「二つの試金石ーー九州年号金石文の再検討」 古賀達也(『古代に真実を求めて』第二集)へ


古田史学論集『古代に真実を求めて』 第四集
二〇〇〇一年十月 明石書店

朱鳥改元の史料批判

古賀達也

     はじめに

 わたしが子供の頃、わが国における年号の最初は、孝徳天皇の時代の「大化」(六四五~六四九)からと教えられた。そして「白雉」(六五〇~六五四)と続き、その後断絶し、「朱鳥」(六八六)が一年だけ存在し、「大宝」(七〇一)から現在の平成まで連綿と続いたとされている。これがわが国における一般的な年号教養であろう。元号の使用や法制化への賛成・反対を問わず、こうした理解が不動の通念として、明治以後の公教育の絶対的指針とされてきた。もちろん、戦後教育においても、この点、微動だにしていないところ、周知の事実である。
 江戸時代はそうではなかった。鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)や藤井貞幹、貝原益軒など天皇家の史書に見えない年号の存在について論じ、著していた。たとえば、鶴峯戊申は『襲国偽潜考そのくにぎせんこう』において、六~七世紀にかけて九州地方で使用された古代年号群を紹介し、それら古代年号群を古写本「九州年号」という書物から写したと述べている。このように江戸時代の学者達は天皇家以外の権力者が公布使用した年号について自由に論じ合った。
 しかし、明治維新以後こうした「学問の自由」は一変した。天皇家は古代より唯一の卓越した列島の代表者であり、年号を公布出来る唯一の公権力者であるという明治政府のイデオロギー(皇国史観)により、鶴峯戊申らが紹介した古代年号群は後代に偽作された偽年号とされ、論争はおろか学問(歴史教育)の対象にもされなくなったのである。この近畿天皇家一元史観による古代年号の「抹殺」は、戦後も踏襲された。すなわち、右翼も左翼も、戦前も戦後も、近畿天皇家一元史観という歴史理解の大枠を遂に疑わなかったのである。

 

    実在した九州年号

 古田武彦氏がこうした天皇家以外の古代年号を、志賀島の金印を貰った倭国の王者の後継である九州王朝が公布した年号、「九州年号」であるとする説を、『失われた九州王朝』(朝日新聞社刊、現在は朝日文庫に収録)で発表したのは一九七三年のことであった。以来、九州年号研究は古田武彦氏を支持する全国の読者により深められていった。その中で、現存する最古の九州年号群史料として、『二中歴』(平安時代の辞典類、尊経閣文庫に鎌倉期古写本収蔵。本稿末に掲載)に収録されている「年代歴」が九州年号の原型である可能性が高いことが判明した。「継体」から「大化」(西暦五一七年~七〇〇年)まで連綿と続く、この見慣れぬ年号群こそ古代九州王朝により建元された九州年号である。天皇家が「建元」したと『続日本紀』に記されている「大宝」に先立つこと、約百八十年前のことである。
 なお、『日本書紀』に記されている「大化」「白雉」「朱鳥」の三年号はいずれも「改元」とされており、初めて年号を立てたときに使用する「建元」という表記は使用されていない。すなわち、「大化」が天皇家の最初の年号ではないことを、『日本書紀』自身も示していたのである。これら三年号はいずれも九州年号からの盗用だったのだ(「大化」はその時間的位置も五十年ほどずらして盗用されている)。
 九州年号の中でも最も著名な年号は「白鳳」であろう。それは現在でも、「白鳳時代」とか「白鳳文化」といった用語として使用されている。この「白鳳」こそ九州年号中、最長の二十三年間(六六一~六八三)続いた年号である。この「白鳳」年号は天皇家の史書『続日本紀』に、聖武天皇の詔報として記録されている。次の通りだ。

 「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」
          『続日本紀』神亀元年冬十月条(七二四)

 聖武天皇自らが「白鳳」「朱雀」という九州年号の存在を前提として発言していたのである。九州年号実在の証言として、これ以上の証言はないのではあるまいか。九州王朝を滅ぼした側の王朝の代表者が述べた言葉なのであるから。

 

     朱鳥改元記事の謎

 『日本書紀』に現れる三年号中、もっとも謎に満ちた不自然な記述が朱鳥改元記事である。天武朱鳥元年七月条の次の記事だ。

 「戊午(二十日)、改元して朱鳥元年と曰ふ。〈朱鳥、此を阿訶美苔利あかみとりといふ。〉仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)と曰ふ。」※〈〉内は細注。
             『日本書紀』天武紀朱鳥元年七月条(六八六)

 天武の末年(十五年)七月に突然何の説明もなく改元し、その年の九月九日に天武は没している。そして、翌年は持統元年となり、『日本書紀』中では朱鳥は一年で終わっているのだ。大化は孝徳天皇即位に伴い「改元」され、続いて白雉と「改元」されており、それなりにつじつまはあっているが、朱鳥のみは天武末年の突然の改元という何とも不思議な現れ方をしているのである。
 まだ不思議な事はある。朱鳥にのみ「阿訶美苔利あかみとり」と和訓が施されている。年号に和訓とは何とも奇妙ではあるまいか。もちろん、大化・白雉にはない。しかも、朱鳥改元を飛鳥浄御原宮の命名の根拠としているが、これもおかしなことである。両者はほとんど音や意味に関連がない名称だからである。せいぜい「鳥」の一字を共有しているだけだが、「飛鳥」の地名や文字はそれ以前から存在し、この時に初めて使われたとも思われない。同様に飛鳥浄御原宮も天武元年に造られたことが見える。

「是歳、宮室を岡本宮の南に營る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」
                   『日本書紀』天武元年是歳条(六七二)

 天武元年から末年までの十四年もの間、天武が名無しの宮に住んでいたとは考えられない。このように朱鳥改元記事はかなり不自然、不明瞭な記事なのである。

 

     盗まれた九州年号

 『日本書紀』の三年号が九州年号からの盗用であったことは、すでに古田氏が述べて来られた通りであるが、そうした視点から『日本書紀』の三年号を見たとき、その盗用のされ方がそれぞれ異なっていることに気づく。『二中歴』所収の九州年号と比較すると、大化元年乙未(六九五)から孝徳天皇元年乙巳(六四五)へと五十年も繰り上げられており、これは、本来七世紀末の事件であった「大化の改新」記事を孝徳紀へ持ち込むための政治的改変であることを古田武彦氏が指摘されている。(注1) 次いで、白雉元年壬子(六五二)は、『日本書紀』では大化五年の翌年(庚戌、六五〇)に元年が移動され、その後五年間続いており、孝徳の在位年間と共に終了する。この点、天皇の在位期間と大化・白雉年号が一致するよう盗用されている。なお、『二中歴』の白雉は六五二年から六六〇年まで九年間続く。
 このように、大化・白雉に関しては元年や継続年を移動して盗用されているが、朱鳥のみは元年が共に六八六年と一致しているのである。しかも、すでに述べたように朱鳥は天皇の即位年と一致しているわけではなく、天武没年の一年限りの存在である。『二中歴』では六八六年から六九四年まで九年間朱鳥が続いているが、『日本書紀』では翌年は持統元年となる。『日本書紀』編者は何故朱鳥のみ、このような盗用の仕方をしたのであろうか。より常識的に盗用するのであれば、それこそ一年遅らせて、持統元年を朱鳥元年としてもよかったはずである。大化を五十年、白雉を二年ずらして盗用したぐらいであるから、一年ずらして持統天皇の即位年にあわせることぐらい簡単にできたはずだ。(注2) 不審である。
 ちなみに、近畿天皇家による七〇一年の大宝年号建元から、『日本書紀』成立の養老四年(七二〇)までの間、慶雲(七〇四)・和銅(七〇八)・霊亀(七一五)・養老(七一七)と改元されているが、各天皇の即位年かその翌年に改元がなされている。したがって、『日本書紀』編者が朱鳥を九州年号から盗用するのであれば、編纂当時の実際の改元と同様に、持統の即位年にその位置をずらして盗用するのが、常識的と思われるのである。
 かつて、九州年号原形論争において、朱鳥は九州年号ではないとする説があった。(注3) その主たる理由の一つとして、『二中歴』以外の九州年号群史料の多くは、朱鳥をもたないことが上げられていたが、本稿の帰結から見れば、『日本書紀』の三年号中、朱鳥が最も不自然な位置と記述をもつという史料事実こそ、逆に実在の根拠と考えられるのである。なぜなら、『日本書紀』編者の捏造であれば、それこそ天皇の在位期間や即位年に元年を位置づけるなど、もっとそれらしく捏造したはずであるからだ。しかし、そうはなっていない。なお、筆者は金石文の存在から朱鳥年号の実在を論じたことがあるが、今回『日本書紀』朱鳥改元記事の史料批判においても同様の結論を得たのである。(注4)

 

     朱鳥元年の徳政令

 なぜ『日本書紀』編者たちは、朱鳥を大化・白雉と同様に天皇の即位・在位期間にあわせて盗用せず、九州年号「朱鳥」の本来の位置(六八六)、すなわち天武の末年という不自然な位置にそのまま記したのであろうか。うっかり朱鳥のみを正しく盗用したとは思われない。やはり、そうせざるを得ない政治的理由があったため、あえて不自然な位置のまま朱鳥改元記事を盗用したのではあるまいか。その理由として、朱鳥改元記事の前日(七月十九日)の「徳政令」記事が注目される。

 「丁巳(十九日)に、詔して曰はく、『天下の百姓の貧乏(まず)しきに由りて、稲と資材とを貸(いら)へし者は、乙酉の年(天武十四年、六八五)の十二月三十日より以前は、公私を問はず、皆免原(ゆる)せ」とのたまふ。」※()内は古賀による注。
           『日本書紀』朱鳥元年七月十九日条(六八六)

 このように前年以前の「借金」の元本返済を免除する詔勅が出されており、その翌日に朱鳥改元がなされているのである。しかも、この「朱鳥元年の徳政令」には続きがある。翌、持統元年七月条の次の記事だ。

 「秋七月の癸亥の朔甲子に、詔して曰はく、『凡そ負債者、乙酉年より以前の物は、利収ること莫。若し既に身を役へらば、利に役ふこと得ざれ』とのたまふ。」
          『日本書紀』持統元年秋七月二日条(六八七)

 このように、「利息」についても免除する詔勅が続いて出されているのだ。これら一連の「徳政令」にこそ、『日本書紀』に朱鳥年号を正しくその位置に盗用せざるを得なかった理由が隠されているのではあるまいか。というのも、朱鳥元年と翌年に出された詔勅は九州王朝と九州年号が健在だった当時であれば、「朱鳥元年」「朱鳥二年」の年号付き文書で通達されたと考えざるをえない。とすれば、それら朱鳥の「徳政令」通達は各豪族や評督など負債をかかえている者にとっては、貴重な「借金」免除の「証文」であったこと、これを疑えない。従って、近畿天皇家にとって、この「朱鳥の徳政令」を引き続き認めるのか、認めないのかは重要な政治的判断であったと思われるし、結果として近畿天皇家は『日本書紀』に「朱鳥の徳政令」を正しく記入することで、それら「証文」の価値を公認した。この場合、両詔勅を記した「徳政令」通達文書中には「朱鳥元年」「朱鳥二年」という発行年次や「乙酉以前」という免除年次が記入されていたはずであるから、『日本書紀』にも乙酉の翌年である六八六年に正しく朱鳥元年を記さざるを得ないという、動かすべからざる事情を有したのである。

 

     戦後賠償と大地震による筑紫の疲弊

 以上のように、近畿天皇家の政治的判断に基づき、『日本書紀』編者は朱鳥に限り、正しくその位置に盗用したと思われるのであるが、それではその政治的判断とはいかなるものであろうか。その考察に入る前に、「朱鳥の徳政令」により負債を免除された勢力について検討してみたい。
 この時期、もっとも経済的に疲弊していた勢力は、白村江の戦いに参戦敗北した九州王朝側の豪族たちであろう。しかも、戦前からの水城や神籠石山城の築城、そして戦時の徴兵と戦死による労働力不足など、その惨状は想像するに余りある。さらに、戦勝国唐への「戦後賠償」も『日本書紀』の次の記述から推定しうる。

 「夏五月の辛卯の朔壬寅に、甲冑弓矢を以て、郭務宗*等に賜ふ。是の日、郭務宗*等に賜ふ物は、総合て?*千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。戊午に、高麗、前部富加抃等を遣して調(みつき)進(たてまつ)る。庚申に、郭務宗*等罷(まか)り歸りぬ。」
           『日本書紀』天武元年夏五月条(六七二)
     宗*は立心偏に宗。JIS第4水準ユニコード60B0
     ?*は、しんにゅう編の代わりに糸偏。JIS第3水準ユニコード7D41

 唐の進駐軍の将、郭務宗*等の帰国にあたってのこの桁違いに厖大なプレゼントを「戦後賠償」であるとする説が平田博義氏より出されている。注目すべき見解ではあるまいか。(注5) そしてこのような敗戦後の疲弊した筑紫にとどめを刺すかのように起きたのが、天武七年十二月の筑紫大地震だ。その状況が次のように記録されている。

 「是の月に、筑紫國、大きに地動く。地裂くること廣さ二丈、長さ三千餘丈。百姓の舎屋、村毎に多く仆れ壊れたり。是の時に、百姓の一家、岡の上に有り。地動く夕に當りて、岡崩れて處遷れり。然れども家即に全くして、破壊るること無し。家の人、岡の崩れて家の避れることを知らず。但し會明の後に、知りて大きに驚く。」
           『日本書紀』天武七年十二月是月条(六七八)

 「飛鳥浄御原宮に御宇しめしし天皇の御世、戊寅の年に、大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」
           『豊後國風土記』日田郡五馬山条

 この天武七年十二月条に記された筑紫大地震の痕跡として、高良山のある水縄山地の北側を東西に走る水縄活断層系が知られている。その活断層は曲水の宴遺構が出土した筑後国府跡のすぐ南側百メートルに比高差十メートルの崖として露出しており、その地震により「筑後国府」は大打撃を受けている。(注6) このような九州王朝中枢地域に発生した直下型大地震により、九州王朝の疲弊は極に達したものと思われる。そして、その八年後の朱鳥元年に「徳政令」が施行されたのである。敗戦後経済の疲弊と地震による被害を被った筑紫の豪族・人民にとって、この「徳政令」は歓迎されたのではあるまいか。と同時に、債権者からは怨嗟の的であったことも十分想像しうるのである。

 

     新王朝による「徳政令」の追認

 古田武彦氏によれば、この「朱鳥の徳政令」は九州王朝側が公布したものとされる。(注7) 状況から判断しても頷ける見解である。他方、白村江戦に直接加わらず、戦力を温存した近畿天皇家側から見れば、おそらく債権者として「朱鳥の徳政令」に反発し、九州王朝を滅ぼす決断をしたのではあるまいか。
 ところが、七〇一年以後、列島の代表者として名実共に唐からも認知された新しき権力者、近畿天皇家にとって、自らの権力基盤を確かなものとするため、九州王朝影響下の豪族たちへの懐柔策として、「朱鳥の徳政令」を新王朝としても公式に追認するという政治的判断を行った。そのため、自らの新しき史書『日本書紀』に朱鳥元年条の「徳政令」記事を記すことにより、天下に周知させた、そのように思われるのである。
 『日本書紀』が成立した養老四年(七二〇)から三四年も昔の「徳政令」を追認しなければならなかった新王朝の政権基盤は、未だ必ずしも盤石ではなかったことがうかがわれるのであるが、九州王朝の影響を払拭するため、近畿天皇家はその後も様々な対応をせまられたようである。たとえば先に紹介した『続日本紀』神亀元年条(七二四)に見える聖武天皇による詔報も、その一例と思われる。

 「詔し報へて曰はく、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ。」
          『続日本紀』神亀元年冬十月条(七二四)

 白鳳・朱雀という九州年号が近畿天皇家の詔中に現れる貴重な記事であるが、九州王朝時代の僧尼の名籍と実際とが一致しないため、新たに名籍を定めて運用するようにとの、聖武天皇自らの判断が示されている。このように、新王朝が旧王朝からの「行政」の継続に苦心している様子がうかがえるのである。なお、同詔報へのこうした視点については既に古田氏が述べているところでもある。(注8)

 

     朱鳥元年に没した天武と虎丸長者

 本稿において、『日本書紀』三年号中、朱鳥のみが九州年号本来の位置(六八六)におかれていることについて、その理由と背景を考察してきた。史料的な限界もあり、推定にとどまらざるを得ない点も少なくなかったが、本仮説によりもっとも穏当な史料理解が可能になったと思われる。この点、読者のご批判をいただければ幸いである。
 『日本書紀』によれば朱鳥改元は天武十五年(六八六)七月二十日であり、その二ヶ月後の九月九日に天武が没する。同じく、朱鳥元年十月十五日に天武の後を追うように筑前の有力者、恐らくは九州王朝内の人物と思われる虎丸長者が没する。この虎丸長者伝説を最後に紹介したい。
 虎丸長者は藤原虎丸とも登羅麿とも伝えられ、筑前国御笠郡武蔵村古賀(注9)に館があったとされる。かなりの有力者で、国造とも伝えられている。主な伝承としては次のような内容が伝わっている。

○虎丸の娘、瑠璃姫が腫病を患った時、薬師如来のお告げにより地面を掘ったら温泉が出た。その温泉に入浴して娘の病が治った。その温泉が武蔵温泉で、『万葉集』に見える「次田温泉」のことと見られている。時に白雉四年のことであった。(『太宰府小史』太宰府天満宮発行、昭和二七年)

○白鳳二年、天智天皇の朝に仕える藤原虎丸が釈祚蓮を招いて武蔵寺を開基した。(『筑前國続風土記拾遺』)

○朱鳥元年十月十五日、虎丸卒す。毎年のこの日、武蔵村の村民七五家、虎丸の供養として地蔵會を催すようになった。虎丸の墓石が武蔵寺にある。(『筑前國続風土記拾遺』)

 白雉・白鳳・朱鳥と九州年号を持つ伝承であることから、恐らくは九州王朝内の有力者の可能性が高い。国造とする伝承もあることから、当初、九州王朝の天子の可能性も考えたが、朱鳥改元後に没していることから、現時点ではその可能性は小さいと判断している。虎丸長者とは九州王朝のいかなる地位の人物であったのか、さらには天武との関係はいかに。興味は尽きない。朱鳥の徳政令が出された年に没した筑前の有力者、虎丸長者については、現地調査などにより今後も研究を深めて行きたい。以上、虎丸長者伝説の存在を読者に紹介し、朱鳥改元の史料批判を終えることとする。

 

 (1)古田武彦・渋谷雅男『日本書紀を批判する ーー記紀成立の真相』新泉社、一九九四年。

 (2)『万葉集』左注に見える朱鳥は元年が『日本書紀』の持統元年と一致しているものが見える。これは、干支が一年ずれた暦による朱鳥年号が用いられた、いわゆる「朱鳥日本紀」の存在を予見させるものである。また、『高良山隆慶上人伝』にも、干支が一年ずれた「朱鳥元年丁亥」という表記がある。干支の一年のずれ問題については、拙稿「二つの試金石 ーー九州年号金石文の再検討」(『古代に真実を求めて』2集所収)を参照されたい。

 (3)丸山晋司『古代逸年号の謎 ーー古写本「九州年号」の原像を求めて』株式会社アイ・ピー・シー刊、一九九二年。

 (4)古賀達也「二つの試金石 ーー九州年号金石文の再検討」、『古代に真実を求めて』2集所収。明石書店刊、一九九八年。

 (5)平田博義「天武紀を呼んで1 ーー祥瑞と赦之」、『tokyo古田会news』七四号、平成十二年七月。

 (6)寒川旭『地震考古学』中公新書、一九九二年。
 久留米市教育委員会『筑後国府跡(久留米市文化財調査報告書第一〇〇集)』平成七年。
  近年の年輪年代測定法によれば、遺跡の編年が百年、あるいはそれ以上古くなることが明らかとなっている。従って、水縄活断層による同地震の痕跡も、現在の編年より遡る可能性がある。その場合、これは天武時代のものではなくなってしまうので、留意が必要である。この点、古田武彦氏のご指摘を得た。

 (7)古田武彦・渋谷雅男『日本書紀を批判する ーー記紀成立の真相』新泉社、一九九四年。

 (8)同右

 (9)浮羽郡の天の長者屋敷のあったとされる場所も、古賀(浮羽郡浮羽町三春)である。福岡県・佐賀県に伝わる「長者」伝説の地に「古賀」地名が多いということを以前に聞いたことがある。また、福岡県・佐賀県に古賀姓が多いことも、九州王朝と何等かの関係があるのかもしれない。今後の楽しみな研究テーマだ。筆者も福岡県久留米市出身であり、本籍は浮羽郡浮羽町大字浮羽である。


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