土佐国香長条里七世紀成立の可能性 別役政光(182号)
香川県の九州年号史料「長尾三家由緒」の紹介 別役政光(183号)../kaiho183/kai18302.html
香川県の九州年号史料
「長尾三家由緒」の紹介
高知市 別役政光
香川県の浪打八幡宮(三豊市宅間町宅間)創祀者高村親王(註1)後裔とされる南海道学館院別当長尾家の「長尾三家由緒」に、六種類十個の九州年号記事の記載がある(註2)。西讃地方にこのような史料が眠っていたことは驚きであり、情報提供及び史料送付して下さった香川県在住の大井透氏に深く感謝したい。送られた史料をもとに、現時点において理解の及ぶ範囲で報告させていただく。十分な史料批判ができているわけではない段階であり、今回は九州年号史料の存在をお伝えするに留め、今後の研究課題とするとともに、その扱いには十分注意をしてほしい。
写真の史料は『長尾家群書類従』(平成二十九年、大井透氏作成)の最初の三ページであり、長尾家に伝わる原文史料そのものではないことをお断りしておく。目次「1.高村親王(武村親王)」の項目が九州年号記事を含む「長尾三家由緒・福成寺系図書・盛衰記」の摘録である。編集の段階でカッコ書きの西暦や読み仮名等が書き加えられており、西暦への変換において、やや疑問とされる年号も見受けられる。
「長尾三家由緒」によると、長尾大隅守の先祖は詫間浪打八幡宮創祀者の高村親王(武村親王)である。高村親王は敏達天皇と推古天皇との間に生まれた親王であり、都の騒乱により五八七年に荘内半島に逃れ、のち南海の大乱の鎮圧に功績があったため、母・推古天皇よりその地を与える綸旨を賜ったとされる。南海道橘家の長者であり橘家学館院別当でもあった。丸亀市綾歌町の福成寺が菩提寺であり、長尾大隅守元高九男の高乗の子孫が代々寺を継承している。また、丸岡家の「由緒記文書」によると浪打八幡宮は六〇四年創建の由緒を持つとされる。
さて、次に「長尾三家由緒」における九州年号記事を以下にピックアップする。
①勝照元年乙巳(五八五)八月ニ崩御也。
②鏡常二年癸卯(五八二)、八耳太子、用明天皇ニ、奏聞有テ、六十六ケ國ニ、国ヲ分チ
③貴樂元年壬申(五五一)十月十三日、大唐百齋国之、聖明王從リ、金銅之釈迦並ニ・・・
④賢稱二丁年丁酉(五七七)十一月ニ復、百齋國ノ帝ヨリ、経論並ニ・・・
⑤勝照三年丁未ニ(五八七)用明天皇、崩御
⑥勝照三年丁未七月、子ノ運命、天哀ト思哉覧。
⑦勝照三年丁未七月ニ、太子十六歳ニシテ、守屋ヲ、退治シ
⑧端正四年壬子(五九二)十月ニ、蘇我大臣ニ、殺サレテ、失給ウ
⑨端正五年癸丑(五九三)、御即位有テ、推古天皇ト号ス
⑩吉貴五年戊午(五九八)、武村ニ、綸紙ヲ、差下テ、詫間、庄内、近郷隣所ヲ、領知トス可キ
『日本書紀』と重なるような記事もあるが、正史に出てこない内容もある。特に⑩の「高村親王(武村親王)」に関する記事である。史料編纂者の考察によると、高村親王を「竹田皇子」に比定するのが有力としているようだ(註3)。その真偽や史料の性格など、研究課題は多いが、今回は踏み込んだ考察は控えておきたい。史料内容について先入観なくご検討いただき、ご意見やご批判等、賜れば幸いである。



【註】
(1)長尾家に伝わる文書「長尾三家由緒」には浪打八幡宮創祀者である高村親王(武村将軍ともいう)の子孫であり、名乗りは「髙」「村」の二字の内これを用いるとある。
(2)『荘内半島(香川県三豊市詫間)の中世史 学館院記録所文書 調査報告書Ⅱ』によると「長尾三家由緒」で使用されている私年号は勝照・鏡常・貴樂・賢稱・端正・吉貴・白鳳・朱雀 以上八種類とされている。
(3)『荘内半島(香川県三豊市詫間)の中世史 学館院記録所文書 調査報告書Ⅱ』の関連部分を以下に引用しておく。
守屋が退治されると同時に忽然と姿を消し荘内半島に隠れ住んだ(勝照三年 五八七年)高村親王を実母の推古天皇が哀れに思い、安らかに過ごせるよう領地として与える綸旨(吉貴五年 五九八年)をだされ、代々その子孫が治めたとあります。
此の当時瀬戸内は大陸からの侵攻によって混乱状況にあり、(『豫章記』・今治市『鴨部神社社伝』・明石市『稲爪神社縁起』・『二中暦』)髙村親王はその南海の乱の鎮圧の任に推古天皇の命により就かれていました。(浪打八幡神社由緒)良港を持つ荘内半島は瀬戸内海航路上の重要な拠点であり、現在の大浜より先は島であるため守に易く、また瀬戸内の潮目である塩飽諸島に近いため極めて便利な地理的位置にありました。
「高村」は「たかむら」との音から、「篁」とも書け、「竹+皇」となると「竹田皇子」が考えられます。敏達天皇、推古天皇との間に生まれた皇子は二人おられ「竹田皇子」と「尾張皇子」であり、「尾張皇子」は聖徳太子の妻の父親にあたりその後裔は熱田神宮の神官をつとめていることから該当しないと考えます。当然推古天皇の御子ではない、「難波皇子」は該当しません。なお、「難波皇子」「竹田皇子」は、守屋が誅伐されると忽然と記録から消えています。それから、四十年ほど経て推古天皇は死んだら竹田皇子と合葬するよう遺詔したとの記述が日本書紀にでてきます。「竹田皇子」だとすると、詫間のような片田舎に学館院創設者であられた嵯峨天皇の后、壇林皇后(橘嘉智子)が学館院の書籍を浪打八幡宮神宮寺寶珠院に下賜され、検校教順までも派遣された(寶珠院検校由緒:丸岡家文書)理由もわかるというものです。系図内容に一部仮冒があると思われるのは明治まで神仏習合であるため僧侶が神官より力を持ち、崇仏派に抵抗しようとした一派に連れ去られた先祖がいたということを隠すためだと考えます。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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