谷本氏論への疑問 小島芳夫(会報184号)
小島芳夫氏の拙論への疑問に応える 谷本茂(会報185号)../kaiho185/kai18502.html
小島芳夫氏の拙論への疑問に応える
神戸市 谷本茂
古田史学論集第二十七集の拙稿「倭国から日本国への「国号変更」解説記事の再検討」に関して、会報一八四に、小島芳夫氏の「谷本氏論への疑問」が掲載されました。新唐書・日本伝の「或云日本乃小國爲倭所并故冒其號」を、私が「或は云う、日本は、もとは小国で、倭が並存していたので、倭の号を冒した[偽ってなのっていた]のである」と解釈したことは、以下の幾つかの疑問を生じさせると小島氏は指摘されています。批評対象の私の文章が拙劣な所為もあり、幾つかの箇所で誤解を招いている部分もあるようです。氏の御指摘の番号に沿って、私の文献解読の基本的な主旨を再度述べたいと思います。(以下〇数字は小島氏の稿の番号に対応するものです。)
①〝日本国の王を唐国は何をもって「阿毎」氏と確認し断定することができたのか〟という疑問が生じるとのことですが、この疑問自体が私には意味不明です。日本書紀流の一元化した統治思想(日本列島は古くから一貫して近畿天皇家が統治してきた領域であり、中国史書のいう「倭」はヤマト[日本]である)を含む日本国使の情報に基づいて、旧唐書の「倭」の情報と新来の「日本」の情報を統合して編纂されたのが新唐書・日本伝です。
ですから、新唐書は、旧唐書にある「日本国は倭国の別種である」といった類の説明を省き、旧唐書では倭国の説明である「古の倭奴国」を、日本国の説明として採用しているのです。従前通りの解釈・理解であるならば〝当然日本国の王は「其王姓阿毎氏」に合致します〟という小島氏の判断も理解に苦しみます。日本国使が唐側にどのように説明したかに関係なく、近畿天皇家[ヤマト王権]に王としての一貫した姓がないことは、日本史の共通認識でしょう。周知のように「阿毎」姓は、倭(俀)国王の特徴なのであり、(新唐書より前の文献においては)日本国王の特徴ではありません。その過去の既知情報があることを知りながら、新唐書の編者は、日本国側の主張すること(日本列島の統治者は昔から日本[ヤマト]であり、過去の中国史書に記載する「倭(俀)」は実は日本と同じものである)を受け入れた形で、旧聞の「倭(俀)」情報と新来の日本情報を一元化して記載しているのです。新来の日本情報に戸惑い、懐疑的になりながらも記録していた唐初期の源資料を見つつ、既に旧聞の「倭(俀)」が滅亡して久しく経過している時点=十一世紀中葉において、新旧情報を纏めて再構成して日本伝を記述したわけです。
また、従来の解釈のように、倭が小国の日本を併合したにも拘わらず大国であるはずの倭が(被併合国の)小国・日本の名称に改号したとする理解は、やはり通常の事態としては考えにくいことではないでしょうか。日本[ヤマト]が小国の時期に唐側と交流しようとした場合、並存する倭が唐の公式の交流相手として(日本列島を代表するような立場で)認められている状況下で、「倭」と冒号していたという一説を日本国使が後代に唐側に説明したという事態の方が歴史のリアリティとして余程あり得そうに私には思えるのです。〝倭国本家が九州に現在していれば倭を名乗ることはできない〟からこそ、「倭」を冒号していた[偽って名乗っていた]という解釈が意味をもってくるのです。その状況証拠として、古事記の「倭」から日本書紀の「日本」への表記の書き換え問題を示したつもりなのですが、小島氏は拙稿の末尾の調査データについて言及されていませんので、この点に関しても批評戴ければ幸いです。
②小島氏は、〝日本国使が唐国に対して、日本国は「倭国の号を偽って名乗っていた」と言えるのかの疑問もあります。このようなことを言えば唐国は激怒することでしょう。〟と疑問を呈され、決してこのようなことは言えないはずと考える旨を記しています。この点は拙稿の説明の仕方が言葉足らずであったと反省しています。拙稿で[論集一三九頁]「文全体の時制(テンス)は過去形と見なすことになる」と述べた背景を充分に説明しなかったために分かりにくくなっていたと気付きました。唐との(公式な相手として認めてもらっていない)初期の交流時に、冒号していますよ、と日本[ヤマト]側が言うはずはないですし、もしそんなことを言ったら交流は上手くいかなくなる恐れがあるのは当然です。小島氏の御指摘の点は妥当です。ですから、ヤマト王権が「倭」という文字(その文字をどう発音したのかは不明)を使って、本物の倭国とは別に独自に唐との交流を進めていったという初期の経緯を、正式に唐の公式な交流相手と認められた後で、唐側に説明(弁解)した一説と想定しましたので、「過去形」という表現をしたのです。日本[ヤマト]側にとっては、今まで中国側が「倭」として認識してきた国は、本当は我々「日本」と同じものだったのですよ、という日本列島内の統治者の一元化思想に準拠する説明の一環だったように思います。その説明に対して、唐側は懐疑的になっているのです。
③{AはBの「別種」なり}という表現は、旧唐書・東夷伝にとどまらず、夷蛮伝中にも幾つか出現します。東夷伝では、「高麗者 出自扶餘之別種也」「百濟國 本亦 扶餘之別種」とあります。高句麗や百済がもとの扶余族から分かれたという伝承が残っていることは、よく知られています。西域の伝には、「突騎施烏質勒者 西突厥之別種也」「蘇禄者 突騎施別種也」とあります。もともとの突厥族が西突厥と北突厥に分かれ、西突厥から突騎施が分かれ、突騎施から蘇禄が分かれた状況の一端が述べられているわけですが、いずれも国が異なると唐側から認識されたために、同族ながら「別種」という表現が使われているのです。また、北域の伝にも、「鐵勒 本匈奴別種」「渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也」「{雨+習} 匈奴之別種」とあり、匈奴や高麗からの出自の国のことが説明されています。どの用例も(AとBは)実体の異なる別国を指していますから、今問題にしている箇所でも、倭国と日本国は実体の異なる別国だったと考えて大過ないと思います。
なお、小島氏は、谷本は〝先人の説を紹介するだけで〟〝自身の考えは何も述べていません〟と記されています。拙稿の文章が言葉足らずだったのかも知れませんが、私自身の見解は、「倭国と日本国の二国並立状態を認めたうえでの議論が重要になると思う。七世紀後半期の日本列島における「二王朝並存」仮説を異端視する古代史学界の風潮が早く改善されることを願うものである」という記述[論集一三六頁]よりおのずから明らかではないでしょうか。ちなみに、私の見解の全体像は、古田史学論集第二十六集の拙稿「古代日中交流史研究と「多元史観」」に示したつもりですので、併せて参照戴ければ幸いです。
④拙稿が、旧唐書・日本国伝の記述のうちで、「或云」の部分を省略して、言った内容の部分だけを説明したため、小島氏は、(谷本は)伝聞情報を旧唐書の編者の「地の文」として理解していることになり、〝これでよいのか〟と疑問を呈しておられます。誤解を生じる書き方をしたことは反省しますが、拙稿は全体として、原文と現代語訳を示しており、「使者」が主語である旨を注意したつもりです。私自身も「地の文」だとは思っておりません。日本国使のもたらした情報であり、唐側(旧唐書と新唐書のどちらも)の疑った対象の一つであるという認識では小島氏と同じです。日本国使の云った一説として、旧唐書は、日本が倭の地を併合(併呑)したと素直に解せる書き方になっているのに対して、新唐書の場合は、文脈的にも文法的にも、従来説のような読解の内容を書いているとは到底考えられない(新唐書に記載された一説は、倭が日本を併合して日本の名称を名乗ったとは解釈できない)という趣旨で拙稿を書きました。
なお、小島氏は、旧唐書にある「倭国」と「倭国之地」との違いを問題にされていますが、私には、その記載から、何故、(使者が)〝回りくどい言い方をしたということは、唐に対して「倭国を併せた」と言うことができない現状があったということ〟になるのか、理解できません。小島氏の見解の具体的内容が示されていないので、どのような状況を念頭に置かれての(倭と日本のいかなる関係を想定されての)記述なのか、よく分からないのです。私は、この文脈においては、「倭国を併せた」と「倭国の地を併せた」との間で内容的に大きな違いはないと思っているのですが、私の認識が間違っているのでしょうか。旧唐書・東夷伝には、{高麗は平壌城を首都とする国で、つまり漢代の楽浪郡の「故地」である}、{百済国は かつての馬韓の「故地」である}、{新羅国は漢代の楽浪郡の「地」にあり}、{顕慶三年[六六〇年]、唐と新羅が協力して戦い、百済王を捕虜にした事件以後、新羅は次第に高麗、百済の「地」[両国の旧地の意]を領有した。新羅の境界はますます広がり、西方では海岸まで達した}、などの「地」の用例があります。いずれも、その国の統治領域と対応しています。「××国」と「××国の地」(地理的な統治領域)の概念は密接に関連していますので、実用上は大きな区別をしていない場合が多いことは、古代も現代も言葉の使い方は変わらないのではないでしょうか。ですから、私は、当該文章の文脈においては、「倭国を併せた」と「倭国の地を併せた」との間に内容の大きな差があるとは認識出来ませんでした。むしろ、「倭国の地を併せた」という表現は、倭の統治していた領域を地理的に併合したことを明晰に示しており、適切な表現であろうと思います。小島氏が「倭国を併せた」と「倭国の地を併せた」との表現の間に、意味上の(あるいは背景となる状況の)大きな差異がある、とされるのでしたら、詳しい説明を御教示願えればと思います。
⑤〝新唐書・日本伝の構成は、旧唐書の構成と同じ〟という小島氏の見解は、明らかに史料事実に反しています。二十四史百衲本において、旧唐書・東夷伝の冒頭部にある項目表示には、高麗、百濟、新羅、倭國、日本、とあり、倭國と日本が別項目立てになっています。そして、各国の記述のまとまりは段落で区切られており、本文の組版は、新羅国から倭国へ変わる部分、倭国から日本国へ変わる部分、いずれも改行されて別項目であることが明示されているのです。一方で、新唐書の東夷伝の項目立ては、高麗、百濟、新羅、日本、流鬼、であり、倭と日本とが並記されてはいません。本文でも日本伝の中で倭国の部分と日本国の部分を改行するなどの区別は全くありません。旧唐書と新唐書がともに倭と日本を〝一つの国として記した〟という小島氏の認識は間違っています。何故新唐書が日本に一元化して記したのかという点については、私の見解は前述(③)の通りですし、私は触れていないどころか、拙論の中でも言及しているのですが、この点に関する私見を大書していなかったという批評であれば甘受します。会誌の読者にとっては、基本的な古田武彦氏の説(九州王朝論、多元史観)は既知のものと考えて、安易に文章を簡潔にし過ぎた油断・瑕疵が私にあったことは認めます。
ちなみに、小島氏が記された〝現代の事情で倭国と日本国を別の国と理解してよいのでしょうか。「倭国の別種」はあくまで倭国です〟という文章の意味が、私には全く理解できません。「現代の事情」とは、二十一世紀の現代における事情、という意味なのでしょうか、あるいは旧唐書が編纂された(あるいはその源資料が記録された)時期という意味での「現代」なのでしょうか? 私見はそのような「事情」とは無関係に史書の原文を漢文の文法と文脈により解釈しただけですので、小島氏の疑問の趣旨が理解できないでいます。また、「倭国の別種」という表現に関しては、前述(③)のように、旧唐書の「別種」の用例では、全て別国を指していますので、小島氏の主張される〝「倭国の別種」はあくまで倭国です〟の史料的根拠が何なのか御教示賜れば幸いです。
⑥小島氏は、拙稿で日本が冒号したとする「倭」とは〝俀国九州王朝なのか、筑紫の唐都督の倭国なのかで理解内容が異なって〟くる、と指摘されています。どちらの倭国を指しているのか、その理由も明確にする必要がある、と迫られても、私には答えようがありません。日本[ヤマト]の中枢部は今の奈良県・大阪府を中心とする近畿圏だと思っています。日本が初期に唐と交流しようとした時期に「倭」を冒号したという理解であり、あくまでも唐に対する(倭国の実体とは直接関係しない)国号の使用の問題だったと思っています。ここで小島氏が問題にしているのは白村江の敗戦以後の(たぶん六七〇年代以降の)状況かと思います。その当時、倭(俀)国九州王朝の中枢部がどのような状態になっていたのか、私は明確には認識出来ていないのですが、「倭国」(九州王朝)が実体として二つ存在したという理解は、少なくとも、していません。筑紫都督府は太宰府に置かれていたと思われますが、そこは伝統的に(首都かどうかは別にして)九州王朝の中枢部であったことは間違いないと思っています。したがって、私には〝どちらの倭国を指しているのか〟というような疑問や発想はありませんので、申し訳ないのですが、小島氏の疑問に答えることはできないと思っています。
最後の部分で、小島氏は〝大陸中国の史書を現在の日本国事情を加味して理解するのは不自然な理解となることが避けられないのではないでしょうか〟と記されていますが、これも私には理解困難な言説です。〝現在の日本国事情を加味して〟古代中国の史書を理解することなど、拙稿では全く行なっていないつもりです。どの部分、どの命題がそのような批評の対象となるのでしょうか、具体的に示して戴ければ有難いです。私としては全く予想していなかった論点であり、かつ私自身がそのような(現在の日本国事情を加味して理解するような)方法で古代文献を解読しないように努力してきたつもりでしたので、驚いている次第です。
小島氏が指摘されている〝唐国の史書に記される倭国、日本国に関する記事は概ね客観的なものでしょうから、素直に理解することが基本〟であるという点に私も賛成です。新唐書を素直に読み理解しようとする際に従来の原漢文の読み方・理解の仕方に大きな疑問を感じたこと、新旧両唐書の間に矛盾と見える記述が散見されるにも拘わらずそれらの相違を解消しないままに議論を展開している古代史界の現状を不思議に思ったこと、古田武彦氏の九州王朝論をはじめとする「多元史観」の見方を完全に無視して「暴走」とも言い得る古代日中交流史を展開している学界の現況に驚いたこと、などが拙稿の著述動機でした。今般、小島氏の拙稿への諸疑問を拝見するに及んで、自己の文章表現や説明方法に至らない点が少なくないことを自覚致しました。このような機会を与えて戴いた小島氏に深謝いたします。
(二〇二四年一一月九日稿了)
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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