2007年 8月15日

古田史学会報

81号

寛政原本と古田史学
 古田武彦

安倍次郎貞任遺文と
福沢諭吉『学問のすすめ』
 太田齋二郎

エクアドルの地名
 大下隆司

伊倉(いくら)
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

薩夜麻の「冤罪」I
 正木裕

6古田史学の会
第十三回会員総会の報告
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伊倉1          ーー天子宮は誰を祀るか


古田史学会報81号 2007年 8月15日

伊倉(いくら)

天子宮は誰を祀るか

 

武雄市 古川清久

 肥前、肥後、薩摩の領域に天子宮、天子社と呼ばれるものが散見されます。これを取上げられたのは荒金卓也氏でしたが、氏は二〇〇二年に出された『九州古代王朝の謎』で一章をもうけ熊本の天子宮についてかなり詳しい研究を展開されておられます。 
 当然ながら後追いの作業になるのですが、現在、小郡市在住の会員である荒川恒昭氏のご協力を頂きささやかな調査を続けています。本稿はいわばその途中経過とも言うべきものになりますが、長期に及びますのでここで、一旦、区切りをつけて簡単な報告をさせて頂きます。もちろん、この延長上になんらかの成果が得られることを期待しているのですが、結論めいたものに到達するには資料が少なく苦戦しています。

 

 伊倉(いくら)“クラとは祭りの場”

 私は、熊本地名研究会のメンバーでもありますが、以前、鞍岳(くらだけ)という地名に関する小論において、“クラとは祭りの場を意味する“と書きましたが、熊本県内で初めに頭に浮かぶ地名は、JR鹿児島本線、肥後伊倉駅に近い玉名市の伊倉です。隣接して大倉という地名もありますが、こちらの方が祈り、祭りの中心地であるかどうかについては今のところは何とも言えません。一般的には伊倉は飯倉であり、古代の屯倉、郡倉と考えても一向におかしくはないのですが、目と鼻の先にあるかむろ山が気になるところです。
 さて、この伊倉については非常に気になる興味深い論文があります。平成十三年に開催された熊本地名研究会“第十三回熊本地名シンポジウム「神々と地名」”で報告された“『国郡一統志』に見る中世の神々”(玉名市教育委員会審議員、西田道世氏)です。
 これについては長くなりますので後回しにしますが、報告には伊倉安楽寺領などを中心に天子社、天子神社という耳慣れない神社の集積が認められます。安楽寺とは神仏混交時代の太宰府天満宮の別称であるため、それだけでも興味を押えることができません。
 一応、ここでは地名成立の話をしているつもりですので、後代の宇佐八幡宮の影響、平安後期から鎌倉期にかけて旧国衙領に持ち込まれた熊野信仰、伝統的な霧島、阿蘇系の信仰、菊池氏によって持ち込まれた新たな八幡信仰といったものは考えません。
 しかし、この伊倉において、道を挟んで互いに向かい合う北八幡宮(南向き)と南八幡宮(西向き)は異様であり、ただならぬものを感じさせます。
 また、八幡信仰以前の海神信仰を感じさせる玉名市街地の疋野(ひきの)神社(祭神玉依姫)、『肥後国風土記逸文』にある景行天皇と長(渚)洲の腹赤魚(ニベ)の伝承、また、『肥後国史』にも腹赤魚が御贄(おにえ)として毎朝献じられたという話が掲載されています。これが伊倉の津に運ばれ、さらに、太宰府に送られていたといった伝承があるなど、この伊倉は濃厚な祈りの場所との思いが深まります。
 この腹赤魚(ニベ)の伝承については、当然ながら民俗学者谷川健一氏による「続日本の地名」(岩波新書)第二章[ニベ](鰾谷と腹赤)“ニベとハラアカ”がありますが、「漁師が朝ごとに贄(にえ)の魚を献じたという話が載っている・・・」とあるように、御贄は後代の塩物の献上といったものではなく、生魚の献上である事からその対象が誰であるか(もちろんそのまま長洲に滞在中の景行天皇などとは考えていませんが)が気になります。

にべ【?】
ニベ科の海産の硬骨魚。全長約九〇センチメートルで背びれに切れ込みがあり、シログチに似る。・・・(広辞苑)有明海のような干潟の海を好み南日本から中国の近海で普通に捕獲される食用魚。

 一方、それ以前の縄文以来の信仰も感じさせます。当然ながら、その対象は伊倉の北に位置する“かむろ山”と考えたくなります。そもそも、“かむろ”とは“神室かむろ”でもあり、神のおわす所と考えるのですが、はたして的を得ているかどうかはわかりません。
 神漏岐神漏美(かむろぎかむろみ)は中臣神道に遡る大祓の詞:祝詞(「延喜式」第八巻)ですが、この神室はそれをさらに遡る物かもしれません。ただ、気楽に山の神がおわす所が“かむろ山”で、祀りの場が伊倉もしくは隣接する大倉で、山から降りてきた神が留まるところが稲佐だなどと考えられれば良いのですが、どうも、伊倉の天子領域にはそれ以上のものを感じてなりません。
 さらに、玉名の古名が玉杵名(たまきな)、多万伊奈(たまいな 『倭名抄』)であることを考えると、玉は言霊(ことだま)の玉であり、玉杵名とはスピリットがやって来る場所とも言えそうです。
 玉名とは玉杵名が多万伊奈に音便変化し玉名になったとも言えそうです。いずれにせよ玉名の伊倉を祀り祭りの場所とする事までは許されるでしょう。
 と、ここまで書いて本当に良いのかを考えていると、やはり不安になってきました。そのきっかけは枕崎でした。印象的な立神岩に連なる半島の東側や先端一帯が火之神町(ホノカミマチ)、火之神岬町(ホノカミミサキマチ)と呼ばれていることから、かつてこの半島が火之神岬(ホノカミミサキ)と呼ばれていたと想像されます。この火之神が何かは別として(もちろん今後の課題としますが)、もしも、ここが古代において神を祭る場所であったのならば、クラとは祭りの場を意味しますので、“ま”が真心の“ま”であるとすると、枕崎とはまさしく火之神を祭る聖域と言う意味を持っている事になるのです。
 これが正しいとすると、枕崎という地名は“枕”と関係があるなどという安っぽい話をした事になるのであり、やはり地名は難しいと思うばかりです。鞍岳、倉岳についても、そのように考えられるかどうかも今後の課題とさせて頂きます。

 

 クラとは祭りの場

 私は古田史学の会に所属しており、古田武彦氏の説を支持するものです。もちろん、鵜呑みにすることは探求者として失格であり、教授もそのようにお考えかと思います。この話は古田史学の会の公式ホーム・ページ“新・古代学の扉”に掲載されている講演(音声版でありインターネットで聴く事ができます)「箕面道端サミット3歴史の中の祝詞(のりと)」に登場します。先生はこの中で、松本市から見える名峰乗鞍岳の名は一般には乗馬と関係があるように思われるかも知れないけれども、乗鞍のノリは祝詞のノリであり、クラはその祭り(イノリ)の場であるとされています(ネットで簡単に聴けますので、詳しくはそちらをお聴き下さい)。古代において、穂高岳に対して乗鞍岳から祝が行われていたのでしょう。
 民俗学の世界でも、桜、早乙女、サナボリといった言葉は全て稲作と関係があるとされています。山の神(サの神)が山から降りてくる頃に、里で米作りを始める頃になると、山から山の神(サの神)が降りてくると言われています。その時、山の神が座る場所が桜の木の又であると考えられており、だからこそサクラの木と呼ばれているとするものです。
 してみると、長崎市の稲佐山(古事記にも稲佐山が登場し、奈良県榛原町の稲佐山とされていますが)はそのようにも思えますが、長崎が古来稲作の盛んな土地であったとは思えませんので、これについてももう少し調べる必要があるように考えています。

 

 伊倉II

 “熊本県玉名市と佐賀県江北町の対応する同一地名群”
 玉名市の伊倉について、太古、ここが祀りの場であったのではないかという事を書きました。以降はその続編という事になります。

 伊倉と江北の対応する地名群
 以前から気になっていましたが、まず、玉名市の伊倉周辺と佐賀県の江北町には相互に対応する地名が認められます(列記しますので確認してください)。
 玉名市、菊水町、玉東町(いずれも玉名市に隣接)
 上小田、下小田、山口、白石、白木(菊水町)、稲佐(玉東町)、梅木谷(鹿央町)
 江北町、白石町(江北町に隣接)
 上小田、下小田、山口、白石、白木、稲佐神社(白石町)、梅木谷溜池(白石町)
 稲佐、白木とくれば、まずは百済、新羅といった渡来系氏族の定着地と見たいのですが、江北町側で掲載した山口は小田の直ぐそばですし、白木は小田の裏山のような場所です。
稲佐は少し離れてはいますが、直線で五キロ、古墳時代には小田周辺まで有明海が奥深く入っていたと考えられますので、対岸の杵島山の東麓の稲佐(稲佐神社は旧有明町一の宮です)までは船で楽に移動できたと思われます。
 まず、似た地名、同じ地名の存在についてはほとんどの人が経験的に知っている事でしょう。しかし、これほどまでにまとまって存在している例は見たこともありません。あの安本○○による“筑紫と大和の対応地名”のようで多少の気恥ずかしさが伴いますが、これが何を意味しているのかは、今のところ見当がつきません。

 

 伊倉III“安楽寺領の天子社の排他性”

 平成十三年に開催された熊本地名研究会の“第十三回熊本地名シンポジウム「神々と地名」”で報告された玉名市教育委員会審議員西田道世氏による“『国郡一統志』に見る中世の神々”という論文に登場する天子社の話です。長くなりますが引用させて頂きます。

 「第八図に掲載しました図には、非常に多くの点を打っておりますが、これは天神様の分布図です。これも木、森、石などを祀った自然神です。その中で、太宰府天満宮、安楽寺領の荘園は図のとおりですが、玉名荘、天道西荘、合志郡富尾片俣、飽田郡山崎天満宮周辺など非常に少なく小さい。小さい荘域ですので、何とも言えないところはありますが、その中では、天神の鎮座は、各一所となっています。一見この一所以外の天神を拒否しているかの感があります。
 関連して、天子・天子神の分布を見てみましょう。第九図です。そのうち、小天村の天子神は五條の天神を祀るという伝承が『肥後国誌』してありますので、自然神の一種でしょうし、天神の要素を持っている神様だと思います。この神様は現在も天水町の天子宮として大きく祀られていますが、天子の中では唯一天子神と書かれている天子の中では最も大きな神社と思われるものです。天子はこの神社を南限にして北の方に分布が延びています。宇佐領伊倉別府と小天村は隣同士ですが、天子は見事に伊倉別府の荘域から外れたところに分布しています。(第一〇図)伊倉別府には天神が非常に多いにも関らず隣村の天神類似の天子神を全然受け入れず、天子は更に北にある安楽寺領玉名荘方面に拡がっているのです。序でながら、権現も伊倉別府の中には全然入っていません。加えて、安楽寺領玉名荘では天神は本家の天神以外の天神が全く存在しないのに、天子はこのように沢山鎮座を引き受けています。
 これらから、「八幡宮領は天神を受容するが天子は容認しない。天満宮領は天子は容認するが天神は鎮座させず排除する。」という現象があったようです。これが江戸時代になりますと、名前も天子は天満天神、天子天神、と名乗りが変わってきますし、伊倉別府の領域だったところにも鎮座するようになります。それも江戸時代の後半には天満宮と名乗られることが多くなりますので、このような垣根は払われたともいえるでしょうが、少なくとも江戸初期、現象的にはそのような状況だったのです。」(図は省略。編集部)

 長い引用でしたが、お分かりになったと思います。少なくとも、過去、この伊倉には異常なほどの天子社という耳慣れない信仰の対照の集積が認められていたのです。

 

 伊倉IV

 “熊本県玉名市と佐賀県江北町の同一地名群と有明海を挟む謎の天子社”
 伊倉II“熊本県玉名市と佐賀県江北町の対応する同一地名群”において、有明海を挟み奇妙に対応する一群の地名を紹介しましたが、実は、伊倉の天子社と同一の名称の「天子社」が江北町にもあるのです。今回は、両地域に符合するかのように鎮座する天子社の話です。
 佐賀の天子社は江北町の上小田という地区にあります。この江北町には太宰府から島原に抜ける古代官道が通っていたとされていますが、ここには小田宿に上小田という集落があり、その中心にかなり大きな社叢林を持つ神域があります。それが天子社と呼ばれているのです。以前から上小田の天子社が一体何なのかを考えていました(ここでは取上げませんが、鹿島市七浦の音成地区にも天子神社があります)ので、熊本県玉名市伊倉周辺の天子社の集積は正直に言って衝撃でした。
 とりあえず、江北町商工会のホーム・ページによると、この天子社は

 神功皇后道徳山に野立し給う時に始まり土民がその御聖徳を欽仰するのあまりその行啓由縁の地を朴し仲哀天皇を合祀して鎮護神とした─岡の明神
・天平年間(729)にときの小田駅長広足 この社に応神天皇をも勧進申し上げ新たに社殿を造営 岡の明神を改め大森大明神と尊称し宝祚の無窮、五穀の豊穣、交通の安全を祈願することとなった 之が天子宮の起源である。・・
 祭神は応仁天皇、仁徳天皇、仲哀天皇、神功皇后、豊受大神、菅原道真、崇徳天皇、天照皇太神、大山祇神、倉稲魂神、素戔鳴尊の十一柱
境内に 海律見神を祭る沖社社
    猿田彦神を祭る庚神社
    三女神を祭る厳島神社 等あり
境内  1236坪 神社三社あり  

とあります。
 これについては、後代、多くの神々が覆い被さっているようですが、縁起が正しければ、一応は神功皇后となりそうです。今のところ真の祭神が何であるかについて特定するだけのものがありません。ただ、古田武彦氏は卑弥呼、壹与(いちよ)の業績が後世置き換えられたとされています。今後の課題とします。
 まず、佐賀、熊本に分布する天子宮、天子社について、天神ではなく天子という名称が非常に気になります。なぜ、伊倉に集中するのかについて、今のところ、本来、広く分布していた天子社が古代の政変などによって禁止され、僅かな領域に閉じ込められたものとも考えていますが、その議論は後に廻すとして、この一般にはあまり知られていない天子社が、何なのかは分かりません。
 ただ、一つだけ可能性の有りそうな仮説があります。それは、古田武彦氏が二〇〇一年に書かれた『古代史の十字路 ーー万葉批判』の第八章“雷山の絶唱”に登場する十六天神社です。
 詳しくは、同書、及び古田史学の会HP「新・古代学の扉」“これらの歌は大和で天皇家に奉られた歌ではない”第二百三十五歌と第二百三十六歌、二百四十一歌そして二百五歌を読まれるとして、簡単に説明すれば、柿本人麻呂が大和で作ったとされる

 大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
 (二百三十五番)皇者神ニ四座者天雲之雷之上尓廬為(流鴨)

 外が、福岡県と佐賀県の県境をなす雷山にちなむ歌であり、皇者とは実は九州王朝の大王であるという論証をされています。
 さらに詳しく調べると、旧雷山村に「十六の天神社」があり、十六柱の神が祀られています。拝殿前の真新しい石柱の表示は「十六の天神社」であり、この神社の公称はまさしく「十六の天神社」なのですが、奇妙なことに、ここの絵馬堂には「十六天子宮」との額があるのです。これについては古田史学の会HP「新・古代学の扉」から会報三七号の木村論文をお読み下さい。
 つまり、この天子社とは“日出る国の天子”たる九州王朝の大王であると考えるのです。私は天子という言葉は天帝の子の意味を持ち、天命を受け人民を治める者。国の君主を意味するため、高々千三〜四百年程度の歴史しか持たぬ現天皇家は中国の臣下であり続け、天子という名称を避けたと思うのです。
 一方、全国に分布する天神は藤原不比人以来、藤原氏が、道真を追放し、あまつさえ、刺客を送り道真一族を葬り去った後の天変地異に恐れ慄いたために造ったとされます。
 今後とも調査は必要ですが、古田史学に惹かれる者としては、当然ながらその起源を九州王朝に求めてしまいます。
 そもそも、肥ノ国は肥前と肥後となぜか地形的に連続せず、間に筑紫ノ国、筑前、筑後に貫入を許しています。この事が以前から気になっていたのですが、対応する地名群と言い、天子社と言い、古代において火ノ君の領域は有明海を挟んで存在していたと思われるために、過去、この領域は有明海両岸の海峡国家として存在していたように見えるのです。
 直接的には“杵島”という長文でも取上げた、杵島山の東の稲佐神社の伝承に火ノ君が登場するからですが、この火ノ君と関係があるかについても今のところこれ以上は踏み込めません。
 このため、伊倉III“安楽寺領の天子社の排他性“で紹介した西田道世氏は“自然神の一種でしょうし、天神の要素を持っている神様だと思います。”とされましたが、現在は本来の信仰の対象は消えているかも知れないものの、九州王朝の大王(天子)を祀っていると考えてしまうものです。
 特に、西田道世氏が「太宰府天満宮、安楽寺領の荘園は図のとおりですが、玉名荘、天道西荘、合志郡富尾片俣、飽田郡山崎天満宮周辺など非常に少なく小さい。小さい荘域ですので、何とも言えないところはありますが、その中では、天神の鎮座は、各一所となっています。一見この一所以外の天神を拒否しているかの感があります。」とされているように、大和朝廷により占領を許した九州王朝の本拠地、太宰府天満宮、安楽寺領の荘園が天神を拒んでいる事にある種のリアリティーを感じるのですが、無論、思考の冒険であることは否定できません。

 伊倉 V
 “小天町の天子社の戦慄すべき起源”

 最後に小天の天子宮(天子神社)の祭神は少彦名(スクナヒコナ)神、命とされています。

 天子宮由緒書
和銅六(七一三)年筑後・肥後に悪病が大流行し、おびたヾしい死者が出た。時 の国司、道君首名は万策つき果て、ひひらきの木、椎の木を立て、少彦名命、大国主命の神篭(神の宿る木)として・・・

『古事記』では神産巣日神の子、『日本書紀』では高皇産霊尊の子ですが、大国主命に協力し出雲国の経営に尽力する神として描かれます。素戔鳴尊から試練を受け、最後は天照大神に従い、国を譲り常世国に追放されます。つまり天照神話以前の出雲神話の神が祭られているのです。神社の縁起によると、和銅六(713)年の開社ということですから、半端なものではありません。宮司のお話によると四十四代目で系図をお持ちになっているという事ですから、もしも、これが本当であれば、驚くべきものになります。天神信仰の濃厚な一帯だけにこの事実には驚愕を禁じえません。
 今後の課題なのですが、なぜか、鹿児島県の日置市の吹上町永吉にも天子神社があります。ここは枚聞神社の開聞岳の御嶽を見に行った際に確認したのですが、すぐそばの吹上町華樹里(ケジュクリ)には有明海沿岸ではあまり見かけない伊勢神社があります。また、鹿児島県志布志市有明町野井倉があり(これ自体も気になります)、すぐそばに、安楽(玉名の伊倉の北にも安楽寺の荘園がありましたね)、安良地名、伊勢神社があります。
 玉名市の疋野神社は日置氏の力を象徴するものですが、玉名歴史研究会発行の『歴史玉名』第十四号伊倉特集(平成5年夏季号)に書かれた田辺哲夫氏は「伊倉の歴史」(上)において、この日置氏は古代における隼人征服の中心的な勢力であったとされています。
 菊地にいたクマは追われて、球磨郡に移ります。更に追われて鹿児島県の襲国(曽於郡)を頼って落ちていきます。奈良時代には隼人といって一部は大和朝廷に服属しますが、まだ、残って反抗する者たちを鎮圧するために、薩摩・大隅に屯田兵のような殖民をします。肥後国の郡名を郷名とした、益城郷・飽田郷・託麻郷・宇戸郷・合志郷・八代郡などの名が残っています。しかし、玉名郷はありません。けれども、最も南に日置郷・日置郡が設置されています。九州では日置氏が居るのは玉名郡だけですから、この日置は玉名の日置と考えて差支えないと思います。最前線に日置郡、これは日置氏が総司令官であったことを物語っています。この日置氏が伊倉を開発するのです。
     「伊倉の歴史」(上)

 古田史学の会の古賀事務局長は鹿児島県の"大宮姫伝説"に関連して「最後の九州王朝」という論文を書かれていますが、何やら九州王朝の亡命地の可能性を予感しています。まだ作業段階ですのでここまでとします。
 最後に一つ非常に気になる事があります。社殿の中に掲示されている寄進の札を見ていると、大保(おおほ)姓が非常に多いのに気付きました。大保は福岡県小郡市の旧官衙に近い場所で御勢大霊石神社(恐らく伊勢神宮を憚っている)のある場所です。佐賀にある於保(おほ)姓とも関係があると考えています。これも別稿とします。


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