2008年 2月11日

古田史学会報

84号

 

トロイの木馬
 冨川ケイ子

明日香皇子の出征と
書紀・万葉の分岐点
 正木裕

自我の内面世界か
 俗流政治の世界か
『心』理解を巡って(二)
 山浦純

『 彩神(カリスマ)』
 シャクナゲの里(5)
 深津栄美

松本深志の志に
 触れる旅
輝くすべを求めて
 松本郁子

高良大社系古文書
 と九州王朝系図
 飯田満麿

年頭のご挨拶
 水野孝夫
 書評 松本郁子著
『太田覚眠と日露交流』
 事務局便り

 

古田史学会報一覧

ホームページに戻る


 


高良大社系古文書と九州王朝系図

奈良市 飯田満麿

はじめに

 高良大社の周辺には、同社の由来を伝える一般に「高良記」と呼ばれる多くの古文書類が存在する。これらは、同大社創建の由来を伝える縁起類に始まり。大祝家の継嗣を綿々と伝え、又その家系の分岐を事細かに書き伝えて来た。近世に至って、その保存と普及を図る目的で、その一部が活字化され出版された。『高良玉垂宮神秘書』『稲員家系図』などが現存する。『筑後将士軍談』もその系統に属する。
 古田武彦氏によって、その存在を論証された、「九州王朝」の、根拠地だった可能性の高い、筑後の高良山に由来する膨大な文書群であるが、「九州王朝」の全貌を明確に指し示すような記事類は未発掘のままであった。
 然るに二十世紀の終盤一九九九年に至り、高良大社、大祝家に秘蔵されていた「明暦・文久本、古系図」コピーが古田武彦氏の手元にもたらされた。同氏は早速この貴重な史料の分析検証を実行され、論文『高良山の「古系図」ーー「九州王朝の天子」との関連をめぐって』を古田史学会報第三五号(一九九九年一二月一二日発行)に発表された。
 それによると、極めて系統立てて記載されている同系図中、「高良玉垂命神」より始まる二八代は、代々の呼称中に「連」字を記し、「九州王朝」天子の系列である可能性を含み。尚かつ、同書中に高良玉垂命神の高良山来臨、仁徳治天五五年九月一三日(三六七年)、と明示されていることから敷衍し、高良玉垂命・一八代神天子連家を「隋書」に名高い多利思北孤に比定され、更に同二四代・神面土連篤を薩夜麻に比定された。
 見慣れない漢字五字乃至四字の呼称ながら、従来空白とされてきた、七〜八世紀の倭国王の系列を明示する、画期的発見であった。しかしながら、これほどの大発見も、今日に至るまで、万人の諸手を挙げての賛同は得られていない。

 

「明暦・文久本、古系図」へのアンチテーゼ

 「明暦・文久本、古系図」は明快な論旨を含み、否定しがたい真実を含むと考えられるが、同じく高良大社系古文書「稲員家系図」に、これを牢固としてはねつける記事が存在する。重要な証拠を成すので、全文を収録する。

★「稲員氏先祖以来、年数及び代数記」
元祖孝元天皇曾孫玉垂命物部連公ヨリ三十三代美濃理麻呂保続有五男。
白鳳二年癸酉、五家ニ別宅ス。至延暦二十年辛巳星霜百二十九年、右保続ノ五男自連成至
保帯九代高良山ニ住ス号草壁氏。

 右記の記事によれば、三十三代美濃理麻呂は白鳳期の当主で、「明暦・文久本、古系図」分析で示された古田武彦氏の二十四代神面土連篤が白鳳期の薩夜麻とする比定は成立しない。記事が存在する限り、その事実を、自説の主張の為に無視し破棄する事は許されない。此は真実追究上の大原則である。僅か数行の記事ながら、その持つ意味は限りなく重く大きい。 しかしながら、系統を同じくする古文書中に、真っ向から対立する記事が共存するとすれば、いずれかに思い違い、又は誤写、誤記載が存在すると考えて誤りは無い。以下いずれに過誤があるか検証する。

 

「稲員氏先祖以来、年数及び代数記」の検証

 上記文書中の年代について分析する。白鳳二年癸酉を「東方年表」で確認すると(AD.六七四年)である、但し干支は甲戌であり、文書の記載と一致しない。もう一つの年代、延暦二〇年辛巳を調べると(AD八〇一年)辛巳で干支も一致する。記事中に星霜一二九年とあることから、(八〇一年)から一二八年遡れば(六七三年)癸酉となる。この検証から記事中の白鳳二年は白鳳元年の誤記の可能性がある。
 又「九州年号」を調べると、同じく白鳳年号が存在し(六七三年)は白鳳十二年に相当する。従ってこれを誤写した可能性も否定できない。但しこの文書の成立が『続日本紀』成立の延暦十六年(A.D.七九七年)の間近であることから、同書にのみ出現する、私年号白鳳元年の誤写の可能性が高い。いずれにせよ年号白鳳の年次は信頼できない。取り敢えず干支「癸酉」に信頼を見いだせるが、白鳳年号のみではこの記事の信憑性を確定する事は出来ない。
 今ひとつの方法がある。「九州年号」は「古田史学の会」の前身「市民の古代」以来の最重要研究課題で、十数年の研鑽を経て、ようやく確定に至った。但し此に対応する王名表が未確定のため、未だに公的存在を認められていないが、対応西暦が確定しているので、研究上の手段として、大いに有効である。「九州年号」は継体(五一七年)に始まり大長九年(七一三年)に幕を閉じる三十二個の年号である。同年号は高良玉垂命七代日光玉一連に始まると推定されるので、美濃理麻呂まで年号に対応する、二十七人の当主が存在する。
 『太宰管内誌』によれば多利思北孤の初年は「端政」(五八九年)であり、同時並行的に使われたと推測される「法興」年号は、元年(五九一年)、六年(五九六年)、三一年(六二一年)の三回出現し、金石文等で確認されているので。多利思北孤=神天子連家であれば年号「端正」から「倭京」までは同一天子の年号となり、五個重複する、又日光玉一連から神仲熊連豊まで十一代で十六個の年号が使用されているから、ここでも五個が重複する。白鳳以降の四個の未使用を加算すると、三十二個マイナス十四個イコール十八個となる。二十七人に対応する年号は白鳳まで十八個しか存在しない。その呼称から天子系列から外れると推測される、高麻呂以下五人を除外しても二十二人対十八個の関係が計算できる。
 此は明らかな矛盾で、美濃理麻呂の生存期間設定に、絶対的無理が存在する証拠である。今「稲員氏先祖以来、年数及び代数記」記事中最も信頼性の高い記事、干支「癸酉」を活用して、一元・六十年間時代を繰り下げれば、(七三三年)癸酉が得られる。ここまで美濃理麻呂の存生を下げれば、対象天子二十二名対象年号二十二個となり、矛盾は完全に解消される。
 思うに「稲員氏先祖以来、年数及び代数記」の記載に当たって、元史料の「癸酉」を何らかの理由で一元繰り上げる判断の下、白鳳二年癸酉と誤記したと判断して大過あるまい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"