2017年 4月10日

古田史学会報

139号

1,倭国(九州)年号建元を考える 
 西村秀己

2,太宰府編年への
 田村圓澄さんの慧眼
 古賀達也

3,「東山道十五国」の比定
西村論文「五畿七道の謎」の例証
 山田春廣

4,「多利思北孤」 について
 岡下英男

5,書評 倭人とはなにか
漢字から読み解く日本人の源流
 竹村順弘

6,金印と志賀海神社の占い
 古賀達也

7, 『大知識人 坂口安吾』大北恭宏
 (『飛行船』二〇一六年冬。
 第二〇号より抜粋)

8,文字伝来
 服部静尚

9,「壹」から始める古田史学Ⅹ
 倭国通史私案⑤
 九州王朝の九州平定
 ―糸島から肥前平定譚
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧

前畑土塁と水城の編年研究概況 (会報140号)


金印と志賀海神社の占い

京都市 古賀達也

 志賀島の金印「漢委奴国王」が本来は糸島の細石神社にあったものだったとする伝承の存在を古田先生が紹介されています。そのこととは直接関係はありませんが、志賀島の志賀海神社が金印を神寳にしようとしていたという記録の存在を知りました。
 本年一月、友好団体の「九州古代史の会」主催、井上信正さん(太宰府市教育委員会)の講演を聴きに福岡市に行ったとき、早く会場についたので会場近くの図書館で時間待ちをしました。そのおり、福岡地方史研究会の『会報』第二四号(昭和六〇年四月)に掲載されていた塩屋勝利さんの「『漢委奴国王』金印をめぐる諸問題(上)」が眼に留まりました。天明四年(一七八四)二月に志賀島村叶の崎から発見された金印の発見当時の史料紹介と考察ですが、今まで知らなかったことが記されており、興味深く拝読しました。
 中でも、志賀島の志賀海神社が、発見された金印を同社の神寳にしようと占ったが、良い結果が出なかったので断念し、黒田藩に提出したことが記されていました。志賀海神社宮司阿曇家本『筑前国続風土記附録』にみえる次の記事です。

 「明神の境地より得たる故、神寳とせん事を占ひしに神鬮下らざる事再三也といふ。故に府呈に呈けしとなり」(古賀注=「府呈」の「呈」は衍字か。)

 わたしの持っている『筑前国続風土記附録』活字本にはこの記事が見つかりませんので、志賀海神社宮司阿曇家本にのみ付記された記事のようで、志賀海神社内の記録に基づいているのかもしれません。いずれにしても志賀海神社は金印が志賀島から出土したと認識していることがわかります。
 金印を発見したとされる志賀島村の百姓甚兵衛については記録がなく不審とされてきましたが、寛政二年(一七九〇)の『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳』中冊に同名の「甚兵衛」が見えるとのこと。さらに『粕屋郡志』(粕屋郡役所編、一九二三年刊)には、「村の農坂本甚兵衛」と姓名が記されていることが紹介されています。
 そして、甚兵衛のその後の消息が不明になった理由として、地元の「甚兵衛火事」伝承と関係があるのではないかとされています。伝承では「甚兵衛火事」は一八一一年(文化八年)とされているが、藩の記録では見あたらず、一八〇九年(文化六)の火災のことで、甚兵衛は火元の責任を取って志賀島を去ったと思われるとされています。少なくとも地元に「甚兵衛」と呼ばれる人物がいた証拠にはなりそうで、興味深い伝承です。
 金印は志賀島で発見されたのではないとする意見の根拠の一つとして、志賀島村叶の崎付近には弥生時代の遺跡が見つからないということが指摘されています。しかし、金印が弥生時代に埋納されたという根拠もなく、歴代の倭王に相続された可能性も考えられ、そうであれば弥生時代の遺跡の存在の有無は関係ありません。中国からもらった金印が倭王一代のみで埋納されるとするのも、やや違和感があります。金印について、引き続き調査検討したいと思います。
(追記)本稿執筆の夜、古田先生に本稿の内容を報告する夢を見ました。先生がうれしそうにメモを取られているところで眼が覚めました(二〇一七年二月十五日)。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"