2008年 2月11日

古田史学会報

84号

 

トロイの木馬
 冨川ケイ子

明日香皇子の出征と
書紀・万葉の分岐点
 正木裕

自我の内面世界か
 俗流政治の世界か
『心』理解を巡って(二)
 山浦純

『 彩神(カリスマ)』
 シャクナゲの里(5)
 深津栄美

松本深志の志に
 触れる旅
輝くすべを求めて
 松本郁子

高良大社系古文書
 と九州王朝系図
 飯田満麿

年頭のご挨拶
 水野孝夫
 書評 松本郁子著
『太田覚眠と日露交流』
 事務局便り

 

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常色の宗教改革 正木裕(会報85号)


明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点

川西市 正木裕

一、万葉歌の中の「明日香皇子」

 古田武彦氏は「壬申大乱」に於いて、高市皇子を歌ったとされる万葉一九九番を始めとする一連の人麿の歌は、「明日香皇子」が朝鮮半島に出征し、勇敢に戦ったが、唐の捕虜となり行方不明となった事実に関して歌われたもので、明日香皇子こそ九州王朝の天子「筑紫君薩夜麻」であったとされた。本稿では古田説を基に、こうした明日香皇子の姿を、万葉集と対比しつつ書紀の中に探っていきたい。
 まず万葉万葉一九九番歌の分析から始めよう。

I 万葉一九九番歌 (高市皇子尊城上  殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首)

 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に 久堅の 天つ御門を 畏くも 定め賜ひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 吾大王の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山超えて 高麗剣 和射見が原の 仮宮に 天降りいまして 天の下 治め賜ひ食す国を 定め賜ふと 鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召し賜ひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(よさ)し賜へば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角くだの音も 敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野毎に つきてある火の 風の共 靡くが如く 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きましてやすみしし 吾大王の 天の下 申し賜へば 万代に しかしもあらむと 木綿花の 栄ゆる時に 吾大王 皇子の御門を[一云 刺竹 皇子御門乎] 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着て 埴[垣]安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに 思ひも 未だ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 吾大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具[未]山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれど
 久堅の天知らしぬる君故に日月も知らず(日月毛不知)恋ひ渡るかも(二〇〇)
 埴[垣]安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに(去方乎不知)舎人は惑ふ(二〇一)
 哭沢の神社に三輪据ゑ祈れども我が王は(我王者)高日知らしぬ(二〇二)

II万葉一九九番歌 「吾大王」と「皇子(我王)」の役割

 これらの歌には次の通り二人の人物が歌い分けられている。「吾大王」と「皇子」だ。(注一)
 「吾大王」(1)「明日香の真神の原に・天つ御門を・定め」=明日香宮を造り(2)「神さぶと 磐隠ります」=既に死去し(3)「渡會の齋宮・神随(ながら)太敷座す」=渡會の齋宮で神として統治している。
 「皇子(我王)」(1)「皇子随 任し賜へば」=皇子として(軍事を)任され(2)「嘆きも 未だ過ぎぬに」=吾大王の死去から日も浅くない時期に(3)背面の国(そとものくに 注二)・高麗剣・百済の原」=朝鮮半島に(4)御軍士を 率ひ」=軍を率い出征した(5)「冬の林・大雪の 乱れて来」=厳冬の戦場で(6)「大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし」=自ら先頭に立って戦った(7)「神葬り 葬り・城上の宮・常宮・神ながら鎮まり」=死んで城上宮に祀られている(8)「ゆくへを知らに」=行方不明。
 ここで、そのモデルが誰かを検討してみよう。題詞に基づけば二人は天武とその子「高市皇子」となろう。しかし古田氏指摘通りこれはおかしい。
 大王は「明日香宮」を造ったとある。天武は「飛鳥浄御原宮」を造り、高市皇子は確かに壬申の乱で活躍したとされる。しかし、壬申の乱は新暦八月、真夏の戦。万葉歌の「厳冬の戦」とは程遠い。また、彼は戦で死んでもいないし、行方不明にもなっていない。歌の内容と合わないのだ。
 それでは誰が想定されるか。人麿時代の「明日香宮を定めた大王」は他に二人、斉明と持統だ。持統は天武の「飛鳥浄御原宮」宮に居したが、持統の造宮は持統四年に着手し、八年完成の「藤原宮」。「明日香宮を定めた」とは言い難い。皇太子草壁皇子は早世、孫軽皇子(文武)も歌の様な戦歴は無い。
 「斉明」の宮は「飛鳥板蓋宮・飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮」いずれも万葉歌通り「飛鳥=明日香」宮だが、皇太子「中大兄皇子」は半島には出兵せず、当然戦死もしていない。従って斉明も、歌の条件に合わない様に見える。果たしてそうだろうか。書紀の記事を万葉歌と対比して分析しよう。
 A■(書紀斉明七年)七月丁巳(二四日)に崩りましぬ。皇太子、素服たてまつり称制す。是の月に(略)稍(ようやく)に水表の軍政を聴めす。

 書紀では斉明七年七月斉明が死去し、皇太子「中大兄」は、「称制(即位の式を挙げずに政務を摂ること・岩波注)」し、軍事を引き継いだ。これは万葉歌で大王が「神さぶと 磐隠ります」(死去し)、「皇子ながら 任したまへば」(皇太子として軍事を任せられた)との句通りだ。
 しかも斉明の死去から時をおかず軍事を引き継いだ事も、万葉歌の「嘆きも いまだ過ぎぬに」と一致。更に書紀の「水表(おちかた)の軍政」は海外・半島での唐・新羅との戦の事で、これも歌の「高麗剣・百済」「背面の国」等の句と一致する。

III 書紀・万葉の分岐点

 ここまでは書紀の「皇太子・中大兄」と万葉歌の皇子が一致するが、以降書紀と万葉が分岐する。
(書紀の皇太子)斉明の死を口実に半島に出兵せず
(万葉の皇太子)半島での真冬の戦の先頭に立つ
 この二つの話は全く別の事なのか、それともどちらかが真実で、どちらかが虚偽なのか。ポイントは「半島に出征した皇太子」がいたかどうかだ。

 

二、書紀記事は一年ずらされていた

 再び書紀の記事を見よう。
 B■(書紀斉明六年)(1)冬十月、百済佐平鬼室福信、佐平貴智等を遣して、来て唐の俘(とりこ)一百余人を献る。今美濃国の不破・片県、二郡の唐人等なり。又師を乞して救をこふ。并て王子豊璋を乞して曰さく(略)「唐人、我が螫*賊(あしきあた)を率て、来りて我が疆場(さかひ)を蕩揺(ただよ)はし、我が社稷(くに)を覆へし、我が君臣を俘にす。(略)而も百済国、遥に天皇の護念(みめぐみ)に頼ぶりて、更に鳩め集めて以て邦を成す。方に今、謹みて願はくは、百済国の、天朝に遣り侍る王子豊璋を迎へて、国の主とせむとす」と、云々。
 C■(同月)詔して曰はく「師を乞ひ救を請すことを、今昔に聞けり。危を扶け絶えたるを継ぐことは、恒の典に著れたり。(略)雲のごとくに会ひ、雷のごとくに動きて、倶に沙喙に集まらば、其の鯨鯢(あた)を翦(き)りて、彼の倒懸(せまれる)を[糸予]べてむ。(略・豊璋を)礼を以て発て遣せ」と、云々。(1)王子豊璋及び妻子と、其の叔父忠勝等とを送る。(2)其の正しく発遣ちし時は、七年に見ゆ。(略)
 D■(書紀斉明六年)十二月丁卯朔庚寅(二四日)、天皇難波宮に幸す。天皇方に福信が乞す意に随ひて、筑紫に幸して、救軍を遣らむと思ひて、初づ斯に幸して、諸の軍器を備ふ。
     螫*(あしき)の赤の代わりに矛。JIS第4水準ユニコード8765
     [糸予]は、JIS第3水準ユニコード7D13

 これは斉明六年一〇月、百済遺臣の福信が唐の俘を献上し、百済救援と豊璋を国王に迎える要請をしたのに対し、斉明が半島出兵を決め筑紫に行幸したとされる一連の記事だ。しかしこの記事は「一年ずれ」ているのだ。以下その根拠を示そう。

I福信の唐の俘献上・支援要請は斉明七年

 福信の唐俘献上について、次の記事がある。
 E■(書紀斉明七年)(1)日本世記に云、十一月に、福信が獲たる唐人続守言等、筑紫に至るといふ。或本に云、辛酉の年(七年)、百済の佐平福信が献れる唐の俘一百六口、近江国の墾田に居らしめたりといふ。(2)庚申の年(六年)、既に福信、唐の俘を献れりと云へり。故、今存きて注す。其れ決めよ。

 日本世記(高麗僧道顕の著。書紀編纂の基礎資料だが詳細不明)の(1)では七年、或本の(2)と書紀B記事の(1)では六年と、福信の唐の俘を献上しての救援要請時期は「一年ずれ」を示している。
 書紀編者は「今存きて注す。其れ決めよ」と決めかねているが、斉明六年唐・新羅の攻撃で百済義慈王らは捕虜となり九月三日に唐に送還。九月二三日に百済遺臣は唐・新羅の籠る泗批城への攻撃を開始したが、唐も防衛し、一〇月末の新羅武烈王による救援戦に続く。その激戦の状況下で、戦力・兵糧を割き、かつ短期間に船団を組織して大量の唐の捕虜を倭国に送るのは容易ではなく、これは日本世記通り斉明七年一一月が正しいと思われる。

II倭国の救援決定・豊璋の送還・派兵も斉明七年

 更に、救援軍派遣と豊璋の送還はC記事の(1)六年と、C記事(2)及び次のF記事(1)七年で一年ずれる
 F■(書紀天智即位前記・斉明七年)九月に、皇太子、長津宮に御す。織冠を以て、百済の王子豊璋に授けたまふ。復以多臣蒋敷の妹を妻す。(1)乃ち大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津を遣して、軍五千余を率て、本郷に衛り送らしむ。
 C記事の軍派遣「決定」(「発て遣せ」斉明六年一〇月)からF記事の「実行」(軍五千余を率て、本郷に衛り送らしむ)まで一年もかかっている。「雲のごとくに会ひ、雷のごとくに動きて・彼の倒懸を[糸予]べてむ(差し迫った苦しみをゆるめよ)」と、緊急の支援を掲げながら、実際は一年後に「ゆるゆると」派兵したこととなり、緊迫した半島の軍事情勢から見て誠に不可解。「実行」が七年なら「決定」も七年でしかるべきだ。
 また、旧唐書では、斉明七(六六一)年「福信は道探*を殺し、その兵をあわせて豊璋を国王に推戴した」とある。六年一〇月では福信・道探*は共に唐・新羅軍と激戦を繰り広げていた。道?は未だ殺されておらず、B記事にある福信の「豊璋を迎へて、国の主とせむとす」との発言も時期尚早なのだ。
 豊璋帰国・軍派遣が次の岩波補注通り斉明七年ならその経緯を述べたBC記事も七年の事であろう。
 G■「豊璋帰国と倭国救援軍の到着について(略)旧唐書百済伝が、その竜朔元年(六六一年)の記事を「福信殺道探*、併其兵衆。扶余豊但主祭而己」と結んでいるのを無視すべきでないとすれば、豊璋の帰国も百済遺臣間の内訌も、六六一年(斉明七年)冬の事と考えられよう(岩波補注二六〜九)」
     探*は、手偏の代わりに王。JIS第3水準ユニコード741B

III 斉明六年九月の百済からの奏上も斉明七年

 もう一つ事例を挙げる。書紀で福信の唐俘献上と支援要請直前斉明六年九月に百済の奏上がある。
 H■(書紀斉明六年)九月己亥朔癸卯(五日)、百済達率〈名を闕かせり〉沙弥覚従等を遣し、来奏して曰く、「(略)今年の七月、新羅力を恃み勢を作して、隣に親びず。唐人を引構せ、百済を傾け覆す。君臣総俘にし、略[口焦]類(のこれるもの)無し。(略)是に、西部恩率鬼室福信、赫然(いか)り発憤りて、任射岐山に拠る。(略)各一所に営み、散けたる卒を誘り聚む。兵(*武器のこと)、前の役に尽きたり。故、培*(つかなぎ)を以て戦ふ。新羅の軍破れぬ。百済其の兵を奪ふ。既にして百済の兵翻りて鋭し。唐敢へて入らず。福信等遂に同国(くにひと)を鳩(もと)め集め、共に王城を保(はか)る。国入尊びて曰はく、佐平福信、佐平自進といふ。唯し福信のみ神しく武き権(はかりごと)を起し、既に亡ぶる国を興す」とまうす。
     [口焦]は、口に焦。
     培*(つかなぎ)は、土の代わりに木。

 この文では「今年」と奏上が斉明六年の事の様に書かれている。しかし当時の半島での軍事情勢を岩波補注(二六-九)により確認しよう。同注では、福信・道深*らが百済遺臣三万人を集め山城にこもって抵抗を始めたのは斉明六年八月中。二六日に唐・新羅連合軍はこれに攻勢をかけるが成功せず、以後先述のような攻防戦が展開されたとした上で、
 I■「六六一(斉明七)年二月、百済兵が再び泗泄*城を囲んだので新羅は大兵を送ったが、却って各地で敗られて、兵器を多数奪われた。唐では(略)この年の始め、新羅兵と共同して百済兵の本拠である周留城を攻撃したが成功せず(略)更に攻撃を続ける事が出来ず、戦線はしばらく膠着した」と記す。
      泄*は、世の代わりに比。JIS第3水準ユニコード6C98
      深*は、三水の代わりに王。JIS第3水準ユニコード741B
 この解説に見る通り、「新羅の軍破れぬ。百済其の兵を奪ふ。既にして百済の兵翻りて鋭し。唐敢へて入らず」とは斉明七年の事。仮に「新羅の軍破れぬ」を八月二六日の唐・新羅側の攻勢や、九月二三日の百済遺臣の攻撃戦としても九月五日に百済の使者がこの事を奏上出来るはずは無い。奏上は七年の事なのだ。
 文中「今年」とあるが、七年の奏上記事を六年に貼り付ければ、「六年七月百済傾覆」は「今年七月百済傾覆」と書き改められるのは当然だ。
 よって、書紀で斉明六年とされる百済の奏上、福信の救援・豊璋の国王推戴要請、豊璋送還・救援軍派遣も、全て斉明七年の事。従ってCD記事は、死去した「斉明」のものにあらず、全て「皇太子」の記事、すなわち戦の指揮は皇太子が執ったのだ。

 

三、救援軍の指揮を皇太子が執った

I 倭国の高句麗救援

 斉明七年に準備された百済への援軍は、岩波補注二六-九通り実際に年末に半島に派遣され、それは同時に高句麗支援をも兼ねた出兵だった。

 J■(書紀天智元年三月)(1)是月。唐人・新羅人、高麗を伐ちき。高麗、救を国家に乞へり。仍ち軍将を遣して、疏留城に拠らしむ。是に由りて、唐人其の南堺を略(かす)むること得ず、新羅其の西壘を輸(おと)すこと獲ず。
 書紀では唐・新羅の対高句麗戦は天智元年三月とされているが、斉明七年記事に「是歳(略)日本の高麗を救ふ軍将等、百済の加巴利浜に泊りて、火を燃く」とあり、斉明七年、倭国軍は高句麗兵・百済遺臣と共に唐・新羅と戦った事が示されている。岩波解説も「日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとしたことは、海外資料には見えないが元年・二年の関連記事からも確かであろう」とする。
 また、岩波は「海外資料によると(斉明七年)冬、遼東から南下した契 加力の軍(唐)は鴨緑江岸で高句麗軍にくいとめられたが、江が凍結するに及び鼓譟して進撃した。翌春、唐軍は蛇水(平城東北方)で大雪に苦しみ大敗したので、二月には遠征を中止、撤退した(次のK記事の解説)」としており、唐・新羅の高句麗討伐が「是月=三月」とあるのはおかしい。斉明七年冬のことなのだ。
 更にJ記事の解説でも、重ねて(唐の高句麗征伐は)「三月となっているが、二月に唐・新羅軍とも高句麗から撤退した」と述べている。ただ、「三月は日本軍の疏留城入城」とするのは「将軍を疏留城に入城させたので(是に由りて)唐・新羅は侵略できなかった」との書紀記述と矛盾する。唐・新羅の攻撃前に倭国の高麗支援軍が入城していたのだ。 つまり唐・新羅の高句麗討伐と倭国の高麗支援軍派遣は「天智元年三月」ではなく、百済救援同様「斉明七年末」の事なのだ。
 この戦の結果を岩波補注二六-九はこう記す。
 K■六六二年(天智元年)春、高句麗征討をあきらめた唐は兵を引きあげ、新羅軍の主力もまた帰国した。百済兵の意気は盛んで、泗批・熊津に籠る劉仁願・劉仁軌に書を送って、「大使等何時西に還る。当に相送り遣すべし」と豪語するほどであった。この時点では高句麗・百済・倭国連合は一時の勝利を収めていたのだ。

II「高麗の言」「釈道顕の言」の真実

 この派遣軍につき興味深い記事がある。それは斉明七年一二月の「高麗の言」の条だ。
 L■(書紀斉明七年十二月)高麗の言さく、「惟(こ)の十二月、高麗国にして、寒きこと極まりて江凍れり。故に唐の軍、雲車・衝 ありて、鼓鉦吼然(な)る。高麗の士卒、胆(たけく)勇み雄壮し。故に更に唐の二つの壘を取る。唯二つの塞のみ有り。亦夜取らむ計に備ふ。唐の兵膝を抱へて哭く。鋭鈍(ときさきにぶ)り力竭(つ)きて、抜くこと能はず」とまうす。臍を噬(く)ふ恥(機を失って後悔しても力の及ばない恥・岩波注)、此に非ずして何ぞ。
(分註)釈道顕云はく、春秋の志といふは、正に高麗に起れり。而して先づ百済に声しめむとす。百済、近(このごろ)侵さるること甚しくて苦急ぶ。故、爾いふといふ。

 この分註(本文の解説)の「釈道顕の言」を岩波解説は「難解」とし、補注で重ねて次の通り言う。
 M■通説は、春秋を新羅王金春秋、声を「撃」の誤りとし、新羅王の意図は結局高句麗奪取にあったが先ず百済を撃った、と解する。しかし孔子が春秋を著した時のような名分を正そうとする志は、丁度高句麗から起り、まず百済にも呼びかけたとも解しうるし、唐の真の目的は高句麗の征服にあり、そのために先ず百済を撃ったとも解しうる。いずれに解しても落ち着かない。(岩波補注二七-二)
 「聲」を「撃」の誤りとし、「春秋の志」を金春秋らの侵略と結びつけるのは困難だ。声(聲)を字形も隔る「撃」の誤りとするのは安易な原文改定。一義的に「聲」として解釈すべきだ。
 また道顕の言を「新羅・唐の本意は高句麗征服だが百済が先に侵略された」とするのは、高麗の言「高句麗兵は勇壮だが二城が抜けず恥をかいた」と何ら脈略が無く、分註として全く意味をなさない解釈だ。

III 「春秋の志」は孔子の「春秋」の志

 その点、岩波が孔子を挙げるのは卓見で、、中国史の常識として、「春秋の志」とは孔子がその著「春秋」に込めた志をいう。中国空前の史書「史記」を記した司馬遷は、自らの思いを込め「春秋の志」をこう記す。
 「夫れ春秋は上は三王の道を明らかにし,下は人事の辨(けじめ)、嫌疑、是非を明らかにし、猶予(きめかねていること)を定め、善を善、悪を悪、賢を賢とし、不肖を賤しめ、亡びんとする国を存ち、絶えたる世を継ぎ、廃れたるを起す王道の大者なり。(略)。乱世を抜き、正しきに反すに春秋より近くは莫し。」(「史記」太史公自叙)
 「亡びんとする国を存(たも)ち、絶えたる世を継ぎ、廃れたるを起す・乱世を抜(のぞ)き、正しきに反す」この「春秋」の不屈の志が、唐と勇敢に戦う高句麗兵にあるというのだ。見事な引用、適切な表現ではないか。「註」とはかく有るべきだろう。中国史に於ける「春秋・史記」の偉大さを考えれば、新羅王の名と結び付ける解釈には余りにも無理があるといえる。
 問題は「鋭鈍り力竭きて、抜くこと能はず。臍を噬ふ恥此に非ずして何ぞ」の解釈だ。岩波は主語は高麗の士卒とする。「高麗兵は雄壮で唐の二つの壘を取ったが、残る二つの塞が抜けなかった。これ以上の恥は無い」というのだ。
 しかし、この解釈では道顕の言葉「言春秋之志、正起于高麗。而先声百済」が不明となる。高麗の「雄壮さ」を聞かせるなら分かる。しかし、なぜ「恥」を百済に聞かせるのか。

IV「臍を噬ふ恥」は百済兵

 この解決策はただ一つ。それは「雄壮」と「恥」の主語を変え「鋭鈍力竭、而不能抜」「臍を噬(く)ふ恥」の主語を高麗兵でなく百済兵とすることだ。文の解釈としては「高麗の言さく」から「此に非ずして何ぞ」まで全体が「声しめ」た内容。内高麗の言は「唐の二つの壘を取る」まで。そうすれば、高句麗兵の勇壮さと比較し、百済兵の軟弱さを述べた(叱咤した)事となる。大意は次の通りだ。
 N■(声しめた内容)「十二月に高麗は、『高句麗兵は勇猛で、氷結した河を越え攻め来る唐軍を撃退し、二つ砦を抜いた。』と言った。(百済兵が攻めるべきは)唯二つの塞で、唐の兵は夜襲に備え、寒さで震えていたのに力尽きてその二城も抜く事が出来なかった。(高句麗と比べ)これ程の恥はない。機を失って後悔しても力の及ばない事になるぞ。」(以下釈道顕の言)これは「高句麗兵は、孔子の『亡国を存ち・乱世を抜す』春秋の志を我がものとし奮い立った。これに比べ百済は何と軟弱な事か。それだから近頃侵略され著しく苦しむのだ」という趣旨で先ず豊璋・福信ら百済遺臣に聞かせたのだ。
 こうすれば、原文改定もせず、「春秋の志」も道顕の自註として的確に解釈できるのだ。ちなみに唐の劉仁願・仁軌が籠った城は泗批・熊津の「二城」で、豊璋・福信ら百済遺臣はこの二城を遂に落とせなかった。そして後日劉仁軌率いる唐軍の攻撃で倭・百済兵の拠点疏留城(周留城)は陥落、白村江で大敗する。二城を落とせなかった事は「臍を噬ふ=悔やみきれない」結果となったのだ。

 

四、書紀にいた明日香皇子

 こう解釈した時、高句麗兵の勇壮さと、百済兵の軟弱さを比較し、豊璋・福信らに声しめ(叱咤)た人物が浮かぶ。それは、道顕でも百済の人間でもなく、百済遺臣と高麗の要請に応えて救援に出陣していた、倭国のトップ以外には考え難いのだ。
 では誰か。斉明七年八月派遣の大花下阿曇比邏夫他の百済救援の諸将もその候補だが、豊璋は「織冠(臣下の最高位)」を授かっており、遥かに位階が低い「諸将」によるこうした叱咤は不自然。
 一方先述の様に「倭国皇太子が対唐・新羅戦の指揮を執った」、そして、皇太子が臣下である豊璋や百済兵を叱責した、と考えれば何の矛盾も無い。

I 書紀記事から浮かぶ「皇太子の半島出征」

 こうした書紀の分析から、以下の「斉明七年冬倭国皇太子の半島出征」譚が浮かび上がる。
O■斉明七年、「斉明」の死後、軍事を引き継いだ倭国皇太子は、福信らの要請を受け、百済遺臣と高句麗支援のため、救援軍を半島に派遣すると共に豊璋を百済に帰還させた。
そして自ら厳冬の半島に渡りその指揮を執った。一二月高句麗兵と比べ軟弱な百済・倭国兵らを叱咤しつつ、疏留城(周留城)を拠点に戦い、天智元年二月遂に唐・新羅を撃退し勝利を収めた。
 この中で「斉明」を「吾大王」と置き換えれば、「皇太子」は万葉一九九番歌の主人公の「皇子」そのものではないか。そして彼は古田氏の指摘どおり、一九六番歌(後掲)で「御名に懸かせる 明日香川」と、その名が「明日香皇子」であると記されている。
 ここに、古田氏が万葉歌に発見した九州王朝「明日香皇子」の姿・エピソードを、書紀に於いても「半島に出征した倭国皇太子」として「再発見」する事となった。
 岩波解説は言う「海外資料によると、この冬(斉明七年末)は特に寒く、鴨緑江・大同江共に凍結した」「翌春、唐軍は大雪に苦しみ大敗した」。まさに一九九番歌詞「大雪の 乱れて来れ」そのものだ。この歌は斉明七年末から天智元年春の百済・高句麗支援戦での明日香皇子の活躍を歌っていた。
 それは皇子初陣の大勝利の姿だった。
 しかし天智二年白村江の戦いで倭・百済軍は大敗し、皇子は捕虜となった。一時は白村江の戦で生死不明、いや死んだと思われたのではないか。その時点で皇子の思い出を込めて万葉の諸歌は作られた。だが彼は生きていた。そして唐の捕虜となって高宗の封禅の儀に参列し、許されて帰朝した。
 日本書紀で彼は、大伴博麻を奴隷に売って帰国した「卑怯な男」筑紫君薩夜麻として描かれている。

 

五、書紀の一年ズレの真相と歴史の「詐術」

 こうした明日香皇子の活躍・消息は書紀からは一切削除されている。書紀編者は次のような「演出」をしたのだ。
 (1) 九州王朝の「吾大王」「明日香皇子」を「斉明」「中大兄=天智」と入れ替えた。(2)斉明の死を口実に天智は半島に出征しなかった事にした。(3)福信の救援要請等半島出征に関する事(明日香皇子の行為)を一年繰り上げ、斉明六年の事(斉明の行為)とし(4)明日香皇子の半島出征は全てカットした。
 この書紀編纂上の演出(詐術)によって「近畿天皇家は倭国唯一の政権として、百済救援の準備をおこない、配下の将軍達を半島に派兵した。彼等は百済と共に白村江で大敗したが、斉明・天智は唐・新羅とは直接戦わなかった」という歴史を創造した。また唐を敗北させた高句麗戦での倭国救援軍=明日香皇子の華やかな勝利も抹消したのだ。
 しかし歴史の真実は「万葉歌」に残されていた。そこには「天の下(倭国)を治め」「明日香宮」を造った「吾大王」と、唐と勇敢に戦った「皇子」の姿が描かれていた。万葉歌の数々が「全くの絵空事」でない限り、この様な大王と皇子候補は、書紀では「斉明」と「中大兄」しか無い。けれども中大兄は半島に出征することは終に無かった。
 歴史の真の主人公たる九州王朝の「吾大王」と、「皇子」は、その史書から「盗まれ」「入れ替えられ」「消し去られ」ていた。これを「詐術」と称せずして何と言おうか。「絵空事」は万葉歌に非ず、「書紀の記事」だったのだ。

(注)
注一、古田氏はこの歌の登場人物は一人、つまり「吾大王=皇子」とされている。しかし大王は既に死して神として「渡會の齋宮」に祀られ、一方皇子は軍事を引き継ぎ戦うとある。皇子の常宮(一九六番)は「城上宮」でこれも異なる。「神随・皇子随」の対句も両者の書き分けを示しており、二人は別人と考えるべきだ。
注二、古田氏は「毛人の国」とされるが「天子は南面し、臣下は北面する」ため大王の聞こし召す「背面の国」は海北・百済国と考えられる。

 

(万葉資料)

 一九六番歌 明日香皇女木(乃倍)殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し [石なみ] 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に [石なみに] 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君(吾王)の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし 敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかも [そこをしも] あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋づま [しつつ] 朝鳥の [朝霧の] 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず そこ故に 為むすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の(吾王)の 形見かここを
 明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし[水の淀にかあらまし] (一九七)
 明日香川明日だに [さへ] 見むと思へやも [思へかも] 我が大君(吾王)の御名忘れせぬ(一九八)

(参考)
1). 古田武彦「壬申大乱」二〇〇一年・東洋書林発行
2). 書紀の引用は、すべて岩波文庫「日本書紀」による。
3). 万葉歌の引用は、インターネット「山口大学・万葉検索システム」による


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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