てられた前期難波宮を天武朝造営とすることだ。従って、更に上にある聖武朝の後期難波宮を含めて、上町台地法円坂には三層の王宮があったとする。定説では、前期難波宮整地層から出土する土器が七世紀中葉と編年されることから、整地層の上に造られた朝堂院様式の巨大宮殿を難波長柄豊碕宮とする。これに対して、泉氏は次のように論断する。

〝1.前期難波宮整地層の問題。通説的には同整地層出土の土器を7世紀中葉に比定して、この整地層を基盤にする建物が孝徳天皇の長柄豊碕宮であると主張されているが、考古学上の基本的な方法論では、整地層の造営は7世紀中葉以降であるとしかできない。〟「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」四二頁。

 この「考古学上の基本的な方法論では、整地層の造営は七世紀中葉以降であるとしかできない」とする指摘自体は論理的に誤りとは言えないが、実際の整地層出土土器の様相を見れば、この見解をもって整地層の造営を天武期とする根拠にはできない。なぜなら、天武朝の時代(六七二~六八六)の代表的な土器である須恵器坏Bが整地層からは全く出土しないからだ。この事実に触れないまま、「基本的な方法論」のみを述べるのでは、整地層出土土器の現実を無視しており、恣意的な論法と言わざるを得ない。もし言うのであれば、「整地層の造営は七世紀中葉以降、かつ天武期よりも前である」とするのが、考古学上の基本的な方法論に基づいた表現であろう。
 更に言えば、天武朝時代の造営である藤原宮(京)の整地層から出土する主要土器は須恵器坏Bであり、主要土器を須恵器坏G・坏Hとする前期難波宮整地層とは様相が全く異なる。この一点だけでも、泉説が成立しないことは明白だ。

 

三、前期難波宮造営時期のエビデンス

 わたしは、前期難波宮と藤原宮の整地層主要土器は異なっており(前期難波宮は須恵器坏GとH。藤原宮は坏B)、両者を同時期(天武期・七世紀後葉)と見なすのは無理であり、前者の整地層が数十年は先行すると考えている。これは殆どの考古学者が認めているところだ。更に言えば、前期難波宮の七世紀中葉造営を示す次のエビデンスも知られている(注③)。

(1)難波宮近傍のゴミ捨て場層から「戊申年」(六四八年)木簡が出土し、前期難波宮整地層出土土器編年と一致することにより、孝徳期造営説は最有力説となった。

(2)水利施設出土木材の年輪年代測定により、最外層樹皮を有す木材の伐採年が六三四年と判明。転用の痕跡もなく、六三四年に伐採されたヒノキ原木が使用されており、孝徳期造営説が更に強化された。

(3)年輪セルロース酸素同位体比年代測定により(注④)、難波宮から出土した柱根が七世紀前半のものとわかった。この柱材は二〇〇四年の調査で出土したもので、一点(直径約三一㎝、長さ約一二六㎝)はコウヤマキ製で、もう一点(直径約二八㎝、長さ約六〇㎝)は樹種不明。最外層の年輪は六一二年、五八三年と判明。伐採年を示す樹皮は残っていないが、部材の加工状況から、いずれも六〇〇年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられ、通説(孝徳朝造営説)に有利な根拠とされた。

 以上のように、干支木簡や理化学的年代測定値のいずれもが前期難波宮造営を七世紀中葉としており、七世紀後葉の天武期とする理化学的エビデンスは皆無。これらは難波宮研究では著名な事実だが、(2)(3)については、なぜか泉論文には触れられてもいない。自説に不都合なデータを無視するのであれば、それは学問的態度とはいえない。

 

四、下層遺跡出土「贄」木簡の証言

 泉論文には、難波宮出土木簡に記された用語を根拠として、前期難波宮整地層の下層遺跡を孝徳朝の宮殿とする見解がある。これは新たな視点であり、興味深い。それは前期難波宮整地層の直下に掘られた土壙(SK10043)から出土した次の木簡だ。

「・□□□□・□□〔比罷ヵ〕尓ア」

 東野治之氏の釈読によれば(注⑤)、「此罷」は枇杷、「尓ア」は贄とのこと。贄とは天皇や神に捧げる供物であることから、同木簡が出土した土壙(SK10043)の近傍に天皇の居所の存在を示唆し、それは孝徳天皇としか考えられないことから、下層遺跡の建物こそが孝徳天皇の宮殿であると泉論文は結論づけた。従って、前期難波宮整地層上に造営された巨大宮殿は天武朝としたわけである。
 『日本書紀』によれば、七世紀の難波に宮殿を最初に造営したのは孝徳天皇であり、その天皇に捧げる「贄」木簡が出土した下層遺跡の建物は孝徳天皇の宮殿と理解する他ないとする論旨は、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難かもしれない。しかし、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、遅くとも五世紀の「倭の五王」時代には九州王朝は難波に進出し、七世紀前葉には難波天王寺を創建(倭京二年・六一九年)しており、七世紀前葉の下層遺跡から、九州王朝の有力者に捧げられた「贄」木簡が出土しても不思議ではない。むしろこの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証である。泉論文の結論には反対だが、優れた論文であると評価した理由は、正に下層遺跡から出土した「贄」木簡の指摘にあった。

 

五、西谷出土「贄」「戊申年」木簡の証言

 孝徳朝宮殿の根拠とした「贄」木簡は、土壙(SK10043)の北側約四五〇mの地点から検出された谷からも出土している。出土層位は前期難波宮のゴミ捨て場跡と考えられており、その第十六層から三三点の木簡が出土している(注⑥)。その中の次の木簡が注目された。

「委尓ア栗□□」(四号木簡)※「尓ア」は贄。
「戊申年」(一一号木簡)※戊申年は六四八年。

 泉論文では、土壙(SK10043)から出土した「贄」木簡とあわせて、隣接する二地点から「贄」木簡が出土したことを、その近傍に孝徳天皇の宮殿があった根拠とした。しかも「戊申年」(六四八年)木簡と伴出したことにより、下層遺跡の建物の造営が孝徳朝の頃とする根拠にした。この点も、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都とする見解に立てば、これらの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証となることは先に述べたとおり。
 なお、『伊予三島縁起』に見える「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申、日本国をご巡礼したまう。)は、九州王朝による難波宮造営のための「番匠」派遣記事であり、九州年号の「常色二年戊申」と難波宮出土「戊申年」木簡との年次(六四八年)の一致は偶然ではなく、何らかの関係を示唆するとの正木裕氏の指摘がある(注⑦)。

 

六、湧水施設出土「謹啓」木簡の証言

 泉論文では、前期難波宮北西の湧水施設(SG301)から出土した次の「謹啓」木簡(注⑧)も自説(前期難波宮天武朝説)の根拠とした。

・「謹啓」 ・「*□然而」 *□[初ヵ]

 同水利施設は、井戸がなかった前期難波宮の水利施設と見られ、七世紀中葉の造営であることが出土土器編年(須恵器坏G、坏H)により判明した。さらに年輪年代測定により、湧水施設の木枠の伐採年が六三四年であったことも紹介した通りだ。
 この従来説に対して、泉論文では、「謹啓」木簡は七世紀後葉の飛鳥池や石神遺跡の天武朝の遺構から出土しており、難波宮出土の「謹啓」木簡も天武朝のものと理解できるとした。そして、「謹啓」木簡の出土層位(第7B層)は水利施設の最下層であり、難波宮水利施設が天武朝(七世紀後葉)に造営された証拠とした。従って、この水利施設を利用した前期難波宮は天武朝の宮殿であり、その下層遺跡を孝徳朝の宮殿とした。
 しかしながら、前期難波宮九州王朝複都説よれば、この「謹啓」木簡も九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証となる。すなわち、飛鳥に居した近畿天皇家の天武らよりもはやく九州王朝の難波宮では「謹啓」という用語が使用されていたと理解することができる。従って、泉論文の「謹啓」木簡の証言は、九州王朝が採用していた「謹啓」という用語を、七世紀後葉になって天武らも飛鳥で使用開始したというにとどまる。

 

七、「正方位」宮殿の編年

 泉論文では、「贄」木簡、「謹啓」木簡などを根拠として、南北正方位の巨大宮殿である前期難波宮を天武朝、その下層遺跡の東偏(N23°E)した建物跡(SB1883)を孝徳朝の宮殿とした。これら木簡の他に、建物の建築方位についても自説の根拠とした。それは飛鳥宮跡などの建築方位の変遷を根拠とする次の解釈による。

(ⅰ)飛鳥宮跡第Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(六三〇~六三六年)に比定されており、その建築方位は北で約二〇度西に振る。

(ⅱ)第Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(六四三年)であり、それ以降は建物主軸は正方位となる(注⑨)。

(ⅲ)石舞台古墳の西の地域に造営された島庄遺跡は、Ⅰ~Ⅲ期(六〇〇~六七〇年代)までは西偏する建物であり、Ⅳ期(六七〇年以降)は正方位となる。Ⅳ期の建物は大規模な土地造成と設計計画のもと建てられている(注⑩)。

(ⅳ)これらの調査成果により、自然地形に制約された建物主軸が正方位に変更されるのは七世紀中頃以降であるとの見通しが得られる。

(ⅴ)以上のように、飛鳥京の諸宮殿と前期難波宮の二層の宮殿建物(前期難波宮と下層遺跡建物)は、斉明朝(ママ)から孝徳朝にかけて正方位建物ではなかった蓋然性が強い。
 この説明のうち、(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)は考古学的エビデンスとその編年の解釈で、それらに基づいた編年理解が(ⅳ)(ⅴ)だ。しかし、(ⅰ)(ⅱ)に基づけば正方位建物の出現は七世紀中葉であり、(ⅲ)を重視すれば七世紀後葉となり、異なる二つの解釈のうち、後者のみを採用して(ⅴ)の自説を導き出すのは恣意的である。
 わたしは難波や飛鳥の王宮建築では、七世紀中葉になって正方位を採用したと考えているが、仮に泉論文の解釈(ⅴ)が成立するとしても、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとする見解によれば、九州王朝が飛鳥の近畿天皇家よりも早く正方位の宮殿建築を採用したと理解することが可能であり、やはり問題はない。
 このように泉論文が持つ一見鋭い指摘は、近畿天皇家一元史観に基づく通説に対しては有効であっても、九州王朝説にとっては、むしろ通説の限界や矛盾を指摘したこととなり、前期難波宮九州王朝複都説の傍証としての性格を持つのである。

 なお、泉論文で孝徳朝の宮殿とした下層遺跡の建物だが、出土件数も少なく、宮殿の体をなしているとは言い難い出土状況であり、この点も泉説の成立を困難にしている。
〔令和六年(二〇二四)六月十二日、改稿筆了〕

(注)

①古賀達也「洛中洛外日記」三二六六話(2024/04/08)〝高橋工氏の難波宮最新報告を聴講〟

②泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集十七』二〇一八年。
 同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』四六巻、二〇二三年。

③この場合、孝徳期(七世紀中葉)の造営を示唆するというにとどまり、造営主体が孝徳天皇(近畿天皇家)であることを示すものではない。

④総合地球環境学研究所・中塚武教授による測定。

⑤東野治之「橋脚MP-2区SK10043出土木簡について」『難波宮址の研究 第7』大阪市文化財協会、一九八一年。

⑥『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ ―大阪府警察本部庁舎新築工事に伴う発掘調査報告書― 図版編』大阪府文化財調査研究センター、二〇〇二年。

⑦正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』八五号、二〇〇八年。

⑧『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、二〇〇〇年。

⑨『飛鳥京跡Ⅲ』橿原考古学研究所調査報告第一〇二冊、二〇〇八年。

⑩相原嘉之「嶋宮をめぐる諸問題 ―島庄遺跡の発掘成果とその意義―」『明日香村文化財調査研究紀要』第一〇号、明日香村教育委員会、二〇一一年。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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