2007年10月10日

古田史学会報

82号

伊倉(いくら)2
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

薩夜麻の「冤罪」II
 正木裕

「オオスミ」の国
 水野孝夫

「カヤ」と「アヤ」
アイヌ語(縄文語)地名
としての考察
 菊池栄吾

白雉年間の
難波副都建設と
評制の創設について
 正木裕

6洛中洛外日記より
 天下立評
 古賀達也

7彩神
シャクナゲの里4
 深津栄美

8倭姫巡幸I、
美和乃御諸宮から
宇太阿貴宮へ
 西井健一

 

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日本書紀、白村江以降に見られる 「三十四年遡上り現象」について (会報77号)へ

「古賀事務局長の洛中洛外日記」より転載 前期難波宮は九州王朝の副都 古賀達也

「長柄」地名考 伊東義彰(会報91号)へ

白雉年間の難波副都建設と
評制の創設について

川西市 正木 裕

 古賀氏は、去る八月一八日の古田史学の会関西例会において「皇太神宮儀式帳」「神宮雑例集」をもとに、難波長柄豊前宮時代(孝徳期)に評制度が創設されたのではないかと言う説を発表された。また同時に、それは緊迫する半島情勢も踏まえた「九州王朝の難波副都」建設とも深く関連する可能性も指摘された。
 この指摘は書記の「白村江以降の三四年遡上り」盗用という観点からも強く支持できる。

天武末期の伊勢王「限分諸国之境堺」

 天武一二年から一四年にかけて、伊勢王等の諸国境界確定記事(「限分諸国之境堺」)がある。また、これに符合して諸国・諸官に恩賞が与えられている。
■天武一二年(六八三年)
 十二月甲寅朔丙寅(一三日)、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行きて、諸国の境堺を限分ふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。
■天武一三年(六八四年)
 冬十月己卯朔(中略)辛巳(三日)、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。
 是年、詔したまはく、伊賀・伊勢・美濃・尾張、四の国、今より以後、調の年に役を免し、役の年に調を免せ。
■天武一四年(六八五年)
 秋七月乙巳朔、(中略)辛未(二七日)、詔して曰く、東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国の有位の人等に、並に課役を免せ。
 冬十月癸酉朔(中略)壬午(一〇日)、軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣はして、行宮を造らしむ。蓋し束間の温湯に幸さむと擬ほすか。甲申(一二日)、浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、并廿人を以て、畿内の役に任す。
 己丑(一七日)、伊勢王等、亦東国に向る。因りて衣袴を賜ふ。

 これら記事は長年不審だった。「定諸国堺」が何か書紀では明確にされておらず、何故この時期に境界画定とか恩賞下賜なのか、その必然性がわからなかった。様々な解説を読んでも、単なる諸国間の「境界確定」作業として、淡々ととらえられてきたようだ。

伊勢王は孝徳期白雉改元記事に登場

 私は六月の同会総会で「日本書紀の編集と九州年号」と題して、天武・持統紀には三四年遡上した記事が散見され、これは九州年号を基にした史書・史料(従って九州王朝の史書)からの切り貼りである事等を指摘させていただいた。
 この観点からすれば、伊勢王は書紀白雉元年に改元の輿を担いだ人物だし、羽田公八国・多臣品治・中臣連大嶋らは天武末から持統期の「三四年遡上」領域にしか登場しない。従って彼等はセットで白雉期すなわち難波長柄豊前宮時代の人物だという可能性が高いと思われる。(「冠位」は後世の追記となろう。例えば羽田公八国の大錦下は「朱鳥元年の直大参とあわない(岩波注)」とされる。)
 そこで書紀におけるこれら伊勢王関連記事を三四年遡上させてみると

(1) 天武一二年(六八三年)→大化五年(六四九年)
(2) 天武一三年(六八四年)→白雉元年(六五〇年)
(3) 天武一四年(六八五年)→白雉二年(六五一年)

となり、次の伊勢王の白雉改元譚(古賀説では白雉三年・九州年号白雉元年)と見事に連続する。

(4) 白雉元年(六五〇年)→白雉三年(六五二年)

 二月庚午朔(略)甲申(一五日)(略)
 伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執き、御座の前に置く。
(5) 朱鳥元年(六八六年)→白雉三年(六五二年)
 朱鳥元年春正月壬寅朔(略)伊勢王亦実を得。

立評の「己酉」年は「諸国境堺限分」の三四年前

 そして伊勢王等が、天下巡行し諸国の境界を定めようとした、「天武一二年」を三四年遡上した六四九年こそ、古賀氏の示されたように「神宮雑例集一伊勢国神郡八郡事」に「飯野多気渡会評也」とあり、同時に「己酉の年を以て始めて度会郡を立つ」とある己酉(六四九年)にあたるのだ。同書頭注には「評ハ郡ノ誤。評ハ郡ノ俗字也」とあることから、伊勢国渡会評がこの年にできた事を示すと考えられる。
 また同史料にある「伊勢国」について、翌天武一三年(従って白雉元年六五〇年)に恩賞が与えられている事は、「評」制や任官がこれら地域に先行して施行され、これに伴い恩賞が与えられたと見れば無理なく理解できる。「然是年、不堪限」とあるのは六四九年段階では東国全体にまで施行することが出来なかった事を示しているのではないか。
 そして六五〇年に東国にも施行を終え(「遣伊勢王等、定諸国堺」)その結果が翌六五一年の東国「諸国有位人」への恩賞となったのだろう。(「東国に施行」とは、天武一四年(六五一年)に「伊勢王等、亦東国に向る」とある事から読み取れる。また「諸国有位人」と官職名を記さなかったのは、評制に伴う「評督・助督」等新任官者の官職名を隠したのではないか。)

「伊勢王の天下巡行」は評制施行が目的

 伊勢王らの天下巡行と諸国の境界確定が、評制の施行のためであったという「直接の証拠」は無い。しかしこれまで見てきたように、
(1) 白雉元年と、それから三四年程後の天武一二、一三、一四年に伊勢王が共通して登場すること、
(2) 従ってこれら「伊勢王」記事には天武・持統紀の三四年遡上現象が当てはまると推測されること
(3) 三四年遡上した伊勢王「限分諸国之境堺」年代と、古賀氏の難波長柄豊前宮時代評制施行年代とが見事に一致すること、
(4) 謎だった天下巡行の意味が明確になること、
(5) 恩賞記事とも整合すること、

等から「天武末期の伊勢王の諸国巡行と諸国境界確定は三四年遡上した孝徳期(難波長柄豊前宮時代)の評制施行のためのものだった」との仮説を提示したい。
 なお年号を見れば、
天武一三年(六八四年)=九州年号朱雀元年→白雉元年(六五〇年)
天武一四年(六八五年)=九州年号朱雀二年→白雉二年(六五一年)

となり、九州年号朱雀と書紀年号白雉が対応関係にあることが分かる。ただ、天武八年、一一年、一二年にも遡上記事と思われるものがあるので、一連の難波宮建設・評制施行関連記事は、持統天皇吉野行幸記事等と「セット」で三四年遡上しているのではないかと推測される。

 

難波宮関連記事について

 なお、古賀氏は「難波朝廷天下立評給時」という記事から、前期難波宮と「天下立評」との関係についても古賀事務局長の洛中洛外日記第一四〇話で論及されている。
 難波宮については、以下の通り天武八年、一一年から一四年にかけて、造都・遷都を示す記事が続く。通説では、白雉三年完成の難波長柄豊前宮が「天武天皇の時改造され(岩波補注二五—一三)」た記事とする。しかし、「先づ難波に都造らむと欲す。(天武一二年一二月)といった文章は都の「改造」記事としては不自然だ。
 一方、一連の記事を伊勢王記事同様「三四年遡上」させれば、白雉二年一二月新宮遷居という前期難波宮建設スケジュールにピッタリ当てはまる。
 このことは、これら記事が「九州王朝の難波副都建設」に関するものであることを示しているのではなかろうか。
 一連の記事は、天武八年から始まる。
■天武八年(六七九年)→大化元年(六四五年)
 一一月(略)是の月に、初めて関を竜田山・大坂山に置く。仍りて難波に羅城を築く。

 三四年遡上した大化元年一二月には次の記事がある。
■冬一二月の乙未の朔癸卯(九日)に、天皇都を難波長柄豊碕に遷す。

 難波に羅城(城壁・岩波注)を廻らせて新都建設地とする。これを「天皇都を難波長柄豊碕に遷す」と表現したのだ。癸卯は天武八年では一二月には無く、一一月二七日となる。日の干支の上でもきれいに整合する。
 「羅城」は次の記事では「新城」と呼ばれているようだ。

■天武一一年(六八二年)→大化四年(六四八年)
 三月甲午朔に、小紫三野王及び宮内官大夫等に命して、新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都つくらむとす。(中略)己酉(一六日)、新城に幸す。

 岩波書記解説では、「結局造都は行われなかった。」としているが、書紀にはそのような記述は無い。三四年遡上して難波宮造営のことなら、「羅城」内の造都計画を立てたという記事だ。これは新宮(宮殿)に遷る約四年前となる。造都が行われたことは翌年の記事から見ても明らかだ。
■天武一二年(六八三年)→大化五年(六四九年)
 十二月甲寅朔(略)庚午(一七日)(略)又詔して曰く、凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。是を以て、百寮の者、各往りて家地を請はれ。

 「必造両参(ふたつみっつつくる)」「まず難波につくる」「各々家の土地を請え」とは副都制の詔。これが六四九年ならば「難波宮副都建設の宣言」としてぴったり。どう見ても「天武天皇の時に(難波宮)改造(岩波補注二五 ー 一三)」した記事などではない。

■天武一三年(六八四年)→白雉元年(六五〇年)
 二月癸丑朔(略)庚辰(二八日)、浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂、及判官・録事・陰陽師・工匠等を畿内に遣はして、都つくるべき(應都)地を視占しめたまふ。是の日に、三野王・小錦下采女臣筑羅等を信濃に遣はして、地形を看しめたまふ。是の地に都つくらむとするか。
 三月癸未朔(略)。辛卯(九日)、天皇京師に巡行きたまひて、宮室之地を定めたまふ。

 後段、三月条は難波の「宮城」の位置・所在を決めたものか。
■白雉元年(六五〇年)
 冬十月に、宮の地に入れむが為に、所丘墓を壊られたる人、及び遷されたる人には、物賜ふこと各差有り。即ち将作大匠荒田井直比羅夫を遣はして、宮の堺標を立つ。
 白雉元年記事でありながら、天武一三年三月記事「定宮室之地」と、見事に符合するではないか。
■白雉二年(六五一年)
 一二月の晦(略)是に天皇大郡より遷りて新宮に居す。号けて難波長柄豊崎宮と曰ふ。

 また天武一三、一四年(白雉一、二年)の「信濃」関連記事(天武一三年二月「是の地(信濃)に都つくらむとするか。」等)と、伊勢王等が「亦東国に向」った記事は、難波副都のさらに東に、東国経営の拠点を整備しようと言うものだったのではないか。
 事実、斉明元年(六五五年)以降、蝦夷朝貢や討伐記事が頻出することとなる。そして何故か三四年程後の持統二年末から三年(六八九年)に、再び蝦夷朝貢記事が出現する。これらは九州王朝の東方経略を記録した一連の記事と看做さなければならないだろう。

 

藤原宮関連記事との関係

 もちろんこの時期になると持統四年(六九〇年)着工、持統八年(六九四年)十二月遷居という藤原宮記事との峻別が必要だ。例えば今挙げた中で天武一三年二月二八日記事だけは少し異質だ。
 難波宮関連と思われる一一年記事(新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都つくらむとす。)一二年記事(先づ難波に都造らむと欲す)には「新城」「難波」と具体的名称がある。都城予定地が確定しているのだ。
 しかし、一三年記事では大伴連安麻呂らを「畿内に遣はして、都つくるべき地を視占しめたまふ。」とある。「畿内」「應都(都つくるべき)地」とは広範囲で抽象的表現だ。つまり、広く畿内(みやこ周辺)での「都適地」探しであると考えられる。
 一三年記事は一一年、一二年から時間的に逆行する。すなわち三四年遡上した一連の難波宮関連記事と見るには順序が合わないのいだ。そして逆に、天武一三年の六年後、持統四年に高市皇子、天皇が「藤原の宮地を観そなはす」とある藤原宮建設のスケジュールとは整合する。
 また記事に登場する大伴連安麻呂は和銅七年(七一四年)に没している。白雉期(六五〇年頃)に活躍した人物としては、没年が合わず、記事どおり天武一三年(六八四年)当時の人物なら自然だ。従って、一三年二月二八日記事は、藤原宮関連記事と考えるのが妥当だろう。

(2) 一方、三月辛卯(九日)には、天皇が京師(みやこ)を巡幸し「宮室之地を定め」た記事がある。
 これは、既に築かれた「都(京師)」の中での「宮殿(宮室之地)」選定を意味する。従って、天武八年(三四年遡上で大化元年)に既に「羅城・新城」が築かれている「難波宮」にこそふさわしい記事だ。また、新城の地形を調査させ(一一年)、都城・宮室建設を決めた(一二年)記事とも順序が整合する。
 更に、これが藤原宮関連だとすれば、持統らの「宮殿予定地(宮地)」視察の六年も前に天皇が「宮室之地」を定めていることも不自然だ。従ってこの記事は、難波宮関連と判断される。
 結論として、藤原京については、持統四年以降、五年、六年、七年と地鎮や天皇視察、七年には掘出した屍(しかばね)の収容まで、その建築の経過は書紀に記されている。これら持統紀の造都記事は「藤原宮」記事。通説では天武紀の難波宮「改造」記事とされてきた天武八年から一三年にかけての記事中、一三年二月記事を除き、ほとんど全てが三四年遡上した「白雉期の難波宮記事」だと考えられる。

九州王朝の副都造都(遷都)理由

 九州王朝は何のために、この時期全国に難波宮造都(遷都)や評制を施行したのか。朝鮮半島や唐との関係悪化に備えて、東方の難波宮に拠点(副都)を設けるとともに、斉明紀に見られる「蝦夷・粛慎」を征服し、後塵の憂いを除いた、というのが有力な考え方だ。しかし、情勢は想像以上に切迫していたようだ。
 白雉二年(六五一年)是歳条に次の文がある。
■是歳、新羅の貢調使知萬沙喰*等、唐の国の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭、恣に俗移せることを悪みて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請して曰はく、「方に今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず当に悔有らむ。其の伐たむ状は、挙力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし。
喰*は、二水編の食。JIS第4水準ユニコード98E1

 彼等は単に「唐の服を着た」だけではなかった。この頃新羅の実権を握った金春秋(後の武烈王)は親唐路線を進め、六五〇年には新羅年号を廃止し唐の年号を導入するほか、唐の律令制度を取り入れていった。こうした新羅の唐への急傾斜に歯止めをかけるべく、大規模な威圧行動が提起された。
 「今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず当に悔有らむ。」との言は、その後六六〇年の百済滅亡・六六三年の白村江敗戦と現実のものとなっていった。ただ書紀白雉二年には、この軍事行動の結末(実行されたか否か・戦果はどうか等)が一切示されていない。そうして三四年後の天武一四年(六八五年)に、以下の文があるのだ。
■十一月癸卯朔甲辰(二日)、儲用の鉄一万斤を、周芳の総令の所に送す。是日、筑紫大宰、儲用の物、一万斤を、周芳の総令の所に送す。是日、筑紫大宰、儲用の物、糸也*一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鉄一万斤・箭竹二千連を請す。筑紫に送し下す。
 丙午(四日)、四方の国に詔して曰はく、大角・小角、鼓吹・幡旗、及び弩・抛(いしはじき)の類は、私の家に存くべからず。咸に郡家に収めよ。(略)己巳(二七日)、新羅、波珍喰*金智祥・大阿喰*金健勲を遣して政を請す。仍りて調進る。
糸也*は、JIS3水準ユニコード7D41

 十二月壬申朔乙亥(四日)、筑紫に遣せる防人等、海中に飄蕩(ただよ)ひて、皆衣裳を失へり。則ち防人の衣服の為に、布四百五十八端を以て、筑紫に給り下す。
 天武一四年に、何故突然武器を筑紫に送ったのか、新羅の使者は何のために来朝したのか、また何故筑紫の防人等が海中に飄蕩ったのか定かでなかった。しかし、これが三四年遡上した白雉二年のことなら明快に理解出来る。天武一四年記事は、白雉二年是歳条の後日譚・対新羅示威行動の顛末なのだ。
 白雉二年には記されていないが、実際は筑紫近海に於いて大規模な軍事(示威)行動が計画されたことが窺える。いや「筑紫に遣せる防人等、海中に飄蕩」ふとあるから、実際に軍船が出動していたのだ。そして筑紫は唐・新羅の軍事的脅威に直接晒される位置にあったことは明白だ。
 九州王朝の難波副都建設や評制施行、蝦夷討伐等の東方経略は、こうした緊迫したアジア情勢を受け、半ば「必然的」に進められていったのだ。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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