2024年12月17日

古田史学会報

185号

1,訃報
水野孝夫さんご逝去の報告
 古田史学の会 代表 古賀達也

2,「船王後墓誌」銘文の
   「天皇」は誰か

 西村秀己・古賀達也両氏
  への回答(2)
 日野智貴

3,岡下英男氏の
 「定策禁中」王朝交替論に係る私見
 小島芳夫

4,小島芳夫氏の拙論への疑問に応える
 谷本茂

5,『筑後国風土記』の
「磐井の乱」とその矛盾
 正木裕

6,王朝交代前夜の天武天皇
飛鳥・藤原木簡の証言
 古賀達也

7,古田武彦記念
 古代史セミナー2024参加の記
 倉沢良典

 

古田史学会報一覧

ホームページに戻る

稲員家系図の史料批判と高良玉垂命の年代 日野智貴(会報183号)

稲員家系図の史料批判と高良玉垂命の年代 日野智貴(会報183号)

「船王後墓誌」銘文の「天皇」は誰か西村秀己・古賀達也両氏への回答(2) 日野智貴(会報185号) ../kaiho185/kai18502.html


「船王後墓誌」銘文の「天皇」は誰か

西村秀己・古賀達也両氏への回答(2)

たつの市 日野智貴

 本稿は、私の「倭国の天子は法皇であり、その下の『皇』身位者の一人として天皇が存在していた」という仮説に対する西村秀己及び古賀達也からの批判に対する反論の、第二稿である。第一稿は「倭国天皇の地位について」と題して会報一八一号において発表させていただいた(以下、前稿)。
 前稿において私は「天子の称号が『法皇』である以上『天皇』は別の人物の称号なのではないか、というのが私の仮説の最大の論拠なのである」とした。だが、そのような「心証」だけでは論証不十分であるという見解も当然あり得るので、ここで倭国時代の「天皇」号について記された数少ない「物証」である「船王後墓誌」について論じさせていただきたい。
 結論から言うと「船王後墓誌」の内容は西村の「天皇天子説」とも古賀の「天皇多元説」とも合致しない。特に「阿須迦天皇」の解釈を巡っては、西村説も古賀説もどちらも自説内に矛盾を生ずると考えるので、両者からの再反論を待つ次第である。(文中敬称略)

 

法皇と天子の関係について

 最初に、私が以前の論稿(註1)において「わざわざ仏典に『帰依するな』と明記してある『天』の称号を『仏法に帰依した権力者』が用いることは、考えられない」と不用意にも記した点について、訂正・撤回させていただきたい。倭国の天子が「菩薩天子」を名乗っていたことは『隋書』からも明らかだからである。
 この点について批判を加えてくださった西村に対して(註2)、心より感謝申し上げる。
 倭国の「天子」が同時に「法皇」を名乗っていた、ということが前稿でも述べた通り私の主張の最大の根拠である。つまり「法皇」とは異なる称号である「天皇」を名乗っていた人物は別人ではないか、ということだ。この主張を検証するため、同時代史料である「船王後墓誌」を見ていきたい。

 

「船王後墓誌」の三人の天皇

 「船王後墓誌」には三人の天皇が登場する。「乎娑陀宮治天下 天皇」、「等由羅宮 治天下 天皇」と「阿須迦宮治天下 天皇(阿須迦 天皇)」である。なお、空欄は行変えではなく原文にある空白であり、敬意を表すための「闕字」であると思われる。
 この内、天皇の年代の記述があるのは「阿須迦 天皇之末歳次辛丑」のみである。他の天皇は年代が不明であり、さらに厳密に言えば阿須迦天皇についても「末」年については崩御後の時点とする仮説(通説及び古賀説)がある以上(註3)、三人の天皇の年代は「船王後墓誌」の記述のみからは「不明」であるとしか言いようがない。
 このことは、言い換えると次のことを示す。

「『船王後墓誌』の作者は『乎娑陀宮』や『等由羅宮』、『阿須迦宮』と言った宮号で(年代を明記せずとも)その『天皇』が誰かを特定することが出来る、と認識していた」と。そして、このことは同時に次のことを示す。
「『乎娑陀宮』や『等由羅宮』、『阿須迦宮』と呼ばれる宮を構えた『天皇』は、一人しかいない」

 この簡潔な結論に「天皇天子説」や「天皇多元説」は反すると考えられる。
倭京はどこに行ったのか
 ある仮説が成り立たないことを示す方法の一つが、背理法である。その仮説の前提に対して矛盾する仮説は成り立ちようがない、というものだ。
 西村秀己は古田学派の人間であるから、「歳次辛丑(西暦六四一年)」の天子が利であること、その前代の天子である多利思北孤の時代に「倭京」として太宰府が出来たこと、を「前提」としていると考えられる。
そうであるならば、当時の倭国の天子(利)は「倭京」にいた筈であって「阿須迦宮」にいた訳ではない。仮に「阿須迦宮」こそが「倭京」にあった宮の名前であると仮定しよう。ならば「阿須迦宮」の一語で利であると特定できる以上、「倭京」は「利」のみの京である、ということになる。
 言うまでもなく、この帰結は西村も前提としているはずの「多利思北孤による、倭京建立」という仮説に反する。従って、自説の前提と矛盾している西村説は成り立たない。
 もしも私による西村説理解に誤りがあるのであれば、西村による反論をお願いしたい。

 

捕鳥部萬はどうなったのか

 背理法による検証を古賀説にも適用させていただきたい。古賀はかつて私に対し、捕鳥部萬という河内の豪族が大和政権と「対等」で実力は大和政権を上回る、との見解を示しており、それを古賀の主張の「前提」とさせていただく。
 古賀自身のブログに載せられた、私宛の文章の内容は次の通りである。
「実年代についてですが、わたしは『日本書紀』に記された崇峻即位前紀(用明天皇二年、五八七年)の頃として問題ないと考えています」「大和(飛鳥地方)に割拠していた近畿天皇家との関係ですが、今のところ九州王朝(倭国)下における対等な地方豪族であったと考えています」(註4)
「実勢力としては河内の勢力の方が大きいと思います」(註5)
 「今のところ」と書いてあるが、その後古賀が当該主張を撤回したとは聞かないので、これが古賀の主張の「前提」だ。
 つまり古賀は、用明天皇の時代に大和よりも「大きい」実勢力を持った大和の天皇と「対等な地方豪族」が河内にいた、という主張を「前提」としている。
 ところが、一方で古賀は「船王後墓誌」の「天皇」を敏達天皇から舒明天皇までの大和政権の天皇であるとしており、且つ、この「天皇」は複数の勢力が世襲していた、ともする(註6)。
 ならば捕鳥部萬ら河内の勢力も大和政権と「対等」である以上、しかも「実勢力」は大和政権より上である以上、「天皇」と名乗っていなければ、古賀説は古賀説自身と矛盾する。仮に古賀が「捕鳥部萬も天皇であった」と主張しないのであれば、古賀説は自説内に矛盾がある以上、成り立ちようがない。

 

河内の人間が河内の天皇を無視?

 では、古賀説に「矛盾が無い」としよう。つまり「捕鳥部萬も天皇であった」と(これまで古賀はそのような主張を明記していないが)仮定してみよう。
 そうすると、次の問題が生ずる。
 「船王後墓誌」は河内で出土しており船王後自身も河内出身であるとされる。そして敏達天皇の時代にはまだ大和政権以上の「実勢力」を誇る河内の「天皇」が健在であった。
 にも拘らず、「船王後墓誌」には「河内の天皇」は一切記されず、何の注釈も無く「乎娑陀宮治天下 天皇之世」と「その時代の天皇と言えば、大和なる敏達」であることが「自明」であるかのように記されている。これは大変、不自然では無いであろうか?
 もしも「船王後墓誌」が大和朝廷による統一「後」であれば、「一元史観」の大義名分による表記である、と言えよう。しかし、言うまでもなく古賀の前提とする九州王朝説においては、当時の大和政権はまだ「ナンバー1」の存在ではない。
 さらに言うと、河内の人間が「阿須迦」と聞けば真っ先に連想するのは大和の「遠つ飛鳥」ではなく河内の「近つ飛鳥」であろう。「阿須迦天皇」の一語で「大和飛鳥の舒明天皇」を指す、と言う解釈は不自然である。

 

「阿須迦天皇」は誰なのか

 そもそもの問題は「阿須迦天皇」とは何者なのか、ということだ。
 西村説では利となり、古賀説や通説では舒明天皇となるが、私はそのいずれにも賛同できない。何故ならば「阿須迦天皇」という名称で利や舒明天皇であると「特定」出来るとは思えないからだ。
 太宰府にせよ大和飛鳥の宮殿にせよ、そこを「宮」とした天子や大王は複数いる。どうして利や舒明天皇であると特定できるのか。
 可能性は一つだけである。「阿須迦」に「宮」を構えた「天皇」は一人しかいなかった、だから「阿須迦天皇」の表記で充分「特定」できたのだ、と。
 この簡潔な事実から、複数の天子が使用していた倭京(太宰府)は「阿須迦宮」の候補から外れる。つまり「阿須迦天皇」は天子ではない。
 次に「大和政権の大王を含む、複数の勢力が『天皇』を世襲していた」という仮説も、成立し難い。大和政権の大王で「飛鳥」に宮を構えた天皇は複数いるためだ。その中で「天皇」であったのが一人だけであったとすれば、それは即ち「天皇号の世襲」が当時行われていなかった何よりの証拠である。

阿須迦天皇は推古天皇である

 ところで「法隆寺薬師如来坐像光背銘」や「天寿国繍帳」では推古天皇が「天皇」と呼ばれている。もっとも「法隆寺薬師如来坐像光背銘」には偽作説があり「天寿国繍帳」も「天皇」の部分は現存していないが、一方で他の(この2つよりも信憑性のある)史料で舒明天皇が「天皇」と呼ばれている訳ではない。
 そうであるならば「阿須迦天皇」とは、つまり「大和飛鳥」に宮を構えた唯一の「天皇」とは、即ち「推古天皇」である可能性を第一に考えるべきではなかったか。
 十二年後差説に基づけば、推古天皇の崩年は西暦六四〇年である。通説及び古賀説では「阿須迦天皇之末」を「舒明天皇の没後」と解釈しているが、それが「推古天皇の没後」に変わるだけだ。
 その次の舒明天皇は当時「天皇」ではなかった、ということである。

 なお、通説及び古賀説では「等由羅宮 治天下 天皇」を推古天皇とする。しかし、推古天皇は「豊浦宮」だけでなく「小墾田宮」にも宮を構えており、これらの宮をまとめた天皇の呼び方としてはまさに「阿須迦天皇」が相応しい。
 ならば「等由羅宮 治天下 天皇」は誰か、であるが、それは不明である。だが、かつて仲哀天皇の「穴門豊浦宮」があった「長門豊浦」に(大和政権の大王ではない)「天皇」がいた可能性がある。下関市豊浦町の高野遺跡はその時代の遺跡であった可能性もある。その時に大和政権の大王は「天皇」ではなかった、ということだ。

 

まとめ

 「天皇天子説」に立つとどうして倭京建立後も宮号で天皇を特定できているのかが説明できない。「天皇多元説」に立つとどのように同時代の複数の天皇を区別していたのか(宮号による区別であれば例えば「阿須迦天皇」はどう区別していたのか)が説明できない。
 前稿において論じた通り、倭国における「天皇」は「皇」身位者の一つであると解釈した方が矛盾なく理解できると考える。
 なお十二年後差説の立場から「阿須迦天皇」は推古天皇であり、且つ、他に「阿須迦宮」に宮を構えた大和政権の大王は「天皇」ではなかった、とする仮説を提唱する。諸賢の批判を仰ぎたい。

 

1拙稿(二〇二一)「九州王朝の「法皇」と「天皇」」会報一六三号

2西村秀己(二〇二一)「「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か?」会報一六三号

3通説及び古賀説では「阿須迦天皇」は舒明天皇であるが、舒明天皇は「歳次辛丑十二月三日」には既に崩御している。

4古賀達也(二〇一九)「日野智貴さんとの「河内戦争」問答(6)」洛中洛外日記

5古賀達也(二〇一九)「日野智貴さんとの「河内戦争」問答(8)」洛中洛外日記

6古賀達也(二〇二三)「多元的「天皇」併存の新試案」洛中洛外日記


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

デジタルアーカイブ 新古代学の扉 事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"