2009年 9月14日

古田史学会報

91号

1拝観、「白雉二年」銘奉納面
愛媛県周桑郡丹原町
福岡八幡神社蔵
 古賀達也

盗まれた国宰
 正木裕

3 「長柄」地名考
 伊東義彰

伊倉9
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

無礼講
 深津栄美

6「梁書」における倭王武
の進号問題について/
臣下から「日出処天子」の
変貌をもたらしたものは何か
菅野拓(なし)

倭王の「系図」と都域
 古賀達也

古田史学会報一覧

ホームページに戻る

伊倉1          ーー天子宮は誰を祀るか


伊倉9

天子宮は誰を祀るか

武雄市 古川清久

 伊倉 四十一
 “志布志市の野井倉神社は誰を祀るのか?”

 「伊倉」という題で天子宮を追い続けていますが、“縄文以来の祭りの場”との認識は崩していません。さて、志布志市旧有明町の菱田川沿いの小丘に野井倉神社があります。地形的にも古代においては海に突き出した岬であったと思われる場所です。玉名の伊倉周辺(玉東町)にも野猪倉という地名があります。また、志布志湾に注ぐ肝属川沿いの東串良町にも下伊倉があります。志布志湾岸の伊倉地名は気になります。今のところただの地名の符合程度の話です。周辺調査のレベルでしかありませんから、今回は画像を紹介するだけにします。このようなフィールド・ワークによる基礎調査もいずれは何らかの成果に繋がる可能性があるのです。
 野井倉神社はあまり立派ではない社ですが、良く手入れされています。このことに、むしろ信仰の深さを感じるのですが・・・。

 

 伊倉 四十二
 “志布志市の山宮神社は大宮姫を祀る!”

 志布志市には山宮神社があります。安楽地名があり、新志布志市を構成する町には有明町もあります。元々、志布志湾が有明湾と呼ばれたことには有明町の存在があったからででしょうが、北部九州の有明海という名称と全く関係がないとも思えません。
 まず、有明海の呼称が明治も後半からのものとしても(これについてはHP“有明海諫早湾干拓リポート”III の「有明海はなかった」を参照して下さい)、有明潟、有明沖という名称はなおも遡るのです。
 熊本南半部から宮崎、鹿児島にかけて、十五夜綱引きや十五夜相撲を行なうという風習があることを取上げ、隼人には月を祀る風習があったとされたのは民俗学者の小野重朗氏でしたが、月神を祀る風習が南方起源のものなのか、それとも北部九州からもたらされた(高良大社の基層には月読命=月神があるはずです)ものかについては鹿児島に入って以来、考え続けています。
 有明海は干満の差が大きい海であり、古代においてはことさら鮮明に月との関係が意識されていたことでしょう。これが月読神社と関係なしとはしないだけに、大隅半島の月神信仰の起源については民俗学的にも興味が尽きません。
 さて山宮神社です。この神社が志布志市周辺の信仰を一身に集めている神社であることは言うまでもありません。
 和銅二年(七〇九年)創建とされるこの神社の祭神を見ると、天智天皇、大友皇子(天智天皇の皇子)、持統天皇(皇女)、倭姫(皇后)、玉依姫(妃)、乙姫(皇女)とあります。
 そのまま受け止めればかなり奇妙なのですが、大宮姫伝承を知る者にとっては非常に興味深いものに思えます。当然にも壬申の乱以降の日本史の激動がこの地にも伝わっていたのでしょう。古田史学の会事務局長古賀達也氏は大宮姫を九州王朝末期の王妃とされたのですが、大宮姫が倭姫(皇后)、玉依姫(妃)のどちらかに擬制されている事は間違いなく、大宮姫伝承がこの志布志湾沿岸の隼人の領域において現実味を帯びていた時代があった事を改めて実感するものです。
 なお、志布志湾に浮かぶ批榔島には乙姫を祀る神社があるようです。

 

 伊倉 四十三
 “大崎町の天子丘は隼人の聖域?”

 話は前後しますが、志布志市の野井倉神社に行く前に志布志市大崎町の天子丘を訪れました。この土地は古代において海に突き出した岬であったと思える場所です。恐らく大崎という地名もこれに因むものでしょう。さらに、神領古墳群と呼ばれる遺蹟があり、前方後円墳ばかりではなく地下式横穴墓という隼人の墓制までもが併存しているのです。
 これが、大和朝廷による隼人の征服をどのように反映しているかは予断を許しませんが、少なくとも古代からの聖域であったことは間違いがないように思えます。事実、現在でも町の中心部からは離れかなり辺鄙な領域になります。この丘陵地が天子丘と呼ばれているのです。そのことは、ここに天子前古墳、天子丘古墳といったものがあることでも分かります。
 いつも思うことですが、九州の南部、恐らくは北部も含めて、海岸突出部の岬状の場所に墓が造られる傾向があったように思います。これは、『天神と海神』を書かれた対馬の永留久恵も指摘されていることですが、この墓制が九州南端にまで及んでいるように思うのですが、逆に、この墓制は南から対馬まで及んだものかも知れません。現在、私の頭を悩ませている大きなテーマです。
 話としてはこれだけであり、今後もこれ以上のものは示せないでしょうが、古来、この丘陵一帯が天子丘と呼ばれてきたことは間違いがないようです。

 

 伊倉 四十四
 “内之浦の天子山は九州王朝終焉の地か?”

 志布志の予定していたところを一通り見終え、大隅半島東端、ロケット発射場で有名な内之浦に向かいました。二十年ほど前にキス釣りに訪れたところです。尺キス狙いのサーフの夜釣りに夢中になっていた時のことですから、いまだに、あこがれの内之浦としての印象は強烈に残っています。しかし、住民の高齢化と地方経済の落ち込みによる街の寂れ様は痛たましいばかりです。現地を訪れると、ただただ道路だけが良くなったということでしょう。志布志の中心部から三十分余で到着するのですから、もはや秘境のイメージなど全くありません。三十年前に志布志湾開発と呼ばれる石油施設建設が持ち上がり大規模な反対運動が行なわれていた時には道の狭さばかりが目立っていたのですが、隔世の感があります。その後この施設の建設によって素晴らしい白砂の海岸が破壊され大規模な海岸浸食が起こったのですが、それを止めるとして薄汚いテトラ・ポッドが大量に投入されたのです。戦後の日本が何を得て何を失ったのか、そして、その得たものさえも今や失いつつあるという現実が凝縮されているようにも思います。
 それはさておき、三十年、二十年前には考えもしなかった高屋神社と天子山の踏査に向かいました。私の持っている地図では高屋神社は高尾神社と表記されている上に位置も市街地の道路と多少異なるなど、どうも現地と一致しません。現地に行っても保育園手前の熊野神社という神社はあるのですが一向に高屋神社には出会えません。何度も周るのですが行き着かないので、とうとう、くたびれ果てて内之浦温泉で休憩しようとフロントに行くと、メリハリの利いたおばさんが二人おられました。高屋神社、天子山の場所をお聞きすると、たちどころに分かりました。どうやら地図に頼り過ぎていて、手前でぐるぐる周っていたようでした。昔は人が道に溢れていたものですが、車の登場によって、また、高齢化によっても人が家の中に引き篭もるなど、道を尋ねるのにひと苦労する時代になったようです。 
 当然ながら、温泉を後回しにして直ちに高屋神社に向かいました。街中からかなり離れた場所に立派な神社がありました。縁起は写真を掲載していますので読んでいただければ分かりますが、

 天子山(町指定文化財)
 内之浦には景行天皇の一連の伝承がある。
 薩摩藩の名勝誌によると天皇は熊襲親征の為、海路川原瀬に上陸、小田に一泊されてより叶嶽(峰の岡)に登り湾内を見渡し給い皇居の地を定め給うたのが天子山で、景行天納期記にいう高屋宮の跡といわれている。・・・
 内之浦町教育委員会(当時、ルビは省略しています)

とあります。
 天子山は、一目、対馬上県の佐護で見た天神多久頭魂神社や下県の豆酘の多久頭魂神社の茂(しげ)地=禁足地のような印象を受けるのですが、関連性があるかどうかは分かりません。
 また、天子山の中には切り石が組み上げられた場所があります。これが何かは今のところ見当も着きません。
 ともあれ、これより南への避退は事実上不可能であったと思いますので、もしも、天子宮と九州王朝を結び付けて考えるならば、この地が九州王朝終焉の地のようにも思えるのですが、無論、根拠はありません。さらに大宮姫伝説を九州王朝と結び付けて考えるならば、指宿が終焉の地ともかんがえられますので、薩摩半島と大隅半島の先端を東西に逃亡した可能性も考えてしまうものです。
 最後に、天子に直接結び付くかどうかは分からないのですが、天子山の解説文にも登場する「小田に一泊されてより」の小田地名のことについて所見を述べておきます。天子宮を調べているとこの小田という地名に遭遇することが非常に多いのです。この内之浦の小田は小田川流域に広がる南方(みなみかた)に現実にある地名です。小田川右岸の少し山手の集落名であり、そこを通る道は岸良から大隅半島の南端に延びています。
 まず、小田地名は天子宮の調査に乗り出すきっかけとなった、熊本県玉名市の上小田、下小田、佐賀県江北町の上小田、下小田と、いずれも天子社、天子神社がある地域に見かける地名でした。他には、人吉の久米の天子の付近にも小田、小田原がありました。伊倉三十四“球磨焼酎と多良木町久米の天子”を見て下さい。現在、兵庫県在住の会員である永井氏に調査をお願いしている岡山県矢掛町の武荅(むとう)神社(明治までは天子宮と呼ばれていた)神社も吉備真備の本拠地である小田川流域にあり、小田という集落にあるのです。これについても、伊倉 二十三 “岡山県の武荅(むとう)神社は天子宮か?”をご確認下さい。熊本県の芦北でも同様のことが言えます。思い出して下さい、八代市の南、田浦町の小田浦の天子宮です。伊倉二十“熊本県葦北郡田浦町の天子宮”でも書いていますが、こちらはコダノウラ、コタノウラと呼ばれています。小田というありふれた地名だけに一概には言えませんが、このように重なってくると偶然とは言えないように思うのですが。

 

 伊倉 四十五
 “天降川渓谷、安楽温泉神社は天子宮か?”

 大隅半島での一泊は垂水市の海潟温泉、二泊目も温泉にしたかったのですが、鹿屋市の某温泉ホテルは多少割高な上に連休の初日とあっては飛び込みはもちろん無理でパスすることになりました。ただ、よそをあたってもどこも満室で泊まれそうにありません。結局、一泊三五〇〇円也の安旅館に泊まることになりました。食事は外で食べて宿に戻ったのですが、今回はパソコン持参ですから休む間もなく深夜までリポートを書くことになります。
 翌日は前日夕方からの雨が残り、疲れも蓄積していたことから、午前中は航空自衛隊の鹿屋基地内にある海軍航空隊記念館を見て、天降川が平野に流れ降った場所にある日当山温泉に入り、安楽温泉神社と和気清麻呂神社を見れば、妙見温泉と安楽温泉に入り今回の調査を終わりにすることにしました。
 海軍記念館は五航艦の宇垣中将の遺書と大西瀧次郎の書を見れば十分で、ここを見るには一日掛けていずれゆっくり来る事にしたいと思います。
 日当山温泉は源泉の数だけでも三~四十はあると思われる、共同浴場のメッカです。このような、大型ホテルや大型旅館が全くない大温泉地というものは、まずは、温泉マニアには垂涎の地でしょう。日当山温泉の良泉もそこそこに、天降川を遡ります。妙見温泉、安楽温泉の名湯が並び、さらに霧島まで登れば林田温泉を始めとする巨大な霧島温泉郷が控えています。
 妙見といえば北極星を意味し妙見菩薩(北辰菩薩)といったものまでありまが、妙見温泉のすぐ上にあるのが安楽温泉です。この上流牧園付近から北東方向に向かえば霧島温泉郷であり、北西に向かえば菱刈町から大口市に抜けます。
 仮に、人吉盆地で大和朝廷の侵略軍と熊襲、隼人、九州王朝抵抗派の連合軍が激突したことを想定した場合、その敗残ルートは人吉から大口へと抜ける久七峠になるはずであり、さらに大口から牧園経由で天降川を降り、本拠地である隼人町に入ってくるはずなのです。
 元より大きな期待はしていませんでしたが、安楽という名称が気になっているために安楽温泉神社を見に行きました。予想どおり権力から支援を受けない粗末な神社でした。現地を見るとそれ以外は何も分かりません。ただ、安楽地名のある場所に天子宮や大宮姫の伝承が重なるために、直接的な成果は得られなくとも確認しておく必要があるのです。
 次に、和気清麻呂の配流にちなむ和気神社を訪れました。こちらは島津の支援があったようで、立派な社殿があり参拝者も多く、その落差が痛々しく感じるほどでした。

 奈良時代の末、神護景雲三年(七六九)宇佐八幡神託事件(弓削道鏡による皇位窺~の事件)に際し和気清麻呂公は、勅使として、宇佐八幡宮の御神前に祈り戴いた真の御神託を復奏し道鏡の野望をくじかれたが、道鏡の怒りを買い大隅の国に流される。・・・
 和気神社由緒(皇位窺兪*の兪*は別字ですが、表示できません)
     兪*は兪の別字。JIS第4水準ユニコード7AAC

 道鏡事件は著名ですが、宇佐八幡宮が何ゆえ天皇の皇位継承に関るのか、一般的にも納得する説明を聞いた事がありません。ここには古代王権の成立の闇の部分が横たわっているように思います。
 さて、安楽温泉郷は川沿いに十軒に満たない小旅館が集まる懐かしい温泉地です。最後の宿泊地をここにしたいと思っていましたが、どこも満室でした。このため妙見温泉に宿を求めることになります。きらく温泉という湯治宿があります。私は湯治棟ではなく新館の素泊まりとしましたが、三八〇〇円也の格安の宿です。温泉は鉄分を含む炭酸カルシウム泉がとうとうと掛け流しにされている名泉です。一般に、妙見温泉は雅叙園で有名ですが、私は石原山荘という文句のつけようがない名旅館に過去何度か泊まっています。当然ながら高額ですが、機会があれば泊まりたいと思っています。
 こうして三泊四日の大隅半島踏査は終わりました。一応、天子宮に関する第一段階の基礎調査を終えた思いがしています。今後は個別に掘り下げて行きたいですね。
 安楽温泉神社は何の成果もありませんでした。太宰府天満宮が近世安楽寺と呼ばれたということ、また、天降川が天子地名であるということだけを頼りに訪ねたのですが、徒労に帰したことになります。今後もこのような失敗が続くものと思っています。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

 新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報91号

古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"