難波宮から出土した「九州王朝」 -- 泉武論文の欠失と新視点 古賀達也(会報183号)
訃報 水野孝夫さんご逝去の報告 古田史学の会 代表 古賀達也(会報185号)
飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言
京都市 古賀達也
一 はじめに
古田武彦氏は、七世紀の金石文に見える「天皇」は九州王朝の「天子」の別称であり、近畿天皇家が「天皇」を称したのは文武即位からとする新説を晩年に発表した(注①)。この新説と真っ向から対立するのが飛鳥池遺跡から出土した「天皇」木簡である。飛鳥出土木簡のうち、「天皇」木簡と関係する千数百点を精査した結果、古田新説は同時代史料(木簡)と整合せず、成立困難とする結果に至ったことを報告する。
二、飛鳥池出土「天皇」木簡の概要
奈良国立文化財研究所HPの「木簡庫」では、飛鳥池出土「天皇」木簡を次のように説明している。
【木簡番号】244
【本文】天皇聚□〔露ヵ〕弘寅□\○□
【寸法(㎜)】縦(一一八) 横(一九) 厚さ(三)
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【遺構番号】SD1130
【人名】天皇
【木簡説明】(前略)「天皇、露ヲ聚メ、寅ヲ弘メ…」と訓読できるが、文意は不詳。「露」は雨冠の他字の可能性もある。「天皇」が君主号とすれば、木簡の年代観から天武天皇を指すとみられる。ただし、君主号とは無関係な道教的文言の可能性もある。
「木簡の年代観から天武天皇を指す」とあるが、この木簡に年代を示す文言は見えないので、年代観の根拠がわからない。そこで同木簡の出土場所を示す遺構番号SD1130に注目した。このSD1130は飛鳥池遺跡北地区から検出された南北大溝である。
「木簡庫」の検索機能により、「天皇」木簡と同じSD1130遺構から出土した木簡を調査した。遺構番号の「SD1130」をクリックすると五一二件の木簡がヒット。これは同遺構から出土した木簡の内、五一二件が「木簡庫」に登録されていることを示す。削屑を加えれば、出土数は更に多い。調査報告書(注②)には、SD1130について、次の解説がなされている。
「南北大溝SD1130(PL.111〜117・119〜127・129・130)
本溝は第八四・九三次調査で検出した素掘りの南北大溝。谷状の地形を埋め立て、南北溝SD1110、そのすぐ西側に並行する南北塀SA1120・1121、木樋SX1114などの造成前に設けられていた排水施設で、東西幅約九m、深さ〇・六m。腐植土層や炭層をはさみながら埋没する。木簡は、第八四次調査区から三三〇七点(うち削屑二八七八点)、第九三次調査区から一〇点(うち削屑二点)の計三三一七点(うち削屑二八八〇点)が出土した。飛鳥池遺跡で最高の出土点数を誇る。」
SD1130は「素掘りの南北大溝」「排水施設」とあり、飛鳥池遺跡の排水溝だったことがわかる。
三、「天皇」木簡の年代観
登録され五一二件の中から、SD1130出土物の年代観を示す木簡を紹介する。
【木簡番号】185
【本文】・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□
【暦年】(庚午年)天智九年、六七〇年。
【木簡番号】191
【本文】尾張海評堤□□□□〔田五十戸ヵ〕
【国郡郷里】尾張国海部郡津積郷〈尾張国海評堤田五十戸〉
【木簡番号】192
【本文】・尾張□評嶋田五十戸・□〈〉□〔〓ヵ〕
【国郡郷里】尾張国海部郡嶋田郷〈尾治国海評嶋田五十戸〉
【木簡番号】193
【本文】丁丑年十二月次米三野国/加尓評久々利五十戸人/○物部○古麻里∥
【暦年】(丁丑年)天武六年十二月、六七七年。
【国郡郷里】美濃国可児郡〈三野国加尓評久々利五十戸〉
【木簡番号】194
【本文】・←我評高殿・←秦人虎
【国郡郷里】丹波国何鹿郡高殿郷〈←我評高殿〉
【木簡番号】195
【本文】・←野評佐野五十戸・○五斗
【国郡郷里】丹後国熊野郡佐濃郷〈←野評佐野五十戸〉
【木簡番号】196
【本文】次評/上部五十戸巷宜部/刀由弥軍布廿斤∥
【国郡郷里】隠岐国周吉郡上部郷〈隠岐国次評上部五十戸〉
【木簡番号】197
【本文】弥奈部下五十戸
【木簡番号】198
【本文】三間評○小豆○〈〉
【国郡郷里】阿波国美馬郡〈三間評〉
【木簡番号】203
【本文】加毛五十戸秦人足□〔牟ヵ〕
【木簡番号】204
【本文】多可□□□〔五十戸ヵ〕塩一□〔古ヵ〕
【国郡郷里】常陸国多珂郡多珂郷・山城国綴喜郡多可郷・備後国三上郡多可郷・陸奥国行方郡多珂郷・近江国犬上郡田可郷・陸奥国宮城郡多賀郷
【木簡番号】211
【本文】・丙子鍬代四楓・□代一匹又四楓
【暦年】(丙子年)天武五年、六七六年。
以上のように、SD1130から出土した木簡には、干支(「庚午年」天智九年、六七〇年。「丁丑年」天武六年、六七七年。「丙子年」天武五年、六七六年)、「評」、「五十戸」表記が見え、「郡」(七〇一年から採用)「里」(天武期後半以降に出現)木簡は見えないので、天武の頃とする年代観を示唆する。前出の調査報告書には次の説明がある(「木簡庫」と報告書の木簡番号は異なる)。
〝確実な紀年銘木簡は164「丁丑年」(天武六年、六七七年)のみである。他に干支を記すものに157「庚午年」、185「丙子」、250「寅年」がある。157は木簡自体の年代が「庚午年」(天智九年、六七〇)まで遡る可能性は低く、185は年の干支かどうかは確実でない(年の干支とすれば天武五年)。250は戊寅年(天武七年、六七八年)か。コホリの表記はすべて「評」(162〜167、169、176)、サトの表記はすべて「五十戸」(162〜164、166〜168、171、175、177、178)であり、「郡」「里」を記すものはない。他に時期の推定できる木簡として、天武五年(六七六)・同六年の飢饉による救恤活動を記す可能性のある142、天武十三年(六八四)の八色の姓制定より前の姓を記した可能性のある149などがある。また、天武六年十二月の表記がある164「次米」荷札は、天武七年(六七八)正月儀礼用の餅米荷札の可能性があり(後述)、その場合は天武七年の正月頃に廃棄されたことになる。溝自体が短期間しか存続しなかったことから、木簡群は短期間に廃棄されたと考えられ、木簡の年代は天武五〜七年を含む数年間に収まると判断できる。〟
このように、「天皇」木簡を含む木簡群の年代観を「天武五〜七年を含む数年間」とし、「木簡庫」の説明と同じ結論が示されている。荷札木簡に注目すると、天武の頃には各地(尾張国・美濃国・丹後国・隠岐国・阿波国)から献納物が飛鳥宮に送られていることがわかり、当時の近畿天皇家の統治領域をうかがえる。
四、飛鳥池出土の「詔」「皇子」木簡
次に飛鳥池遺跡南地区「SX1222粗炭層」出土の木簡を紹介する。「木簡庫」には六四件が登録されている。ここからは「皇子」木簡の他、「詔」木簡が出土している。
《飛鳥池遺跡南地区 SX1222粗炭層》
【木簡番号】63
【本文】二月廿九日詔小刀二口○針二口○【「○半\□斤」】
【木簡説明】(前略)天武天皇もしくは持統天皇の詔を受けて小刀・針の製作を命じた文書、あるいはその命令を書き留めた記録であろう。ただし「詔」は「勅旨」と同様、供御物であることを示す語の可能性もある。(後略)
【木簡番号】64
【本文】大伯皇子宮物○大伴□…□品并五十□
【木簡説明】(前略)「大伯皇子」は大伯(大来)皇女。天武天皇の娘で、大津皇子の同母姉。「皇子」表記は、天皇の子女が男女を問わず「ミコ」と呼ばれたことによる。(中略)大伯皇女は天武三年(六七四)
から朱烏元年(六八六)まで伊勢国に斎王として赴いており、本木簡の時期は大伯皇女が帰京した持統朝の可能性がある。
【木簡番号】92
【本文】・舎人皇子□・○百七十
【木簡説明】円形の傘をもつ釘の様。(中略)「舎人皇子」は天武天皇の皇子。藤原宮跡から「舎人親王宮帳内」(『藤原宮木簡 二』六一一号)、平城宮跡から「一品舎人親」(『平城宮木簡 六』一〇六九一号。『同六』八八三二号も舎人親王を指す可能性がある)と記す木簡や削屑が出土している。「百七十」は、舎人皇子宮が発注した釘の本数。
【木簡番号】105
【本文】三分□□□〔五十戸ヵ〕〈〉
【国郡郷里】若狭国大飯郡佐文郷〈若狭国遠敷郡三分五十戸〉
【木簡説明】(前略)「三分五十戸」は『和名抄』若狭国遠敷郡佐分郷に該当する可能性がある。藤原宮跡出土木簡に「己亥年若佐国小丹生/三分里三家首田末呂」と記すものがある(『評制下荷札木簡集成』一二二号)。
【木簡番号】106
【本文】・加毛評柞原里人・「児嶋部□俵」
【国郡郷里】播磨国賀茂郡楢原里〈播磨国加毛評柞原里〉
【木簡説明】(前略)「加毛評柞原里」は『播磨国風土記』賀毛郡条に楢原里、平城宮跡出土の荷札木簡に加毛郡柞原郷がみえる(「平城宮木簡 二』二二六五号)。「児嶋了」は備前国児島郡に関わる部民と推測される。児島は海上交通の要衝であり、六世紀には児島ミヤケが置かれていた(『日本書紀』欽明十七年七月己卯条など)。柞原里は播磨国でも内陸部に位置するが、加古川水系・瀬戸内海によって児島郡と結びついたのであろう。
【木簡番号】107
【本文】・吉備道中国加夜評・葦守里俵六□
【木簡説明】(前略)「吉備道中国加夜評葦守里」は『和名抄』備中国賀夜郡足守郷に該当する。「吉備道中」は『和名抄』国郡部の「吉備乃美知之奈加」という読みと対応する。「吉備」の分割は天武十二年(六八三)から十四年にかけての国境確定事業によってなされた可能性が高く、「里」表記の年代観とも矛盾しない。
【木簡番号】108
【本文】湯評井刀大部首俵
【国郡郷里】伊与国温泉郡井門郷/伊予国温泉郡井門郷〈湯評井刀〉・伊与国浮穴郡井門郷/伊予国浮穴郡井門郷〈湯評井刀〉
【木簡説明】(前略)「湯評井刀」は『和名抄』伊予国温泉郡に該当する郷名はみえず、浮穴郡に井門郷がみえる。しかし、平城宮跡出土の荷札木簡に湯泉郡井門郷がみえる(『平城宮木簡 三』二九一一号)ので、湯評は後の浮穴郡を含んでいた可能性がある。
【木簡番号】109
【本文】・湯評大井五十戸・凡人部己夫
【国郡郷里】伊与国温泉郡/伊予国温泉郡〈湯評大井五十戸〉
【木簡説明】(前略)「湯評大井五十戸」は『和名抄』伊予国温泉郡に該当する郷名はみえない。濃満郡に大井郷がみえるが、温泉郡との間には風早郡が存在するため、飛び地を想定しないかぎり、成立しがたい。これに対して、井門郷の東隣にあたる旧浮穴郡高井・南高井村に遺称地を求める見解がある(日野尚志「考徳天皇の時代に久米評は存在していたか」『松山市考古館開館五周年記念シンポジウム(古代の役所)一九九四年)。
【木簡番号】110
【本文】・湯評笶原五十戸・足支首知与尓俵
【国郡郷里】伊与国温泉郡/伊予国温泉郡〈湯評笶原五十戸〉
【木簡説明】(前略)「湯評笶原五十戸」は西隆寺跡出土の荷札木簡に伊与国温泉郡箆原郷がみえる(西隆寺跡調査委員会・奈良国立文化財研究所編『西隆寺発掘調査報告』一九七六年、三〇号)。「笶」は「箆」の別字で、「笑」ではない。
【木簡番号】111
【本文】・○加佐評春□・【□□□「里人」】
【国郡郷里】丹後国加佐郡〈加佐評春→〉・備中国〈加佐評春→〉
【木簡説明】(前略)「加佐評」の比定地については、議論の多い法隆寺旧蔵弥勒菩薩像銘の「笠評」と同様、丹後国加佐郡もしくは吉備(備中)の笠国造に関わる領域の可能性がある。(後略)
【木簡番号】115
【本文】←五十戸/阿止伯部大尓/鵜人部犬〓∥
【木簡説明】斎串に転用した荷札木簡。文字方向は斎串と天地逆。四周二次的削り。「阿止伯了」は未見の部姓。「鵜人了」は鵜養部のことか。
【木簡番号】118
【本文】・〈〉五十戸人・□〔移ヵ〕部連依□〔国ヵ〕\□□□□□
【木簡説明】(前略)墨色は極めて薄い。表裏ともに材の上半部に墨書する。「移了連」は山部連。「移」は上古音で「ヤ」。
まず、同層出土木簡の年代観だが、行政単位として「評」「五十戸」「里」が見え、「郡」は見えないことから、七世紀第4四半期の天武・持統期と見てよい。「大伯皇子宮」「舎人皇子」のという天武の子やその宮名が見えることからも、この年代観を指示する。従って、当時の飛鳥には天武に比定される「天皇」とその「皇子」らが住んでいたことがわかる。
荷札木簡の地名(若狭国・播磨国・吉備道中国・伊予国)は、当時の近畿天皇家の統治領域の一端を示し、列島内における事実上の第一実力者であったと推定できる。また、「二月廿九日詔」木簡(木簡番号63)は、飛鳥の地で「詔」を発していたことを示しており、王朝交代前でありながら、天武らは「天皇」に相応しい振る舞いをしていたこともわかる。
五、天武の子らが称した「皇子」号
飛鳥池遺跡南地区出土の「舎人皇子」「大伯皇子」に続いて、飛鳥宮・飛鳥京・飛鳥池遺跡出土の「皇子」木簡を紹介する。
《飛鳥京・飛鳥宮・飛鳥池遺跡出土の「皇子」木簡》
【木簡番号】0
【本文】太来
【遺跡名】飛鳥京跡
【遺構番号】土坑状遺構
【人名】太来〈大来皇女・大伯皇女ヵ〉
【木簡番号】0
【本文】□大津皇
【遺跡名】飛鳥京跡
【遺構番号】土坑状遺構
【人名】大津皇〈大津皇子〉
【木簡番号】65
【本文】・穂積□□〔皇子ヵ〕・□□〔穂積ヵ〕〈〉
【遺跡名】飛鳥池遺跡南地区
【遺構番号】SX1222炭層
【人名】穂積(皇子)
【木簡説明】(前略)表裏ともに「穂積(皇子)と記す。習書ではなく、物品管理に使用された名札の可能性がある。「穂積皇子」は天武天皇の皇子。穂積皇子宮の所在地は『万葉集』一一四~一一六番歌などから髙市皇子の「香来山之宮」近辺にあったとされ、橿原市教育委員会による香具山の北にあたる藤原京跡左京一・二条四・五坊の調査では、東四坊大路の東側溝から和銅二年(七〇九)銘の木簡とともに「穂積親王宮」や「積親」と書かれた木簡が出土している(『木簡研究二十六」一五頁、一・二号)。
このように飛鳥の遺跡からは天武の子らの名が記された木簡が出土しており、当地に天武ら近畿天皇家が居していたことを疑えない。当地の複数の宮殿遺構(三期からなる)は彼らの宮殿であり、たとえば「飛鳥浄御原宮」とされている遺構が九州王朝の太宰府政庁Ⅱ期遺構より大きいことも看過し難い。
木簡には天武の子らが「王子」ではなく、「皇子」と記されていることから、父親の天武の称号も「大王」ではなく、「天皇」と考えるのが穏当であり、他の適切な称号を想定できない。従って、飛鳥池から出土した「天皇」木簡の天皇を天武のこととする学界の趨勢は当然であろう。こうした理解は一元史観や多元史観に関わらず、同時代史料としての木簡が指し示す最有力の史料認識ではあるまいか。なお、ここに紹介した木簡の年代観だが、次の木簡が示すように、七世紀後半の天武・持統期と見なすことができる。
【木簡番号】0
【本文】□〔明ヵ〕評
【遺跡名】飛鳥京跡
【遺構番号】土坑状遺構
【国郡郷里】(伊勢国朝明郡〈←明評〉)
【木簡番号】0
【本文】辛巳年
【遺跡名】飛鳥京跡
【遺構番号】土坑状遺構
【和暦】(辛巳年)天武十年
【西暦】六八一年
【木簡番号】12
【本文】・白髪部五十戸・〓十口
【文字説明】表面「髪」は異体字を使用。裏面「〓」は偏が「㠯」旁が「皮」の文字。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【国郡郷里】備中国都宇郡真壁郷〈白髪部五十戸〉・備中国窪屋郡真壁郷〈白髪部五十戸〉
【木簡番号】0
【本文】大乙下□□
【遺跡名】飛鳥京跡
【遺構番号】土坑状遺構
【木簡番号】0
【本文】□小乙下
【遺跡名】飛鳥京跡
【遺構番号】土坑状遺構
【木簡番号】0
【本文】小山上
【遺跡名】飛鳥宮跡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【木簡番号】0
【本文】□小乙下階
【遺跡名】飛鳥宮跡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【木簡番号】0
【本文】大乙下階
【遺跡名】飛鳥宮跡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【木簡番号】1
【本文】大花下
【遺跡名】飛鳥宮跡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
このように、年干支「辛巳年」(天武十年、六八一年)、「評」や「五十戸」のような天武期を示す木簡が出土している。また『日本書紀』によれば、大化五年(六四九年)に制定され、天武十四年(六八五年)の新冠位制定まで続いた「大乙下」「小乙下」「小山上」が記された木簡もこの年代観と矛盾しない。「大花下」は天智三年(六六四年)の冠位改定で「大錦下」に変更されており、飛鳥宮から出土する他の木簡と比べて年代的にやや古く感じられるが、『木簡研究 二二号』(二〇〇〇年)では、「『日本書紀』に基づけば、大花下の冠位は大化五年二月から天智三年二月までの一七年間に限つて施行されたこととなり、この木簡もこの間に書かれたものとみてまず疑いない。」とする。
六、「天皇」木簡の論理と天武の諡号
飛鳥宮跡と周辺遺構から出土した木簡は、天武が「天皇」を称し、「詔」を発し、その子らは「皇子」を名乗り、各地から献納物が飛鳥宮に送られたことを示している(注③)。これら同時代エビデンスが、「天皇を称したのは文武から」とする古田新説の成立を妨げていることは明白である。
最後に、天武紀に見える和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」について触れておきたい。この天武の諡号には、八色の姓(注④)で臣下第一の「真人」姓と「天皇」号が並んでいる。天武没後に遺族が作ったであろう諡号に臣下第一の姓「真人」が付された意味は重い。この「真人」姓は天武天皇に上位者がいたことを示唆し、九州王朝の天子の下の〝ナンバーツーとしての天皇〟という立ち位置を適格に表現しており、興味深い。
〔令和六年(二〇二四)九月九日、筆了〕
(注)
①古田武彦『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」ミネルヴァ書房、二〇一四年。
②『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、二〇二一年。
③九州を除く各地から飛鳥宮へ献納物が送られていることを次の拙稿で紹介した。「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」『東京古田会ニュース』一九九号、二〇二一年。
④八色の姓とは、天武十三年(六八四年)に制定された八つの姓のこと。上位から順に、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置とある。
これは会報の公開です。
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