2009年 2月16日

古田史学会報

90号

「温湯碑」建立の地はいずこに
 合田洋一

2白雉二年九月吉日
 奉納面の紹介
 正木 裕

3洛中洛外日記
「白雉改元儀式 」
 盗用の理由
 古賀達也

盗まれた「国宰」
 正木裕

伊倉8
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

6『菅江真澄にも見えていた
「東日流の風景」』その後
 太田齋二郎

年頭の御挨拶
飯田満麿氏を悼む
古田史学の会代表
 水野孝夫

 事務局便り

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『菅江真澄にも見えていた「東日流の風景」』
その後

奈良市 太田齋二郎

【はじめに】
 私は、本誌八八号において『菅江真澄にも見えていた「東日流の風景」』と題し、『菅江真澄全集』に登場する「安日」を『東日流外三郡誌』のそれと対照し、「安日」に対する真澄と秋田孝季の認識に大差がないという私論を示し、「秋田孝季架空説」に疑問を呈しましたが、その末尾に
(A)明治維新、安日の後胤である三春藩主(秋田子爵家)は華族に列せられるのですが、その際、提出を求められた系図の「安日」について、いくらなんでも朝敵・長髄彦の兄が、その先祖であることは認められない、という新政府の訂正要求に、断固として応じなかったという逸話を紹介しました。
 その後、十月の「関西例会」の休憩時に石川邦一さんから、右の(A)対し、そういう事実はなかったという、思いもしなかったご指摘を受け、同時に、資料として『東北文化研究』第一巻第二号(昭和三年十月)の部分コピーを手渡されました。直後、席上においてその内容を報告しましたが、資料の吟味不足は覆われず、そのため説明は全く不充分なものでした。以下は、その反省のもと、説明不足の補完を試みたものです。

【三春藩提出の「安倍系図」事件】
 さて、秋田子爵家が系図の訂正指示を断ったというこの逸話は、今でも膾炙されているのですが、もとは昭和三年八月十五日の大阪朝日新聞に載せられた、喜田貞吉氏による「東北文化研究余談」と題された次の記事にありました。
(B)(系図に関し)宮内省の方では、いやしくも皇室の藩屏たる華族が長髄彦の兄では困ると、大分首を傾けて、普通の如く、四道将軍大彦命の後裔に訂正せよと指示したそうでありますが、秋田家の方では、「恐れながら当家は神武天皇御東征以前の旧家といふことを以て家門の誇りといたしてをります、天孫降臨以前の系図を正しく伝へてをりますものは、憚りながら出雲国造家と当家とのみしか無いのでございます」といってその改定を拒否したと申します。
 喜田は、この事を旧三春秋田藩の家老職の家柄であり、南朝の後醍醐天皇の寵臣であった北畠顕家の子孫、浪岡具雄氏から事前に聴取していたそうですが、当の浪岡は、自分が喜田に伝えたものとは「少し違う」という不満を示し、その事情を、先の『東北文化研究』に、『安倍系図に就いて』と題し投稿されたのです。
(C)維新当時の後見職であり、子爵先代(秋田映季)の叔父であり、後見職でもある秋田主税は、安倍系図を提出する際、宮内省から、秋田家とは関係のない筈の大毘古命の名が系図に書かれている理由を問われて、『当家は姓を賜って安倍を称せり。故に安倍姓の祖系を先に掲げ置くものにて、是れ当家年来の記録に従ふものなり』と答へた。宮内省でも笑って納められた、といふ事である。(中略)故に、改定の指示があったこと、又之を拒否したと云ふ事実は無い様に承知して居る。が、それとも(喜田)博士の云はるゝ如きことがあったとすれば、筆者等の初耳である

【事件の結末】
 喜田はこれを受け、右の投稿文と同じ頁以降に、『浪岡君の「安倍系図に就いて」の後に』と題し、大阪朝日新聞の記事全文を転載した上で、浪岡具雄に対し自分の記憶違いがことの原因であるとして、丁重に謝罪し、浪岡もそれを是として、一件落着となった訳です。
 以上が事件のあらましですが、いずれにしても、「安日」についての、秋田子爵家の言い分は認められたのです。この事は、大方の大名がその先祖に「源平藤橘」を掲げる風潮の中にあって、たとえ朝敵の汚名を受けていても、「自分たちの始祖が安日であるという事実」に拘った秋田家の誇りを示すものとして後々まで流布するのですが、喜田貞吉も、自分の記憶違いを、「禍(怪我)の功名」であったと、手放しで喜び、浪岡の指摘は、蝦夷・安東史の知られざる部分を明らかにするのに重要であると絶賛し、改めて、浪岡具雄に対し謝意を示しています。

【お詫びと希望そして謝意】
 さて、秋田家が提出した「安倍系図」に対して宮内省からは、その訂正指示はなかった事が明らかになりました。私の不明と軽率を反省し、会員諸兄姉に対し、心からお詫び申し上げます。
 冒頭の(A)は、全て削除するか、或いは浪岡の文意に合わせて訂正のいずれかですが、喜田の記憶違いが許された事に免じ、私の過ちをもご寛恕頂けたら嬉しいと思います。同時に、私の不明をご指摘いただき、更に貴重な資料をご提示いただいた石川邦一氏に厚く感謝申し上げます。

【喜田貞吉のこと】
 石川氏からは、先の資料の他に、「東京古田会」会員・穂積生萩氏による、同会の会報一〇三号への寄稿文『つがるの恋人』と共に、谷川健一の『白鳥伝説』、七宮~三の『津軽秋田安東一族』の存在を教示されました。両著共、私の本棚に十年以上も前から収まっていますが、恥ずかしながら、肝心の箇所は見逃されていました。今、読み返してみると、いずれも、秋田子爵家の系図に対する喜田貞吉氏の「見解」を是とし、更に、喜田の、東北史に対する想いに賛同しているものと受け取りました。
 ところで、喜田は最後に、今後の東北史の研究に対するご自身の決意を、次のように結んでおります。
(D)安東氏に関する研究は、ただに東北文化史上甚だ重要なる題目であるばかりでなく、引いては日本民族の成立、日本帝国の発展の事情を明らかにする上に於いて、甚だ重要なる寄与を為すべきものであります。然るにも拘らず従来是に関する研究は殆ど学界に紹介せらるゝことなく、其の事蹟は一向明らかになって居ないのであります。こゝに於て、私は此の『東北文化研究』の誌上に於て、多くの努力を払ふべき決心を有して居るのであります。幸に秋田には多年安東関係の史料の蒐集に尽力せらるゝ大山宏君の如き篤学者があり、安東氏の根拠地であった津軽十三の地方には、同志相集って夙に其の遺蹟研究に没頭せらるゝ十三史談会員諸氏があるのであります。私共は是等の熱心なる諸君と相提携して、大いに是が事実の開明に努力したいと期待致して居るのであります。
 今浪岡君の叱正を得たるを機会として、謹んで其の誤謬を訂正して謝意を表すると共に、是に関する抱負を披瀝して、同好者諸君の援助を翼ふ次第であります
 喜田貞吉は東北史にも造詣が深く、かつて「坂上田村麻呂夷人説」を提唱されたことがあり(『坂上田村麻呂』高橋崇)、谷川健一氏は『白鳥伝説』において、「蝦夷研究の先駆者」と評価されています。それにしても、これほどまでに東北史、わけても安東氏に執着しておられたとは知りませんでしたが、その後、喜田の決意は果たして成就したのでしょうか、ご存知の方がおられたら教えて下さい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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