2017年2月15日

古田史学会報

138号

1,二〇一七年新年のご挨拶
 次世代に伝えたい
 古田先生の言葉
 代表 古賀達也

2,太宰府を囲む「巨大土塁」と
『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城
 正木裕

3,九州王朝の家紋
 (十三弁紋)の調査
 古賀達也

4,諱と字と九州王朝説
 服部静尚

5,「倭京」の多元的考察
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学Ⅸ 倭国通史私案④
 九州王朝の九州平定 --
 怡土平野から周芳の沙麼へ
 事務局長 正木裕

 

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「壹」から始める古田史学Ⅸ 倭国通史私案④

九州王朝の九州平定

怡土平野から周芳の沙麼へ

 

古田史学の会事務局長 正木 裕

1、九州東岸平定譚の周芳の沙麼以前

 前号では、古田武彦氏の『盗まれた神話』等をもとに、九州王朝の「九州一円の平定譚」のうち、①天孫降臨直後の九州王朝の天子たる「橿日宮の女王による筑後平定譚」が「神功皇后紀」に、②後代の、周芳の沙麼発の「前つ君」(*「前」は糸島前原の「前」)による九州東岸・西岸平定譚」が「景行紀」に盗用されていることを述べました。(註1)
 ただ、九州東岸平定譚が九州王朝の天子の事績なら、遠征がいきなり周芳の沙麼から出発することはあり得ません。必ず橿日宮・前原などの筑紫博多湾岸から出発したはずだからです。実はこの「筑紫発」の遠征行路も『日本書紀』に盗用されていたのです。

 

2、「仲哀紀」の熊襲討伐譚の「不自然な行路」

 景行天皇の九州遠征(*実際は九州王朝の前つ君の九州東岸平定)は『書紀』では景行十二年九月の「周芳の沙麼(さば 山口縣防府市佐波か)」から始まります。
◆景行十二年秋七月、熊襲反きて朝貢せず。八月己酉(十五日)、筑紫に幸いでます。九月戊辰(五日)、周芳の娑麼に到りたまふ。
 ところが同じ熊襲討伐譚が「仲哀紀」にあり、そこで仲哀は紀伊国から穴戸(下関)に行き神功皇后と合流、穴戸豊浦宮とゆらのみやに滞在します。以下「図1」上段をご覧ください。

山田宗睦 「日本書紀の地名、二つ」『季節』第12号より引用

◆仲哀二年三月(略)紀伊国に到りまして、徳勒津ところつの宮に居します。是の時に当たりて、熊襲反きて朝貢せず。天皇、是に熊襲国を討たむとす。徳勒津より発ちて、浮海みふねよりして穴戸に幸いでます。(略)九月に宮室を穴戸に興て居します。是を穴戸豊浦宮と謂ふ。

 その直後の記事(*『書紀』は仲哀八年まで空白)で「岡の縣主あがたぬし」の祖熊鰐くまわにが「穴門」の仲哀を「周防の沙麼」に迎えに行き、岡浦まで随行します。
◆仲哀八年春正月壬午(四日)、筑紫に幸す。時に岡の縣主の祖熊鰐、天皇の車駕を聞うけたまはりて、(略)周芳の沙麼の浦に參迎まうむかふ。(略)(*出迎え後)山鹿の岬より巡りて岡浦に入る。

 しかし、岡の縣は遠賀川河口・岡湊付近で、地理上では「東」から周芳の沙麼(防府)→穴門(下関)→岡浦(遠賀川)の順です。従って、岡の縣の熊鰐は穴門の仲哀を迎えに行ったはずなのに、穴戸を「行き過ぎ」て周芳の沙麼まで迎えに行ったことになります。

 次に、「岡浦」に泊した仲哀を、筑紫伊都の縣主の祖五十迹手いとでが「穴門」に迎えに行くのですが、これも行き過ぎです。その「行き過ぎた」五十迹手の随行で儺の縣、橿日宮に着いたというのです。
◆又、筑紫の伊都の縣主の祖五十迹手、天皇の行いでますを聞うけたまはりて(略)穴戸の引嶋(ひこしま *下関市引島)に參迎まうむかへて献たてまつる。(略)儺の縣(*筑紫博多湾岸)に到り、因りて橿日宮に居す。

 つまり仲哀は穴門→岡浦→儺の縣(橿日宮)と「西」に航海したと書かれていますが、迎えに行く熊鰐や五十迹手は皆「行き過ぎ」ているのです。こんな変なことはありません。

3、「西から東へ」を「東から西へ」へと方向を入れ替え

 山田宗睦氏は「日本書紀の地名、二つ」(註2)の中でこの矛盾を分析し、本来は①「儺の縣・橿日宮」から「東に」に進んだ「近畿天皇家に先立って九州一円を平定した王者(古田氏の言う「九州王朝の天子前つ君」)を、②伊都の五十迹手が「伊都から穴戸の引嶋」まで送り、③その途上で岡の縣主の熊鰐が「岡湊から随行し周芳の沙麼まで」送った記事だった。『書紀』編者はその記事を、近畿天皇家の「仲哀」が、熊襲討伐の為に紀伊国から穴戸を経て儺の縣まで「西に」に進んだように「方向を入れ替え」た。その結果「行き過ぎる」という矛盾が生じたのだ、としました(図1下段)。
 そして、この「仲哀紀」の記事を、本来の「筑紫発で沙麼到着」という「東向き行路」に戻せば、古田氏が明らかにした景行天皇(実際は「九州王朝の天子前つ君」)の「九州一円平定譚」のうち、「周芳の沙麼浦以前」の行程となるのです。
 つまり『書紀』編者は、九州王朝の天子「前つ君」が筑紫から「東向き」に出発し、穴戸豊浦宮を拠点に、周芳の沙麼を経て九州東岸を征服した記事を、儺の縣から周芳の沙麼までを「仲哀紀」に、沙麼以降を「景行紀」に切り分け、かつ「仲哀紀」では、仲哀の紀伊国巡行譚や皇后の角鹿(敦賀)行幸譚と「接合」させたうえ、穴戸経由で儺の縣へ遠征するという「西向き」にベクトルを変え、仲哀の事績に潤色したことになります。
 結局、『書紀』では景行と仲哀二人の事績に振り分けられていますが、実際は九州王朝の天子「前つ君」の事績だったのです。

4、「前つ君」とは邇邇芸命や彦火火出見尊を指す

 そして、古田氏は邇邇芸命の降臨地を高祖連山の西で前原のある怡土平野としますから、邇邇芸命は「前つ君」の呼称が相応しい人物となります。さらに、邇邇芸命の子彦火火出見尊は怡土平野で、「襲名」により「五百八十歳(二倍年歴で実際は二九〇年間)」統治したとしますから、彦火火出見尊も「前つ君」にふさわしい人物となります。筑紫への侵攻(天孫降臨)から九州一円平定に至るまでには相当の年月の経過を思わせますから、仲哀紀や景行紀の「前つ君」には彦火火出見尊の方が相応しいと考えられるでしょう。
 そして彦火火出見尊は前原を出発し、儺の縣に到り橿日宮に留まり(「儺の縣に到り、因りて橿日宮に居す」)、そこから出航した可能性が高いのです。
 なぜなら、「仲哀を最後まで随行した」→本来は「前つ君を最初から随行した」のは「伊都の縣主の祖五十迹手」となること、かつ出迎えに行く動機が「天皇の行いでますを聞き」とあることです。つまり仲哀が「来る」のではなく「行く(出発する)」と聞いて随行したというもので、これは縣主の本拠「伊都・怡土平野」から「前つ君」すなわち彦火火出見尊を送っていったことを表しているのです。
 こうした山田氏の『書紀』における「仲哀の遠征方向」の分析により、古田氏が九州を平定した九州王朝の天子を、糸島前原から出征した「前つ君」とした正しさがさらに裏付けられたことになりました。九州王朝の神話は、単に「盗まれた」だけではなく、切り刻まれて近畿天皇家の天皇の事績に「すり替え」られていたのです。

5、白雉改元詔の「親神祖の知らす穴戸国」の意味

 ちなみに、この記事から、九州王朝は九州一円の平定を終える以前に穴戸・周芳といった山口県も平定・統治していたことが読み取れます。遥か後代の「白雉改元詔」の中で「今我が親神祖むつかぎろぎの知らす穴戸国の中に此の嘉き瑞みつ有り」との詞があります。「神祖」とは「神と讃えられる天皇(皇)の祖」のことですが、「皇祖神」とされるのは天照大神又は神武天皇、或は天照から神武までの代々の総称であり、仲哀も神功皇后もこれに当たりません。しかし日向三代の邇邇芸命や彦火火出見尊であれば何の問題もないのです。「白雉」は九州年号ですから、その改元詔は当然九州王朝の詔となるわけで、「我が親神祖の知らす穴戸国」とは、今まで述べてきた九州王朝の神祖たる「前つ君」が穴戸・周芳を平定・統治したことを述べたものでした。

 

6、九州王朝の九州一円平定譚の盗用はまだ尽きない

 これで、九州東岸平定譚に欠けている周芳の沙麼までの部分が「復元」できました。しかしまだ「九州一円の平定譚」に欠けている重要な部分があります。それは、①博多湾岸の糸島平野等の平定譚、②隣接する肥前の平定譚です。この部分は何と「神武紀」の「東征譚」に盗用されていたのですが、紙面の関係から次回に述べたいと思います。

(註1)本来は「大王」というべきだが、論述が邇邇芸や彦火火出見など神話時代に及ぶことから「天つ神の御子」という意味でここでは「天子」と呼ぶ。

(註2)山田宗睦「日本書紀の地名、二つ」(『古田史学の諸相・季節通巻第十二号』発行・エスエル出版会・一九八八年八月十五日)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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