2024年8月14日

古田史学会報

183号

1,難波宮から出土した「九州王朝」
 泉武論文の欠失と新視点
 古賀達也

2,香川県の九州年号史料
 「長尾三家由緒」の紹介
 別役政光

3,稲員家系図の史料批判
 と高良玉垂命の年代
 日野智貴

4,神功皇后の喪船と
 空船による策略の謎
 大原重雄

5,九州王朝倭国と
タケシウチノスクネの生誕地
 陶山具史

6,放送大学に古田史学サークルを
倉沢良典

 

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九州王朝倭国とタケシウチノスクネの生誕地 陶山具史(会報183号)../kaiho183/kai18305.html


 

九州王朝倭国と

タケシウチノスクネの生誕地

防府市 陶山具史

はじめに

 日本書紀では「武内宿禰」、古事記では「建内宿禰」と表記されているタケシウチノスクネは、古代に景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕えて大活躍した重臣として有名だ。日本書紀は、景行天皇が「紀伊国」に行幸してもろもろの神祇を祭ることについて卜ったが、不吉と出たので行幸を取りやめ、代りに屋主押男武雄心を遣わして祭らせたところ、屋主雄男武雄心は「阿備の柏原」で神祇を祭り、そこに九年間住んで武内 宿禰を生んだと記す(景行紀三年条)。
 岩波文庫「日本書紀(二)」の注釈は、その「紀伊国」を和歌山県に比定し、「阿備の柏原」は同県内のどこかにあるが、具体的な場所は未詳とする(六〇頁注一九)。同文庫本は、いわゆるヤマト王権説(大和朝廷説)に基いて注釈しており、かつ和歌山県の区域が古代から紀伊と呼ばれていたことからして、「紀伊国」を和歌山県に比定するのであろう。しかし、日本書紀を読む限り、景行天皇が和歌山に屋主忍男武雄心を派遣したという記述に現実感がなく、また記紀がタケシウチノスクネと和歌山の関りについてその後は何も記さないのも不審だ。
 筆者は、いくつかの根拠からして、景行天皇は実は筑紫国の国王であって、AD三○○代前半に九州一円を征服して九州王朝倭国を樹立し、AD七〇〇頃に九州王朝倭国とその支配下にあった日本国が合体して近畿王朝日本国が成立したと推察している。その根拠は、①古事記、日本書紀、風土記、後漢書東夷伝、魏志倭人伝、梁書倭伝、宋書倭国伝、隋書俀国伝、旧唐書の倭国伝・日本伝などの記述、②記紀が記す地名・山名・河川名などについての筆者による比定、③現地伝承、④弥生時代後期から古墳時代前期にかけての考古学上の遺跡遺物、⑤炭素年代測定法および火山学による絶対年代などであるが、本稿では紙幅の関係で割愛する。根拠の詳細は拙著「日本国成立史考」に記した。
 本稿は、この推察すなわち九州王朝倭国が近畿王朝日本国よりも前に存在したとの仮説およびタケシウチノスクネは九州王朝倭国の重臣だったとの仮説を前提として、タケシウチノスクネの生誕地を比定したものだ。

一 筑紫国王の景行が九州王朝倭国を樹立した

 日本書紀は、(1)景行天皇が屋主押男武雄心を「紀伊国」に派遣したところ、屋主忍男武雄心は「阿備の柏原」で神祇を祭るとともに、同地で紀直の娘「山下影姫」を娶ってタケシウチノスクネを生んだと記し(景行紀三年条)、(2)景行天皇が「美濃」に行幸して、「泳宮」で八坂入媛を妃としたと記し(景行紀四年条)、(3)景行天皇は、熊襲が反いたので筑紫に行幸し、「周芳の沙麼」で対岸の九州北東部を偵察した後に、九州北東部から始めて時計回りに九州一円の諸勢力を討伐・撃滅・制圧・巡撫して、近畿奈良に還幸したと記す(景行紀十二年条~十九年条)。
 これらの記述は、神武天皇が近畿奈良に東征して以降、歴代の天皇が近畿奈良で天下を統治してきたのであって、従って第十二代景行天皇は近畿奈良を出発して、筑紫すなわち九州の熊襲を征伐した、との前提で記されている。しかしながら筆者は、前記の通り、景行天皇は実は筑前・筑後を領域とする筑紫国の国王であって、九州一円を征服して九州王朝倭国を樹立したと推察している。そこで、同推察(仮説)に基いてこれらの記述を読むと、次の通り推察される。

①「紀伊国」は、佐賀県の少なくとも東部である。と言うのは、佐賀県東部に基肄の地名があるところ、a肥前国風土記および和名類聚抄に「基肄郡」が見え、かつb肥前国風土記は、「基肄郡」という名称について、景行天皇が行幸の際に筑後久留米の高良山から当該地を見たところ、霧で覆われているので、「霧の国」と呼んだことに因むと記す。これらの記述からして、佐賀県東部の基肄という地名は非常に古い時代からあり、しかも景行天皇と関係があることが窺われるからだ。

②前記①を前提とすると、筑紫国王の景行は、先ず西の佐賀平野を屋主忍男武雄心に征服させて後顧の憂いを断った後に、東の九州北東部から始めて時計回りに九州一円を征服したと推察される。と言うのは、佐賀県東部の神崎市神崎町にある肥前一宮の櫛田宮の社伝によれば、景行天皇が巡行した際に、同地で不幸が続いて人民が苦しんでいたので、神を祭りなごめたところ、その後は災厄もなくなった、と伝承されているからだ。この社伝は前記の諸推察を前提とすると、屋主忍男武雄心が佐賀平野を征服した際に人民が被災したので、後に景行が九州一円を征服し終えて筑後や佐賀東部を巡幸した際に、人民の救済措置を講じたことを意味していると考えられる。

③前記の①・②を前提とすると、日本書紀が記す前記の「美濃」は筑後平野の南部に横たわる水繩(耳納)山地と推察される。

④前記の①~③を前提とすると、景行は日本書紀が記す前記の「泳宮」を水繩(耳納)山地の東方にある大分県日田市来来里(地名)に設けたと推察される。この推察を傍証するのは、景行天皇が熊襲征伐の際に豊後日田郡に立ち寄ったところ、久津姫と名乗る神が人の姿で現れて天皇を迎え、郡内の様子を話した、との豊後国風土記の記述だ。この記述からして景行は、九州北東部から時計回りに九州一円を征服するに当たり、筑前・築後から日田街道を通って別府湾に出て、船で「周芳の沙麼」すなわち山口県防府に至ったのであって、景行が日田市来来里に「泳宮」を設けて八坂入媛を妃としたとのは、そのためだったと推察される。日田は、弥生時代後期の来来平島遺跡・国指定史跡の小迫辻原遺跡などがあることや、日田日高の古墳から魏の曹操の墓に副葬されていた鉄鏡に酷似した金銀錯嵌珠竜文鉄鏡が出土していること等からして、弥生時代後期から古墳時代にかけて有力勢力がいたことが窺われる。

二 佐賀県神崎市神崎町竹に柏原神社がある

 筆者は、以上のとおり推察したことから、タケシウチノスクネの生誕地である「阿備の柏原」が佐賀県東部にあるはずだと考えて、長年に渡って同地の辺りを探索してきた。その結果、最近になって遂に佐賀県神崎市神崎町竹に柏原という地名があることを見出した。現地調査したところ、柏原二六八二番地に柏原公民館があり、何と!同公民館に柏原神社が併設されており、その東側の隣接地は柏原神社の跡地であると近隣住民から聞いた。同地は弥生時代後期まで続いた大規模遺跡として有名な吉野ケ里遺跡の西方約二㎞に位置する。前記の推察および後記の推察からして、屋主忍男武雄心が神祇を祭ったのはこの柏原神社であり、かつ同地でタケシウチノスクネを生んだ可能性が高いと考えられる。
 この場合、タケシウチノスクネの「タケシ」は、武々しいという意味であると同時に「竹出身の」という意味でもあることになろう。このようにタケシウチノスクネの「タケシ」の意味を解することが可能になることからしても、同地がタケシウチノスクネの生誕地である可能性が高いことが分かる。
 同柏原神社の祭神はスサノヲであるところ、スサノヲは戦いに強い神として全国各地の神社で祭られていることからして(例=山口県防府市高井一一五四-一の剣神社)、屋主忍男武雄心も佐賀平野の征服成就を祈願して柏原神社でスサノヲを祭った可能性が高い。
 加えて、同竹の東側に隣接する神崎町鶴に馬郡の地名があり、吉野ケ里遺跡が更にその東側に隣接している。同地名は、タケシウチノスクネの異母弟である甘美内宿禰のウマシを想起させる。もし馬郡がウマシウチノスクネの生誕地であれば、「ウマシ」は「馬郡の出身の」という意味であることとなり、タケシウチノスクネの「タケシ」が「竹の出身の」という意味と解されることと平仄が合う。
 因みにその吉野ケ里遺跡は、古墳時代の初期に集落がほぼ消滅して離散してしまう。その理由について諸説があるが、筆者は、景行天皇を古墳時代の初期の人物と推察しているところ、前記の地名比定からして、吉野ケ里遺跡の集落が古墳時代の初期に消滅してしまった理由は、景行天皇が派遣した屋主忍男武雄心に征服されたからだと推察している。
 また、佐賀県東部と境界を接する福岡県小郡市の力武宮の脇一-六三-一にある竈門神社の祭神のうちの一柱は、記紀がタケシウチノスクネの母と記す「山下影姫」である。また、佐賀県西部の武雄市にある武雄神社の祭神は武雄心・武内宿禰ほかである。この武雄心は日本書紀が記す屋主忍男武雄心であろう。

三 ホツマツタヱの記述との一致

 更にまた、タケシウチノスクネが生まれたと推察される竹柏原やウマシウチノスクネが生まれたと推察される鶴馬郡の北方約一㎞に日の隈(地名)や日の隈山があるところ、いわゆる古史古伝の一書であるホツマツタヱは「天日畏原に九年住む紀のウチマロが ヤマトカゲ娶とりて生む子タケウチぞ。」 と記す(第三八文)。筆者は、ホツマツタヱのこの記述を目にしたとき、驚きを禁じ得なかった。と言うのは、筆者が推察したタケシウチノスクネの生誕地と、日本古代史学界の多数説では偽書とされているホツマツタヱが記すタケウチ(即ちタケシウチノスクネ)の生誕地とが極めて近接しているからだ。記紀はタケシウチノスクネが日の隈ないし天日隈原で生まれたとは記さないことからして、ホツマツタヱの記述は紀記に基づくものではなく、別の古文書なり伝承なりに基づくと考えられる。これらからして、筆者はホツマツタヱが全くの偽書というわけではなく、何がしかの史実を反映していると考えざるを得なくなった。このこともまた筆者にとっては驚きだった。
 
 以上の一~三からして筆者は、屋主忍男武雄心が神祇を祭り、かつ山下影姫を娶ってタケシウチノスクネを生んだ場所は、佐賀県神崎市神崎町竹柏原だったと推察している。なお、「阿備の柏原」の「阿備」に比定できる地名は今のところ見当たらないが、音が比較的近い地名としては神崎町竹の西隣の神崎町尾崎に土生(地名)がある。

四 仮置き法と九州王朝倭国

 読者の中には、本稿は諸仮説や諸推察を積み重ねたものに過ぎず、信用できないと思われ方があるかも知れない。確かに本稿は、前記の通り、九州王朝倭国が近畿王朝日本国よりも前に存在したとの仮説に基づく筆者の諸推察を前提としたものである。しかしながら、それらの仮説や諸推察を前提としてタケシウチノスクネの生誕地を探索した結果として、前記の通り極めて可能性が高い比定地が見つかったことからして、逆に本稿の大前提である九州王朝倭国先在説や前記の諸推察も史実である可能性が高いと言えよう。後者の推察はいわゆる循環論であって論理的でないが、しかし古代史の探究に当っては暫定的にやむを得ない論証方法である。
 と言うのは、もともと確証が少ない古代史の研究においては、筆者が行っているように仮説を立てて、同仮説に基づいて探求した結果として、新たな発見があった場合や、既存史料をより合理的・整合的に理解できる場合は、同仮説が従来の諸仮説に比べてより史実に近いと考えて更に先に進み、逆に不都合な点が明らかになった場合は、元に戻って同仮説を見直すという試行錯誤をせざるを得ないことが多いからだ。筆者は、このプロセスの繰り返しによってより史実に近づくことができると考えており、この方法を「仮置き法」と呼んでいる。「仮置き法」は、数学において多元高次方程式の解を三段論法である因数分解によって得ることが困難な場合に、直観で解を仮置きしてみて、その解でその方程式が成立する場合は、その解も正解の少なくともワンセットであるとする方法に似ている。
 実は、日本古代史学界の多数説も、その確証がほとんどないことからして、しょせん仮説や推察に過ぎない点では筆者の仮説や推察と同じと考えられる。問題は、どちらの仮説や推察がより史実に近い可能性が高いかということだ。タケシウチノスクネの生誕地については、本稿に記した諸根拠からして、筆者の推察の方が日本古代史学界の多数説の推察よりも史実により近い可能性が高いと筆者は判断している。そしてまた、それ故に、景行は実は筑紫国の国王であり、九州一円を征服して九州王朝倭国を樹立したとの筆者の推察も史実である可能性が高いと筆者は判断している。

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おわりに

 九州王朝倭国が近畿王朝日本国より前に存在したとすれば、同倭国はどのような過程を経て成立したのか、その王家は何家だったのか、どこに都があったのか、どのような過程を経て近畿王朝日本国に移行したのか、なぜ古事記・日本書紀は九州王朝倭国が先在したことを隠したのか、九州王朝倭国が先在したことを示す考古学上の遺跡遺物が存在するのか等々、数多くの疑問が生じる。いわゆる九州王朝説を最初に提唱した古田武彦は、これらの疑問に答える数多くの著作を残している。筆者は、同氏の主張の多くに賛同するものの、神武天皇が近畿奈良に東征したとする記紀の記述は史実であるとの主張には賛同できない。筆者は、様々な根拠からして、記紀が記す神武天皇に相当する人物は、本家筋である伊都国(魏志倭人伝の伊都国/後の筑紫国)の要請を受けて、古代日向の宮崎から九州北東部の筑豊に北征し(注一)、九州ヤマト国すなわち邪馬台国(魏志倭人伝の邪馬壹国)を建てたのであり、後に九州ヤマト国(邪馬台国)かつ九州倭国の宗教的・政治的な権威者である豊耜入姫すなわち台与(魏志倭人伝の壹与)が、九州倭国の政治的な権力者である垂仁(日本書紀は天皇と記す。)に補佐されつつ近畿奈良纏向に東遷した結果として、九州ヤマト国(邪馬台国)がヤマト国(後の日本国)に発展したと推察している。これらの諸推察の根拠や前記の諸疑問に対する筆者の考えは、拙著「日本国成立史考」(注二)に記したので、ご一読いただければ幸いだ。

(注一)神武天皇が筑豊に北征したと最初に主張したのは福永晋三である。YouTubeで【福永晋三 神武東征】を検索されたい。なお、神武北征の細部については、福永晋三の主張と筆者の主張とで異なる点がいくつかある。

(注二)「日本国成立史考」は非売品であり市販していない。国立国会図書館・山口県立図書館・防府市立図書館に寄贈した。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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