2007年12月 8日

古田史学会報

77号

日本書紀、
白村江以降に見られる
三十四年遡上り現象
 正木 裕

2古田・安川対談
『東日流外三郡誌』
と「福沢諭吉」
 大下隆司

九州古墳
文化の展開(抄)
 伊東義彰

装飾古墳に
描かれた文様
蕨手文について
 伊東義彰

九章算術の短里
 泥 憲和

6彦島物語IIー外伝I、
多紀理毘売と田心姫
(前編)
 西井健一郎

7 『 彩神 』第十一話
 シャクナゲの里2
 深津栄美

最後の九州年号
「大長」年号
の史料批判
 古賀達也

9書評
遣唐使・井真成の墓誌
 水野孝夫
 事務局便り

 

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最後の九州年号

「大長」年号の史料批判

京都市 古賀達也

 はじめに

 九州年号研究のテーマの一つに原形(年号の配置、年数、元年干支など)の復原がある。古田武彦氏の先駆的な研究を受けて、丸山晋司氏による史料探索と研究が知られているが、近年の研究傾向としては、『二中歴』所収の「年代歴」が最も原形を保ち、史料的価値が高いと考えられている。
 他方、『二中歴』とは異なる年号立てを持つ一群の史料があり、その相違点の一つに、最後の九州年号を大化(六九五〜七〇〇)とする『二中歴』に対して、大長(六九二〜七〇〇)を最後とする事が上げられる。しかしながら、『二中歴』原形説が有力となるにつれて、この大長の存在について十分な検討がなされなくなったように思われる。そこで本稿において、この大長についてその当否を考察し、その大長を含む新たな九州年号原形案を提起したい。

 「大長」年号の位置

 各種の年代記類に収録されている九州年号群史料における、「大長」年号の位置は数種類あるが、中でも丸山氏が「丸山モデル」として提案された(注1.)、その元年を六九二年(壬辰)に位置付ける例が多いようである。
具体的には大長元年(六九二)から大長九年(七〇〇)まで続き、七〇一年からは大和朝廷の最初の年号「大寶」へと続く。大長の直前は大化で、元年は六八六年(丙戌)で六九一年までの六年間続く。従って、この場合、元年を六八六年とする朱鳥が消えて、大化が繰り上がっているのが、大長をもつ年号群の特徴と言える。『二中歴』の当該部分と比較すると、次のようである。

西暦  干支 丸山モデル『二中歴』
六五二 壬子 白雉元年 白雉元年
六六一 辛酉 白鳳元年 白鳳元年
六八四 甲申 朱雀元年 朱雀元年
六八六 丙戌 大化元年 朱鳥元年
六九二 壬辰 大長元年 朱鳥七年
六九五 乙未 大長四年 大化元年
七〇一 辛丑      大寶元年

 このように、大長の九年間が最後に存在する場合は、朱鳥の九年間が消えてしまうという現象が見て取れるのだが、それではどちらが九州年号の本来型であろうか。

 「朱鳥」が消えた理由

九州年号に朱鳥が存在したことについては既に論じてきたが(注2.)、その結論のみを言えば朱鳥が存在する『二中歴』の年号立てが本来型である。それでは何故、大長が存在する史料からは朱鳥が消されたのであろうか。そして大長とは一体何なのであろうか。これが本テーマの核心である。
 まず、大長造作説は採りがたい。何故ならば、『日本書紀』にも記された有名な朱鳥年号を消してまで、大長を造作する必要性がないからである。従って、大長もまた九州年号として存在したと考えざるを得ない。これも結論から言えば、大長は七〇一年以後に存在した最後の九州年号ではあるまいか。
 『二中歴』などの九州年号群を記した史料は、九州年号だけではなく、七〇一年からは大和朝廷の大寶年号へと続いている場合が多い。従って、七〇一年以後に九州年号の大長があった場合、七〇一年以後の九州年号をカットするケースが考えられる。このケースが『二中歴』の形ではあるまいか。更にもうひとつ、最後の大長を七〇一年よりも前に移動させ、七〇一年から大寶に接続させるというケースが推定できよう。ただしこの場合、大長の九年間を繰り上げた分だけ、別の九州年号を九年分カットする必要が生じる。そしてこのカットの対象となったのが、同じ九年間続く朱鳥だったと考えると、いわゆる「丸山モデル」形式の年号立てが成立するのである。
 このように、七〇一年以後に最後の九州年号大長があった場合にのみ、『二中歴』や「丸山モデル」のような異なった二形式の年号立てが、後代において成立する可能性があるのである。

 「大長」の原形と実用例

 この仮説を裏づける大長の実用例がある。十六世紀に成立した辞書『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項に次のような記事が見える(注3.)
 「柿本人丸 ーー者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大大長四年丁未、於石見国高津死。」(以下略)
 柿本人丸が大長四年丁未に石見国高津で亡くなったという記事であるが、この頃の丁未の年は七〇七年に相当し、この大長の元年は七〇四年甲辰となる(大和朝廷の年号では慶雲元年)。また、『修験道史料集』II 所収の『伊豫三嶋縁起』には、「天武天皇天長九年壬子」という表記があり、前後の文脈から「文武天皇大長九年壬子」の誤記と理解できるが、この場合も元年は七〇四年甲辰となり、『運歩色葉集』記載の大長と元年が一致しており、偶然とは考えにくい。
 こうした史料状況から、本来の大長年号の位置は元年が七〇四年甲辰の年で、少なくとも九年間続いていたことがわかるのである。同時に、七〇一年から七〇三年の間は大化年号が続いていたと考えざるを得ない。これらをまとめて、次の九州年号原形試案(七世紀後半以降の部分)を提起したい。

西暦  干支 古賀試案 大和朝廷
六五二 壬子 白雉元年
六六一 辛酉 白鳳元年
六八四 甲申 朱雀元年
六八六 丙戌 朱鳥元年
六九五 乙未 大化元年
七〇一 辛丑      大寶元年
七〇四 甲辰 大長元年 慶雲元年
七一二 壬子 大長九年 和銅五年

 この表から見てもわかるように、末期の九州年号は白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長と続き、「白」「朱」「大」の字を二回ずつ共有している。これも偶然とは考えにくく、意図的な文字選択の可能性が高い。更に、白雉・朱鳥・大化・大長はそれぞれ同じく九年間続いてることも、偶然ではなく計画的な改元がなされた結果ではあるまいか(注4.)
 また、「丸山モデル」に見られるように、六九二年壬辰に大長元年が繰り上げられたのは、本来の元年が七〇四年甲辰の年であったため、後代において同じ「辰」年に配置されたという可能性もあろう。

 おわりに

 以上、最後の九州年号「大長」存在の論理性と史料根拠を示し、末期の九州年号原形試案を提起したのだが、この仮説が正しければ、九州年号は七〇一年を越えて存続したことになり、九州王朝から大和朝廷への権力移行の形態や時期についても、様々な可能性について検討する必要が生じるであろう。
 なお、大長九年(七一二)で九州年号が終了したことについては、続稿を予定している。読者諸賢のご批判をお願いしたい。

(注)
1.丸山晋司『古代逸年号の謎─古写本「九州年号」の原像を求めて』アイピーシー刊、一九九二年。
2.古賀達也「二つの試金石─九州年号金石文の再検討」、『古代に真実を求めて』第二集、一九九八年。明石書店。
 古賀達也「朱鳥改元の史料批判」、『古代に真実を求めて』第四集、二〇〇一年。明石書店。
3.『運歩色葉集』元亀二年(一五七一)京都大学本による。
4.白鳳が二三年間の長期間続いているのは、白村江の敗戦による唐軍の筑紫進駐が原因していると思われる。朱雀が二年という短期間であるのも、何らかの突発的な事件が発生し、朱鳥に改元したためと思われる。この点、今後の検討課題としたい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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