2024年10月15日

古田史学会報

184号

1,七世紀末の王朝交代説を
 災害記録から検証する
 都司嘉宣

2,飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言
 古賀達也

3,持統が定策禁中を行って、
 九州王朝を滅ぼした
 岡下英男

4,谷本氏論への疑問
 小島芳夫

5, 唐書類の読み方
谷本茂氏の幾つかの問題提起について
 谷本氏との対話のために
 國枝 浩

6,清水俊史『ブッダという男』
 古賀達也

 

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持統が定策禁中を行って、

九州王朝を滅ぼした

京都市 岡下英男

1.はじめに

 九州王朝から近畿天皇家への権力移行は『日本書紀』持統紀の最後の十四文字に表されているとして、これの解釈を考えた。
 『古田史学論集』第二十七集に、持統が定策を行って九州王朝を滅ぼした、と述べた(注1)。これは、『日本書紀』持統紀の最後の、

天皇定策禁中、禅天皇位於皇太子。

の十四文字を、九州王朝を意識して解釈したものである。右の報告では、「定策禁中が事実であり、禅天皇位は九州王朝を隠すための虚飾である。」と書いたが、九州王朝から近畿天皇家への権力移行という重大事の過程がこの十四文字に濃縮して表現されていると考える。
 以下、この十四文字の新しい解釈を述べる。

 

2.キーワードは「定策」である

「天皇定策禁中、禅天皇位於皇太子。」
の十四文字の中で、キーワードは「定策」である。
 「定策」は、岩波本『日本書紀』などでは、「策を定める」と読まれているが、

「定策」という熟語として辞書類を検索すると、これとは異なる意味が優先されている。その例として大漢和辞典を挙げる。

『大漢和辞典』(諸橋轍次)
①古は天子の立つや、其の事を簡冊に書して宗廟に告げた。故に大臣が天子の尊立を謀ることを定策といふ。
②はかりごとを決める。畫策する。

 このように、辞書で、熟語としての「定策」の意味するところの第一位は、「臣下が謀って新しい天子を擁立すること」なのである。
 本稿では、「定策」をキーワードとし、これを「臣下が謀って新しい天子を擁立すること」と読んで十四文字を考察する。

 

3.「定策」を行った持統は天皇位を譲ることはできない

 「定策」を「臣下が謀って新しい天子を擁立する」という意味の熟語として読むとき、それを行った天皇(持統)は、自動的に、日本列島の第一人者ではなく九州王朝の臣下となり、臣下の立場で新しい天子を擁立したことになる。さらに、持統は臣下であって天子(=王朝のトップ)ではないから、皇太子に位を譲る(原文は「禅天皇位」)ことはできないことになる。
 つまり、持統は、「定策」を行い、同時に、「天皇位」を譲ることは出来ない。『日本書紀』の記述には矛盾があるように見える。

 

4.先行研究では、矛盾はどのように処理されてきたか

 岩波本では、「天皇、策を禁中に定めて、皇太子に禅天皇位りたまふ。」と読んでいるが、これは、「定策」を「策を定める」と読むことにより可能なのだと考える。
 「定策」を「臣下が謀って新しい天子を擁立する」と読む先行研究では、前記の矛盾がどのように説明されているかについて、以下に、紹介する。

4―1:『九州古代王朝の謎』(注2)

 岩波本『日本書紀』などに見られる「定策」の読み[策を定める]について異論を唱えたのは、私が見た範囲では、本書が最初である。著者の荒金卓也は、日中の辞書などの用例を示して、定策を熟語として「天子を擁立する」という意味に理解すべきと主張している。この点は本稿の端緒でもある。しかし、持統の行為に対する荒金の次のような評価(「持統「定策」は大和王権の革命宣言だった」の項)には賛同できない。

大和内部の首座争いにとどまらず、日本列島の新支配者となる人物を決めるのが「定策」だったのです。この「定策」によって、はじめて傍系の大和王権の推す天子が劇的に誕生したのです。同時に、日本列島は新日本国となり、大和朝廷の統治する国に生まれ変わったわけなのです。

 ここには、定策によって、即、九州王朝から近畿天皇家への権力移行があったように書かれている。しかし、中国史書などの用例では定策に関与するのは皇后や臣下の重臣であるから、新天子の擁立によって、形式的であっても、現王朝の継続が図られる。日本列島において、定策によって大和王権の推す天子が出現しても、それが、即、新王朝(=近畿天皇家による大和朝廷)の出現を意味するものではないと考える。つまり、定策を行う持統の身分は明確であるが、天皇位を譲る持統の身分が明確にされていないと理解する。

4―2:『日本古代の女帝と譲位』(注3)

 遠藤みどりは、この中で、「付論」として、持統の定策禁中について言及している。
 遠藤は、「定策」に関しては、『大漢和辞典』の解釈を示し、また、『後漢書』の用例などを引用して、その意味を、「「定策禁中」は禁裏において「臣下が天子の廃立を謀ること」と、辞書的には考えることができる。」と正しく理解しながら、「天皇定策禁中、禅天皇位於皇太子」を天皇としての持統の行為であると解釈して、または、解釈するために、日中でその用法が異なると結論付けている。
 その理由として、遠藤は、『後漢書』では天子が亡くなった時に皇后と臣下が定策しているのに対して、『日本書紀』では天皇として生存している持統が定策を行っているとしている。
 遠藤の主張は、一元史観によるもので、持統を天皇とする『日本書紀』の記述をそのまま是とするためには、持統が臣下であるという状態は排除されなければならない、と言うところから来ているのではなかろうか。そこから、定策の辞書的意味を採用せず、日中でその用法が異なる、という結論になったものと推測する。
 
4―3:多元史観と『不改常典』(注4)

 正木裕はこの論文の中で次のように書いている。

 持統の「定策」とは、臣下№1の天皇家持統の主導で、朝廷内の重臣の総意により、「倭国(九州王朝)の天子の系統」に代えて文武を即位させた、つまり「王朝・王統を交代させた」ことを意味するだろう。

 これは先の荒金卓也の考えと同様であると理解する。
 さらに、「定策」とは、本来「有力な臣下が謀って天子を擁立する」という意味だと辞書的に理解されており、『日本書紀』の記述の矛盾は王朝交代とは書けない書紀編者によるものとされている。矛盾の解消には、「不改常典」と結び付けて、「「定策」の実質は「王朝の継承者は天皇家が決める」ということ」とする考えが展開されている。これは、定策を行う臣下としての持統と文武を即位させる天皇としての持統の両立を図るための、持統紀の文面を離れた解釈であると理解する。

 

5.十四文字の矛盾を解消する新しい解釈

 前項で紹介した先行研究では、いずれも、「定策」を行う持統を臣下の立場にあると認識しながら、「禅天皇位」を行う持統は天皇(または、天子)として扱われている。つまり、矛盾がそのまま残っている。
 この矛盾の原因は持統紀の最後の十四文字を一つの文、つまり、同一人物の行為として読むことによると考える。持統紀の最終の記述の「天皇定策禁中、禅天皇位於皇太子。」は前段と後段に分けて読むべきではなかろうか。それは、前段の「天皇定策禁中」は臣下の持統の行為であるが、後段の「禅天皇位於皇太子」は天皇の位を譲る(原文は「禅」)ことで、天子の行為だからである。
 つまり、前段と後段の主語(行為を行った人物)は同一人物ではない。後段の主語は、持統ではなく、持統によって擁立された九州王朝の新しい天子であると考える。ここには、書紀編者によって、九州王朝の存在が消されているのである。このように考えて、十四文字の記述を前段と後段に分け、九州王朝の天子を補って以下のように読む。擁立された新しい天子の呼称は不明であるので、取敢えず「新天子」としておく。

天皇定策禁中。新天子禅天皇位於皇太子。

前段:【九州王朝の天子の座が空位となったので、臣下の】持統が定策を行って、九州王朝の新しい天子を擁立した。

後段:【持統に圧迫されて】新天子は、天皇位を近畿天皇家の皇太子に禅った。

 後段の主語を九州王朝の天子とする読みは「禅」が使われていることからも妥当であると考える。それは、天皇位の移動においては、「禅(=禅譲)」を「譲(=譲位」の対義語と理解するからである。
 「禅譲」という言葉は古田史学の会の報告や論文の中に複数見られるが(注5)、Wikipediaで、「禅譲」と、これと対照的な「譲位」を見るとそれぞれ次のようにある。

・禅譲は、君主(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。
・譲位は、君主が存命中の間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。

 この解釈に従えば、「禅」は、九州王朝の天子から、血縁関係の無い近畿天皇家の皇太子への天皇位の移動に相応しい。つまり、「禅」の主語は九州王朝の天子である。
 これが、近畿天皇家の持統から孫の軽皇太子への天皇位の移動であれば、後継者への移動であるから「譲」と書かれたであろう。しかし、ここに「譲(譲位)」ではなく、「禅(禅譲)」が用いられていることは、天皇位の移動が王朝の間でなされたことを意味していると考える。
 『日本書紀』は、当初、右のような形、つまり、

新天子禅天皇位於皇太子

と書いて王朝交代を宣言したかったのであるが、近畿天皇家の立場からすれば、九州王朝は無かったとしたい、また、天皇位に移動は、せいぜい、天皇家内部の出来事に見せかけたいところである。そのような理由から、十四文字の極めて簡単な記述にしたと考える。
 なお、十四文字の意味を右の様に理解すると、持統による定策と擁立された新天子による禅譲という二つの行為が同時に行われたとは考えにくい。持統紀ではこれらが十一年八月乙丑朔条の一日の事績として書かれているが、実際には、まず、定策により新天子が擁立され、しかる後に、新天子により禅譲がなされたであろう。この記述の形も検討を要するところであるが、今後の課題である。

 

6.定策の目的は現王朝の存続であるが、持統の行為は二重の目的を持つ

 定策を行った持統の行為について補足する。
 定策は、辞書的には、天子が空位となったときに新しい天子を擁立することであるから、結果としてその時の王朝の存続を図ることであると考える。しかし、持統の行為は、天子の座が空位となった九州王朝のために新しい天子を擁立して、九州王朝の存続を図っているように見せかけながら、その天子から近畿天皇家の皇太子に禅譲があったとして、九州王朝から近畿天皇家への権力移行、つまり、九州王朝の廃絶を正当化しようとするものであると、次のように考える。
 持統は、先ず、九州王朝の天子として傀儡の天子を擁立し、次にその天子を圧迫して、自分が指示する近畿天皇家の皇太子(軽皇子)に禅譲させた。当時、九州王朝は、壬申の乱を天智側で戦い、敗北し、領地・領民を奪われるまでに弱体化していたから、それに抵抗できなかったと想像する。ここにおいて、九州王朝は滅亡したのである。
 以上、持統の目的を整理すると以下の如くであると考える。
①九州王朝旧臣への対策
新しい天子を擁立して九州王朝の存続を図るように見せかけ、権力移行の正当化を準備する。

②九州王朝の廃絶   
擁立した天子を圧迫して近畿天皇家の皇太子へ禅譲させ、権力移行を正当化する。

7.まとめ

 『日本書紀』持統紀の最後の「天皇定策禁中、禅天皇位於皇太子。」の「定策」を「新しい天子を擁立する」と読み、さらに、十四文字を前段と後段に分けて、後段では「禅」の主語としての九州王朝の天子が省かれていると考えることによって、持統が九州王朝を廃絶した過程を想定できた。十四文字に書かれている定策は、表向きは九州王朝の存続を図るように見せかけながら、その実は九州王朝を廃絶しようとした持統の謀である。
 この十四文字に矛盾があるように見えるのは、天皇(持統)に重きを置いて解釈されるためで、後段の主語として、持統に擁立された九州王朝の天子を補って読めば矛盾は無くなる。

(1)岡下英男「豊臣家の滅亡から九州王朝の滅亡を考える」『古田史学論集』第二七集(明石書店、二〇二四年)

(2)荒金卓也『九州古代王朝の謎』二〇八頁(海鳥社、二〇〇二年)

(3)遠藤みどり『日本古代の女帝と譲位』第一編付論(塙書房、二〇一五年)

(4)正木裕「多元史観と『不改常典』」『古田史学会報』No.一四四(古田史学の会、二〇一八年)

(5)例えば、服部静尚「王朝交代の真実―称制と禅譲―」『古田史学論集』第二五集(古田史学の会、二〇二二年)


 これは会報の公開です。

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