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九州王朝の築後遷宮ーー玉垂命と九州王朝の都(新・古代学第4集) 古賀達也
「日出ずる処の天子」の時代ーー試論・九州王朝史の復原(新・古代学第5集) 古賀達也


古田史学会報
1999年12月12日 No.35

高良山の「古系図」

「九州王朝の天子」との関連をめぐって

古田武彦

 一

 今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「イ妥<たい>国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
 その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。(左図参照)

明暦・文久本、古系図(図は略)

 この古系図は、すでに久しく、貴重な文書としてわたしたちの認識してきていた「古系図」(稲員・松延本)と、多くの共通点をもつ。特に、今回の主たる考察対象となった前半部 に関しては、ほぼ「同型」と見なすことができよう。
 しかしながら、古文書研究、歴史学研究にとって「同型・異類」写本の出現は重大だ。ことに当本のように、従来の古代史研究において、正面から採り上げられることの少なかった当本のような場合、このような別系統本の入手の意義はまことに決定的だ。しかも、当本は「高良山の大祝家」の中の伝承本であるから、先の「稲員・松延本」と共に、その史料価値のすぐれていること、言うまでもない。

 

 二

 今、当本の全体像を紹介しよう。

<その一>孝元天皇より屋主忍武雄心命に至る。(三代)
<その二>高良玉垂命神より朝日豊盛命神に至る。(二代)
<その三>物部日良仁光連より日往玉尊連に至る。(六代)
<その四>日明玉連尚より公賢皇連岩に至る。(二十代)
<その五>高麻呂連時より星明麻呂保重に至る。(二十六代)
<その六>保家より定儀に至る。(五十七代)
<その七>称とその子供六人(二代)
<その八>明暦三年の奥書、物部安清
<その九>古文書目録(十四種)
<その十>文久元年の奥書、物部定儀誌

 以上である。

 

 三

 それぞれの史料性格を吟味しよう。

 第一、冒頭の「孝元天皇」問題は、すでにわたしにとって、「解決」を見ていた。新撰姓氏録に対する三宅利喜男さん(古田史学の会)の研究成果に基づくと、「皇別」が圧倒的に集中する(一〇八家)ところは「孝元」だ。その「孝元」とは、いわゆる「皇暦」(日本書紀の「暦」)によれば、「前二一四〜前一五八」である。紀元前三世紀末から二世紀前半の頃だ。すなわち、いわゆる「天孫降臨」の時間帯である。これがわたしの根本をなす判断だった。
 圧倒的多数の「一〇八家」は、“我は、ニニギノミコトの天孫降臨以来、倭国(九州王朝)に帰属してきた。”と、これを誇りにしていたのだ。これに反し、文字通りの「孝元」というのでは、意味不明である。なぜなら、記・紀とも「孝元」の代には何等“目立った事蹟は存在しない”からである。

 右の事実は、左の二点をしめす。

  1) 記・紀の「天孫降臨」記載は、「年時」におて、全くの虚構である。

  2) わたしは早くより、「天孫降臨」を史実の中核と見なしてきた。福岡県を中心とする、弥生期の「前末・中初」の画期線を以て、その史実の反映と見なしてきたのである。
 従来の考古学編年では、右は「前一〇〇前後」(前期は、前三〇〇〜前一〇〇、中期は前一〇〇〜後一〇〇、後期は後一〇〇〜後三〇〇)とされてきたけれど、最近は「年輪測定法」によって、右はさらに「一〇〇〜五〇年」さかのぼることとなった。従って右の「前末・中初」は「前二〇〇〜前一五〇」頃となろう。すなわち「皇暦」のしめす「孝元」の時間帯である。これが「天孫降臨」の大略の実年代なのである。

 従って本稿で扱うべきこの「古系図」においても、この「孝元」が始源とされているのは、きわめて“リーズナブル”だ。すなわち「天孫降臨」のニニギノミコトを「始源」とする系図という性格だったのである。


第二、<その二>の高良玉垂命神は、この「古系図」内の注記に

「仁徳天皇治天五十五年九月十三日」

とあるように、「仁徳五十五(三六七)」に当山(高良山)に来臨した、という所伝が有名である。
(高良大社の「高良社大祝旧記抜書」<元禄十五年壬午十一月日>によって分析。古田『九州の真実--六〇の証言』かたりべ文庫。のち、駸々堂刊。)
 中国の南北朝分立(三一六)以後、高句麗と倭国は対立し、撃突した。その危機(高句麗の来襲)を怖れ、博多湾岸中心の「倭国」(弥生時代)は、その中枢部をここ高良山へと移動させたようである。それが右の「仁徳五十五<皇暦>」(三六七)だ。
 それ故、高良大社は、この「高良玉垂命神」を以て「初代」とする。

 第三、従って右の「天孫降臨」(孝元)と「玉垂命」(仁徳)の間は、この「古系図」では、「二代」(彦太忍信命・屋主忍武雄心命)しか記されていないけれど、これは「X(エックス)代」各代の“集約形”と見なさなければならぬ。

 たとえば、古事記の神代巻の末尾で故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に伍佰捌歳(五百八十才)坐しき。として、一名の「ヒコホホデミノミコト」を以て「五八〇年」(二倍年暦とすれば、二九〇年) の各代の“代表名”としているのに、まさに同している。

第四、高良玉垂命神には「九子」があったとされている。
(1)斯礼賀志命神、(2)朝日豊盛命神、(3) 暮日豊盛命神、(4)渕志命神、(5)谿上命神、 (6)那男美命神、(7)坂本命神、(8)安子奇命神、(9)安楽応宝秘命神、

筑前(竈土神社)や筑後各地やその周辺に「九躰の皇子」の稱は著名であるが、それは右の「九子」を指している。この点、後述する。

 第五、右の「九子」中の第二子「朝日豊盛命神」を「元祖」として、この「古系図」は展開している。それらはいずれも、末尾が「連(つら)」(「むらじ」ではない。)という称号で結ばれている。(注1. )
<1>物部日良仁光連、<2>日往子明連、<3>日男玉頼連、<4>神力玉依連、<5>日光玉一連、<6>日往玉尊連、

 第六、次いで、右の「連」のあとに「和風一字名称」を添える時期が来る。
 1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩
 このグループについても、後述する。

 第七、高麻呂連時より星明麻呂までは「麻呂」という、明白に「臣下の位階」をしめす称号をそなえている。この点、右の 20.公兼皇岩というような「皇」字をもちえた時代とは、明らかに異質だ。

 一言でいえば、「天子時代(皇)」と「臣下時代(麻呂)」の“ちがい”だ。刮目すべき差異である。

 

 四

 この「古系図」に対する、わたしの史料批判の根幹をのべよう。

 先ず、わたしは隋書イ妥*国伝に対して次のように分析してきた。『失われた九州王朝』(現、朝日文庫)以来である。

 1. 「日出ずる処の天子」を称した多利思北孤は、推古天皇や聖徳太子ではなく、「九州王朝の天子」である。

 2. なぜなら、多利思北孤は男性であるが、推古天皇は女性である。

 3. 多利思北孤は“第一権力者(天子)”であるが、聖徳太子は“第二権力者(摂政)”である。

 4. 推古天皇や聖徳太子には「タリシホコ」という名称はない。

 5. 従来も太子の名とされたのは「リカミタフツリ」であるが、先頭と末尾が「リ」であるような名辞は、日本語にはない。

 6. 「名太子為利歌弥多弗利」は、「太子を名づけて利と為す。歌弥多弗(カミタフ)の利なり。」と訓む。「利」は仏教的一字名称、「カミタフ」は「上塔」。現在の九州大学の地に「上塔ノ本」「下塔ノ本」(字地名)がある。イ妥国からの国書の主署名が「多利思北孤」、副署名が「(第一行)歌弥多弗利(第二行やや下に)利」と書かれていたものであろう。「利」は“衆生利益”の意。「多利思北孤」の第二字にも、現れている。
 すなわち、彼等(王と太子)は、「和風称号」(多利思北孤)と「一字名称」(利)とを交て用いている。「一字名称」は、当然「倭の五王」以来の伝統の継承である。(注2)

 7. 「阿蘇山有り。火起りて天に接す、云々」は、当然、九州第一の名山の表現である。大和三山や三輪山ではない。また中国人には珍しい「内海」である瀬戸内海の風物も、一切記されていない。

 8. 以上は、従来すでにくりかえしのべてきたところだ。新たに見出された、次の点をのべよう。
 
 「東高く、西下り、邪靡堆(やひたい)に都す。」
 
 従来は(たとえば、岩波文庫)、これを「やまたい」と訓んできた。「靡」を「摩」の“あやまり”と見なしてきたのである。
 しかし、これは、実はありえない。なぜなら隋書国伝は「都斯麻」(対馬)「一支」(壱岐)「竹斯」(筑紫)というように、現地名(筑紫は現地名では「ちくし」)を厳密に表記している。その上、「靡」には「ひ」の音しかない。その「音」を指示すべき?音標文字?として加えられているもの、それが「麻」の下の「非」なのである。ことさら「ひ」の音であることを、明示しているのだ。それを「摩のあやまり」と称するなど、あまりにも法外な「原文改定の手法」だ。わたしには、全く同じえない。それゆえ、これは「やひたい」と訓まねばならぬ。「都」の地に対する、「現地音の表記」なのである。 「やひ」は「八日」。“八つの太陽”の意。「堆(たい)」は、湿地帯に土埋めした領域を指す。(古田『失われた日本』原書房刊、参照)
 多利思北孤は、みずからを「阿毎(あま)」(天)と称し、弟を(日)と呼んだ、という。(イ妥国伝。)従来は、この「弟」を“一人”と「断定」的に考えてきていたけれど、この「弟」は複数存在しうる。八人の弟、つまり「八日」だ。た。「天(あま)である中心王者のもと、「日(ひ)」である、八人の弟たちがこれを支えるところ。」
 この意味をこめた「自称」、それがこの「やひたい」だったのではないか。この「仮説」が、今やわたしの眼に映じてきたのである。すなわち「九躰の皇子」伝説に立つ、歴史に由緒(ゆかり)深き「自称」だったのではあるまいか。とすれば、有名な 「日出ずる処の天子」の名文句も、実は“八つの太陽を出だすところ(「八日堆」)に都する「天(あま)の子」(天神<あまつかみ>の子孫)”を誇示していた「自称」だったこととなろう。----これが新たな「仮説」だ。そしてこの「古系図」理解の柱なのである。同時に、筑紫(筑前と筑後)を中心に、九州の中に数多く分布する「九躰の皇子」伝説に対応する「歴史認識」となるのではあるまいか。

 

 五

  右の「仮説」を基盤として、この「古系図」に相対したとき、一つの重要な「新概念」をうるところとなった。それは、右の
    
 第五、<1>〜<6>
 第六、 1. 〜 20.

の称号をもつ意義である。

 <その一>「連(つら)」は、「津ら」であり、「ら」は「うら」「そら」「むら」などの「ら」である(「ぼくら」の「ら」と同じく、複数形か。力石巌 氏(注3)の説。)。“港の支配者”の意の称号、「海洋民族(海人<あま>族)の長」である。

 <その二>右の第五(六名)と第六(二〇名)を通ずる名称は「神道式戒名」とも言うべきものではないか。これが今回、わたしがこの「古系図」の史料分析をなすべき基礎概念となった。
 仏教において、死後「戒名」の贈られること、周知のごとくである。「〜院〜居士」等の類である。これに対し、神道では「おくり名」(貴人)や、「霊璽」のあることも、当界では知られている。
 これに比し、高良山(大社)の場合、明治維新の「神仏分離」以前は、神仏習合の時代だ。「大祝」(神道)と「座主」(仏教)の両者並存であったこと、周知のごとくであるから、その時間帯の中で、「おくり名」としての「神道式戒名」が存在したとしても、何等不思議ではない。

 右の立場から、第五・第六のケースを分析してみよう。
 仏教の「戒名」でも、その中には“生前の業績や遺業”を、一部分に挿入すること、一般によく知られている。従って「神道式戒名」もまた、「戒名」の一種であるから、この類の一部挿入、もしくは業跡の反映があった、と考えても、決して不自然ではない。

 以上の前提に立って、次の三点に注目しよう。

(A)第六は「一字名称」時代だ。「連」の次の最末尾の一字がそれであるが、このような「和風一字名称」(倭の五王)、そして先述の「仏教的一字名称」(「利」)との間には、命名文化上、何等かの「相関関係」あり、と見なすこと、十分に可能なのではあるまいか。中国的文化(一字名称)の影響である。
 この点、記・紀に現われた、近畿天皇家の「天皇名称(おくり名)」には、その痕跡乃至“同類表現”を見ることができない。この点と、好対照である。

(B)第六の10.には、「神天子連家」がある。「天子」の二字が含有されているのは、この一例だけだ。「日出ずる処の天子」を称した多利思北孤との関連が注目されよう。
 次に、目立つのは、同じく第六の16.「神面土連篤」である。「面土」には“郷土に向う”“郷土にそむく”の意味がある。更に「面縛」の術語がある。

「面縛」----両手を後に縛り、面を前に向ける。
周の武王、紂を伐ち殷に克つ。微子乃ち其の祭器を持ち、軍門に造(いた)り、肉袒・面縛し、左に羊を索(ひ)き、右に茅を把(と)り、膝行して以て告ぐ。
<史記、宋微子世家>

 この語は“王者が降服する際の儀礼”をしめす。この人物の「神道式戒名」に、他に例のない「面土」の表記が入っているのは、或は“降服した王者”であることを、一字もしくは二字として「反映」させているのではあるまいか。唐側の“捕虜”として年月をすごし、帰来をようやく許された、あの薩夜麻、筑紫の君である。(日本書紀の天智十年十一月、及び持統四年十月項)
 他にも、今後、史実との関連の指摘されうる事例を見出すことが可能であると思われる。

 <その三>もっとも決定的な一線、それは第六の終り20.と第七の冒頭との間にある。
 第六 20. 公賢皇連岩
 第七(1) 高麻呂連時
 先述したように、この間に「天子時代」と「臣下時代」との画然たる落差がある。これが「七〇一」の「O・Nライン」(旧「倭国」と新「日本国」との画期線)だ。
 このような“名称上の一大落差”を、後人がみだりに「仮構」しうるものではない。すなわち、他に非ず、史実の反映である。

 

 六

 「古系図」(稲員・松延本)に関しては、すでに古賀達也氏が貴重な研究を発表しておられる。「九州王朝の筑後遷宮」(『新・古代学』第4集)がこれである。
 「九躰の皇子」の理解等において、いささか本稿とは異なる点があるけれど、実はわたしも亦、本稿以前の段階では、古賀氏のように思惟していたのであった。その点、古賀論稿は、本稿にとっての貴重な先行論文と言えよう。
 今、わたしは「国版の九州」の名称についても、この「九躰の皇子」にさかのぼるべき「歴史的名辞」ではないか、と考えはじめている。詳論の日を迎えたい。

 先の稲員・松延氏と共に、今回の古賀壽氏の御好意に対し、深く感謝したい。

 最後に、この「古系図」の二つの奥書を詳記し、今回の本稿を終えることとする。
 (イ)明暦三丁酉年秋八月丁丑日
     高良山大祝日往子尊百二代孫
  <一六五七> 物部安清
  (ロ)文久元年辛酉年五月五日
  <一八六一> 物部定儀誌

(注)
 (1)九子のうち、第二子の朝日豊盛命神の系統図が展開されている点につき、この「古系図」に次の注記がある。

「一男の斯礼賀志命は、朝廷の為の仕臣為り。二男の朝日豊盛命は高良山の高牟礼に居し、筑紫を守護せしめ、子孫累代、相続を為す 」

 この注記についても、別述したい。

 (2)古田『古代史をひらく』(原書房刊、参照。灰塚照明氏の御教示による。)

 (3)古田史学の会々員。福岡市早良区在住。

 

《補論》−−仮説論−−

 「仮説」について、次の四項目をあげてみよう。
 第一、人々は、教科書に書かれたり、学界の通説となっているもの(たとえば「聖徳太子の遣隋使」「推古朝の『日出ずる処の天子』など)は、「仮説」とは思っていない。
 けれども、これはやはり、学問上一個の「仮説」である。いわば、“国家の、国家による、国家のための『定説』”にすぎない。一言にして言えば、一「仮説」である。

 第二、しかし、右の仮説は、本稿でも指摘したように、自然の道理(たとえば男女の別)、自然の言語(たとえば「り」で始まり、「り」で終る言葉)、自然の地理(たとえば阿蘇山と大和三山)と相反している。学問上の仮説としては結局“不合格”なのである。 

 第三、これに対し、わたしの提起する仮説(「倭国=九州王朝」論)は、右の各矛盾をすべて解消した上、逆に、合理的解説が可能となる。

 第四、同じく、今回の「古系図」(明暦・文久本)に対しても、「古系図」(稲員・松延本)と同じく、共にリーズナブルな(理性にかなう)解説を与え(はじめる)ことができたのである。
 それ故、わたしたちが今後の学問の大道としては、明治維新以降の「国家のための、定説」なるものに依然従うべきか、それとも、新しい「人間のための、仮説」を執るべきか、二十一世紀の分岐標の前に今、立たされているのである。

          一九九九・十一月二十三日

                    記了


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜五集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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