2019年 4月10日

古田史学会報

151号

1,五歳再閏
 西村秀己

2,盗まれた氏姓改革
 と律令制定(下)
 正木裕

3,前期難波宮
 「天武朝造営」説の虚構
整地層出土「坏B」の真相
 古賀達也

4,乙巳の変は六四五年
天平宝字元年の功田記事
 服部静尚

5,複数の名を持つ天智天皇
 橘髙修

6,「壹」から始める古田史学
 十七「磐井の乱」とは何か(1)
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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「壹」から始める古田史学・十八 「磐井の乱」とは何か(2)正木裕(会報152号)
「壹」から始める古田史学・二十 磐井の事績 正木裕(会報154号)


「壹」から始める古田史学・十七

「磐井の乱」とは何か(1)

古田史学の会事務局長 正木 裕

1、「磐井の乱」に関する文献

 第十六回では、『宋書』等の中国史書に記される「倭の五王」は、ヤマトの天皇たちではなく、五世紀の九州王朝歴代の大王だったことを述べました。今回からは、五王の最後「倭王武」を継いだと考えられる「磐井」と、記紀に記す「磐井の乱」の実際について、何回かに分けて述べていきます。
 俗に「磐井の乱」という事件ですが、『書紀』の継体紀には約六〇〇字(原文)を費やし、磐井の悪行や罪状の数々と、その討伐の経過を延々と記しています。長文なので後掲資料にしておきますが、簡単に要約すると次のようになります。
◆継体二十一年(五二七)に「筑紫国造磐井」が反乱を起こし、任那復興のために継体天皇が半島に派兵しようとした近江毛野臣の軍を妨げた。そこで継体は物部麁鹿火を送り、二十二年(五二八)十一月に筑後御井の郡の戦で、遂に磐井を斬り筑紫・火・豊国を奪還した。磐井の子「筑紫君葛子」は、糟屋屯倉を献って死罪を免れた。

 というものです。ただ、『書紀』の八年前に完成した『古事記』では、磐井(「磐井」ではなく「石井」、「国造」ではなく「筑紫の君」となっている)については、わずか五〇字(同)ほどしか記述がなく、乱の詳細は何ら語られていません。

◆『古事記』この御世(*継体天皇)、竺紫の君石井、天皇の命に従わず、多く礼なし。故に、物部の荒甲の大連と大伴の金村の連の二人を遣わし、石井を殺す。

 また、『筑後国風土記』では、古老の話として、雄大迹おほど天皇(*継体)の治世に、筑紫君磐井が天皇に従わなかったので、「俄かに」官軍が襲撃し、磐井は豊前の山中で亡くなった。また磐井は生前に墳墓(岩戸山古墳とされる)を造ったと書かれています。

◆『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』より)
 上妻の県あがた。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳有り。高さ七丈、周六十丈なり。墓田はかどころは、南北各々六十丈、東西各々四十丈なり。石人・石盾各々六十枚、交陣こもごもつらなり行つらを成し、四面に周匝めぐれり。東北の角に当りて一つの別区あり。号なづけて「衙頭がとう」と曰ふ。衙頭とは政所なり。其の中に一石人有り。縦容として地に立てり。号けて「解部ときべ」と曰ふ。前に一人有りて、裸形にして地に伏せり。号けて「偸人とうじん」と曰ふ。生けりし時に、猪を偸ぬすみき。仍りて罪を決められむとす。側に石猪四頭有り。「贓物ぞうもつ」と号く。贓物とは盗物なり。彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間有り。
 古老伝えて云へらく、雄大迹天皇のみ世に当たりて、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風に偃したがはず。生平いけし時、預め此の墓を造りき。
 俄かにして官軍動発おこりて襲わんとするの間に、勢の勝つまじきを知りて、独り自ら豊前国上膳かみつみけの県に遁れ、南の山の峻さかしき嶺の曲に終てぬ。
 是に官軍、追ひ尋まぎて蹤あとを失ひき。士怒り泄やまずして、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。古老伝えて云へらく、上妻の県に多く篤き疾やまひ有るは、蓋し玆これに由るか、と。

 

2、「磐井の乱」の記事には矛盾や不可解なことが多い

 ただしこうした一連の「磐井の乱」の記事には不審な点が多く見受けられます。
 例えば、毛野臣が派兵されることになった原因、つまり「磐井の乱の発端」となった「新羅による南加羅等の併合」は、『書紀』では「磐井の乱」が終結した結果、継体二十三年(五二九)に毛野臣が渡海し、その後におきた出来事と書かれていますから(注1)、物事の順序、「原因と結果が逆転」しているのです。
 しかも、『古事記』で継体崩御は丁未(五二七)年四月九日とあり、『書紀』なら継体二十一年にあたります。磐井の乱は『書紀』では継体二十一年六月から二十二年十一月ですから、『古事記』の年次では継体崩御後の事件となります。このように同じ「磐井の乱」の記事であっても、『書紀』と『古事記』では大きく食い違い「両立しない」のです。
 また『筑後国風土記』でも、前半に石人・石盾各々六十枚が整然と並び、石人は「縦容(しょうよう *ゆったりと落ち着いていること)」と立っているとあります。これは、後半の、継体側の兵の怒りに任せた狼藉の結果、石人の手は撃ち折られ、石馬の頭も打ち堕とされているという姿とはかけ離れています。

 

3、継体の崩御と安閑即位に「空白」が生じている

 また、そもそも『書紀』本文で継体は、継体二十五年辛亥(五三一)二月五日に磐余玉穗宮で八十二歳で崩御したとあるところ、「在る本」によれば継体二十八年甲寅(五三四)だとしたうえで、本文は『百済本記』の記事により継体二十五年としたと書かれています。
◆「太歳辛亥(五三一)三月、軍進みて安羅に至りて、乞乇城こつとくのさしを営つくる。是の月に、高麗其の王安を弑ころす。又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨すといへり。此によりて言へば、辛亥の歳は二五年に當る。後に勘校かむがへむ者、知らむ。」。

 つまり、天皇家の有する「在る本」と海外史書で三年のずれがあるが、『書紀』では海外史書を優先して本文としたというものです。この結果次代の安閑天皇の元年(甲寅五三四年)と「二年間の空白」が生じます。そもそも『書紀』では継体の崩御日に安閑が即位したとありますから不可解この上もありません。加えて、「天皇及び太子・皇子、倶に崩薨」とあるところ、継体の長子安閑、安閑の弟の宣化、同欽明は皇位を承継しており「倶に没した」などという事件はないのです。
 そこで通説では『百済本記』の記事は誤伝(誤り)だとか、「二年の空白」は『書紀』における単純な年次のずれということで処理しようとしています。
 しかし、都合の悪い海外史書を「誤り」とするのは、『魏志倭人伝』の「南は東の誤り」だとするのと同じ類の「恣意的な改変」ですし、『書紀』編者が、誰が考えてもおかしい「空白期間が生じる紀年」を「正」とし本文に採用しているのですから、これを「単純な誤り」と片付けるのは軽率に過ぎるでしょう。

 

4、『百済本記』記事に関する古田武彦氏の論証

 ここで留意すべきは、磐井は筑紫・豊・肥の支配者とされており、これは九州王朝の中心領域であること、磐井には「高麗・百済・新羅・任那等の半島の国々」が毎年朝貢していたと書かれており、これは半島に出兵し海北を平らげたとする「武」の後継者であることを示しています。
◆『書紀』継体二十一年(五二七)六月十三日。磐井、火・豊、二つの国に掩おそひ拠りて、使修つかへまつらず。外は海路を邀へて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢みつぎものたてまつる船を誘わかつり致す。

 こうしたことを踏まえ、古田武彦氏は『失われた九州王朝』の中で、「磐井の乱」について次のように述べています。
①継体の崩御は安閑即位と空白が生じない「在る本」の継体二十八年甲寅(五三四)が正しいこと、

②『書紀』は二十八年の継体の崩御を二十五年と「三年繰り上げ」ており、これに伴い二十八年以前の記事も二十八年→二十五年・二十七年→二十四年・二十六年→二十三年・二十五年→二十二年等と「三年繰り上げ」られていることになる。
 従って二十五年~二十八年の間の記事を「復元」するには、二十二年~二十五年記事をそれぞれ「三年間繰り下げ」る必要がある。継体から安閑の「空白」は単に「年号だけ」を埋めても解消せず、そこに書かれるべき「事績」も埋める必要があるからだ。

③そうすれば継体二十二年(五二八)の磐井の死は、継体二十五年辛亥(五三一)のこととなり、『百済本記』の辛亥(五三一)年の「天皇及び太子・皇子、倶に崩薨」記事と年次が一致することになる。

④従って『百済本記』の「日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨す」との記事は天皇家の継体についての記事ではなく、「武」の後を継ぎ半島に進出していた九州王朝の天子磐井に関するものである。

とされました。

 この論証は①継体崩御と安閑即位の「空隙」を埋め、
        ②かつ『百済本記』とも整合し、
        ③さらに五三一年に九州年号が「教倒」に改元され、九州王朝の天子の崩御あるいは即位が推測されること等から、極めて説得力のあるものといえます。
 そして磐井の崩御は、磐井の応援軍として九州内陸部に来ていた継体が、物部麁鹿火に命じて磐井を討伐したという「継体のクーデター(乱)(『法隆寺の中の九州王朝』第一章継体と筑紫の君)」によるもので「一王朝の全面的敗北(『失われた九州王朝』磐井の反乱と滅亡)」だとされていました。

 

5、古田武彦氏の新説「乱そのものが無かった」

 ただ、古田氏は二〇〇三年八月以降、磐井の乱後も九州年号が継続していること、九州の出土物に大変動は見られないこと等により、「磐井の乱造作説」を提唱され、「磐井の乱も継体の乱も、乱そのものも無かった。歴史上、架空の事件」との立場をとられるようになりました。(注2)
 一方で、古田氏は「継体の乱」説をとっていた当時においても、「磐井側の半島や肥後の軍は健在であり、その参戦によって、磐井を斬った後継体側は劣勢に陥り、逆に葛子側が大勝したのではないか(『法隆寺の中の九州王朝』)」と述べていました。これなら九州年号の継続や出土物に変化が乏しいことも問題にならず、また「三年ずれ」の論証が極めて説得力を持っているので、古くからの古田ファンには、今も「継体の反乱」説の方を支持する方も多いようです。
 ここで古田旧説「磐井の乱は継体の乱」か、新説「造作説」かを「抽象的に議論」しても実るものはありません。また一方で「どうせ造作なのだから」と記紀記事の検討をパスしていては「磐井の乱」の解明は不可能でしょう。そうではなく、「造作」であったとすれば、『書紀』や『古事記』『筑後国風土記』等の記事はいったい何なのか、どう解釈すればよいのかを詳細に検討し、そのうえで「造作説」が成立するかどうかを明らかにする必要があると考えます。
 次回から新説「造作説」を踏まえながら『書紀』等の記事を分析していきます。

(注1)『書紀』では新羅の南加羅併合は継体二十三年(五二九)となっているが、実際は新羅法興王の十九年 (五三二)に金官国王(南加羅)が新羅に投降し併合された。『書紀』の五三二年は継体崩御(五三一)~安閑元年(五三四)までの「空白期間」にあり、これは『書紀』が「三年繰り上げられている」ことを示すもので、逆に「三年繰り下げ」れば実際の併合年次と一致する。

(注2)古田氏は記紀における「磐井の乱」の造作動機について、次のような見解を示している。(『古代に真実を求めて』第八集二〇〇五年)
◆日本書紀の立場の実際は次のようである。
「継体天皇は物部のアラカヒに対して磐井征伐を命じられた。アラカヒは磐井を斬り、その命を達成した。そこで磐井の子、葛子は糟屋の屯倉を献上した。これはその後の九州の勢力が磐井斬殺を受け入れた証拠だ。すなわち、それ以後の九州は、継体の臣下であるアラカヒをうけつぐ物部氏の支配下におかれ、天皇家の「家来」として、現在(八世紀)に至った。それが現代の九州統治の姿である。」と。
 この日本書紀の立場からは、「九州年号」や「九州王朝」などは、全くの「非歴史」である。あの「日出ずる処の天子」も、もちろん九州の豪族(「物部氏」)などの「詐称」の類とされているのである。
 古事記と日本書紀にとって、最大の著述目的は「九州王朝の否定」であり、「七〇一」の否認である。「わが国ははじめから一貫して、近畿天皇家の支配下にあった。」この主張である。

 

(資料)『書紀』の磐井の乱関連記事
◆『書紀』継体二十一年丁未(五二七)六月甲午(十三日)に、近江毛野臣、衆六万を率て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・喙己呑とくとこんを為復かえし興建てて、任那に合せむとす。是に、筑紫国造磐井、陰に叛逆そむくことを謨はかりて、猶預うらもひして年を経。事の成り難きを恐りて、恒に間隙ひまを伺ふ。新羅、是を知りて、密かに貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏へよと。是に、磐井、火・豊、二つの国に掩おそひ拠りて、使修職つかへまつらず。外は海路を邀へて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢みつぎものたてまつる船を誘わかつりり致し、内は任那に遣せる毛野臣の軍を遮さいぎりて。乱語なめりごとし言揚げして曰はく、「今こそ使者つかいひとたれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器おなぎけにして同食ものくらひき。安いずくにぞ率爾にはかに使となりて、余をして爾が前に自伏したがはしめむ」といひて、遂に戦ひて受けず。驕りて自ら矜たかぶ。是を以て、毛野臣、乃ち防遏へられて中途にして淹滞さはりとどまりてあり。天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔して曰はく、「筑紫の磐井反き掩おそひて、西の戎の地を有たもつ。今誰か将たるべき者」とのたまふ。大伴大連等僉みな曰さく、「正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し」とまうす。天皇曰はく、「可ゆるす」とのたまふ。
 秋八月の辛卯の朔に、詔して曰はく、「咨、大連、惟これの磐井率はず。汝徂きて征て」とのたまふ。物部麁鹿火大連、再拝おがみて言さく、「嗟、夫れ磐井は西の戎ひなの奸猾かだましきやっこなり。川の阻さがしきところを負たのみて庭つかへまつず。山の峻たかきに憑りて乱を称ぐ。徳いきほひを敗りて道に反く。侮り嫚おごりて自ら賢しとおもへり。在昔むかし道臣より、爰ここに室屋に及るまでに、帝を助まもりて罰つ。民を塗炭くるしきに拯すくふこと、彼も此も一時もろともなり。唯天の賛たすくる所は、臣が恒に重みする所なり。能く恭み伐たざらむや」とまうす。詔して曰はく、「良将の軍すること、恩を施して恵うつくしびを推し、己を恕おもひはかりて人を治む。攻むること河の決くるが如し。戦ふこと風の発つが如し」とのたまふ。重また詔して曰はく、「大将は民の司命いのちなり。社稷くにいえの存亡、是に在り。勗つとめよ。恭みて天罰を行へ」とのたまふ。天皇、親ら斧鉞まさかりを操りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制とらむ。筑紫より西を汝制れ。専賞罰たくめたまひものつみを行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ」とのたまふ。
 継体二十二年戊申(五二八)の冬十一月甲寅朔甲子(十一日)に、、大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の帥磐井と、筑紫の筑紫御井郡に交戦ふ。旗鼓相望み、埃塵ちり相接げり。機を両つの陣の間に決さだめて、萬死みをすつる地を避らず。遂に磐井を斬りて、果して橿場さはひを定む。十二月に、筑紫君葛子、父のつみに坐りて誅つみせられむことを恐れて、糟屋の屯倉を献りて、死罪贖あがはむことを求まうす。


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