2019年8月13日

古田史学会報

153号

1,誉田山古墳の史料批判
 谷本 茂

2,河内巨大古墳造営者の論点整理
 倭国時代の近畿天皇家
 日野智貴

3,『日本書紀』への挑戦
《大阪歴博編》
 古賀達也

4,「壹」から始める古田史学十九
「磐井の乱」とは何か(3)
古田史学の会事務局長 正木 裕

5,割付担当の穴埋めヨタ話
 玉依姫・考Ⅱ

 編集後記 西村秀己

 

 

古田史学会報一覧

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「壹」から始める古田史学・二十 磐井の事績 正木裕(会報154号)


「壹」から始める古田史学・十九

「磐井の乱」とは何か(3)

古田史学の会事務局長 正木 裕

一、「磐井の乱」についての前号までの経緯

 これまで二回にわたって『書紀』に記す「磐井の乱」を分析してきましたが、まず最初にその経緯を箇条書きで振り返ってみます。

➀大和朝廷が七二〇年に編纂した『日本書紀』には、継体天皇時代に「筑紫国造磐井」が起こした謀反(「磐井の乱」)が次のように記されている。
◆「ヤマトの継体天皇は、継体二一年(五二七)に、新羅に奪われた南加羅を復活するため、近江毛野臣を渡海させようとした。ところが筑紫の国造磐井が妨害し、謀反を起こしたので物部麁鹿火に命じ討伐させた。」

➁しかし、『安閑紀』では継体の崩御日に安閑が即位したと記すが、『継体紀』では継体崩御は五三一年辛亥で、『安閑紀』の安閑即位五三四年甲寅と「三年」ずれる。

③この原因は、継体の崩御は「在る本」に言う「五三四年甲寅」であるものを、『百済本記』に記す「五三一年辛亥」の「日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨みまかる」にあわせ、実際より「三年繰り上げ」たことにある。(「日本天皇」を継体とした)

④この結果、五二八年とする磐井の死も「玉突き」で「三年繰り上げ」られたものとなっている。従って「実際の磐井の死」は「三年後」の五三一年となり、『百済本記』の「天皇崩御年」と一致することになる。(「日本天皇」は磐井となる)。(注1)

⑤磐井の乱の発端となった、継体二一年(五二七)の毛野臣の半島出兵の目的は、「新羅に奪われた南加羅復活」だとあるが、南加羅が新羅に奪われたのは継体二三年(五二九)から二四年(五三〇)。従って、毛野臣の出兵記事も「三年繰り上げ」られており、実際は五三〇年のこととなる。

⑥しかも南加羅が新羅に奪われたのは、任那に駐在する「毛野臣の誤り」とあるから、五三〇年に半島に出兵したのは毛野臣ではない。

⑦『書紀』で「陰ひそかに叛逆そむくことを謨はかる(謀反の思いを抱いた)」などという「磐井の悪行記事」は、実際は「心に翻背かへりそむくことを生す」とか「人と為り傲もとり恨いすかはしく」「倜儻たかほに意の任まま」にふるまうとある「毛野臣の半島における事績(悪行)」と一致する。これは「磐井と毛野臣が入れ替えられていることを示す。

⑧そうであれば、五三〇年に半島に出兵したのは「磐井」となり、これを妨げようとしたのが「毛野臣」となる。

⑨以上の分析から、五二七年~五二八年の「磐井の乱」の実際は、五三〇年~五三一年に、磐井が「毛野臣の謀反」を鎮め、新羅に奪われた南加羅を復活するため、半島に兵を派遣したという事績を、『書紀』編者は逆転させ「磐井の謀反」のように見せかけたものだったと考えられる。

 以下、こうした考察をもとに、「物部麁鹿火への磐井討伐令」の実際を検討していきます。

 

二、改変された「磐井討伐令」

1、継体の「麁鹿火への磐井討伐令」と「麁鹿火」の奏上

 『書紀』継体二一年(五二七)条には、継体が磐井討伐を物部麁鹿火に命じ、麁鹿火がそれに応え奏上したことが記されています。
 しかし、この記事も「三年ずれ」れば五三〇年のこととなります。そして謀反を起こしたのが「毛野臣」であれば、以下の「継体が物部麁鹿火に磐井討伐を命じた」記事は、『書紀』編者によって造作されたもので、実際は「磐井が物部麁鹿火に毛野臣討伐を命じた」記事となるはずです。

㋐継体二一年(五二七)秋八月の辛卯の朔に、詔みことのりして曰のたまはく、「咨、大連おおむらじ、惟これここの磐井率したがはず。汝いましきて征て」とのたまふ。

㋑物部麁鹿火大連、再拝をがみて言さく、「嗟、夫れ磐井は西の戎ひなの奸猾かだましきやつこなり。川の阻さがしきところを負たのみて庭つかへまつらず。山の峻たかきに憑りて乱みだれを称ぐ。徳いきほひを敗やぶりて道に反そむく。侮あなづり嫚おごりて自ら賢さかしとおもへり。在昔むかし道臣みちのおびより、爰ここに室屋に及いたるまでに、帝きみを助まもりて罰つ。民おほみたからを塗炭くるしきに拯すくふこと、彼も此も一時もろともなり。唯天あめの賛たすくる所は、臣やつこが恒つねに重おもみする所なり。能く恭つつしみ伐たざらむや」とまうす。

㋒詔して曰はく、「良将すぐれたるいくさのきみの軍いくさだちすること、恩めぐみを施して恵うつくしびを推し、己を恕おもひはかりて人を治む。攻むること河の決くるが如し。戦ふこと風の発つが如し」とのたまふ。重また詔して曰はく、「大将おほきは民の司命いのちなり。社稷くにいへの存亡ほろびほろびざらむこと、是に在り。勗つとめよ。恭みて天罰あまつつみを行へ」とのたまふ。

㋓天皇すめらみこと、親みずから斧鉞まさかりを操りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕われむ。筑紫より西を汝制れ。専賞罰たくめたまひものつみを行へ。頻しきりに奏もうすことに勿わづらひそ」とのたまふ。

 しかし、㋑の物部麁鹿火の奏上にみえる「道臣」は「大伴氏」の祖で、室屋は「大伴金村」の祖父ですから、「歴代の大伴氏」の功績を称えたことになり、これはありえないことです。従って、ここでは大伴金村と物部麁鹿火が入れ替えられており、本来「五三〇年に磐井が大伴金村に毛野臣討伐を命じた記事」だったことになるでしょう。そして、毛野臣は半島に駐在していたのですから、大伴金村へは「半島への出兵」を命じたことになります。

 

2、五三〇年の半島への「目頰子めづらこ」派遣

 そして、その五三〇年に、加羅騒乱をおこした毛野臣の召喚のため、半島に「目頰子めづらこ」が派遣されているのです。
◆継体二四年(五三〇)冬十月に、調吉士、任那より至りて、奏して言さく、「毛野臣、人ひとと為り傲もとり恨いすかはしくして治体まつりごとを閑ならはず。竟つひに和解あまなふこと無くして、加羅を擾乱さわがしつ。倜儻たかほに意こころのままにして、思ひて患うれひを防がず」とまうす。故かれ、目頰子めづらこを遣つかはして徴召す。〈目頬子は未だ詳つばひらかならず。〉
 是の歳。毛野臣召されて、対馬に到りて、疾やまひに逢ひて死ぬ。送葬はぶるときに、河の尋ままに近江に入る。其の妻歌ひて曰はく、
 枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る

 目頬子、初めて任那に到る時に、彼そこに在る郷家等いへひとども、歌を贈りて曰はく
 韓国を 如何に言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡を 目頬子来る

 目頰子の渡海に際し、半島の郷家(在外邦人か)等が「韓国を 如何に言ことそ」との歌を贈っています。この歌は目頰子渡海が、「韓国全体の命運」に係る出来事であることを示しています。そして、五二七年記事に毛野臣の兵は「衆六万」と書かれていますから、「三年ずれ」て五三〇年なら、実際には「目頰子が衆六万を率いて渡海」することになります。このような大軍を送る目的は、決して毛野臣を召喚するだけでなく、その背後にいる新羅を討伐し、南加羅を復活することであるのは確実です。文字通り新羅と雌雄を決する大戦で、「社稷くにいへの存亡、是に在り」との言葉は極めてリアリティの高いものだったのです。

 

三、大伴金村の新羅討伐

1、狭手彦の派遣と目頬子の派遣

 「麁鹿火への磐井討伐令は磐井による大伴金村への毛野臣討伐令」だと言いましたが、実は、ずばり大伴金村が新羅討伐を命じられ狭手彦を派遣した記事が、宣化二年(五三七)「十月」に存在します。
◆宣化二年(五三七)冬十月の壬辰の朔に、天皇、新羅の任那に冦あたなふを以て、大伴金村大連に詔して、其の子磐いはと狭手彦を遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓みつのからくにに備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加また百済を救ふ。

 ここに「新羅の任那に冦ふを以て」とありますが、安閑紀と宣化元年・二年にその様な事件の記事はなく、新羅に関しては、継体二四年(五三〇)の毛野臣をめぐる任那・百済・新羅を巻き込んだ騒乱が最も直近の事件でした。そして、「目頬子」の派遣目的は「狭手彦」の派遣目的とよく合致します。つまりこの記事は、「実際には五三〇年の出来事」であり「目頬子とは狭手彦を指す」可能性が高いのです。ちなみに先掲の「目頬子派遣記事」も年は違いますが同じ「十月」でした。

 

2、筑紫の国政を執った「磐」とは

 『書紀』宣化二年(五三七)記事に「其の子(*大伴金村の子)磐と狭手彦を遣して、任那を助けしむ」とあります。「狭手彦」は『書紀』に度々登場しますが、「磐」は全く見えません。
 そして、「磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ」とは、「磐」は「筑紫国造(『書紀』)・筑紫の君(『古事記』『筑後国風土記』)磐井」と同じ「筑紫国の執政」であり、対新羅戦全体の長に相応しいことを意味します。
 古田氏は『書紀』に引用する『百済本記』の「委の意斯移麻岐彌」(*通説では「やまとのおしやまきみ」と読む)を、「委の意斯いしの移麻岐彌いまきみ」、つまり「倭国の磐の今君」であり「磐井」のこととしました(注2)。これは「磐井」(『古事記』には「石井」)の漢風諡号が「磐(或いは石)」であることを示します。
 結局、本来「倭国(九州王朝)の政を執る筑紫の磐井が、五三〇年に大伴金村に新羅討伐を命じ、金村は息子狭手彦を半島に派遣した」記事を、『書紀』編者は、磐井の死後の五三七年に移し「ヤマトの宣化が大伴金村に新羅討伐を命じ、金村は息子狭手彦を半島に派遣した。息子磐は筑紫の政を執った」と潤色したことになるでしょう。

 

四、磐井の死とは

 『百済本記』五三一年辛亥の「日本天皇」らの崩御が磐井一族を指すとすれば、その経緯はなんでしょうか。
➀古田氏は『失われた九州王朝』(一九七三年)では「継体と麁鹿火の侵攻」によって「磐井王朝は滅亡した」としました。ただ、九州年号の継続や「日出る処の天子」多利思北孤を九州王朝の天子とする考察から、その後に説を改められ、

➁『法隆寺の中の九州王朝』(一九八四年)では友軍として筑紫内陸部に入った物部軍が「突然の挙兵」により磐井を斬った。ただ半島の倭軍、肥後の軍により磐井の後継の「葛子側が大勝を博したのではないか」、「糟谷屯倉献上も継体側の譲歩(近畿側の屯倉献上等)の存在した可能性がある」と述べています。(*「継体・物部によるクーデター」説)

③そして、二〇〇三年八月以降九州年号の継続等から「磐井の乱も継体の乱も、乱そのものも無かった」「磐井の乱全体が虚像である」(『古田武彦と百問百答』二〇〇六年。『古代に真実を求めて』第八集二〇〇五年)との立場をとり、『百済本記』の「日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨」は「同時点での事件ではなく、先例(倭王武の上表にある『にわかに父兄を喪う』等の事件)の可能性がある」としています。
 もし、大伴金村や「目頬子(狭手彦)」ら磐井の大軍が半島に出兵し、磐井が「筑紫に留」っていたなら、➁のケースのようにクーデターで「磐井と太子・皇子は倶に崩薨みまかる」という事態は起こり得るでしょう。
 そうではなく、磐井が「祖彌そでいみずから甲冑を環つらぬき、山川さんせんを跋渉ばっしょうし、寧処ねいしょに遑いとまあらず。」という「倭王武」の上表にあるように、結局自ら半島に出兵することになったなら、「武」が「父兄をにわかに喪った」ように、新羅との戦闘の中で「磐井と太子・皇子」が共に没した可能性があります。
 また、「乱そのものも無かった」なら、磐井は何らかの原因で崩御し、葛子が後を継いだことになります。(注3)

 

五、「長門より東をば朕制む。筑紫より西を汝制れ」

 継体は麁鹿火に「長門より東をば朕制む。筑紫より西を汝制れ」と詔を下したことになっています。古田氏は『失われた九州王朝』では「継体と麁鹿火の磐井の支配地の分割」だとしました。「物部氏のクーデター」であればそうした「構想」の存在も否定できません。

 しかし、これまで見てきたように『書紀』編者は、
➀「磐井の乱」記事では磐井と毛野臣を入れ替え、

➁「磐井討伐令」では磐井を継体に、大伴金村を物部麁鹿火に入れ替え、

③「日本天皇」を磐井でなく継体のことだとしています。

 そのうえ、物部麁鹿火への磐井討伐令と麁鹿火の奏上は「全文が芸文類聚、武部の戦伐・将師条の諸書をつなぎ合わせて成立っており、句の順序を変えたり、人名・地名を入れ換えたりしたもの。(岩波注釈)」です。

㋓記事の「天皇すめらみこと、親みずから斧鉞まさかりを操りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕われむ。筑紫より西を汝制れ。専賞罰たくめたまひものつみを行へ。頻しきりに奏もうすことに勿わづらひそ」とのたまふ。」も、『芸文類聚』に見える『淮南子』の「主親操鉞、授将軍曰・・・將軍制之」及び『漢書』の「闑以内寡人制之、闑以外將軍制之」を改変し創作されたものです。
 従って「支配地分割」は、磐井討伐によって九州はヤマトの天皇家の支配に復した、我が国全てがヤマトの天皇家の統治するところとなったと主張するため創作された「架空の記事」である可能性が高いと考えます。
 そして、「寡人かじん」とは天子の自称であり、「闑げつ」とは郭門(かくもん 城の外郭の門)ですから、「長門より東をば朕制む。筑紫より西を汝制れ」は『漢書』の記述に沿えば、本来は「闑=宮城の中(内政)」は天子=磐井が制とりしきり、「外=半島の軍事(外政)」は将軍(大伴金村又は狭手彦)に任せる」という意味となるのです。
 これはまさに「磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加また百済を救ふ。」の内容そのものだったのです。

 

六、『筑後国風土記』の「磐井の乱」

 『筑後国風土記』逸文の「古老伝えて云へらく」以下の後半で「磐井は官軍(継体の軍)によって滅ぼされ、石人・石馬は破壊された。これにより上妻の県に篤き疾が多い」と記していますが(注4)、前半の磐井の墳墓(岩戸山古墳)記事では、石人・石盾各々六十枚が整然と並び、石人は「縦容しょうよう」と立っているとあります。
 これは、後半の「官軍動発」し磐井を滅ぼす段の、継体側の兵の怒りに任せた狼藉の結果、石人の手は撃ち折られ、石馬の頭も打ち堕とされているという姿とはかけ離れています。古田氏は「葛子側が大勝を博した」との➁の立場では、石人・石馬破壊や「上妻の県に篤き疾が多い」のは白村江敗戦後唐の進駐軍の蛮行によるとしました。
 しかし前半の石人・石盾の描写からはそうした破壊の跡は感じられず、また進駐軍の蛮行があったとしても六六〇年代のこと。これが原因で五〇年以上離れた七一三年以降の『風土記』編纂時に「篤き疾が多い」というのも不可解です。
 『続日本紀』の七〇〇年・七〇二年には薩摩姫や肥人らによる大和朝廷支配への武力による抵抗が記されています。これは七〇一年の大和朝廷による律令制定・大宝建元という倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への「王朝交代」時の騒乱だと考えられます。従って『筑後国風土記』の「磐井の乱」は七〇〇年以前九州王朝時代の「県あがた風土記」による前半部に、七一三年以後の大和朝廷時代に作られた後半部が付加されたものと考えれば(注5)、「王朝交代時」の戦闘で石人・石馬が壊され、また「上妻の県に多く篤き疾やまひ有る」というのも戦闘で多数の負傷者が出、『風土記』編纂時点でもなおその傷が癒えていなかったことを示すものとして理解できます。
 『筑後国風土記』は、こうした大和朝廷の武力による弾圧を直接には表現できなかったため、遥か過去の磐井の乱当時のこととして記述したのではないでしょうか。七二〇年完成の『書紀』も、七一三年に編纂が命じられた新たな『風土記』も大和朝廷の手によるもので、我が国は遥か過去からヤマトの天皇家が統治してきた、筑紫の磐井もその配下の一員だったが、六世紀初頭に反乱を起こし討伐された。以後九州は元のヤマトの支配に戻ったが、八世紀初頭に再び反乱を起こしたので討伐した。そうした「名分」を示す為、様々に人物や年代を入れ替え「磐井の乱」記事を編纂したのだと考えられるでしょう。
 二〇二〇年は『書紀』編纂一三〇〇年にあたりますが、こうした『書紀』の欺瞞を一つ一つ明らかにしていくことが、ますます重要になるのではないでしょうか。


(注1)なお五三一年に九州年号は「教到」に改元され、これは磐井の崩御と整合する。

(注2)◆『書紀』継体七年夏六月に、百済姐彌文貴さみもんくゐ将軍・州利即爾つりそに将軍を遣して、穂積臣押山<百済本記に云はく、委の意斯移麻岐彌といふ>に副へて、五経博士段楊爾だんようにを貢る。
 「委の意斯移麻岐彌」が磐井であれば、この「副へて」は挿入句で、本来「将軍らを遣して、委の意斯移麻岐彌(磐井)に五経博士段楊爾を貢る」だったと考えられる。なお「倭」の上古の読みは「ゐ」で「委」は倭国を指す。

(注3)原因として、『善光寺縁起』に「金光元年(五七〇)庚寅歳天下皆熱病」とあるような天然痘などの病のほか、九州王朝内部での抗争の可能性等が考えられる(古賀達也氏の示唆による)。
 なお「磐」が磐井の漢風一字諡号であれば、「葛子」とは「葛」という漢風一字諡号をもつ九州王朝の大王(天子)だった可能性もある。

(注4)『筑後国風土記』「俄かにして官軍動発おこりて襲わんとするの間に、勢の勝つまじきを知りて、独り自ら豊前国上膳かみつけの県に遁れ、南の山の峻さかしき嶺の曲くまに終みうせき。」
 なお磐井の乱関係全文は会報一五一号に掲載。

(注5)『風土記』には「郡風土記」と「県風土記」があり、前者は大和朝廷成立後、後者は概ね大和朝廷以前の「国県制」時代に記されたものと考えられる。


 これは会報の公開です。

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