2009年 2月16日

古田史学会報

90号

「温湯碑」建立の地はいずこに
 合田洋一

2白雉二年九月吉日
 奉納面の紹介
 正木 裕

3洛中洛外日記
「白雉改元儀式 」
 盗用の理由
 古賀達也

盗まれた「国宰」
 正木裕

伊倉8
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

6『菅江真澄にも見えていた
「東日流の風景」』その後
 太田齋二郎

年頭の御挨拶
飯田満麿氏を悼む
古田史学の会代表
 水野孝夫

 事務局便り

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伊倉1        8  ーー天子宮は誰を祀るか


伊倉8

天子宮は誰を祀るか

武雄市 古川清久

伊倉 三十六
“鹿児島県旧霧島町田口の天子神社”

 薩摩半島については、二〇〇六~〇七年の年末年始を利用して調査を行ないましたが、これは、開聞岳頂上にある御嶽神社がトカラ列島から奄美、沖縄、八重山へと分布するウタキと関係があるのではないという思いを沈めるためだけに出かけた無計画な調査旅行でした。 
 しかし、偶然にも吹上浜(吹上町永吉)に天子神社を発見するという幸運に恵まれましたので、あらためてフィールド・ワークは重要と再認識したものでした。その後「天子」の調査が急展開を見せ、むしろ大隅半島をこそ調査すべきとの思いがつのっていたのですが、幸いにも鹿児島への出張が水、木、金となり、土曜日からの三連休を利用すれば全て回れることから、大隅の調査を決行したのでした。基礎的経費、三日間:七十二時間のレンタカー代金(保険料込み)一万八千円、燃料代五千円、宿泊料(三泊)約一万二千円、食費五千円程度、合計、四万円也のケチケチ旅行でしたが、それでも一〇ヶ所以上の新たな温泉に入り(湯銭は別枠)、予定していた全ての調査を行なったのですから、それなりの成果は上がったのではないかと思います。
 こうして、調査旅行が始まりました。車は真新しい白のトヨタ・ベルタ(1300cc)でした。多少、力が不足ですが格安料金ですので文句は言えません。
 始めに鹿児島神社に向かいました。まず、鹿児島神社と言えば鹿児島市内にあると思われるかも知れませんが、そうではありません。鹿児島市の東隣、錦江湾に面した旧隼人町(現霧島市)、つまり、天皇家に先行する大和朝廷に侵略、征服された隼人の領域の神社なのです。神宮由緒によると、祭神は天津日高彦穂穂出見尊(山幸彦)、豊玉比売命であり、相殿として、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、中比売命が祭られています。まさに、隼人は蹂躙されたという印象を拭えません。
 ただ、以前から見たかった神社ですので念願が叶ったことになります。もちろん、表面的には何の成果もありませんでした。私がここに来たかった理由はこの鹿児島神社の下宮(しもみや)が垂水市の中心部にあり、こちらには古田史学会事務局長の古賀達也氏が問題にされている大宮姫が祀られているからでした。このため、隼人の最大拠点であった鹿児島神宮(上宮)にもなんらかの痕跡があるのではないかと考えたからでした。結果、目論見は外れました。今後とも大隅一ノ宮鹿児島神社の調査を継続したいと思います。
 旧隼人町から北に登れば霧島です。普通の方々は霧島神宮に向かわれるのでしょうが、目的地は全く異なります。日豊本線霧島神宮駅から二キロ余り、霧島神宮の手前三キロにある田口という小集落の天子神社です。
 これについては天子神社という名称以外「天子宮」とする根拠を持ちません。元々、「天子宮」の根拠自体がそれほど確たるものではありませんので致し方ないのですが、ネット上に出てくる祭神としては、蛭子神、天忍日神(アメノオシヒノカミ)、天櫛津大来目命(アメノクシツオオクメノミコト)ですので、一目、海人族領域の神のようであり、道君首名や少彦名命よりも「天子宮」らしいとは言えそうです。どうも、ここの天子神社の祭神は、本来の姿を残しているようにも思えます。
 ただ、背後の栫山(カコイヤマ)という地名が気になります。前にも書きましたが、栫(カコイ)は蝦夷などの俘囚を囲い込んだ地名、転じて戦闘部隊の居留地、城塞を意味しますので、大和朝廷侵攻軍の駐留地の直下にも思えます。してみると大伴旅人揮下の久米が神に祭り上げられているのでしょうか?良く分かりません。今後の調査に待ちたいと思います。ただ、伊倉三十四“球磨焼酎と多良木町久米の天子”の祠も水神とされていましたので、相殿の末社は一致するようにも思います。ともあれ、人吉盆地では湧水に関係のあった天子ですが、神之湯なる地元の温泉に入り田口の天子神社調査を終えました。

 

伊倉 三十七
“崖崩れに消えた垂水市二川の天子神社”

 大隅半島調査の一日目(九月十二日)、霧島市田口の天子神社を確認し、早くも次の目的地である垂水市に向かいました。旧国分町を走り抜けて行きますが、もちろん「花は霧島、タバコは国分」の国分町です。その地名からしても、隼人征伐に侵入した大和朝廷の侵略軍が拠点とした場所だったのではないでしょうか。右三時の方向には錦江湾には桜島が見えます。急に海軍航空隊のような表現をしはじめましたが、今から踏み入る垂水市は旧帝国海軍の基地や工廠があった事を意識していたからに違いありません。当然ながら、垂水の先には鹿屋があります。陸軍の知覧は有名ですが、これに対して、ほとんど見向きもされないのが、海軍の特攻基地があったこの鹿屋です。多少とも、戦記、戦史を読んだ方ならばご存知のはずですが、宇垣纏(第五航空艦隊司令長官)率いる海軍の最大拠点がこの鹿屋空だったのです。この宇垣は昭和二十年八月十五日午後四時(いわゆる玉音放送の後)過ぎ、十一機の艦爆(彗星)を直率して大分空から沖縄に向けて特攻に飛び立つのです。脱線が過ぎたようです話を戻しましょう。
 初日最後の目的地、垂水市二川の天子神社の確認です。夕方五時には着きました。この二川は特定郵便局がある程度の集落であり、高さ百メートル以上のシラス台地が海岸まで迫る海岸沿いの小平地です。前もってネットから拾ったデータによると、二川の天子神社は牛根局という特定局に近い二川1884番地にあることにはなっているのですが、いくら探してもそれらしきものが一向に見当たりません。
 現地を見ると、二ヶ月前の集中豪雨によって幅五〇メートル高さ一〇〇メートルの崖が崩れ落ち郵便局は瓦礫の中に埋もれていたのでした。現地には道路脇に矢板が打ち込まれ、今後の土砂崩壊に備えて復旧工事が行なわれていました。なんとも仕方がなく、“天子神社は崖崩れに巻き込まれて消失した!”と諦めて帰ろうとしましたが、いかにも去り難く、諦めきれずに付近の住宅を周って何か聞き出せないかと訪ね歩きましたがなかなか功を奏しません。
 さすがに暗くなり始め、宿を探す必要もあるために車に戻ろうとすると、一人のご老人とお会いしました。さっそくお尋ねすると「天子神社とは聞いたことがない・・・」「境川の老松神社のことではないか・・・」といった話です。私は「二川郵便局のそばにあることになっているのですが・・・」と食い下がると、「分かった!付いて来なさい。多分この事だろう・・・」案内のままに付いて行くと、樹齢三百年はあろうかというアコウの木がありました。この海に向かったアコウの裏側に祠の跡があったのです。どうやら土砂がこの大木の根元まで流れ込んだようで、祠の台座と思える竿石二基と供えてあった焼酎の瓶数の瓶数本が僅かに往時の姿を想像させていました。
 お話によるとこうです。二ヶ月前の豪雨によって土砂は堤防も越えて海岸に流れ込んだ。その際に郵便局は埋まり、アコウの木の根元辺りにも土砂は流れ込み祠の台座を残して洗い流した。しかし、これ以上の事情はご老人も分かられませんでした。天子神社という名も現地では失われていたのでしょう。恐らく、僅かな住民によってこの祠は維持されていたのです。その後このご老人と会話は三十分近くに及びましたが、もしも、お会いできなければ分からず仕舞いでした。気になるのはこのアコウの大木です。災害復旧と道路拡幅工事によってこの木も、そして、天子神社という小さな祠も風前の灯火です。話では陳情もあって、このアコウを避けて海側に道路が振られる可能性もあるとのことですが、予断は許しません。再び二川を訪れる時にアコウと天子の祠が共に残されている可能性はあまりないのではないでしょうか?既に日本の民度は思う以上に下がっているのです。
 ともあれ、このご老人は八十六歳というご高齢でした。当然ながら軍歴があり、垂水の事ですから海軍と思いお訪ねすると、「佐世保・・・」とのこと「佐世保の海兵団ですか?」とお聞きすると「そう」だ、と・・・。現役で(海軍ですからめったに召集はありませんが)海軍航空隊の整備で、シンガポールからラバウルにも進出したとのこと。ただ、早くも十七年には横須賀に転属し敗戦を迎えられたようで、アコウとはいかないまでも生き延びられた訳です。してみると天子神社の方が長生きなのでしょう。とうとう「あなたはどこに行ったのか?」(戦後生まれの私に軍歴があるはずもないのですが・・・)「お茶でも・・・」と有難いお誘いも受けたのですが、宿も探す必要がありお断りしたのは今考えれば残念な限りでした。ただ、お誘いを受ければ、垂水の工廠の話や真珠湾攻撃を想定した鹿児島空からの錦江湾での模擬訓練の話とか際限なく話をお聞きして野宿になりかねなかったのです。結果、以前から入りたかった海潟温泉を持つ安宿でリポートを書くことが出来たのです。

 

伊倉 三十八
“人吉盆地、旧深田村草津山の天子神社”

 大隈半島の調査報告を書いている最中ですが、正直言って二日目、三日目と大した成果がありませんでした。このため、五月のゴールデン・ウイークを利用して人吉盆地(旧免田町久鹿の天子神社外)を踏査した際に確認してはいたのですが、文献調査などを行って報告するつもりで後回しにしていた旧深田村草津山の天子神社の報告をしておきます。理由は簡単です。なかなか良い資料や文献がないからです。ない、ということもある種の情報ではある訳ですが、とりあえず、存在の確認をしておくべきとして、目に見える範囲の報告をしておく事にした次第です。天子宮の全貌を把握する際に役立つと思うからです。
 旧深田村草津山(しょうずやま)の天子神社は、現あさぎり町(旧免田町)久鹿の天子神社から球磨川を挟んだ対岸にあります。草津山の意味は浄水の湧く山と考えれば一応理解できますが、沢水の音便転化の可能性もあります。民俗学(地名学)の世界では“沢”は東日本、“谷”は西日本との法則性が一応はありますが、坂上田村麻呂の東国侵略以後、肥後は東国から大量の俘囚が送り込まれていますので、その際に持ち込まれた地名ではないかと思われます。
 その天子神社は球磨川右岸の里山の一角にあります。球磨川沿いの県道から数分山に入れば一目では見えないような小集落がどこにもありますが、その谷間に整備された「天子の水」という名の遊水地があり、菖蒲園まで設えられています。ここから二百メートルほど山側に入った森の中に○と菱形を組み合わせた奇妙なマークの付いた鳥居があり、粗末なものの、手入れされた天子神社の社があるのです。天子の水公園の解説には、熊襲討伐の親征の折に御輿を置いたといった事が書かれています。
 この神社を見た印象としては村社クラスより下、小集落で守られてきた祠程度のものであるということ。天子神社との名称が継承されているということ(もちろん、幕末から明治期に天子神社になったものではありません)。人吉盆地の天子神社、天子地名に湧水が関係する事は現地踏査により明らかですが、全国の全ての神社についてもある程度言えることであり、それ自体は際立った特徴とまでは言えないこと。さらに、祭神を景行天皇とするものは人吉盆地でも他に多くの類例があること。ここまでは言えますが、これ以上は資料が少な過ぎて判断できません。

 

伊倉 三十九
“鹿児島県垂水市鹿児島神社下宮は天子神社か?”

 垂水市にも前述した旧隼人町と同様の鹿児島神社が置かれています。このことでも、旧隼人町と垂水市一帯が古代において同一の文化圏であったことが垣間見られ、文化的に共通性を持つ事は明らかに思えます。
 実際、旧隼人町の鹿児島神社の真南にこの下宮(しもみや)があることは非常に面白いところですが、この神社に興味を持ったのには他に理由があります。それは、古田史学の会事務局長の古賀達也氏が問題とされている「大宮姫伝説」(鹿児島県下だけに伝わるもので、古田史学の会の公式ホーム・ページ『新古代学の扉』の「最後の九州王朝」“鹿児島県「大宮姫伝説」の分析”を見て下さい)がこの神社に祀られていると言われるからです(ネット上には相殿として猿田彦大神、大己貴命、天智天皇、大宮姫が祀られているとするものもあります)。この下宮さんと併せて桜島の姫宮神社も見ましたが、公式には大宮姫を祀るとはされていないようです。
 特に、天智天皇と大宮姫がセットで祀られていることは、大宮姫伝承の特徴的なものであり、まず、最期まで抵抗した隼人の領域にこの伝承が残されているとまでは言えそうです。下宮は昭和二十年の空襲によって社殿から古文書まで全て燃えてしまった事も関係しているかも知れませんが、その分、謎を残してくれたとは言えそうです。「大宮姫伝承」の片鱗を求めて下宮に訪れましたが、直接的な成果はありませんでした。


伊倉 四十
“桜島の姫宮神社は大宮姫を祀るのか?”

 桜島の南岸にある姫宮神社こそは大宮姫を祀る神社と予想し、桜島フェリー発着所の三キロほど手前にある野尻公民館付近まで進出しましたが(垂水に入って以来、軍事用語が多くなりましたね)、こちらも大宮姫伝承の痕跡はありませんでした。さらに、桜島フェリー発着所周辺の月読神社、赤水町の愛宕枚聞神社と周るものの全く成果はありません。月読尊は記紀神話ではイザナミの子で天照大神の弟ですね。
 ただ、“月読”は志布志湾に近い鹿屋市の東側にもあり、月読神社が持ち込まれているのは印象的でした。壱岐の月神を見ていることもあり、起源をこちらに求めたいのですが、一体如何なる氏族が持ち込んだのでしょうか?大和朝廷側ではないように思うのですが資料が不足しています。この月読神社、元は赤水町宮坂にあったものが熔岩流出によって現在の場所に移されたとされています。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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