2017年 4月10日

古田史学会報

139号

1,倭国(九州)年号建元を考える 
 西村秀己

2,太宰府編年への
 田村圓澄さんの慧眼
 古賀達也

3,「東山道十五国」の比定
西村論文「五畿七道の謎」の例証
 山田春廣

4,「多利思北孤」 について
 岡下英男

5,書評 倭人とはなにか
漢字から読み解く日本人の源流
 竹村順弘

6,金印と志賀海神社の占い
 古賀達也

7, 『大知識人 坂口安吾』大北恭宏
 (『飛行船』二〇一六年冬。
 第二〇号より抜粋)

8,文字伝来
 服部静尚

9,「壹」から始める古田史学Ⅹ
 倭国通史私案⑤
 九州王朝の九州平定
 ―糸島から肥前平定譚
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧

「壹」から始める古田史学 I   II  III IV  VI(①) VII(②) VIII(③) IX(④) X(⑤)
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「壹」から始める古田史学Ⅹ 倭国通史私案⑤

九州王朝の九州平定―糸島から肥前平定譚

古田史学の会事務局長 正木 裕

タイトルについては添付図参照

糸島平定

1、盗用されていた邇邇芸命の糸島・肥前平定譚

 これまでの「『壹』から始める古田史学」で九州王朝の九州一円平定譚が、景行紀(九州東岸・西岸平定)、仲哀紀(糸島から周防侵攻)、神功皇后紀(筑後平定)譚にそれぞれ盗用されていたことを示しました。しかし、これでは肝心の「九州王朝の始源の地」とも言うべき糸島半島、怡土平野と肥前の平定譚が欠けています。しかし、実はこれらの地域の平定譚は神武紀・記の「紀の国の竃山」以降に盗用されていたのです。

2、リアルな「竃山以前」と神話的な「熊野以降」 

 古田武彦氏は『盗まれた神話』で、いわゆる「神武東征」は、『記紀』編者の知るはずのない、弥生期の河内湾の地形に基づいていること等から、リアルな史実の反映だとされました。
 ただ竃山で五瀬の命を埋葬するまでは「不名誉な敗戦譚」であるのに、熊野以降になると天照大神・高木神・建御雷神など天孫降臨神話の「天つ神」たちが現れ神武を助け、「連戦連勝」、赫々たる戦果が連ねられます。また登場する人物も、大熊・尾有り光る井光・尾有り磐を披ひらき出る磐排別いわおしわけ・尾生えた土雲の八十建など「神話的」となり、神武の呼称も「天つ神の御子」になります。
 そして、神武を助けにきた高倉下は次のように述べます。
◆『古事記』己が夢に云う。天照大神・高木の神、二た柱の神の命みことのりを以ちて建御雷の神を召して、『葦原中国はいたくさやぎりてありけり。我が御子等、平らかならず坐います良志らし。其の葦原中国は專ら汝が言向けし国。故、汝、建御雷の神降るべし』と詔りたまひき。

 『古事記』編者は「夢の告げ」のように潤色していますが、「己が夢に云う」を削れば、まさに降臨後に「平らかならぬ(困難な)」状況となっている邇邇芸命を救えとの詔にほかなりません。ここでは天孫降臨神話の邇邇芸命が「神武」に置き換えられているのです。

3、奈良の「宇陀」ではなく糸島なる「宇田」

 『古事記』では、その後「宇陀」の兄宇迦斯えうかしを討ち、次の「久米歌」が謡われます。
◆宇陀の高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 久治良くじら障る。
 「久治良障る(鯨がかかった)」とありますが、奈良吉野の宇陀に鯨はいません。通説は「猪(山くじら)あるいは鷹(クチ)では」と解説しますが、「くぢらは鯨」で「猪や鷹」にはなれません。古田氏は『神武歌謡は生きかえった』で、怡土平野の旧今津湾岸には宇田(宇田川原)があり、玄海灘は鯨漁が盛んで、海岸には「寄り鯨(鯨が打ち上げられる)」がみられることから、この「宇陀」は怡土平野の「宇田」こそ相応しいとされました。
 それを証するのが「是に兄宇迦斯、鳴鏑以ちて其の使を待ち射返しき。故、其の鳴鏑の落ちたる地を訶夫羅前かぶらさきと謂う。」という地名命名譚です。
 糸島半島西部の旧加布里湾奥には、今も「加布羅(糸島市新田加布羅)」地名があります。この東が縄文系の墓地「志登支石墓群」で、その南東に井田用会・三雲加賀等の支石墓群あり、「宇田」はそのただ中にあるのです。ここから「宇田」は縄文系旧勢力の本拠だったことが伺えます。そこで、加布里湾から侵攻した西の邇邇芸命の軍と、東の宇田を拠点とする旧勢力が衝突したなら、その前線は「訶夫羅前(先)」となり、『古事記』に書かれた「弓矢を交わす」状況となるのです。
 ちなみに兄宇迦斯を切り刻んだ「宇陀の血原」の「血」とは、古田氏がいうように大己貴おおなむち・大日孁貴おおひるめむちなどにみえる「貴い」意味の接尾語です。従って「血原」とは、「神聖な存在」だった兄宇迦斯の住む聖地「貴原ちはら」を指し、邇邇芸命らはこれを貶め「血原」と蔑称したのです。
 また、久米歌に「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひもとほろふ 細螺の い這ひもとほり 撃ちてしやまむ」とありますが、加布里湾の西部の糸島市二丈に伊勢ヶ浦・伊勢田、湾奥に大石の地名も遺存し、加布里湾から兄宇迦斯を攻める際の歌に相応しいのです。

4、熊野侵攻譚は邇邇芸命らの玄界灘の侵攻譚の盗用だった

 さらに加布里湾上陸に至る玄海灘の「侵攻行路(航路)」も『書紀』に盗用されています。
 『書紀』神武紀では、竃山の後「名草邑に至り、名草戸部を誅す」とあるのですが、この話は『古事記』には存在しません。古田氏の『盗まれた神話』における「『書紀』にあって『古事記』にない部分は盗用の疑いが濃い」という「方法論」を援用すれば、これも盗用が疑われることになるでしょう。
 「名草」ですが、実は神功皇后紀の新羅討伐譚に「磯鹿の海人、名草を遣して視しむ」とあり、岩波『書紀』注釈では「磯鹿は和名抄筑前の国糟屋郡志珂郷(今の志賀島)」とします。葦原中国(博多湾岸の那珂地域)への上陸を目指す邇邇芸命らが、在地勢力と先ず衝突するところ、まさにそれが志賀島周辺であり、そこの集落と住民である名草邑の名草戸部を誅したと考えられるでしょう。「名草」は「儺の津の草(人民)」に相応しい呼称でしょう。「海人名草」は神功皇后が新羅討伐に使役していますから、後には海人族に組み込まれ九州王朝に仕える集団となったことが伺えます。
 次に『書紀』では「狭野を越え、熊野の神邑に到り、天磐盾に登る」とありますが、これも『古事記』にありません。現在、熊野の神倉山が天磐盾に比定されることがありますが、これは古文書(「熊野権現御垂迹縁起」等)には見えず、鎌倉以後の伝承で、古田氏は「この地帯(熊野)は「天」(「海人」族の領域を指す)と呼ばれる領域ではない。従ってこの熊野の地に「天の~」という表記の存在することは不自然である。」(*『神武古道』)と不審感を表明されています。
 これを探すヒントは次の「仍りて軍を引きて漸ようやくに進む。 海の中に卒にわかに暴風に遇い、皇舟みふね漂蕩ただよう。」にあります。つまり上陸後、熊野の神邑、天磐盾を経て、再び海路に出たというもので、一端熊野に上陸しながら、また航海に乗り出すのは不自然です。

5、志摩半島から唐津湾へ

 「志賀島の名草」討伐後ただちに上陸できるのは志摩半島東北端の唐泊周辺です。その西の「天ヶ岳」山麓の細道を超えた西には、桜井村(熊野宮・谷熊野神社等がある)・小金丸村(氏神は熊野権現)など熊野権現(熊野三神「伊邪那岐命・事解男命・速玉男命」)を祭る村があります。そこには、「熊野権現は天岳より来たり給ふという・・村俗云伝ふるは、熊野権現異国より渡り給時 御腰を掛けて休ませたまひたり(『筑前国続風土記』)」という、「権現は東の唐泊・天ヶ岳方面より来た」との伝承が残されています。現地伝承では邇邇芸命らは「熊野権現」とされていることになるでしょう。
 更に西に進むと、「天磐盾」としてこれ以上ない場所があります。

芥屋の大門
 それは「芥屋の大門おおと」で、『続風土記』に、「此岩山高き事、海上より三四十間許、其峙る事城郭の石壁の如し」「我日の本には未是にたぐへる所を聞かず。」とあるように一見すれば誰もが「天の岩盾」と呼ぶに相応しい場所なのです。(写真)
 ここからは志摩半島西北端を巡り唐津湾に出ることになります。志賀島などが湾口にあり防備の硬い博多湾でなく、唐津湾に侵攻する作戦だったのではないでしょうか。ただこのあたりは「新羅の国に向へる大海原の邊りなれば、沖津風絶えず吹きて、荒き波かかる(『続風土記』)」難所として知られています。『書紀』で神武の兄弟稻飯命いなひのみこと・三毛入野命が遭難したとありますが、『古事記』にはこの二人の事績は全く書かれず、しかも稻飯命は「鋤持さひもちの神になった」とされていますから、この遭難譚は「降臨神話」の邇邇芸命らの遭難譚を、神武の兄弟に「はめ込んだ」可能性が高いでしょう。

6、唐津湾から加布里湾へ

 『古事記』にはありませんが、『書紀』ではこの後に熊野の荒坂津(亦の名は丹敷浦にふうら)に着き丹敷戸畔にふとべを誅し、ここから宇田の兄宇迦斯討伐譚に続くわけです。つまり「天孫降臨神話」からの盗用なら、唐津湾で遭難し、着いたところが荒坂津(丹敷浦)で、そこから加布里湾に侵攻したことになり、これは自然なルートだと言えます。
 また、我が国では、古代より辰砂(硫化水銀)から丹(水銀朱)が造られていましたが、日本の水銀鉱床群の存在する地域には何れも丹生にふ、丹生川にふがわ、丹生神社が存在しています。そして、佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市にかけても「九州西部鉱床群」という水銀鉱床群があります。従って、その中を流れる松浦川は丹敷川、河口の唐津湾は丹敷浦、その地の支配者は丹敷戸畔と呼ぶにふさわしいのです。唐津湾岸には、菜畑遺跡など「縄文水田」が広がっており、ここも侵攻すべき「瑞穂の国」で、支配者の丹敷戸畔は誅されるべき在地勢力だったのです。

7、糸島平定後「吉野=肥前平定」へ

 少し前に戻って、『書紀』で神武は兄宇迦斯討伐後、「菟田の穿邑うかちむら」、即ち『古事記』に言う「宇陀の血原」を出て吉野を目指します。
◆天皇、吉野の地を省みたまはむと欲して、乃ち菟田の穿邑従より、親ら輕兵を率ゐて巡り幸す。

 『古事記』では熊野到着後に神武は「吉野の河尻」に出ますが、『書紀』では兄宇迦斯討伐後「吉野之地」に向かい、そこで神武は、先述の「尾ある人」ら「神話的人物」と出会い、彼らを従えつつ、「国見丘」の八十梟帥やそたける・兄師木えしき・弟師木おとしきを撃ちます。
 古田氏は『壬申大乱』において、持統の吉野行幸記事や万葉歌の「吉野」の分析と、吉野ケ里や吉野山などの現地地名から、脊振山地の南の佐賀平野に「佐賀なる吉野・吉野川(嘉瀬川)」を見出されていますが、唐津湾からその「佐賀平野」に至る途上の松浦川の上流に「国見岳(伊万里市)」があります。
 『書紀』では八十梟帥の「国見丘」には「女坂・男坂・墨坂」があり、丹生の川上に「真坂樹」があるとするところ、「国見岳」周辺に今も「真坂・石坂・岳坂・坂下・戸坂」などの「坂」地名が集中して遺存します。
◆国見丘の上に則ち八十梟帥有り。又女坂に女軍を置き、男坂に男軍を置き、墨坂に焃炭おこしずみを置く。其の女坂・男坂・墨坂の号は、此れに由りて起れり。

 国見岳は唐津湾岸から佐賀平野に到る途上にあり、これは水銀鉱床群へ向かう道でもあるのです。『記紀』では八十梟帥は「忍坂をさかの大室」にいたとありますが、「忍坂」も「坂」地名であり、「男坂」と同一なのかもしれません。

8、腰岳の黒曜石と水銀鉱床群をめぐる「縄文の大王」との戦いだった

 ところで八十梟帥・兄師木・弟師木とは本来どういう勢力だったのでしょうか。実は国見岳の西方に黒曜石で名高い「腰岳」があります。その黒曜石は、吉野ケ里は勿論、北は韓国(東三洞遺跡)、東は兵庫県(西山北遺跡)、南は沖縄(仲泊遺跡)等からも出土しており、腰岳の支配者が国内外に影響力を持つ「縄文の大王」だったことは疑えません。邇邇芸命らにとって彼らとの激突は不可避だったのです。
 そして、『古事記』にはないのですが、『書紀』では椎根津彥が「蓑笠」を被って埴はにつちを取り、作った瓮(ひらか かめ)で「飴たがね」を作ったとされています。「飴」があれば「鋒刃の威を仮からず、坐ながら天下を平げることができる」とし、「丹生川に沈めたところ魚が皆死んだ」とあります。
 先に「丹生」は水銀の原料辰砂と関係が深いことを述べましたが、辰砂を熱すると出来る水銀と硫化水素は、いずれも毒性が強いことで知られています。「飴」が水銀等の毒物とすれば、「武器を用いず征服できる」という記述がよく理解できます。
 ところで、「飴」が成った後の丹生の川上で「斎主いはひのうし」を任じる段に「厳媛いつひめ・厳瓮いつへ・厳罔象女いつのみずはめ・厳香來雷いつのかぐつち・厳稻魂女いつのうかのめ・厳山雷いつのやまつち・厳野椎いつののづち」など「厳」がつく名称が頻出します。神代紀では単に「罔象女・倉稻魂女・山雷・野槌」とあるところ、ここでは「厳」がついており、これは「地名」ではないかと思われます。
 ちなみに、「久米歌」では、「久米の子は厳(いつ*「厳」は「稜威いつ」と同義で、清らかな、神聖な、勢いのある意味)だ」とされています。
◆『古事記』忍坂の 大室屋に 人多さわに 来入り居り 人多に 入り居りとも 厳々いついつし 久米の子が 頭槌くぶつつい 石槌い持ち 撃ちてし止まむ 厳々し 久米の子らが 頭槌い 石槌い持ち 今撃たばよろし

 そして、松浦川の上流が「厳木きゅうらぎ川」、国見岳の東が「厳木きゅうらぎ町」というように「厳」地名が残り(*「厳木きゅうらぎ」は「清ら木きよらぎ」が語源とも)、また国見岳の北には椎根津彥とその事績に対応する「笠椎(南波多町笠椎)」「椎の峰」の地名も遺存しています。
 しかも『書紀』では「磐余」の命名譚に、「或るひとの曰はく、『天皇、往むかし嚴瓮の粮おものを嘗たてまつりりて、軍を出して西にしのかたを征ちたまふ。是の時に、磯城の八十梟帥・・』(註1)」と、八十梟帥を討伐したのは「昔の西方」での出来事としています。これは八十梟帥討伐が、神武による奈良磐余での出来事ではなく、「天孫降臨時代」の九州、それも「糸島から西方へ」という佐賀遠征譚からの盗用であることを、はからずも漏らしているものといえるでしょう。

9、杵島山地から佐賀平野へ

 この「九州西部鉱床群」を縫って南の有明海に流れるのが「塩田川」で、その河口の杵島山地に「稲佐山・稲佐神社(有明町稲佐)」があります。
 『古事記』で、兄師木・弟師木を撃つ時の久米歌に、
◆盾並べて 伊那佐いなさの山の 木の間よも い行き目守らひ 戦へば 我はや飢ぬ 島つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね。

 とあります。『古事記』では神武は熊野から「吉野河の河尻」に出ますが、熊野から奈良に向かうのに、吉野川(紀の川)の河尻(河口)には出られません。この点、古田氏は先述のとおり嘉瀬川を佐賀なる吉野川だとされています。嘉瀬川は古代から吉野ケ里付近から稲佐山付近まで頻繁に東西に流路を変えていますから、この「吉野河の河尻」も有明海沿岸の佐賀平野・一帯にあたるのです。従って、『書紀』の「吉野之地」での「尾有る人」らの平定譚は、佐賀平野平定譚からの盗用の可能性が高いと思われます。
 こうして、邇邇芸命らは、怡土平野の平定後、松浦川を上流に攻め上り、国見岳周辺で縄文の支配者八十梟帥らを討ち、黒曜石は勿論「水銀鉱床群」も手中に収め、その勢いで塩田川を下り杵島山地から佐賀平野に攻め入り(註2)、稲佐山をはじめとする戦闘で肥前佐賀平野を平定し「尾有る人」らを従えた、その事績が記紀の神武東征譚の熊野以降に盗用されたと考えられるのです。あるいは邇邇芸命の次代彦火火出見尊の事績も含まれているのかもしれません。

 結局、九州王朝の「九州一円の平定譚」は、
➀天孫降臨時の糸島半島平定譚と肥前平定譚が神武紀(記)に、

②天孫降臨直後の九州王朝の天子たる「橿日宮の女王による筑後平定譚」が「神功皇后紀」に、

③糸島から周芳の沙麼までの遠征譚が「仲哀紀」に、④周芳の沙麼発の「前つ君」による九州東岸・西岸平定譚」が「景行紀」に盗用されていたことになるのです。

 そして、『記紀』の編者は、九州王朝の祖たる邇邇芸命の事績を、近畿天皇家の祖たる神武の事績に切り張りし、自らの家系を飾り立てていたのです。

 

(註1)大方の『書紀』検索サイトは「西」を「而」に改変しているが、北野本はじめ原典は「西」。岩波『書紀』も当然「西」とする(国会図書館デジタルライブラリー『日本書紀』巻3の二四コマ目を参照されたい)。『書紀』編纂時の盗用ミスが残っているものと考えられる。

(註2)怡土平野から背振山地を超えて直接の侵攻もあった可能性もある。

(参考)古田武彦『盗まれた神話』(ミネルヴァ書房から二〇一〇年三月に復刊)、『壬申大乱』(同二〇一〇年三月に復刊)、『神武歌謡は生きかえった』一九九二年六月。新泉社)、「神武古道ー歴史学の本質」(「新・古代学」第六集二〇〇二年新泉社)、ほか。
 なお、『記紀』の神武東征記事の降臨神話からの盗用全般については古賀達也氏の次の論考に詳しい。
 古賀達也「盗まれた降臨神話─『古事記』神武東征説話の新・史料批判」(『古代に真実を求めて』第五集二〇〇二年七月。明石書店)、「続・盗まれた降臨神話─『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判ー」(同第六集二〇〇三年四月。明石書店)


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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