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「壹」から始める古田史学 ・四十五
「倭奴国」と「邪馬壹国・奴国」②
古田史学の会事務局長 正木裕
1、『後漢書』の「倭奴国」と『魏志倭人伝』の「邪馬壹国・奴国」
前号では、『倭人伝』に記す二万戸の「奴国」は、遺跡・遺物の出土状況や『倭人伝』の各国の位置、戸数と面積の比較から、怡土平野を王都としながら、南は「吉野ヶ里」を含む有明海沿岸までを包含する国で、『後漢書』に記す「倭奴国」の後継国だったのではないかと述べました。
中国史書に記す倭国王は、『後漢書』の「倭奴国王(五七年)・帥升(一〇七年)」から、『三国志』の邪馬壹国の「俾弥呼(二三八年魏に遣使)」まで約一三〇年の空白があります。その間の「倭奴国」から「邪馬壹国」成立までは、どのような経緯を辿ったのでしょうか。
考古学的には、「高祖連山」の西の怡土平野では、三雲・平原・井原など王墓級の遺跡が紀元前後の約三〇〇年間続き、これは、『古事記』で日子穗穗手見命の統治場所が「高千穂山の西」で、在位期間が五八〇年(*二倍年暦で二九〇年)と記すのと整合します。そこから、「倭奴国」の王都は怡土平野だと考えられます(注1)。
一方、三世紀俾弥呼時代の「邪馬壹国」の中心は、遺跡・遺物の変化から、博多湾岸の比恵・那珂・須玖岡本付近で(注2)、怡土平野は『倭人伝』から、「奴国」になっていたと考えられます。つまり二世紀までの「倭奴国」が、三世紀には、博多湾岸を王都とする「邪馬壹国」と、怡土平野を王都としつつ南は有明海までを領域とする「奴国」(肥前側)に分かれていたことになるでしょう。
2、俾弥呼即位以前に「暦年」の戦いがあった
この間の出来事として、『倭人伝』には俾弥呼即位前の男王時代に「歴年」の戦乱があったと記します。
◆『倭人伝』其国は本亦以て男子を王とし、住まること七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。一女子卑弥呼を共立して王とす。
「七八十年」は二倍年暦で三〇~四〇年、「相攻伐暦年」は『三国志』の「歴年」の用例から、十年以内の期間です。『後漢書』 に「桓・霊の間(一四六~一八九)、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主無し」と四〇数年の大乱の様に記すのは、五世紀の范曄が『魏志倭人伝』を独自に解釈し、『魏志倭人伝』には無い「桓・霊間、大乱、無主」を加えたもので、実際は、三〇~四〇年の男王の治世の末に、一〇年程度の戦乱があったことをだと考えられます(注3)。
また「年すでに長大なるも、夫婿なく」とあるのも、『三国志』の用例から「老女」ではなく、夫があってしかるべき年齢なのに独身だという意味です(注4)。
従って、魏の使者が倭国を訪れた正始元年(二四〇)時点で、俾弥呼は三〇歳前後となるでしょう。俾弥呼が何歳で即位したのかは不明ですが、壹與が十三歳で即位しており、「鬼道につかえる」、即ち巫女・シャーマンとしての力を期待されての即位だとすると、壹與の年齢が参考になります。そうであれば、「暦年の乱」は漢末期の混乱から滅亡、魏(二二〇年曹丕即位)・呉(二二九年孫権即位)・蜀(二二一年劉備即位)の三国鼎立の時代という、二世紀末から三世紀初頭にかけての出来事と推測できるのではないでしょうか。
3、『風土記』に残る筑紫国と肥国の騒乱
『筑後國風土記』には「筑紫君と肥君」に関係する生死にかかわる騒乱があったと記します。
①『筑後國風土記』筑後國は、本筑前國と合せて一つの國たりき。昔此兩國の間の山に峻しく狹き坂あり。・・此の堺の上に、麤猛神有りて、往來の人、半ば生き半ば死にき。其の數極めて多し。因りて人の命盡神と曰ふ。この時、筑紫君、肥君等これを占ひ、筑紫君等の祖甕依姬をして、祝とし之を祭らしめき。爾より以降、路を行く人、神害せられず、是を以て筑紫神と曰ふ。
古田氏は、『「風土記」にいた俾弥呼』(注5)で、Ⅰ「甕」には「みか」の読みがある。Ⅱ筑紫君の祖とある。Ⅲ「依」は憑依の意味を持ち「祝」は巫女であることから「鬼神に仕える俾弥呼」に相応しい、として「甕依姬」のモデルは俾弥呼の可能性が高いとされています。
『風土記』には、騒乱の場所は「筑前と筑後の境」とありますが、筑前・筑後(筑紫国)と肥前(肥国)は基山付近で一点に接しますし、肥の君が終結に関与した争いですから、筑紫の勢力と肥前の勢力の争いだったと推測されます。
また、『肥前国風土記』は、肥前側にも吉野ヶ里一帯で同様の騒乱があったと伝えています。
②『肥前国風土記』(神崎郡)昔この郡に荒ぶる神ありて往来の人、多に殺害されき。巡狩し、この神和平らぐ。
4、「遺跡」に残る筑紫国と肥国の騒乱
そして、二世紀から三世紀にかけての、筑紫と肥前の遺跡から、激しい戦乱の痕跡が見いだせます。
「奴国(肥前)」側では、吉野ヶ里遺跡(注6)の六〇〇mに及ぶ甕棺墓列の甕棺で、刀剣傷がある人骨、「首」が切り落とされた人骨、十二本の矢が刺さったままの人骨などが出土し、激しい戦闘の跡を留めています(注7)。
また、筑紫と肥前国境を挟んだ、筑紫(邪馬壹国)側の筑紫野市隈・西小田遺跡では、一六〇〇基余りの甕棺と、鉄戈、鉄剣・銅矛などの武具とあわせ、銅剣の刺さった人骨や、骨折痕の残る人骨、首だけ人骨などが発掘されています。また、同市の永岡遺跡でも、剣先の残る遺骨や首だけ遺骨が見つかっており、剣先の残る人骨が筑前・肥前の境界に近い、これらの遺跡付近で数多く存在することが認められています(注8)。
騒乱の原因ですが、「倭奴国」の権威は後漢より金印を下賜され、漢を宗主国とすることにあるとすれば、漢の混乱と滅亡は、「新たな倭国の主権者」の登場を促すことになります。
怡土平野と福岡平野では、面積や人口・生産力に差があるのは明らかです。そして、福岡平野側の須玖岡本遺跡(春日市岡本の丘)では、怡土平野に見られない、全長三.六m、幅二.〇m、厚さ三〇㎝、重さ四トンの巨石を蓋とする甕棺墓(巨石下甕棺墓)が造られます。
須玖岡本遺跡は、南北二㎞、東西一㎞、七.四㏊の、弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群で、巨石下甕棺墓には銅鏡(前漢鏡) 三十二面以上と銅剣多数が埋葬され、周辺には王族や有力者とみられる甕棺墓群が発掘されています。また、青銅器やガラス器の工房なども見つかっており、この地が一大工業地帯であったことは疑えません。
5、「倭奴国」から「奴国と邪馬壹国」へ
通説では、須玖岡本の王墓は、➀『魏志倭人伝』の「奴国の王墓」で、②紀元前後に編年されています。しかし、梅原末治氏は末年に、同遺跡出土とされる夔鳳鏡の編年から、二世紀後半から三世紀初頭の三世紀寄りとし(注9)、古田氏は奴国でなく邪馬壹国の王墓とされています。また、巨石下甕棺墓は、「王者の剣」と言われる、両面に四本の溝を持つ特殊な多樋式銅剣から、「男王の墓」ではないかとされています。
そのころに怡土平野の王墓遺跡も終焉を迎えますから、古田氏の見解にもとづけば、「二世紀後半から三世紀初頭の三世紀寄り」に、倭国の中心が、怡土平野(倭奴国)から福岡平野側(邪馬壹国)に遷ったことを示すことになります。
「筑紫君の祖甕依姬(古田説では俾弥呼)」を共立したとあるのは、その移行期に旧の倭奴国の勢力(肥君)と、新興の邪馬壹国(筑紫君)で争いが生じ、筑紫側が勝利し、我が国の代表者は筑紫君の邪馬壹国となったことを示します。そして、「倭奴国」は、怡土平野に王都は残しつつ、我が国の代表者を示す 「倭」が外れた「奴国(肥君)」として統治することになったと推測されます。
古田氏は、『倭人伝』の行程記事で「行・渡」といった「動詞」のあるのは「主線経路」で「実際に魏使が行った国」、無いのは「傍線経路」で「実際は行かずに方位と距離を示す国」とされました。そうであれば「東南至奴国 百里」とある「奴国の王都」には魏使が行かなかったことになります。距離も近く戸数も二万戸という大国に、なぜ立ち寄らなかったか不思議でしたが、「新興国たる邪馬壹国」の俾弥呼は、旧勢力の筆頭の奴国が魏と接触することを良しとしなかったのではないでしょうか。
古田氏は、「奴国」の王都を怡土平野とし、須玖岡本の王墓を「二世紀後半から三世紀初頭の三世紀寄り」と編年し、『筑後國風土記』の甕依姬のモデルが俾弥呼の可能性が高いとされました。その説によれば、漢から承認された「倭奴国」が、漢の終焉時期に十年内外の覇権争いを経て、博多湾岸の「邪馬壹国」と、怡土平野から有明海に続く「奴国」に分離し、俾弥呼が共立され、魏が承認することで、以後俾弥呼を祖とする筑紫君が倭国の代表者となったと考えられるでしょう。
注
(注1)『古事記』で、邇邇芸命の降臨地は「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」とあるが、高祖連山には「日向山・日向峠・くしふるやま」があり、「向韓国真来通(韓国に向かって真っすぐ道が通っている)」という地理状況とも一致するので、「高千穂山」は「高祖連山」を指すと考えられる。また、「奴国」は伊都国の東南百里(約八㎞)とあり、これは伊都国の王都は加布里湾岸で、奴国の王都は王墓級の遺跡の存する怡土平野の三雲・平原・井原付近にしか合致しない。古田氏も『「邪馬台国」はなかった』で、「邪馬壹国」の中心部の範囲を、
◆「長垂山~叶岳~飯盛山~王丸山~西山」の線(*怡土平野と福岡平野の境)を西限とし、「西公園~大濠公園~鴻ノ巣山~片縄山」の線を東限とする、室見川流域と周辺の山地が、少なくとも三世紀女王国の中心の、第一の候補地と言えよう、とし、「邪馬壹国」は博多湾岸、「奴国」は怡土平野の国だとする。
(注2)福岡平野の比恵・那珂遺跡は、出土物からその最盛期は三世紀ごろと編年されており、約一五〇㏊の範囲に、全長二㎞、幅八m、側溝幅一.五mの道路が南北に貫き、宮室(居館)、楼観(超大型建物)、城柵、環溝、邸閣、市が発見され、三〇〇〇人以上の人口と推定され、俾弥呼当時我が国で最も都市化が進んだ地域とされている。
◆「弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の那珂川と御笠川に挟まれた台地上に広がる比恵・那珂遺跡地域である」 「(都市化は須玖岡本にもみられるが、)明確に分かるのは比恵・那珂遺跡群をおいて他にはなく、『初期ヤマト政権の宮都』とされる纏向遺跡においては、そのような状況は依然ほとんど不明である」(福岡市埋蔵文化財課久住猛雄(シンポジウム「古墳時代における都市化の実証的比較研究—大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地(纏向・南郷等)成果報告書」二〇一八年十二月)
(注3)古田武彦「まぼろしの倭国大乱」(『邪馬壹国への道標』角川文庫一九七八年)
(注4)『三国志』劉曄伝では十三歳を「長大」とする。
(注5)古田武彦『「風土記」にいた俾弥呼』(朝日文庫。一九八八年)
(注6)吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・神埼町)は二重環濠と木柵の列に囲まれた四〇㏊(*埋蔵文化財包蔵地)の国内最大級の環濠集落。紀元前四世紀ごろに形成され、俾弥呼前後の三世紀ごろに最盛期を迎えたが、四世紀(古墳時代)には衰退したと推測されている。
(注7)佐賀県文化財調査報告書第二一四集「吉野ヶ里遺跡」(二〇一六年)ほかによる。
(注8)筑紫野市文化財発掘調査報告書第三十八集「隈・西小田遺跡群」(一九九三年)ほかによる。
(注9)「筑前須玖の甕棺内から出た夔鳳鏡の實時代が早くも紀元二世紀の前半に遡り得ない事實よりして 少くも甕棺葬が三世紀の前半になお北九州に行われていたとせざるをえない」(梅原末治「谷口古墳調査報告書」一九三五)。
(*なお、古田氏の各著作はミネルヴァ書房から復刊されている。)
これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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