2024年10月15日

古田史学会報

184号

1,七世紀末の王朝交代説を
 災害記録から検証する
 都司嘉宣

2,飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言
 古賀達也

3,持統が定策禁中を行って、
 九州王朝を滅ぼした
 岡下英男

4,谷本氏論への疑問
 小島芳夫

5, 唐書類の読み方z
谷本茂氏の幾つかの問題提起について
 谷本氏との対話のために
 國枝 浩

6,清水俊史『ブッダという男』
 古賀達也

 

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朝鮮の史料『三国史記』新羅本紀の -- 倭記事の信頼性を日食記事から判定する 都司嘉宣(会報177号)

七世紀末の王朝交代説を災害記録から検証する都司嘉宣(会報184号)


七世紀末の王朝交代説を
災害記録から検証する

龍ケ崎市 都司嘉宣

一 はじめに

 七世紀の終末頃まで、大和国にあった近畿天皇家が日本列島の代表者であったと中国の歴代の王朝からは認定されておらず、日本列島の代表者と認定されていたのは、三世紀魏志に記された倭の女王卑弥呼や、五世紀に中国南朝の宋書倭国伝に記された倭の五王など、すべて九州北部にあった九州王朝であった。中国の王朝側が日本列島の代表者が九州王朝から近畿天皇家に交替したと初めて認定したのは、唐代の則天武后の大足二年(七〇二年、日本の大宝二年)十月の天皇家の権力からの使者の派遣の時である。いっぽう、近畿天皇家の政権が定めた最初の連続する年号は大宝であって、大宝元年は西暦七〇一年である。
 これらのことは、日本列島の代表者は、およそ七世紀の末ごろまでは九州王朝であって、このころ政権交代が起きて、八世紀の初めころからは近畿天皇家の政権になった、ということを示す一例である。この王朝交代説に関する議論は、古田武
彦(「失われた九州王朝」一九七三)によって提唱され、その後古田自身による多数の文献や、継承する多数の研究者によってこの説が補強されてきた。
 本稿では、近畿天皇家の政権自身が残した記録のうち、暴風雨、洪水、地震などの自然災害記録の現れ方からこの王朝交代説の妥当性を判断してみよう。

 

二.近畿天皇家政権で編纂された「正史」

 例えば、日本列島を代表する、中央政権があり、各地方(当時の国)にはその政権が制定した国府が置かれ、その政権から任命された国司が配置されていた、とする。その政権のある首都以外の地方で、著しい地震や洪水などの自然災害が発生し、その地方で、多数の家屋や人命の損亡、あるいは水田の被災など、その地方の支配体制あるいは、中央政権への租税納付維持に重大な影響が生じたとしよう。そのような場合には、その地方の国司から中央政権にその状況の報告がなされたはずである。この場合、中央政権からは、調査者の派遣、公的な貯蔵庫の解放や家屋資材の下付、中央政権への貢納の免除、など被災者の救援がなされたはずである。
 地方で起きたこのような自然災害は、中央政権が作成した公式の歴史記録(「正史」)に記録されたはずである。
 平安時代の初期までに記載された「正史」は六種類知られており六国史と呼ばれる。一番目の正史は『日本書紀』であって、古代から持統天皇の末年(西暦六九七年)までが記述されている。二番目の正史は『続日本紀』であって、文武天皇の即位年(六九七年)から桓武天皇の延暦十年(七九一年)まで、九十五年間の事情が記されている。

 

三.『日本書紀』、および『続日本紀』に記録された自然災害記録

 『日本書紀』に記録された最も古い被害地震記録は、推古天皇七年(五九九年)四月二十七日の大和国の地震で「地動、舎屋悉破(建物がみな破損した)」と記録されている。洪水のもっとも古い記録は、推古天皇九年(六〇一年)五月の大和国の記録で、「天皇居于耳梨宮、是時大雨、河水漂蕩、満于宮庭」というものである。暴風雨のもっとも古い記録は、舒明天皇十年(六三八年)七月十九日の大和国の大風の記録で、「大風之、折木発屋」と記されている。これら以前には自然災害記録はない。
 そこで、西暦五九〇年から、『続日本紀』の記載の末年である七九一年を時間軸として横軸にとり、縦軸に下から、「大和国の洪水暴風雨」、「畿内(摂津国、河内国、和泉国、山城国)の洪水暴風雨」、「それ以外の国(遠方国と表記した)の洪水暴風雨」、および、「大和国の被害地震」、「畿内の被害地震」、「遠方国の被害地震」の6本の細横線を引く。
 ここに例えば、『日本書紀』に天武天皇七年(六七八年)十二月に筑紫国(九州)に大地震があって大地が裂け民家が多く壊れた、とあれば、横軸座標六七八年、被害地震・遠国の線の上に丸「●」を一個プロットする。以下、同様の作業をすれば、図1が得られる。横軸の下方には、『日本書紀』、および『続日本後紀』の記載の覆う年代、天皇の在位年代の二つの軸を目盛った。遠方国の自然災害には、なるべく発生国を注記した。

 

四.図1から判明すること

 図1を見れば、次のような事実を指摘することができる。
(1)もっとも古い遠方国の被害地震は西暦六七八年の筑紫国の地震である。これ以前の年代には存在しない。

(2)もっとも古い遠方国の洪水暴風記録は西暦六八二年の信濃国、吉備国の暴風雨である。これ以前の年代には存在しない。

(3)筑紫国地震の六七八年以後、『続日本紀』の記載の末年七九一年までには、地震、および洪水・風水害とも大和国以外の遠方国の自然災害は極めて頻繁に現れている。

(4) その遠方国は、九州から関東地方までまんべんなく現れており、1例だけ出羽国が記されている。北海道に相当する地名は現れてはいない。

 以上、(1)~(3)の事実は、六七八年以前は遠方国記録ゼロに対してこれ以後きわめて密に分布、という著しい対比を成している。すなわち、西暦六七八年以前の年代には、大和国にあった近畿天皇家の政権には、大和国以外の自然災害の発生の情報は一切入っていなかったと考えられる。逆にこれ以後の年代には(特に西暦七〇〇年以後の年代には)、極めて頻繁に大和国以外の以外での自然災害の情報が近畿天皇家の政権に入るようになった。

 このことは、西暦六七八年以前の年代には、近畿天皇家は日本列島全体の統治者(代表者)ではなかったことを示している。遠方国の国司たちは、その領内で自然災害が起きたとき、通知すべき相手は大和国の近畿天皇家ではなく、九州王朝であると判断していたのであろう。すなわち、この年代には遠方国の国司にとって上位者は近畿天皇家ではなく九州王朝であった、と推定されるのである。逆に西暦七〇〇年以後は、近畿天皇家は北海道を除く日本列島のほぼ全域の統治者となったと推定される。すなわち、九州王朝から近畿天皇家への日本列島代表者の交替は、西暦六七八年から七〇〇年のころに起きた、と自然災害記録から判断できるのである。

 本稿を執筆するにあたって、次の二個の文献を参照した。
武者金吉、一九四一、『増訂 大日本地震史料 第一巻』、文部省震災予防評議会、九四五頁
中央気象台・海洋気象台(岡田武松台長)、一九七六、『日本の気象史料 1』、原書房、四〇四頁


 これは会報の公開です。

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